番外編 拳と指

 長いようで短い入院生活だった。

 武藏原厳生は医師と看護師達に礼を述べてから、弟子でもある後輩レスラーの鬼無里克己が運転する車に乗って帰路を辿った。だが、これで治療が終わったわけではない。通院しながらのリハビリと、それと並行してトレーニングを再開しなければ、リングに上がれる肉体は取り戻せない。

 だから、今まで以上に気合を入れていかなければならないのだが、些細なことが心に引っ掛かっている。後部座席に収まっている武藏原は、無意識に左手の薬指に填めた指輪を親指で擦り、顔をしかめていた。

「あからさまにがっかりしてますね、武藏原さん」

 運転席でハンドルを握る鬼無里克己は、バックミラー越しに“拳豪”を窺ってきた。

「うるせぇ」

「小夜里さん、仕事を抜けられなかったんですよ。だから、迎えに来られなかったんですよ。いい歳こいてガキみたいな我が侭をぶっこかないで下さい、色々と台無しですよ。俺もまあ仕事がないわけじゃないですけど、今日は休養日でトレーニングも試合も休みだから、こうして武藏原さんを迎えに来たわけであって」

「うーっるせぇ」

「入院している間は散々お見舞いしてもらったじゃないですか」

「それとこれとは別なんだよ」

「嫁さんに甘えるのは結構ですけど、せめて弟子の前ではしっかりしていて下さいよ。でないと、その……なんか笑えてくるんですけど。うへ、ふへはっ」

「てめぇ、次の試合じゃ覚悟しておけよ」

「そりゃどうも」

 鬼無里は本気とも冗談ともつかない笑みを浮かべ、ハンドルを切った。武藏原は掴みどころがありそうでない弟子の態度に辟易しつつ、腰を戒めているコルセットをさすった。

 椎間板ヘルニアとの付き合いは長い。若い頃の無理が祟って背骨と背骨の間にあるクッションが擦り減り、神経を圧迫するようになってしまった。痛み止めやマッサージなどで誤魔化しながらリングに上がっていたが、ここ最近、下半身に軽い痺れを感じるようになっていた。そんなのは気のせいだ、俺はまだまだやれる、と体の不調をやり過ごしていたのだが、先日の試合で限界が訪れた。

 武藏原の腰にとどめを刺してくれた残忍には、礼を言うべきだ。これ以上放置していたら、二度とリングに上がれない体になってしまうところだった、と医師から叱られてしまった。だから、残忍が病院送りにしてくれなければ、武藏原は引退を余儀なくされていただろう。だが、今、それを言えるような状況ではない。

 プロレス雑誌を広げてみると、武藏原の一件以来、残忍の写真も記事も増えていたが、どれもこれも残忍を責め立てるものばかりだった。それだけ、武藏原厳生というプロレスラーが業界で重んじられている証拠ではあるのだが、正直言って嬉しくはない。まだまだ伸びしろがある若手が寄ってたかって打ちのめされると、才能も未来も潰されてしまいかねないからだ。かといって、武藏原が表に出て言い訳をすると、今度は武藏原が舐められるかもしれない。長らくヒールとして生きてきたから、他者に弱い面を見せるのは抵抗がある、というのも理由の一つだ。いずれ、何らかの手段で残忍の名誉を取り戻してやらなければ。

「武藏原さん」

「なんだよ、今度は」

「ニチアサメドレーでも掛けましょうか。そうすればちったぁ気が紛れるでしょ」

「やめろ、お前に任せるとプリキュアまで流されちまう」

「ニチアサはプリキュアまでがワンセットですよ?」

「俺のニチアサはスーパーヒーロータイムだけなんだよ」

 平成ライダーにしてくれ、と武藏原が注文を付けると、鬼無里はカーステレオにダビングしたCDを入れて再生した。

「俺的には、ディケイド後のライダーって毛色が違う感じなんですけどねー」

「それを言ったら、ゴーカイジャー以降の戦隊もだな……」

 などと言い出し始めたら、すっかり特撮談義で盛り上がってしまった。鬼無里はディープなオタクなので、武藏原のマニアックな特撮話に余裕で付いてきてくれる。それどころか、たまに武藏原でさえも知らない話題を振ってくるので、油断も隙も無い。残忍こと須賀忍は、武藏原の趣味は邪険には扱わないのだが、プロレスオタクではあるが特撮にはそれほど興味がないらしく、気のない返事しかしない。だが、鬼無里は違う。喰らい付いてきてくれる。

 スーツアクターの特色、ヒーローのスーツやアイテムのデザイン、異形でありながらも完成された怪人達の造形、怪人のデザイナー、などとこれでもかと語り倒してくれる。妻の小夜里もかなりコアな特撮好きなのだが、鬼無里は小夜里とはまた違った観点で攻めてくるので面白いのだ。などと熱心に話し込んでいるうちに、車は武藏原の自宅へと辿り着いた。

 平成ライダーメドレーは、キバの挿入歌で終わった。



 妻が帰ってきたのは、夕方だった。

 定時上がりの小夜里は、紺色のパンツスーツ姿で買い物袋を提げていた。武藏原が出迎えてやると、小夜里は気まずいような申し訳ないような、それでも嬉しいような、複雑な顔をした。

「……お帰り」

「ただいま」

 武藏原が笑い返してやると、小夜里は買い物袋を掲げる。

「むっさんが好きなの作ってやるから、ちょっと待っててくれよ」

「ブリ照りとカボチャの煮付けだな」

「おう、楽しみにしとけよ」

 酒は出さないからな、と付け加えてから、小夜里は足早にキッチンに入っていった。

「お前の料理は日本酒によく合うんだがなぁ」

 もっとも、武藏原はそれほど酒に強くないので、飲めても熱燗一本が限界なのだが。小夜里も似たようなものなので、武藏原家の冷蔵庫には酒は数えるほどしか入っていない。酒が増える時があるとすれば、それは弟子たちを始めとした後輩レスラー達を招いた時だけだ。特に酒が強いのが残忍で、瓶ビールを何本も空けていた。逆に最も弱いのがアギラで、薄めのウーロンハイを飲ませただけで潰れてしまった。鬼無里は顔色一つ変えずにひたすら飲んでいくのだが、気付くと寝込んでいるので、それほど強くはないらしい。その様を思い出すと、無性に懐かしくなる。一日でも早く、超日本プロレスの道場に戻りたいものだ。

 小一時間後、武藏原は妻と食卓を囲んだ。



 酒の力を借りなくとも、いい気分になれた。

 優しい味わいの手料理を腹に入れると、ようやく自宅に帰ってきたのだという実感が沸いた。小夜里の女っ気の薄い口調の歯切れのいい言葉を聞いていると、いつのまにか強張っていた心中が解れていく。小夜里はいつになく饒舌で、よく笑った。特に熱が入ったのはやはり特撮談義で、今度公開される映画の前売り券は押さえてあるから一緒に見に行こう、と誘われた。もちろん快諾した。

 食後、後片付けもそこそこにリビングに移動した。ソファーに隣り合って座るや否や、小夜里は身を委ねてきた。部屋着に着替えて薄い化粧は落としてあるものの、ヘアーワックスの匂いは消えていないので、妙齢の女の匂いにほんのりと甘い香りが重なった。

「悪ぃな、ちょっと吸わせろ」

 その匂いを掻き消してしまう、タバコの煙が立ち込めた。小夜里は薄い唇にタバコを銜えると、煙を深く吸い込んでから緩く吐き出した。

「あー……落ち着かねぇよお」

「俺が帰ってこない方が楽だったか?」

「んなわけねぇだろ、この」

 小夜里は武藏原に寄り掛かりながら、今一度煙を吸い込む。

「今回はえらく長い地方巡業だったよな」

「そうだな。海外遠征みたいなもんだったな」

「病院の興行はどうだった?」

「俺のことを知っている患者も結構いてな、慰められるやら叱責されるやらで落ち着かなかった。だが、皆、俺の復帰を待っていてくれている。やる気が出ねぇわけがねぇ」

「そっか」

「そっちはどうだった」

「どうもこうもねぇよ」

 小夜里はタバコを灰皿に預けると、武藏原の肩に頭を持たせかけてきた。長い睫毛に縁取られた切れ長の目が、憂い気に伏せられる。その表情に、武藏原はぞくりとする。腕を軽く掴んでいる指はいつになく不安気で、夫を捕まえていなければいなくなってしまうのではないか、と危惧している。

「言いたいことがあるなら、ちゃんと言ったらどうだ」

 武藏原は妻の腰に腕を回し、抱き寄せると、小夜里は僅かに肩を跳ねさせた。

「社長から電話が来た時、今度こそ死んだかと思っちまった」

「安心しろ、俺はリングじゃ死なねぇよ」

「今度こそ引退しちまうのかなぁって思っちまった」

「まだまだイケる、やりたいこともいくらでもある」

「今度こそ……あたしだけのモノになるのかなぁ、とか、ちょっと思っちまった。けど、やっぱりそんなことはなかったんだ」

「つまんねぇことを気にするようになっちまって」

「だって」

 子供のように拗ねてみせる小夜里に、武藏原は笑ってしまった。

「何が物足りねぇんだ。こうして一緒にいるってのに」

「復帰しなきゃ食い扶持が得られねぇけど、そしたらまた遠征と地方巡業ばっかりになっちまうなーって思って……。そしたら、なんか、無性にアレな気分になっちまって」

「俺を引退させる気か」

「そうじゃねぇけど……」

 小夜里は武藏原の太く骨張った指と細い指を絡め、戒める。

「ごめん、あたしらしくもねぇこと言っちまって」

「気にするな。復帰するまでにはまだ時間があるんだ、うんざりするほど一緒にいてやらぁ」

「……うん」

 心を繋げた後に、やることは一つだけだ。

 乾く暇もなく、愛し、愛された。



 寝乱れた妻の髪に、そっと指を通す。

 寝室に移動すらせずにリビングで夜を明かした武藏原は、しがみついて離れようとしない小夜里を抱き寄せて身を丸め、十何年か振りに二度寝をした。スケジュールに追い立てられている巡業中は、早朝の五時起きや四時起きはザラにある。それ以外の時も、トレーニングに打ち込むためには早めに起きて体を動かして筋肉を暖めておかなければならないので、朝はだらついていられなかった。だから、なんだか妙な気分だった。

「あ……」

 小夜里が薄く瞼を開けたので、武藏原は妻を撫でる。

「おう」

「起き上がると、むっさんのアレが出ていっちゃいそうでさぁ」

「だが、起きなきゃならんなぁ」

「さすがにねぇ」

「ニチアサが始まっちまうからなぁ」

「録画予約はしてあるんだ、一応。こうなることは予期していたから」

「だが、ニチアサはリアルタイムで見てナンボのもんだろう」

「それがニチアサだもんな」

「……起きるか」

「うん、起きよう。起きなきゃ」

 小夜里は武藏原の腕から抜け出すと、名残惜しげではあったが、身を起こした。

「おはよ」

「おはよう」

 どちらからともなく挨拶を交わしてから、笑い合う。

「手ぇ離せよ」

「小夜里が離せ」

「あたしは手4つからの力比べなんて出来ないし、したとしてもむっさんには絶対勝てねぇんだから、むっさんが離せよ」

「離したら、また当分は手なんか繋がないだろうが」

「かもなぁ」

 二人は互いの手を見下ろし、またも笑う。照れ臭くてどうしようもないからだ。フローリングで寝入る前に恋人繋ぎの形にしたのだが、そのままで夜を明かしてしまったのだ。小夜里は今一度夫を窺うが、武藏原もまた妻を窺い、目が合った。そして目を逸らす。

「まだ、する?」

「夜にでも」

「うん。……したい」

 その前に朝御飯の支度をしなきゃならねぇっ、と小夜里は力ずくで手を振り解いてから、脱ぎ散らかした服を拾い集めて着込みつつキッチンに向かっていった。武藏原も昨夜脱いだ服を掻き集めてから、妻の指の感触が残っている手を開閉した。

 この拳は、何人もの男達を叩き伏せてきた。顎に一発ガツンと喰らわせて脳を揺さぶってしまえば、どんなにタフなプロレスラーと言えどもふらつく。そこですかさずスープレックスやボディスラムといった大技を仕掛け、フォールを取る。そうやって、何度となく試合を勝ち抜いてきた。“拳豪”という二つ名に負けぬようにと。

 プロレス以外の生き方を知らないから、これからもリングに上がり続け、拳を振るい続けるしかない。きちんと腰を治そうという決意が出来たのは、小夜里が帰りを待ってくれていたからだ。もう少し若ければ、いや、小夜里と出会っていなかったら、更に無理を重ねて再起不能に陥っていたに違いない。だから、武藏原も出来ることなら妻の手を離したくはなかったが、戦いの快楽が骨の髄まで染み込んだ肉体と“拳豪”の名がそうはさせてくれない。

 スポットライトと歓声とリングが、武藏原の帰りを待っている。

 さあ。俺を輝かせろ。

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残酷よ、忍ぶなかれ あるてみす @artemis2010

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