第20話

 翌日の放課後。


 下校指導がなされているということもあり、人の気配の無い閑散とした体育館の中に、創一と繭羽の姿はあった。


「……あった。繭羽、これだ」


 創一スライド式の扉の把手に手を掛け、扉を横に滑らせた。その中から、巨大な姿見が姿を現した。姿見は横に長く広がっており、人が五人横に並んで立ったとしても、全員の姿が鏡の中にすっぽりと納まるほどである。


「随分と大きな姿見ね……。ここまで大きい必要は無いけれど、その分だけ出入りしやすいから、都合が良いわね」


「出入り……。繭羽、本当にこの姿見がパンタレイの入り口になるのか?」


「そうよ。術式の内容は、昨晩に説明したでしょう? まあ、見ていて頂戴」


 繭羽は片手を持ち上げると、指先で弧を描くように鏡の表面を撫でた。


 間も無く、鏡面に変化が生じた。鏡に映っていた体育館の内部の景色は、それが液体であるかのように、ぐにゃりと歪み始める。次第に鏡面の色彩が均一になって行き、しばらくすると、鏡の表面は銀色の霧が掛かったように何も見えなくなった。


 繭羽は鏡の表面に再び指先を近づける。そして、その指先が鏡面に触れたと思いきや、鏡の奥に指先が――そして手首が消えた。


「よし、成功したわ。これでパンタレイへの入り口が繋がったわ」


 創一は手を伸ばして、繭羽と同じように鏡面に触れてみた。指先は存在する筈の鏡面を突き抜けて、その先にある空間へ吸い込まれる。


 鏡をパンタレイの入口へ変換する魔術は、アリス術式と呼ばれているらしい。鏡の国のアリスの話を元にして、そこに魔術的な改変を施すことにより、鏡を異界――すなわちパンタレイへと通じる扉に仕立て上げる越境術式なのだそうだ。ちなみに、アリス術式による鏡の扉は、入り口にはなっても出口にはならない一方通行の扉らしい。つまり、パンタレイから現実界に戻るには、改めてパンタレイ側から鏡の扉を作る必要があるそうだ。


 創一は銀色の霧が掛かる鏡を見詰めた。その先には、パンタレイというディヴォウラーの巣窟の世界が広がっている筈だ。また、あの異形の化け物と対峙しなければならないかと思うと怖気が走るが、同時に未知の世界へ踏み出そうとする高揚感が鏡の奥の世界へ足を踏み出させようとする。


「……よし、糸はしっかりと結べているわね」


 創一は視線を横に移した。繭羽が何やら扉の把手に細工を施している。


「繭羽、何をやっているんだ?」


「ん? 糸を結びつけているのよ」


 繭羽はそう言うと、手元に載っている糸状の何かを見せてきた。それはピアノ線のように細く、そして淡い輝きを発している美しい光の糸だった。糸の端は扉の把手に結びつけられ、もう一方は繭羽の着ている上着の袖口に繋がっている。


「ああ、これについては説明していなかったわね。これは、アリアドネ術式で作った魔術の糸よ。パンタレイは常に流動していて、座標という概念があまり意味をなさない世界なの。だから、パンタレイから帰る際、入り口に繋がる場所を辿れるように、目印の糸を垂らしておくの。本来の神話通りなら、毛玉を使うところだけれど、衣服の糸でも霊装として十分代用出来るわ」


「霊装? その上着が糸玉の代わりってことなのか?」


「そう。霊装というのは、魔術を効果的に発動させる為に、神話や民話の物体を模した代用物のことよ。分かりやすく言うと……創作物の魔法使いは、杖を振るって火の玉を出したりするけれど、その杖を傘のような棒状の物体で代用する感じ。要は、雰囲気作りよ」


「雰囲気作りって……そんな手頃な物で代用出来るものなんだ。なんだか意外だな」


「魔術ってそういうものなのよ」


「ふうん……。ちなみにさ、糸玉の代わりに上着を使うってことは、移動すれば移動するほど、その袖口がどんどんほつれていくのか?」


「その心配は要らないわ。上着の繊維を実際に消費してアリアドネの糸を伸ばす訳ではないから。あくまでも、形だけの糸玉の代わり。本当にほつれる訳ではないわ」


 繭羽は一通りの術式の説明が終わると、双眸を閉じて、蛇眼に切り替えた。同時に、漆のような黒髪は絹の如き白髪へと変色する。


「……そう言えば、前々から気になっていたけれど、どうして繭羽の髪の毛は戦闘時に白く変色するんだ」


「え? ああ、これは……力を発揮しようとする際、自然とこうなるの。さして深い理由は無いわ」


 繭羽はそう言うと、掌中から大太刀を抜き放った。


 いよいよパンタレイに突入する。その実感から、創一の胸の鼓動は早鐘を打つように加速する。


「創一、行きましょう。まずは、私が入って安全を確認するわ。少し待っていて頂戴」


 繭羽はそう言い残すと、なんの躊躇いも無く鏡の奥へと消えていった。


 創一がじっと鏡面を見詰めて待機する中、すぐに繭羽が鏡から出てきた。


「大丈夫。近くにディヴォウラーの姿は無いわ。創一も付いて来て」


 創一は頷くと、再び鏡の中へ消える繭羽の背を追って、自身も鏡の中へと跳びこんだ。


 鏡を潜り抜けた直後、創一は目を覆った。薄暗い体育館と対照的に、パンタレイの景色が眩しかったので、明暗差に目が眩んだからだ。


(なんでこんなに眩しいんだ……?)


 創一は薄目を開き、目の明順応を待つ。次第に視界に映る景色が鮮明なものになり始め、周囲に何があるのか分かるようになった。


「……え?」


 創一は思わず戸惑いの声を漏らした。


 足元に広がる青々とした大草原。


 水平線の彼方まで広がる無窮(むきゅう)の蒼天。


 創一は、現在、高い丘の上に立っていた。辺りを見回してみても、以前に見た、パンタレイに侵食された街の光景の片影すら無い。


 遠方には険峻(けんしゅん)たる山々が連なり、その山肌の所々に滝が見え、霧が立ち込めて虹を作っている。その手前には、鬱蒼とした森林が広がっており、その中の一部には、大きな湖が汪洋たる水を湛えている。


 目を凝らせば、あちらこちらに石製の遺跡らしき建造物も窺える。山々の間には、巨大な怪鳥らしき生物が群をなして飛行していた。


「繭羽、ここ、本当にパンタレイなのか?」


 創一は自分と同じように周囲の景色を眺める繭羽に話しかけた。


「ええ、間違いなくパンタレイよ。この非現実的な景色こそ、その証拠だわ」


「いや、でも、僕が見た……街で見たパンタレイの景色は、もっとこう薄気味悪くて不気味だったぞ。こんな大自然の景色の要素なんて微塵も無かった」


「街と学校にいる人々の質の違いがパンタレイに現れているのよ。学校のような施設からパンタレイへ行くと、そこでは幻想的な景色が広がる場合が多いわ。荒廃した戦場のような景色も多いけれど」


「どういう意味?」


「前に言ったけれど、パンタレイは人の想念によって形成されているわ。だから、そこに集まる人々の質……言い換えれば、年齢や身分という属性が色濃く反映される。街中は多種多様の人々が往来するから、発生する想念もそれだけ多種多様となり、結果として本当に混沌として不気味な景色となりやすいわ。けれど、学校のように、同じような属性を持った人が集合する施設では、似たような性質を帯びた想念が発生しやすい」


「その想念が……この大自然ということ?」


「見る限りでは、そのようね。創一、この景色はね、創一の学校の生徒の想念を表しているのよ。つまり、生徒の空想や願望を色濃く反映しているということよ。非現実的な世界、大自然への冒険、幻獣との戦闘、妖精や精霊との出会い。年頃の子供なら、そういった世界観に憧れる気持ちは非常に強いものだわ」


 創一は繭羽の話を聞いて、この場のパンタレイの景色が、どうしてこれほど幻想的で冒険心をくすぐるものなのか理解した。


 眼前に広がる景色――世界は、自分を含めた学生の夢想を体現する、言わばゲームや小説という創作物の世界そのものなのだ。


「そうか……。じゃあ、これは、僕たち学生が描いた、一種の夢の世界なのか」


「そういうことね。夢のように一時的な儚い世界と言う意味でも、確かに夢そのものだわ。今はこのような景色だけれど、時間が経てば、新たな想念が加わり続けて、少しずつ変わって行く筈よ」


「ああ、そうか。パンタレイは流動する世界なんだっけ」


 創一はそれを聞いて、少し残念に思った。この美しい大自然の景色が時間と共に失われてしまうのは惜しく感じられる。


「それで、肝心のディヴォウラーは……」


 創一はディヴォウラーの異形の姿を求めて辺りを見回した時、あることに気付いた。


 創一たちが立っている丘のあちらこちらには、十字の形や塔の形をしたものなど、様々な石製の物体が乱立している。どことなく外国にある墓のようにも見える。


「繭羽、あの墓っぽいのって……」


「たぶん、お墓でしょうね」


「墓? こんなところに、なんで墓があるんだろう」


 この場のパンタレイの景色が学生の夢想を体現しているならば、墓のような陰気な物体の存在は腑に落ちない。


「恐らく、女性の殺害事件が関係しているのでしょうね。物騒な事件に対する不安や恐怖から、学生の心の中に死に関する想念が多く発生した。そして、死を象徴する身近な物がお墓だった……そんな感じではないかしら」


「ああ、なるほど……。そう考えれば、確かに墓があるのも頷けるね」


 墓が西洋風な物ばかりである理由は、学生が西洋風の冒険物語に慣れ親しんでいるから、墓も西洋風になったのだろう。この草原に卒塔婆や地蔵仏像などは似合わない。


「創一、少し歩き回ってみましょう。近くにディヴォウラーの気配がするわ。すぐに見つけられる筈よ。幻魔に比べれば安全な相手だけれど、油断はしないで」


「……分かった」


 創一は警戒心を高めて、より一層の注意を周囲に払いつつ、繭羽と共に丘の上を散策し始めた。点在する墓の間を縫うようにして歩く。


「なあ、繭羽。こういった場所に出現するディヴォウラーって、どんな種類が多いんだ?」


「うーん、そうね……。私は頻繁にパンタレイに潜ったりしないから、確かなことは言えないけれど……こんな冒険物語風の世界なら、それを構成する想念の影響を受けて、怪鳥や四足歩行の猛獣、あとはゴブリンやドワーフに似た人型のディヴォウラーが多い印象があるわ。珍しい例だと……竜に出くわすこともあるわ」


「竜……?」


 その単語には、畏怖を覚えると同時に冒険心に胸を躍らせるものがあった。確かに、このような場所なら、竜の要素を持ったディヴォウラーに出くわすことも有り得そうである。


「その竜のディヴォウラー、強いのか?」


「そうね、ディヴォウラーの中では、比較的に強い方かしら。当然のように炎を吐くし、硬い鱗の皮膚を持っているわ。翼で空を飛ぶことも出来る。だから、竜型のディヴォウラーとの戦闘は、冒険物語に出て来る竜退治そのものよ。でも、所詮は雑多な想念の塊でしかないわ。幻魔に比べれば、たいした強さではない」


 繭羽は自信をもって断言した。その口振りから、実際に竜型のディヴォウラーと戦闘した経験があるのかもしれない。


 竜型のディヴォウラーの戦闘力は定かではないが、創一はそれに遭遇したいと思った。危険を承知の上でも、竜退治の場に立ち会ってみたいし、もし自分の特性が本物ならば、自身も英雄の如く竜退治を演じることが出来るかもしれないからだ。


 創一は期待に胸を躍らせていたが、突然、足首を何かに掴まれる感触があった。平衡を崩し、その場に倒れ込む。


 創一が嫌な予感を覚えて即座に足許へ振り向くと、墓石の近くの地面から人間の腕らしきものが飛び出し、創一の足首をがっしりと掴んでいた。よく見れば、その謎の腕は腐敗の限りを尽くし、肉付きの少ない五指の大部分は白骨化している。


「う、うわあああああっ!」


 創一は思わず悲鳴を上げ、掴まれていない方の足で、謎の腕を蹴り飛ばした。腕は枯れ枝が折るように簡単に破断する。


 腕が生えた墓土がぼこりと盛り上がり、そこから何者かが姿を現した。


 それは人の姿をしていた。しかし、生きた人間などでは決してない。肌は死人のように青白く、腐敗した肉は剥がれ落ち、血肉どころか骨すらも覗かせている。眼窩の片方からは視神経や血管が繋がった眼球が零れ落ち、空いた眼窩には大量の蛆虫がウジャウジャと巣食っている。眼は白濁しており、ばっくりと開いた口からは、唸るような声が漏れ続ける。


「ゾ、ゾンビ……!?」


 創一は目の前のゾンビに対して生理的な強い嫌悪感を覚えた。ゾンビから漂う饐えた腐敗臭に思わず胃液がせり上がりそうになる。


 創一の悲鳴を合図にしたかのように、あちらこちらの墓石の地面から、ゾンビが墓土を掻き分けて姿を現し始めた。あっと言う間に、幻想的な風景は破壊され、死者が蔓延る地獄絵図へと切り替わった。


 創一の眼前にいるゾンビが這うようにして接近する。そのゾンビだけではない。創一の近くにあった墓石から出現したゾンビが三体、同様に這って近付いて来ており、新鮮な肉に食らいつこうと唸り声を上げる。


「う、うわっ……」


 創一が身の危険を覚えて立ち上がろうした直後、繭羽の大太刀が最も近くにいたゾンビの首を跳ね飛ばした。頭部を失ったゾンビは糸が切れた人形のように倒れ臥し、風塵(ふうじん)の如く消え去る。


 続けざま、繭羽は他の三体のゾンビの首も斬り飛ばし、難なく無力化してしまった。その表情には、一切の焦りも気後れもない。


「創一、立ち上がって」


 創一は繭羽の手を借りてすぐに立ち上がると、周囲を見回した。ざっと見る限り、ゾンビの数は三十体に及ぶだろう。しかも、今もなお墓土からは新たなゾンビが出現している。周囲は完全にゾンビの群れに包囲されており、逃げ道になるところは数少ない。


「ま、繭羽……大丈夫なのか、これ……?」


 創一は不安に駆られ、縋るように尋ねた。


「大丈夫よ。断言出来るほど問題無いわ。ゾンビ型なら動きは遅いし、攻撃手段も限られてくる。楽勝だわ」


「でも、この数だぞ。確かに動きはのろそうだけれど、一気に掛かって来られたら手に負えなくなるんじゃないか?」


「そうね。一気に来られると厄介だわ。だから、まずは瞋恚の焔(しんいのほむら)で数を減らすわ。創一、少し伏せていて」


 創一が繭羽の言葉に従って伏せると、繭羽は大太刀に深黒の火焔を盛大に滾らせた。そして、その場で爪先を支点に独楽(こま)のように回転して、辺り一帯に火焔を撒き散らす。


 放射状に拡散した火焔は瞬く間にゾンビを呑み込み、骨すら残ることを許さず、猛烈な火勢でゾンビの体を燃焼させる。辺りに肉が火に焼かれて爆ぜる音と異臭に満ち溢れた。


 創一が恐る恐る立ち上がる頃には、周囲のゾンビの姿は、片手で数え上げられる程しか残っていなかった。


「どう? 大丈夫だって言ったでしょう?」


 繭羽が少し自慢げな笑みを浮かべる。


「ああ、うん……。なんだかパニックに陥っていた自分が情けなく思えてくる……」


 創一は苦笑いを浮かべた。


「所詮はゾンビでしかないわ。たとえ一度に千体襲って来ても、焼き払えばなんてことはない。数もかなり減ったことだし、創一、早速試してみましょう」


「試すって……。まさか、あのゾンビに触れろってこと?」


「ええ。あまり気分が進まないとは思うけれど……。でも、創一の特性を確かめるなら、動きの鈍いゾンビは打ってつけだわ」


「まあ、そうかもしれないけどさ……」


 創一は生き残っているゾンビの一体に視線をやる。ふらふらと歩み寄る姿は、確かに容易に触れることは出来るだろう。しかし、血と蛆と土に塗れた汚らしい体に直接触れることは非常に躊躇われた。


「……本当にやるのか? 噛まれたりしないかな」


「そうね、それなら、四肢を先に斬り飛ばして、達磨にしてしまいましょう。それなら、身動きが取れなくなるから、噛まれる心配もないわ」


 繭羽が実に建設的な提案をした。どうやらゾンビで創一の特性を試すという方向性を変えることは出来ないようだ。


「まあ、それなら大丈夫か」


「決まりね。じゃあ、早く検証を済ませてしまいましょう。もっと手ごわいディヴォウラーがやって来ると面倒だわ」


 繭羽は足早に近くに残存しているゾンビの一体に近づいた。その挙動にはゾンビに対する躊躇は一切感じられず、繭羽の自信の程やディヴォウラーとしてのゾンビの弱さを窺い知ることが出来るようだ。


 繭羽はゾンビが大太刀の間合いに入ると、水平に構えていた大太刀を横に薙ぎ、ゾンビの両足を切断しようとした。


 次の瞬間には、両足を失ったゾンビが地面に倒れ伏すだろう。


 その未来を当然のように考えていた創一にとって――そして恐らく繭羽にとっても予想外のことが起きた。


 大太刀に足を切断される直前、ゾンビは先ほどまでの鈍重な動作に反して、その場で跳ぶことにより、大太刀の直撃を回避した。ゾンビの予想外の動きは回避行動だけに留まらず、拳を固めて、まるで明確な意識があるかのように繭羽に殴り掛かろうとする。


「なっ――!」


 繭羽は反射的に足を上げ、ゾンビの腹の辺りを蹴り飛ばした。ゾンビは弾かれたように地面の上を転がったが、すぐに立ち上がって見せる。やはり、その動きも機敏であり、鈍重な動作をしていた面影など全く存在しない。まるで、ゾンビの特殊メイクをしたスタントマンが動いているようにも見える。


「……くくくっ、まるで鳩が豆鉄砲を食ったような面じゃのう」


 創一が反射的に声の聞こえる方へ振り向くと、そこには、長方形の墓石の上に足を組んで座り、愉快そうな笑みを浮かべるリリアの姿があった。リリアの左手は、何かを掴むかのように五指を開いて突き出されている。


「幻魔!? いつの間に!?」


「今さっき来たばかりじゃよ。本当に間もないわ」


 表情に緊張を表す繭羽に対して、リリアは落ち着いた素振りで答える。


「……創一を狙って襲いに来たのね」


「いや、それは見当違いというものじゃよ。坊やが目的で鏡を抜けて来た訳ではないわ。単に場の下見のつもりで来ただけじゃったが、どうも校舎に魔術めいた力の余波を感じてのう。それを辿って鏡抜けをしたら、お前さん方がいただけじゃよ。時期を迎えて奪うつもりでおったが、丁度良い機会じゃ。ついでに坊やをもらっていこうか」


「場の下見? ……何を企んでいる」


「たわけ。敵にそれを教える訳がなかろうよ。……それにしても、小娘よ。妾(わらわ)との会話に構っている場合か?」


 リリアは意味深長な発言をすると、突き出している指先を素早く動かした。それと同時、先ほど繭羽に蹴り飛ばされたゾンビが急に駆け出し、再び襲い掛かってきた。


「くっ!」


 繭羽は大太刀を構え直すと、水平に薙いで、突進するゾンビの胴体を真っ二つに斬り飛ばした。


「ふむ……やはり腐り果てた死肉では、あまり細やかな動作は利かんか。まあ、致し方なかろう。数には事欠かぬから、良しとするか」


 リリアはくつくつと笑いを零すと、今度は別の方向へ指先を突き出した。その指先の延長線上にいたゾンビの動きが何かに操られているかのように切り替わり、猛烈な勢いで疾走して繭羽に殴り掛かろうとする。


 繭羽は向かって来るゾンビを瞋恚の焔(しんいのほむら)を放って燃焼させると、その場で跳躍して創一の傍らに着地した。


「創一、注意して! 恐らく、リリアは傀儡の術式を使ってゾンビを操っているわ」


「ゾンビを操る……ってことは、ネクロマンサーなのか?」


「ご名答じゃよ、坊や」


 創一の疑問にリリアは愉快そうに答えた。


「察しの通り、これは傀儡術じゃよ。ただし、傀儡術とは言うてもな、単なる人形遊びの魔術と考えていると、痛い目を見るぞ」


 リリアの手に紫色の奇怪な灯りが灯る。


「……いや、どちらかと言うと」


 リリアがその灯りを自身が座る墓石に叩き付けると、紫色の灯りは墓石に染み渡り、次いでその下の墓土、そこから更に草原を伝って紫色の灯りが広がっていく。果たして、それは幾何学な図形や紋章が織り込まれた一つの広大な陣を成した。


「見ることになるのは……死に目かのう?」


 リリアが不敵な笑みを浮かべると同時、突然、まだ荒れていない大量の墓石の下から、一斉にゾンビが湧き上がった。恐らく、まだ地上に出ずに墓土の中に留まっていたゾンビたちだろう。


 周囲を取り囲むゾンビの数は先ほどの比ではない。数にして、恐らく百を優に越して二百……いや、三百にすら達するかもしれない。しかも、それら全てのゾンビは、全く動こうとせず、まるで襲撃の合図を待つかのように直立不動で静止している。


「無破魂で術式を起動した上、これだけのゾンビの同時使役……。ネクロマンサーに類する想念形質の保有者だったのね」


 繭羽が深刻な表情で苦々しく呟いた。


「くくく……。左様じゃ。さすがに妾(わらわ))の形質を見抜けぬほど間抜けではないようじゃな」


「……場が悪すぎるわ」


 繭羽の表情に深刻の色が深まった。声音には全く余裕が窺えない。


「繭羽、リリアが言っている形質って何だ?」


「想念形質。言わば、その幻魔が特に帯びている力の方向性よ。ディヴォウラーや幻魔は様々な想念が集積することによって力や自我を強めていくけれど、その過程で、自分を構成する想念に類するものを好んで捕食していくわ。似た性質の想念は互いに引かれ合うから。そうしていく内に、その個体の想念の性質がある方向へ特化する。どんな民話や魔物の想念を取り込んだか知らないけれど、リリアは傀儡術……それもネクロマンシーに関する想念を強力に帯びているのよ。想念形質は一種の固有能力だから、破魂術を使う必要がないわ」


「じゃあ、つまり、この墓場は……」


「リリアの独壇場……ということになるわ」


 創一は事の深刻さをようやく理解した。つまり、この場に存在するゾンビの全ては、リリアの指揮の下に忠実に働く軍隊そのものなのだ。しかも、操られているが故に、ゾンビ特有の緩慢な動きなどは行わず、迅速かつ的確な動きで襲い掛かって来るだろう。


「ど、どうする、繭羽」


「どうするも何も……」


 繭羽の持つ大太刀が盛大に瞋恚の焔を纏う。


「焼き払って押し通る! 伏せなさい!」


 創一が伏せるや否や、繭羽は周囲一帯に瞋恚の焔(しんにのほむら)を放射した。瞋恚の焔(しんいのほむら)は次々と燃え広がり、丘の上が灼熱地獄のような様相と化す。


「行くわよ、創一!」


 繭羽は創一の腕を掴むと、アリアドネの糸が繋がる先――体育館の姿見へ通じる空間の一点へと駆け出した。そこに繋がる道先だけは、瞋恚の焔が放たれておらず、無事なゾンビが立ち塞がっている。


「ふむ……。その闇のような炎、どうやらお前さんの宝具の力のようじゃな」


 頭上からリリアの声が聞こえてきた。見上げれば、中空には浮遊するリリアの姿があった。いつの間にか翼の如きボロの外套を羽織っている。


 繭羽は疾駆する傍ら、リリアに向けて瞋恚の焔(しんいのほむら)を放つ。しかし、リリアは難なくそれを避けた。その際、リリアの長い長髪の端に燃え移ったが、リリアは伸長させた氷の爪によって、その部分の長髪を切り払った。


「ふんっ、鬱陶しい。宝具の放つ炎のようじゃが……随分と嫌らしい性質じゃな。一度付けば氷の塊すら燃やし尽くす異能の炎か」


 繭羽は上空のリリアの存在を無視して、立ち塞がるゾンビとの距離を詰めると、最も手前にいるゾンビに袈裟懸けに斬り掛かった。予想通り、リリアに操作されているゾンビは身を退いて斬撃を避けるも、すかさず繰り出された返しの刀によって胴を斬り飛ばされた。


「創一、突っ切るわ!」


 繭羽はそう叫ぶと、猛烈な勢いで立ち塞がるゾンビたちを次々と斬り伏せる。その剣捌きはあまりにも高速かつ流麗で、武術に疎いということもあるが、側にいる創一ですら、その剣筋を目で追うことは出来なかった。


「ほう……大した剣技じゃ。しかし、背後を疎かにし過ぎではないかのう?」


「……なっ!?」


 リリアの言葉を聞いて背後に振り返った創一は、その光景に驚愕の声を上げた。


 瞋恚の焔(しんにのほむら)によって側方と背後のゾンビ達の動きを牽制出来ていたかと思われたが、創一達の背後には、数多くのゾンビがこちらに迫っていた。


 創一は新たに地中から出現した奴らかと思ったが、その見当は外れていた。


 また一体、炎の壁を飛び越えてゾンビが現れた。純粋な身体能力によって炎の壁を

飛び越えて来たのかと思ったが、それは見当違いだった。


 炎の壁越しにチラチラと見えたゾンビの姿から察するに、炎の壁の前にいるゾンビ一体を踏み台にするようにして高く跳躍し、別のゾンビが炎の壁を飛び越えて来ているのだ。


「繭羽! 後ろからもゾンビが来ている! 炎の壁を突破して来たんだ!」


「くっ……伏せなさい!」


 伏せる創一の頭上を瞋恚の焔が放射状に撒き放たれ、背後のゾンビの行き先を塞ぐ壁となる。しかし、その炎の壁を突破する手立てがある以上、気休めにしかならないだろう。


「おや、前を疎かにしてよいのか?」


 リリアの操作するゾンビが一体、繭羽の至近に迫った。


 繭羽は、瞋恚の焔(しんいのほむら)を放ったことによる技後硬直で、正面への斬撃の動きが一呼吸遅れてしまった。


「――危ない!」


 創一は体を起こして跳び出し、そのゾンビに向かって、肩から体当たりを食らわせた。ゾンビの体は筋肉が付いていない所為か、少女のように軽々と吹っ飛んだ。その際、ゾンビの腐った皮膚や筋肉がぐちゅりと潰れる感触や死臭を感じて、創一は生理的な嫌悪に怖気だった。


 創一に掴みかからんと迫る次のゾンビが迫ったが、すかさず繭羽が創一とゾンビの間に割り込み、大太刀を斬り上げ、股から脳天へ、ゾンビを真っ二つに切断する。


「ありがとう」


 繭羽は口早に感謝の言葉を言うと、再び鬼神の如く立ち塞がるゾンビの群れを斬り飛ばし続ける。


「ほう……。予想以上にやるようじゃ。このまま行けば、包囲を突破出来るやもしれぬ」


 じゃがな、とリリアは言葉を続ける。


「非力な坊やを連れているのが仇になったな」


 創一は右足が急に動かなくなり、がくりと前のめりに倒れた。右の足首に強烈な圧迫感を感じる。またもや、地面から突然生えたゾンビの手に足首を掴まれたのだ。


 瞬く間に周囲の地面から新たなゾンビの手が伸び、創一は組み伏せられるように地面に倒れ伏すこととなった。


「創一! ……なっ!?」


 繭羽は創一を助けようと身を翻したが、自分の両足も地中から生えたゾンビの手に掴まれていて動けなくなっていた。繭羽は自分の足を掴む手の首を切り払おうとしたが、直後に突進して来るゾンビに対応せざるを得えず、結果的に両足の拘束を外せない状態に陥った。


 創一の近くの地面が更に盛り上がり、上半身まで露わにしたゾンビが、創一を押さえ込むように圧し掛かる。


 創一は力の限りを尽くして立ち上がろうとしたが、ゾンビの重みに潰されて動くことが出来なくなってしまった。


「ぐっ……!」


 繭羽の微かな悲鳴が聞こえた。


 創一が顔を上げると、繭羽は機動力を奪われた所為でゾンビの物量に押し負けたらしく、自分と同様にゾンビの群れに押し潰されつつあった。膝を地面に着かされ、両腕をゾンビに広げられることにより、ほぼ無力化されてしまっている。大太刀は手元から離れ、すぐ側の地面に転がっていた。


 すたっ、と創一と繭羽の間にリリアが降り立った。


「もう少し善戦するかと思ったが、これで終わりか。なんじゃ、呆気ないものじゃのう」


 リリアは必死にゾンビの拘束を振りほどこうと足掻く繭羽に一瞥(いちべつ)をくれると、嘲笑うように鼻で笑い、創一の傍まで歩いてくる。


「やっと捕まえたぞ、坊や。名は創一じゃったか。くくくっ、これで妾(わらわ)のものじゃな」


「誰が……お前のものなんかになるか……!」


「ほう……良い顔つきじゃな。不様でも猛る男は嫌いではないぞ。むしろ……味わってみたい程にそそられるのう」


 リリアは艶美に微笑むと、薄く舌舐めずりをした。


「僕を……食うつもりか」


「食う? そうさな……ある意味では、食うことになるじゃろう。しかし、それはお前さんにとっても素晴らしい馳走となろう。極上に甘美な一時は保証するぞ」


 さてと、とリリアは言って立ち上がり、繭羽の方へ向き直った。


「こちらに向かせよ」


 リリアの命令を受けて、ゾンビが繭羽の体の向きを力任せに変えさせる。


「多少は手間取らせられたが、これで仕舞いじゃのう。のう、小娘。殺される前に何か言い残すことはあるか?」


「……どうして創一を執拗に狙う?」


「どうしてかじゃと? そうさな、冥土の土産に教えてやるか。坊やは妾(わらわ)の願望を叶える為に必要なだけじゃよ。まあ、坊やがおらずとも、願望は叶えられる訳じゃが……仕上げが格段に変わってくる。要は物作り特有のこだわりって奴じゃよ」


「その願望……あなたが何をしようとしているのか教えなさい」


「断る。……小娘よ、少しは立場を弁えたらどうじゃ? それに、それが終世の言葉となっても構わぬのか?」


「……下種に掛けられる情けなんて無いわ」


「なるほど、それもそうじゃな」


 リリアが手を掲げる。その先に青い閃光が走ると、瞬く間に氷で出来た槍が形作られる。


「では、処刑といこうか」


 一歩、また一歩とリリアが繭羽に近づく。それに対して、繭羽は特段の抵抗も見せず、黙したままリリアのことを睨(ね)め付けている。


 氷槍の穂先が繭羽の胸元に突きつけられた。


「……なんじゃ、最後の悪あがきもせぬのか。妾(わらわ)が今まで殺してきた魔術師の類は、死ぬ間際まで足掻いて呪詛の言葉を吐いておったがな。それとも、その刀の宝具に頼り切りで、魔術の方は、からきしか。……まあ良いわ」


 リリアは氷槍を引き戻し、刺突の構えをとる。次にリリアが動いた時、繭羽は氷槍に刺し貫かれるだろう。


 創一は繭羽の命が今まさに失われようとしているにも拘わらず、それを止める手立てを持たない自身の非力さを呪った。


 手足にあらん限りの力を込める。必死の思いで体を起こして駈け出そうと足掻くも、圧し掛かるゾンビの圧力は更に強くなり、より一層地面に押し潰される。


「……止めておけ、坊や。ただの悪足掻きにしかならぬ。無闇に暴れると、怪我をするぞ」


 後ろを振り向かずに言うリリアに対して、創一の怒りに火が付いた。


「う、うるさい! 悪足掻きだって構うものか! 繭羽は僕の友人だ! 大切な友達だ! 今の僕にとって、初めて出来た大切な友達なんだ! 非力なんて、繭羽を助けようとしない理由になんてならない!」


「美しい友愛の精神じゃのう。だがな、坊や。力が無ければ現実は変えられぬ。非力は罪じゃ。……ほれ、このようにな!」


 リリアが必殺の刺突を放つべく、上半身を捩じり――氷槍を繭羽の胸の中央目掛けて打ち放った。


 創一は思考が空白に染め上げられる。


 繭羽の胸には、上着を貫き通して、氷槍の穂先が深々と突き刺さり――半ばまで埋もれていた。


「……う、うわああああああああ!」


 創一は喉が裂けんばかりの声を張り上げ、己に胸中に油然(ゆうぜん)と湧き立つ憤怒のままに、自分の体を抑えるゾンビの細腕を圧し折ろうと、眼前に映るそれを力の限り握り締めた。


 瞬間、その細腕は圧し折れるどころか、ゾンビの半身が何かに抉られたように消し飛んだ。


 その光景を目にして、創一はようやく自身に神狩りに似た特性が宿っているかもしれないことを思い出した。


「――邪魔だっ!」


 創一は俯せの体勢から体を捩じり、自分を押さえつけるゾンビ達に向かって、手刀で斬り裂くように殴り付けた。創一の手が触れた途端、ゾンビの体は面白いように消し飛んだ。


「繭羽!」


 創一はゾンビの拘束から解放されると、すぐさま立ち上がり、繭羽の許へと駆けた。


「なんじゃと……!?」


 突然の事態に驚くリリアに向かって、創一は脇へ押し退けるように、リリアの上半身を殴り付ける。


 リリアは咄嗟に腕を上げて防御の姿勢を取った。リリアの片腕と創一の拳が衝突する。創一の拳に肉を殴り付ける確かな反動が返って来た刹那、リリアの腕は肘の辺りまで砕け散った。


 創一はリリアの様子に一切目をくれずに繭羽の傍まで辿り着くと、繭羽を拘束するゾンビたちを手刀で薙いだ。やはり、創一の手に触れられたゾンビは、弾けるように消し飛ばされる。


「繭羽、大丈夫か!?」


 創一はその場に屈み込み、傷口を確認すべく、繭羽の胸元を覗いた。上着は氷槍に貫かれて穴が空いていたが、そこから見える地肌には、特に流血している様子は見られない。それどころか、突傷すら見当たらない。


「え、ええ……大丈夫、だけど」


 繭羽が戸惑いと驚きの混じった声を漏らす。


 創一には何が起きたか分からなかったが、自分の悲観的な予想に反して、繭羽は傷一つ負っていないようだった。


「良かった……! とにかく、今の内に逃げよう!」


 創一はそばに落ちている大太刀を掴む。初めは片手で持ち上げようとしたが、あまりにも重すぎて持ち上げられなかった。この重量の物を繭羽が軽々と振るっていたことに内心驚きつつ、両手で拾って繭羽に押し付けた。


「僕が邪魔なゾンビを片付ける! 繭羽はその刀で炎を放って、追撃を防いでくれ!」


 創一は繭羽の返事を待たず、出口となる空間までに立ち塞がるゾンビの群れに跳び込み、片端からゾンビを殴り付けた。触れる先からゾンビは消滅し、立ち塞がるゾンビの数が着実に減っていく。その事実は、創一の胸に、化け物を容易く倒せる爽快感と繭羽の役に立てているという充実感をもたらした。


「繭羽、姿見に通じる場所はどの辺りだ!?」


 繭羽は大太刀を振るって瞋恚の焔を背後に撒くと、先行する創一の隣に駆け付ける。


「すぐそこよ! ゾンビはもう無視して、一気に跳び越えましょう!」


 繭羽は片手を創一の腰に回すと、ズボンのベルトをしっかりと握り締めて、その場で創一を抱えて跳び上がった。


 創一は急な浮遊感に泡を食う。眼下に残りのゾンビ達の姿が流れていった。着地の際には、繭羽が膝を溜めて衝撃を殺したお蔭か、さほど強い衝撃を受けることは無かった。


 繭羽は着地ざまに瞋恚の焔(しんいのほむら)を放って炎の壁を展開すると、正面を向いて、空間の一点に手を伸ばした。鏡の扉を創った時と同様、手を動かして小さく円を描く。すると、直後にそこに眩い光が灯り、楕円の形をした銀色の霧が現れた。


「創一、出口よ!」


 繭羽は叫ぶと、創一の手を取って、その中へと跳びこんだ。


 銀色の霧を潜ったその先には、見慣れた体育館の光景が広がっていた。パンタレイの中にいても時間は正常に経過していたらしく、入界した時と比べて、窓の外の景色は暗くなっていた。


 突然、創一の背後で硬質的な破砕音が響いた。驚いて振り返れば、繭羽が大太刀の柄を何度も姿見に叩き付けて、鏡面を破壊していた。恐らく、リリアが姿見から出て来る事態を防ぐ為だろう。


 繭羽は姿見の各所に柄を叩き付け、鏡面全体に皹が入るまで姿見を破壊したところで、ようやく破壊行動を止めた。緊張の糸が切れたのか、肩の力を抜いて、大きなため息をついた。


「これで……ひとまず一安心だわ……」


 繭羽は心底疲れ切ったように言葉を吐くと、大太刀を左の掌中に押し込んだ。純白の髪色や鮮紅色の瞳も元の黒色に戻る。


「……もう大丈夫なのか?」


「ひとまず……と言ったところね。どこか別の鏡の出口を見つけない限り、当分はパンタレイから出て来られはしない。だから……安心して良いわ」


「そ、そっか……。まさか、パンタレイにリリアがやって来るとは思わなかったよ」


「そうね。……場の下見と言っていたけれど、何かこの学校を利用して企んでいるのかしら。少し調べてみる必要があるかもしれないわ」


「そう言えば、そんなことも言っていたな。……って、そうだ! 繭羽、胸は大丈夫なのか!?」


 創一は繭羽の胸が氷槍で刺し貫かれたことを思い出し、改めて彼女の胸元を見た。大きく破れた上着の隙間から除く地肌には、やはり傷一つ見当たらない。


「ああ、それなら……」


 繭羽は自身の胸元へ目を落とし、そこでようやく自分の胸元の地肌が大きく露わになっていることに気付き、羞恥に駆られて慌てて両手で胸もとを覆った。


 創一は繭羽の態度を見て、緊急の事態とはいえ、自分がどれだけ不埒なことをしてしまったのか理解した。慌てて視線を逸らす。


「あ、ご、ごめん……。その、他意は無いんだ……」


「……馬鹿」


 繭羽は消え入るような声で呟くと、そっぽ向いてしまう。


 創一はどうして馬鹿と言われたのか分からなかったが、取り敢えず無事かどうかだけ聞いておいた。


「えっと……本当に傷は無いんだよね?」


「……無いわ。もともと、槍を敢えて受けたのは、リリアを油断させて隙を狙うつもりだったからよ。防護の術式を服の下に展開していたから、大丈夫よ」


「そうだったのか……。だから、あえてゾンビの束縛を振り払うことをしなかったのか」


「そういうことよ。……心配させてしまったみたいね。ごめんなさい」


「いや、いいよ。戦略の内だったんだから。君が無事だったなら……それで十分だ。あの時は、本当に繭羽が殺されたんじゃないかって……胸が潰れるかと思うほど悲しかった」


 創一は心の底から安堵の言葉を呟いた。


「……ああ、そうだ。繭羽、これを着なよ。破れた上着の代わりにさ」


創一はそう言うと、自分の学制服の上着を脱いで、繭羽に手渡した。


「あ、ありがとう……」


繭羽は素直に学生服の上着を受け取ると、少しの間だけ、その学生服に視線を落としていた。


「……ねえ、創一」


「何?」


「創一は、どうして……どうしてそんなに優しいの?」


「……優しい? 僕が?」


 創一は予想外の言葉に尋ね返す。


 こちらを見上げる繭羽の目は、実に真剣なものだ。


「私は……創一は優しい人だと思う。私が出逢ってきた他人の中では……たぶん、一番優しい方の人だと思う。商店街の時だってそうだし、今だって……。普通は、出逢って数日の人に対して、そこまで親身に接することは出来ないと思う。それに、あなたのクラスメイト――心陽さんたちの様子を見ていれば、創一にどれだけ親しみを持っているのか分かるわ。だから、そうやって人から好かれる創一は、とても優しい人なんだろうって……そう思う」


「……繭羽には、僕はそう見えるのか」


 創一の主観的な感覚でも、心陽や賢治、昴や陽太は、自分のことを慕ってくれていることは感じられる。けれど、それは過去の自分が築き上げていた絆であって、今の自分とはあまり関係ないことだ。


 それに――繭羽は一つ勘違いをしている。


「それを言うなら、僕の知っている人の中で、繭羽は一番優しい人だと思うけれど」


「え、私が……?」


 創一にそう言われた繭羽の表情は、さも意外そうなものだった。


「そうだよ。だって、繭羽は出逢って間もないのに、僕のことを幻魔から守ってくれている。それも、なんの対価も払っていないのに、命を懸けるような戦いに身を投じたりもしている。普通の人だったら、そんなに他人に親身に接することは出来ないと思うけれど」


「……それは違うわ、創一」


 繭羽は目を伏せながら否定した。


「創一はそう思っているかもしれないけれど、私はそんな善人染みた人間じゃないわ。私が創一の護衛に付いているのは……あなたを幻魔が狙っているから。そして、私が幻魔を倒したいと望んでいるから。だから、私は創一のそばにいる……それだけよ。……私に優しさを期待しないで」


「……そっか」


 創一は静かに答え、それは違うと思った。


 もし、繭羽が自身で言うように善人染みた人間ではないのならば、そんなひどく自己嫌悪に染まった表情は浮かべられないからだ。


「じゃあ、繭羽が僕に落胆して欲しいのなら……僕も繭羽に落胆して貰おうかな」


「え……?」


 疑問の声を上げる繭羽を横目に、創一は窓から見える薄闇の広がる空を見上げた。


「僕が……今の僕が繭羽から優しく見えるのはね、僕が凄く弱い人間だからなんだよ」


「……どういう意味?」


「……この際だから、繭羽にも教えておこうと思う。……僕は記憶喪失なんだ」


「記憶……喪失? いつ頃から?」


「去年の夏から。聞くところによるとね、僕は夏休みを利用して家族と――両親と旅行へ出掛けていたらしいんだ。それで、旅行先から帰る途中、トンネルの中で落盤事故に巻き込まれたらしい。その後の現場検証によると、どうやらトンネルの落盤の所為で急停止した自動車が玉突き事故を起こしたらしくてね、僕が乗っていた自動車も玉突き事故を起こしたんだ。その時、後部座席に乗っていたと思わしき僕は、難を逃れたんだけど……前の座席に座っていた両親は駄目だったらしい」


「……それで、その事故が切っ掛けで記憶喪失に?」


「いや、玉突き事故自体が記憶喪失の原因ではないらしいんだ。だって、僕は外傷を負っていなかったから。当然、頭も打ってない」


「え、それじゃあ……どうして記憶喪失に?」


「医者が言うには、酸素欠乏らしい。玉突き事故を起こした所為で、いくつかの自動車からガソリンが漏れて燃焼していたそうなんだ。しかも、落盤した所為で、トンネルの出入り口は塞がれてしまっていて、換気の機構も一部壊れてしまっていたそうだ。だから、玉突き事故に遭わずに済んだ人でも、煙に巻かれて酸欠で死んでしまった人も多かったそうなんだ。危うく、僕もその一人になりかけていたんだけれど、どうにか一命を取り留めることが出来た。……でも、その時の酸欠の影響で、脳の一部に機能障害を起こして、それまでの記憶――特に経験に関する記憶の大半が無くなっちゃったらしいんだ。医者は、そんな風に推測していた。だから、僕には事故前の思い出というものがあまり無い。事故前の知人に逢う度、向こうは僕のことを覚えていても、僕はその人のことを知らないことが何度も起きた」


 創一は事故後に初めて病院のベッドで目を覚ました時のことを思い出した。あの時の感覚――まるで自分が知らない世界に投げ棄てられたような不気味な孤独感は、今でも忘れることの出来ない悍(おぞ)ましい恐怖だ。


「繭羽は、僕のことを優しい人だと言ったけれど、それは違う。僕にとって、友達との絆は、他者との繋がりは、何もかも――自分のことすら忘れてしまった僕にとって、自分の立ち位置を定めてくれる大切な存在なんだ。僕が誰で、どこにいて、どんな人物で、どんな役割を持っていて……そういった『僕がこの世界にいる意味』を教えてくれる存在なんだ。だから、僕は人に優しくしようとする。友達になって、絆を結ぼうと努める。そうやって、多くの友達が出来て、それぞれが僕の在り方を形作ってくれれば、いつかは……僕が誰なのか確信出来る時が来るんじゃないか……そう思っているだ」


 創一には、折に触れて空に浮かぶ雲を眺める癖がある。それは、風に吹くままに流され、行方も知らずに空を漂い、その時々によって形を変えられて――そして空に溶けて消える雲の不安定な在り方と現状の自分自身と重ね合わせていたからだ。


 そして、雲の在り方に自分の在り方を見出そうとしていた。


「……だからさ。繭羽こそ、僕が優しい人だと思わないで欲しい。それは勘違いなんだ。僕はただ……本当は弱い人間なだけなんだよ」


 繭羽は創一の話が終わってもなお、彼のことを見守るように見詰めていた。


「……ようやく分かったわ。どうして、心陽さんがあんなことを言ったのか」


「心陽? 心陽が繭羽に何を言ったんだ?」


「んー……内緒かな」


「なんだよ、それ。凄く気になるじゃないか」


「内緒は内緒よ。教えてあげないわ」


 繭羽はそう言うと、創一が渡した学生服を羽織、前のボタンをいくつか留めた。


「姿見は……仕方ないと割り切りましょう。行きましょう、創一」


繭羽は そう言うと、体育館の出入り口の方へ歩き出した。


 創一は少しだけ罅割れた姿見に目をくれて、このままの状態で放置していいのか逡巡したが、すぐに繭羽の後を追い掛けた。


「繭羽、どこへ行くんだ?」


「見回りよ。リリアの奴がこの学校に何か細工を施しているかもしれないわ。何か魔術的な痕跡を見つけられれば、リリアの思惑を看破出来るかもしれない」


 繭羽の言う通り、確かにリリアが何かをこの学校に仕掛けていないか調査しておく必要がある。もし、学校で何か起きたら、多数の犠牲者が出ることになりかねない。


 繭羽はまずは校舎の外から調べるつもりなのか、昇降口の方へと向かって歩いていた。


「……創一は、自分が弱い人間だって言ったけれど、私は違うと思う」


 繭羽は正面を向いて歩きながら、さらに言葉を続ける。


「本当に弱くて自分のことしか考えられない人だったら、創一は私に気遣って商店街を散策しようと誘わなかった筈よ。それに、私の身を按じて自室で待機するよう、創一の方からお願いすることも無かった筈だわ」


「それは……」


「少なくとも、私には……あれは創一の真摯な思い遣りに感じられた。それに、心陽さんや古橋君、鳥居君に望月君……みんな朗らかで素敵な人ばかりだったわ。その人が連れている友人を見れば、その人の人間性は窺い知ることが出来るものよ。類は友を呼ぶから」


 確かに、心陽たちは自分の友人に違いないだろうが、そもそも、その関係性を築き上げたのは、事故に遭って記憶を喪失する前の自分だ。実際、心陽たちと接していると、彼らが自分の中に事故前の自分の姿を見出そうとしている節も度々感じられた。そういう意味では、心陽たちは、今の自分にとっても類友と呼べる存在のか疑問である。


 だからこそ、今の創一にとって、繭羽は――


「それにね、創一。たとえ、創一が自分に恥じる動機で人に優しくしようとしていても……それによって救われる人も絶対いる筈よ。だから、私はそのことだけは、なんの気後れも感じずに誇っても良いと思うな」


 繭羽はそう言うと、手を後ろに組んで、ぴょんっと両足を揃えて跳んだ。そして、その場でくるりと半回転して、覗き込むように創一に向き合う。


「私……すごく嬉しかった。あの時……リリアに氷の槍で刺されそうになった時、創一が私のことを大切な友達だって言ってくれた。……ありがとう、創一」


 繭羽は最後に可憐に微笑むと、再びくるりと半回転して、すたすたと歩き始めた。


 創一は呆気に取られたように、その場に立ち尽くした。


「……どうしたの、創一? 置いて行っちゃうわよ。姿見の出入り口は壊したけれど、いつリリアが別の鏡からこちらの世界へ戻ってくるか分からないわ。一緒に行動しましょう」


「あ……ああ、うん、そうだね」


 創一は我に返ると、すぐに繭羽を追いかけた。その最中、自身の胸に手を当てた。手の下では、通常より速く心臓が鼓動を刻んでいる。頬には、僅かながら熱い物を感じていた。


「ぼうっとしていたみたいだけれど、やっぱりさっきのパンタレイのことで疲れているの? 今日は学校の調査を止めて、帰宅することにしましょうか?」


「いや、疲れてないよ。学校の調査をしよう。何かあってからでは遅いからね」


「そう? あまり無茶はしないでね」


 創一は繭羽の先行する眉羽の後ろ姿を見詰めていた。先ほどの繭羽の微笑みが鮮明に思い出される。


 あの後に少し呆けてしまった理由は、繭羽の微笑みがあまりにも可憐で見惚れてしまっていたから……。


そんなことは恥ずかしくて口が裂けても言えないと、創一は苦笑しながら思った。

 

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