君と夏の駅

舘野かなえ

第1話

 いつも通りの憂鬱な朝。会社へと向かう私の足取りは重くて、家を一歩出た時から私の思考は帰宅までの残り時間へ向いていた。タンクトップにデニムの半ズボンの男の子が公園の方へと駆けていく。ああ、学生はもう夏休みに入る頃か。全く羨ましくて、涙が出そうなくらいだ。

私にはもう、あんな楽しそうに夏休みを謳歌することは出来ないんだろうな、って。夏休みとか一週間ぐらいしかないし、その一週間だって、実家に帰ったり、家の掃除とかしてたら終わっちゃうし。彼氏でもいたら、どこか海外に旅行という選択肢もあったのかもしれないけど、生憎そんな相手はいない。夏休みなんて、今の私には特段嬉しいことではないのだ。学生時代は楽しかった。彼氏もいて、夏休みはディズニーにいって……。


 駅のホームは人が虫のように蠢き、ひしめき合っていて。私の出社への意欲を更に引き下げた。思わず舌打ちをしてしまう。その音が隣にいた人に聞こえてしまったようで、怪訝な目を向けられる。気まずくなり赤面した私は、その場を離れホームの端へと移動した。まだ出社の時間には余裕がある。

 自販機で缶コーヒーを買って、近くの柱に背をもたれた。カシュッ、という音がやけに不愉快で、大量生産の粗雑な味が口に染み渡った。こんなもの、私以外の誰が買うのだろうと思ったけど。売られている以上、私みたいなやつは結構多いのだろう。

 鞄の中から本を取り出す。栞を取ってページを開いたのだが、ふとホーム下へと目を向けた。何故そんなことをしたのかはわからない。もちろん人が落ちているわけでもなくて。ああ、けれど、もし落ちている人がいるのなら、それは私であってほしいなと思った。

 そして、再度視線を読んでいた本に戻そうとしたその時、何かが私の頭にひっかかった。もう一度ホーム下を見る。やっぱりそうだ。私の疑念は確信に変わった。

制服姿の少女がホーム下にうずくまっている――。

ありえないという気持ちが先行して、さっきは気づけなかった?そもそも何故こんなに人がいて誰も気づかないんだ。いや、気づいた上で無視している?

様々な疑問と可能性が脳内を駆け巡るが、そんなことを考えている場合ではないのは明白だった。次の電車が来るまであと一分もない。駅員に事情を説明して到着を止めてもらうのは無理だ。私が、引き上げるしかないだろう。

とにかく駆けた。彼女のいるところまで十秒もかからなかった。「こっち!」と叫ぶと彼女は気づき、振り向いた。手を差し伸べると、それに応じかけたが躊躇うかのように手を引っ込めた。ようやく私は、彼女が自分からホーム下に落ちたのだという可能性に辿りついたが、だからといって見捨てることもできない。電車の音が次第に近づいてくる。

更に前傾姿勢になって手を伸ばし、無理矢理彼女の手を掴んだ。同時に、自分の体が宙に浮くような感覚に襲われる。やばい、と思った時にはもう遅かった。地面が少し大きく見えてきて、世界がスローモーションに感じられる。電車の警笛だけがやけに大きくて、それで、それで、すべてが、まっしろになった。


そして、腹部への痛みと共に現実へと引き戻される。頭がぐわんぐわんと揺れる中、手の力だけは緩めず、何が起こったのか確認する。どうやら、落ちかけている私に気づいた他の客が咄嗟に私の腰を掴み、止めてくれたようだ。

「大丈夫ですか?」

「え、ええ……私は大丈夫です」

そうだ、彼女は?

手の先を見ると、困惑したような表情の彼女が座り込んでいた。安堵すると同時に、周囲の人々の視線がこちらに集中しているのに気づく。電車が止まったわけではないとはいえ、このままこの場に留まるのは面倒だ。私にとっても、そしてこの子にとっても。

「……歩ける?とりあえずこの場から離れた方がいいと思うんだけど」

 彼女はまた躊躇うような表情をしたが、すぐに頷いた。私は了承の合図ととり、彼女の手を引いて人込みをかきわけ、駅を後にした。



「――ええ、すみません。そういうわけで、今日はちょっと出られそうにないです。はい、明日以降で取り戻しますので、はい、それでは」

 結論として、私は会社を休むことにした。あんなことがあった後でとても働く気にはなれなかったし、この子と話したいという自分を無視できなかったからだ。放っておくとまた同じようなことをしかねないというのもあるけれど、それだけじゃないような気がした。というわけで、場所は私の家である。

「何飲む?紅茶とか、コーヒーとか、色々あるけど。あ、ちなみにジュースはないから、そこはごめんね。なんなら、ビールとかもあるけど?」

 聞くだけ聞いてみたものの、制服姿――つまりは学生である彼女が未成年であるのは明らかだった。だから、これは冗談だ。

「あ、じゃあ……紅茶をお願いしていいですか?あればアールグレイがいいですけど、無ければ何でも」

「アールグレイね、あるよ」

 椅子に座っている彼女は、かなり落ち着いた様子だった。知らない人の家での緊張というのはあるかもしれないけど、少なくとももう、自殺しようだなんてことは考えてないだろう。

 客人用のティーカップに紅茶を淹れる。滅多に客人なんて来ないし、来たとしても昔からの友人とかだ。ティーカップなんて使ったこともない。まさか、使う機会があるとは思わなかった。冷蔵庫から缶ビールを一本取り出して一緒にテーブルに持って行った。まだ十二時も回ってないけど、今日はもうオフだし、これぐらいいいだろう。プシュッ、という音がやけに心地よかった。人を駄目にする味が口に広がる。

「で、なんであんなところにいたの?」

 単刀直入に聞いてみる。自殺しようとしていた、というのはあくまで自分の推測でしかない。偶然落ちてしまったという可能性も、別に無いわけじゃないのだ。

 途端、彼女の顔に陰が落ちた。スカートを掴んで、震えているのがわかった。

「……その、助けてもらって申し訳ないんですけど、私、死のうと思ってたんです」

 結果として、聞く必要はなかったわけで。申し訳ないことをしたと思いつつも、私は話を進めることにした。遠慮なんて考えは、私の選択肢から消えていた。ビールを手に取り口に運ぶ。

「なんで?あなた達もう夏休みでしょ。楽しいことばかりじゃない。見た感じ、受験生ってわけでもなさそうだし」

 先ほどとは違った、どこか照れるような、言いづらそうな感じの表情だった。彼女はそのまま俯いてしまう。この反応は、思い当たりがある。というか、間違いないだろう。

「彼氏にフラれたってところね」

「えっ!あ、え……はい、そうです」

 図星だったようだ。一瞬驚いたように顔を上げた彼女はまたすぐに俯いてしまった。なんというか、真っ赤だ。

 私が学生の頃に付き合っていた彼氏にフラれた時、確かこの子と同じような感じの顔をしていた気がする。当時の自分はひどく落ち込んでいて、それこそ自殺願望を抱くぐらい思い詰めていた気がするけど、今思えば、それぐらいで死ぬなんて馬鹿な話だ。

 私は彼女の次の言葉を待つ。何にせよ、こういうことはいくら時間がかかっても自分から言った方がいいと思う。

三十分ほどして、彼女はようやく少し顔をあげ、口を開いた。

「中学の頃から、ずっと付き合ってたんです。彼と一緒の学校に行くために必死に勉強して、高校に受かって。けど、彼は第一志望に落ちちゃって。私、別にいい学校に行きたかったわけじゃなかったから、彼と同じ学校ならなんでもよかったんです、けど」

 彼女の目から涙が零れ落ちているのに気づいて、私はハンカチを差し出した。彼女はそれを受け取って軽く会釈し、目を拭う。

「親に反対されて。結局一番いい学校に入らされて。それでも、学校は違うけど付き合い続けようって。でも、だんだん会うことも少なくなって、それで、昨日……えぐっ、四か月しか経ってないのに」

 そこまで言って、彼女は堪えきれなくなったようだ。顔を机にうつ伏せにして泣きじゃくっていた。時々鼻をすする音が聞こえる。私はビールを口に運ぶ。

 やっぱり、正直に言わせてもらおう。ムカつく。まるでかつての自分を見ているような気持になってくる。

「あのさ、あなたの人生その彼氏でできてれわけ?他の友達と遊ぶ時間とあ、将来の夢だとか、しょんな未来を捨ててまで、死にたいわけ?」

 ああ、酔いが少し回ってきたみたいだ。うまく呂律が回ってくれない。でも、まだ大丈夫ら。

「あなたはきっと、他の楽ひいことを見逃していふだけ。一時的な衝動で死んじゃふなんふぇ、勿体ないふぁ」

 私はビールを手に取り最後の一滴まで呷った。それを見て彼女はクスリと笑った。何が可笑しいのらろう。少し考え込むような仕草を見せて、彼女は口を開いた。

「そう、かもしれないです。うん、いや、多分そうなんですよね。私にはきっと、何も見えてなかったし、知らなかったのかも」

 ああ、でも。それは私だって。

「じゃ、もふ今日みふぁいなふぉとしないよね?」

「はい、でも」

 彼女は困ったように微笑を浮かべる。

「あなたもどうか、あなた自身の―――――――」

 ごめん、よく聞こえない。それに、視界も暗くなって。ああ、駄目だこれは。そう思った瞬間、私の意識は完全にブラックアウトした。




「夢?」

 目が覚めたら見知らぬ天井。そんなことはある筈もなく、普通に空き缶とテーブルが目の前にあった。そして、手のつけられていないティーカップに入った紅茶。カラスの声が聞こえることから察するに、既に夕方だろうか?制服姿の少女は、既にいなかった。

 ふとあることを思いつき、押し入れの中の棚の引き出しからアルバムを取り出し、ペラペラとページをめくる。

「……やっぱり」

 あの制服の少女は、かつての自分に似ているどころか、かつての自分そのものだ。何で気づかなかったんだろう。

そう、私は彼に振られて、死にたいぐらい落ち込んで、それを気にした友達がディズニーに誘ってくれて。帰ってくるころには、彼のことなんてほとんど忘れちゃっていたな。確かその時は、心底死ななくてよかったと思った。

 けれど、今朝の私は駅のホームで、「もし落ちている人がいるのなら、それは私であってほしい」と思っていた。心のどこかで、私は死にたがっていた。そして、実際に「落ちている私」を生み出した。それで、その幻を自分で助けた。

「…………あほか、私は」

道理で、あっさり納得してくれたわけだ。本当に自殺しようという人間なら、ああはいかないだろう。何という自作自演、何という道化。しかも、紅茶とかが本当に出されているところを見るに、夢ではなく、幻との一人芝居を、駅からずっと続けていたということだ。恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。明日から、一体どんな顔して通勤すればいいのか。

 慣れない社会人生活で疲れていたんだ、そう思うしかなかった。そういう意味では今日一日休めてよかったのかもしれない。明日からの電車も仕事も憂鬱ではあるけれど。

 でも、頑張るしかない。私はきっと、まだ楽しいことを見つけられる筈だから。彼女のおかげで、そう思えた。

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