最終話

急に見せた僕への執着の緩みに目を瞬かせる。

彼は寂しげな微笑みを口元に保ったまま続けた。


「蒼汰が決めて。もし俺と付き合い続けてくれるなら、この手を取って。もし、別れるならこの店を出て。後は追わないから」


彼はそう言うと、口を閉じた。

僕を見詰めているが、そこには僕の返事を急かす気配はない。

また、僕に縋るような必死さもない。

ただ僕がどう動くかを見ているだけといった風だった。

あまりにもあっさりした彼の態度に肩透かしを食ったが、これは有り難い展開だった。

もう別れの言葉を考える必要はない。

ただここを立ち去ればいいだけの話だ。

なのに、僕の視線は彼の手らから離れることができなかった。

禍々しく、しかし魅惑的な何かに絡めとられるように僕の視線は動かなかった。

店内のざわめきは絶えず移ろっているのに、僕らの間だけは時が止まっているようだった。

本当に時が止まったのではと錯覚する寸前で、遅れてコーヒーがやってきた。

ソーサーの上で小さく跳ねたティースプーンの微かな音に、僕はハッとした。

何を迷っているんだ。

早くここを去らないと……!

腰を浮かせようとした瞬間、彼の口が開いた。


「なんで俺が明日香を見た時に、蒼汰を思い出したか分かる?」


僕が立ち上がるのを制するようなタイミングだった。

なのに、内容は僕を引き止めようとするものではなく、脈絡のない唐突な質問だった。

僕は質問の答えも意図も分からず首を傾げた。

彼は続けた。


「もちろん顔が似ていたからというのもあったけど、でもそれだけじゃない。……雰囲気だ」


今まで穏やかな微笑を湛えていた口元が意地悪く歪んだ。


「雰囲気……?」


彼の口から出かけている悪意の言葉を察知しながら、僕は訊き返した。

彼は頷いた。口元に悪意の笑みを携えながら。


「そう、いじめられるのが宿命のような弱者の雰囲気だ。善良な人間でさえ、その奥に眠る人の残虐性をくすぐられてしまうような、被虐的な雰囲気だ」


彼の口の中で赤い舌が僕をいたぶるようにしなう。

事実、彼の言葉は僕の心を容易に傷つけた。


「蒼汰はあの頃から変わってない。きっとこれからだって変わらない。いや、変われない。ずっとこのままだ。西條がいなくなっても、すぐにまた代わりの人間が出てくる。この先、ずっとずっとその繰り返しだ」


呪詛のように重い彼の言葉が、鼓膜の中をぐるぐると回る。


変わってない。

変わらない。

変われない。

ずっとこのまま。

繰り返し。


嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ……!

悲鳴が吐き気を伴ってせり上がってくる。

僕はそれを抑えようとテーブルに突っ伏した。

同時に、これ以上彼の言葉が僕の中に入って来ないよう両手で耳を塞ぐ。

しかし彼はとどめを刺すような冷酷さで、僕の手を耳から離した。

そして、口を僕の耳元まで寄せて言った。


「可哀想な蒼汰。いっぱいいじめられてきたんだな。可哀想に」


哀れみに満ちた優しい声が、暗く湿った鼓膜に吹きこまれた。

その優しさに思わず縋るように顔を上げると、黒羽さんの柔らかな笑みがあった。


「でも大丈夫。俺がそばにいれば絶対大丈夫だから」


――大丈夫。

暗く絶望的な言葉が渦巻いている僕の中に、その言葉は心強く響いた。

地獄の底に垂らされた蜘蛛の糸さながらの輝きをその言葉は放っていた。

口の先まで迫っていた悲鳴と吐き気がいつの間にか消えていた。

嵐が去った次の日の朝のように、僕の頭は清々しく真っ白だった。

彼は僕から手を離すと腰を下ろし、そしてもう一度僕の前に手を差し出した。


「さぁ、選んで。これからの俺達の関係を」


汚れを感じさせない真っ白な笑みだった。

涙で滲んだ視界に窓から光が差し込んで、彼の周りはキラキラと輝いていた。

けれどその綺麗な笑みの隙間から、狡猾さがのぞいているのを見逃さなかった。

彼を利用するのが申し訳ない?

僕は彼を買い被りすぎていたようだ。

彼だって利用している。

僕の弱さを。

きっと僕が彼を愛していないことなんてとっくに知っているのだろう。

その上で今後の僕らの関係を僕に選択させるのだから彼も性格が悪い。

選択肢などひとつしかないのに……。


僕はテーブルの上に横たわる彼の手の指先をぎゅっと握った。

手ではなく指先だけ。

それは僕のささやかな反抗だった。

しかし彼はそんなことに気付くはずもなく、満面に笑みを広げた。


「よかった。実はすごく不安だったんだ。蒼汰が去っていくんじゃないかって」


本当に心の底から安心したように彼が息を吐く。

嘘つき。

分かっていたくせに。

僕が去るわけがないと。

僕に彼から離れる勇気などないと。

演技臭い大袈裟な溜め息に、僕は心底うんざりした。


「さて、それじゃあ行こうか」


僕の手を握り返して、黒羽さんが立ち上がった。


「ど、どこに、ですか?」


嫌な予感がドクドクと胸を叩く。

彼はにっこりと微笑んで、僕の耳元に口を寄せた。


「俺の家。この間の続きをしよう。だってもう俺達の間には何にも問題はないんだから」


卑猥な熱を含んだ声が、耳朶を湿らせた。

その熱が耳朶に染み込んだ時、気付いた。

僕は地獄の底で蜘蛛の糸を掴んだ。

けれど、その糸は仏様が垂らした蜘蛛の糸ではなく、蜘蛛が餌を食べるために張り巡らせた罠の糸だったのだと。

今更気付いたってもう遅い。

何度あの選択の場面に戻っても、意気地なしの卑怯な僕は同じ答えを出すに違いない。

そんな自分に呆れて思わず、乾いた笑いが零れた。

その笑いを同意と受け取ったのか、彼は笑みを深めて僕を椅子から立たせた。

そして支払いを済ませると店を出た。

冷たい風が人ごみを引き裂こうとするかのような強さで吹きつけていた。

ごうごうと耳元で唸る風の音に、彼の部屋を思い出す。

壁一面に貼り付けられた僕の言葉。

紙が窓から吹きこんだ風に揺れ、擦れた悲鳴を上げる姿は、彼から逃げ出そうと必死に足掻いているようだった。

この前まで他人ごとだったあの姿が、これからの僕と重なる。

紙の悲鳴が、さっきまでうるさかった風の音を呑み込んだ。


僕はそっと目を瞑った。

何も見えないけれど大丈夫。

だって彼が手を引いているのだから。


だから、何も問題ない。



―完―

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だから何も問題ない きさきさき @kisakisaki

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