第18話

「繭羽ちゃん、洗うお皿はこれで最後だから」


 繭羽は心陽が盆に乗せて持って来た料理皿を受け取ると、キッチンの流し台の隅の方にそれらを置いた。


「じゃあ、ちゃちゃっと片付けちゃおうか」


「そうね。夜も遅くなっているし、早く洗い物を済ませましょうか」


 繭羽が壁掛け時計に目を向けると、時計は九時を二十分ほど過ぎた位置を示している。高校生とはいえど、これ以上帰りを遅くすることはまずいだろう。


「繭羽ちゃん、スポンジで汚れを落として貰えるかな。私が泡を水で濯いで、布巾でお皿の水を拭っていくから」


「分かったわ」


 繭羽は流し台に溜まった汚れた料理皿を一つ一つスポンジで洗っていく。料理を持った皿は大皿ばかりであったので、洗う食器自体の枚数は多くない。十分もあれば、全て洗い終えるだろう。


 繭羽と心陽が食器を洗っている中、創一と賢治は開いた菓子袋やペットボトルの片付け、食べこぼしの回収などをしていた。


 ちなみに、昴と陽太は、二人仲良くソファーの上で爆睡している。食休みとのことで、祝宴の途中からソファーに横になっていたのだが、そのまま寝入ってしまったのだ。


「まったく、昴と陽太ったら……。食べるだけ食べたら、寝ちゃうんだもん。本当に調子のいい奴らなんだから」


「でも、彼ら、なんだか憎めない感じの人よね。お調子者って感じかしら」


「まあ、そうなのよね。色々と軽薄で失礼なところもあるんだけど、どうも憎めないのよね……。ああいう性格って、持って生まれた才能なんだと思うなぁ」


「……羨ましいの?」


「うーん、どうだろう。私は遠慮したいかな。……でも、たまに羨ましいって思う時もあるよ。自分に想いや感情を素直に表せられれば……色々と気楽になれる時もあるからね」


(自分の想いや感情に素直に……か)


 繭羽はキッチン腰に創一たちの姿を見た。真面目に片付けをしていると思いきや、所々でふざけて、お互いに笑い合っている。


 繭羽には、その光景がとても眩しいものに映った。出来れば、あの友人の輪の中に自分も混じって、同じ楽しみを共有してみたい。友に囲まれ、友と遊び回り、何気無い世間話に笑い合ってみたい。


 繭羽はそう思い――同時に奥歯を噛み締めることによって、その憧憬の感情を押し殺した。叩き潰し、引き裂き――心の奥にある暗闇へと放り捨てる。


 何を考えているのだ。そんなものに現を抜かしている場合ではないだろう。ここで一般的な学生としての身分を被り、クラスメイトと歓談を尽くしているのは、幻魔を倒すまでの一時的なものでしかない。この安らぎの一時は偽りだ。この安らぎに留まってはいけない。私は私の使命を果たさなければならない。


一体でも多くの幻魔を屠らなければ。


経験を積み上げ、さらに強くならなければ。


そして、一刻も早く、自分の手で奴を――


「ねえ、繭羽ちゃん」


 燃え滾るような信念と黒い憎悪の情に沈んでいた繭羽の意識は、心陽の呼び掛けによって現実へと引き戻された。


「あ、な、何かしら」


「えっとね、たいしたこと……じゃないのかもしれないけど」


 心陽は創一達の方を窺いながら、何故か小声で話しかけてくる。


「繭羽ちゃんは、創ちゃんが去年の夏に事故にあったこと……知っているかな?」


「え……事故?」


 繭羽は思わず創一の方を見た。


「いえ、知らないわ。どんな事故だったの?」


「あ、ううん。知らないなら、それでいいの。ごめんね、変なことを言っちゃって」


 心陽はそう言うと、洗い済みの皿の水気を拭うことに集中し始めた。どうやら、あまり問い質さない方が良さそうな話である。


 繭羽は話の内容が気になったが、あえて聞き出すようなことはせず、洗い物へと意識を切り替えた。


「……あのね、繭羽ちゃん」


 不意に、心陽が再び話し掛けてきた。


「もしね、創ちゃんが何か困っていたら、助けてあげて欲しいんだ。創ちゃん、悩み事があると……独りで抱え込んじゃうみたいだから。空を見上げて、ぼんやりとしている時なんかは……特にかな」


 繭羽は昼間の図書館の時のことを思い出した。あの時、創一は窓辺から空を見上げて、ぼんやりと雲を眺めていた。


「……分かった」


「ありがとう。ごめんね、変なことを頼んじゃって。……私ね、時々不安になるんだ。創ちゃん、放って置いたら、ふらっとどこか遠くへ行っちゃうんじゃないかって。創ちゃんは、どんどん私の知らない創ちゃんになって、私の前から消えちゃって、逢えなくなるんじゃないかって……。なんか……そんな気がするんだ」


 どこか悲しそうに呟く心陽の姿は、とても真剣で、冗談交じりに言っていることではなさそうであった。


「……ねえ、心陽さん」


 繭羽が去年の夏の事故について訊いてみようとした直後、キッチンに創一が入って来た。


「こっちは終わった? 僕達の方は、だいたい終わったけど」


「あ、うん。こっちも終わりそう。そろそろ怠け者の昴と陽太を叩き起こして頂戴。どうせなら、手荒にやっちゃって」


 心陽は陽気な笑顔を浮かべて、昴と陽太の方を親指で指し示した。


「手荒って……。まあ、善処するよ」


 創一はそう言うと、リビングの方へ戻っていって、賢治と何かを話し合っている。悪戯染みた笑いが起きていることから、二人をどんな方法で叩き起そうと相談しているようだ。


「そう言えば、繭羽ちゃん。さっきは何か言い掛けたみたいだけど、何かな?」


 心陽が小首を傾げて尋ねてくる。


「……ううん。何でもないわ。気にしないで」


 繭羽は最後の一枚の皿を洗い終えると、心陽にそれを渡して、手についた洗剤を洗い落とした。

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