第十二話 ドラゴン・スクリューとドラゴン・スープレックス

 フォーマルスーツ・マッチ。

 その名の通り、フォーマルスーツを着て戦う形式の試合である。この試合のためだけに仕立てたスーツに袖を通し、スラックスの下にはタイツを着込んでおいて、革靴に似せたエナメルのリングシューズを履く。ネクタイは締めておくのだが、安全のために試合前に外してから取っ組み合う。スーツの袖も胸もスラックスの尻も、筋肉でぱつんぱつんに膨れ上がっているので、無茶な動きをすればあっという間に破けてしまう。だが、その度に客席が大いに沸き上がり、いつにも増して甲高い黄色い悲鳴が上がって盛大に写真を撮られる。

 マスクを被ってスーツを着るのはそう珍しいことではないが、この格好でケンドースティックを持ってリングに上がると、三下のヤクザ以外の何物でもなかった。大上や野々村のように黄色い悲鳴は浴びせられなかったが、黒と紫の紙テープが投げ込まれたので良しとしよう。

 今日の対戦相手は“魔術師”ランスロット・ヴァーグナーで、ブラッドと同等の長身と精悍な顔付きを備えたランスロットのスーツ姿は腹立たしいほど見栄えが良かった。武藏原に指摘されたことを意識しつつ立ち回り、スラックスの股と尻を派手に破けさせながらフランケンシュタイナーを仕掛け、コーナーポストからフェニックス・スプラッシュを決め、バック転をしてロープに突っ込み、その反動でコークスクリュー・トペを放ったが、ランスロットに掴まってスパイン・バスターを喰らい、アームドラッグでひっくり返されて叩き付けられ、フロント・スープレックスで沈められてからエビ固めで3カウントを取られた。試合時間、十五分十二秒。

 ランスロットの“魔術師”という二つ名の由来は、その技の多彩さにある。対戦相手のファイトスタイルに応じ、投げ技、絞め技、空中殺法、と次から次へと手を変えてくる。当人は、器用貧乏なだけだ、と言っていたが。

 ボロ切れに成り果てたスーツを引き摺ってリングから下り、控室に戻ると、残忍は思い悩んだ。残心とはどういうものなのかを見極めようとすればするほど、よく解らなくなってくる。試合に負けた悔しさよりも、自分のプロレスを高められる切っ掛けを掴み切れないのが歯痒かった。アイシングをしてからシャワーを浴びていると、隣のシャワーを使っていたアギラ、もとい鷲尾に掴まった。

「シノブちゃん、ちょっと見てみて。教えてもらった通りに練習してみたんだけど」

 鷲尾はシャワーの湯を口に入れ、勢いよく噴き出した。毒霧である。だが、練習不足なのか水の飛距離が足りない。

「イマイチッスね。水を吹く時に上唇の裏に向かって吹き付けるようにすれば、こう」

 そう言いつつ、忍も湯を口に入れて噴出した。天井まで吹き上がり、タイルに細かな水滴が散らばった。

「何やってんだよ……」

 呆れ顔で窺ってきたのは、先にシャワーを終えたファルコ、もとい羽山だった。

「毒霧ってなぁ、こう!」

 そう言うや否や、羽山も湯を口に含んで上を向き、噴いた。霧状の水飛沫が広範囲に広がり、忍と鷲尾は感嘆した。

「すげぇッスね! ファルコさん、上手いッスね!」

「ファルコさんからも教えてもらえばよかった!」

「若ぇ頃はどうにも売れなくてよぉ、リングに上がれない代わりに接待だのなんだので宴会に引きずり出されてばっかりだったんだが、酒と宴会料理で体が弛んできちまったら台無しだろ? んで、酒を飲まずに適当に場を盛り上げて誤魔化すにはどうしたらいいかってんで、これよ」

 と、羽山はもう一度毒霧を噴いた。ただの水だが、迫力は充分だ。

「だから、何をやってんだよ。さっさと済ませろ、後がつかえる」

 三人を叱責したのは虎徹だったが、いや違うこうだろ、と言って虎徹もまた見事な毒霧を披露してくれた。なんだかんだで付き合いがいい。メイン戦を終えた大上らと入れ代わる形でシャワーを終えた忍は、次の興行先を確かめるべくスケジュールを確認した。例によって地方巡業中だからだ。

「ああ、それは前のやつ。これが最新だ」

 レスラー達の様子を見に来た社長の小倉が、スケジュール表を差し出してきた。忍は体と手を入念に拭ってから、それを見てぎょっとした。次の次の行き先の地名には、いやというほど見覚えがある。

「あの、これってもしかして」

「シノブちゃんの地元だ。凱旋公演ってことでさ」

「い、いいんスか!? つか、クソ田舎ッスよ!?」

「二十年前はよく行っていたんだが、ここ最近は御無沙汰だから行けるなら行ってみよう、って思って連絡しておいたんだが、相手方の都合が付いて開催出来ることになってな。シノブちゃんがハードコア王座を獲得したとなれば都合がいいだろ、誰にとっても」

「えぇー、ええええー……?」

 忍が面食らうと、小倉はむっとする。

「なんだ、社長命令に逆らうのか?」

「そういうわけじゃないッスけど」

「せっかくだ、実家に顔を出すといい。時間も作ってやる。俺が知る限り、シノブちゃんは上京してから一度も帰省していなかっただろ? 上司の厚意はありがたく受け取っておけ」

「後で社長の尻を舐めろとか言わないッスよね」

「俺はビンス・マクマホンじゃないからそこまでは言わないが、いつも以上に気合を入れて試合をしろよ?」

 御両親に連絡しておけよ、と言い残し、小倉は仕事に戻っていった。忍はタオルで短く切った髪を拭っていたが、頭を抱えた。この十年、実家に帰れなかったのは本家との一件があったからだ。無性に故郷に帰りたくなる時もあったが、父親が苦労して逃がしてくれたのだから無駄にしてはいけない、と思って堪えていた。なのだが、仕事で行くとあっては逃げるに逃げられない。しかも凱旋公演。

「さっさと服を着ろ、野郎の尻なんざ見苦しくて見たくもねぇ」

 牛島に尻を蹴っ飛ばされ、忍は尻をさする。

「結構評判いいんスけどね……俺の尻って」

「誰に」

「嫁に」

 売り言葉に買い言葉で忍が言い返すと、なぜか鷲尾がびくっとした。なんなんスか、と問うと、なんでもない、と全力で言い返されたので何かあるのだろう。鷲尾未羽は小さくて可愛らしい女性だが、その実はえげつない性癖を持っているのかもしれない。人は見かけによらないからだ。鷲尾夫婦の夜の営みの内容が気になってきたが、よそはよそでうちはうちだ、と好奇心を諌めた。

 複雑な心境ではあったが、良い機会だと腹を括った。忍と夕子と本家の因縁をいつまでも引き摺っていたところで、何の利益も生まれないのだから、思い切った行動に出るべきだ。

 その夜、忍は実家に電話を掛けた。



 そして、残忍は十年振りに帰省した。

 超日本プロレスの大会が開催されるのは、須賀忍の人生を決定付けた試合が行われた町立体育館だったが、いつのまにか改装されていて小奇麗になっていた。街並みはほとんど変わらなかったが、駅前商店街の店舗がいくつか閉店していて、コンビニが増えていて、小中高と机を並べていた幼馴染達が家業を継いでいた。連日移動しては試合をする日々を続けていると、時間は絶えず動いているように感じたが、地元は時間の流れが違っていた。町全体が停滞していて、浦島太郎の気分は味わえなかった。大々的に宣伝したらしく、至るところに超日本プロレスのポスターが貼られていたが、極彩色のポスターは寂れた田舎町には馴染んでいなかった。

 試合開始前のサイン会までは自由に動いていい、その間に実家に顔を出してこい、と小倉から命じられたので、残忍はJRの駅までタクシーで移動した。運転手は中学時代の同級生で、彼はプロレスには詳しくないらしく、残忍を不審がっていた。なので、マスクを脱いで素姓を明らかにするとやっと安心してくれた。

 駅に至り、ダルマストーブが中央に陣取っている待合室でしばらく待っていると、在来線が二両編成でやってきた。自動化とは程遠い人力の改札を抜け、キャリーバックを転がしながら夕子がやってきた。

「よお」

 残忍が手を上げると、マスク姿の夕子ははにかんだ。

「ぁ、えと、お久し振りです、残忍さん。……なんか、不思議な気分だなぁ」

「だなぁ。二週間振りだな」

 残忍は夕子のキャリーバックを手にし、転がした。

「本当に良かったのか、戻ってきちまって」

「ちょっと怖いですけど、でも、残忍さんが一緒だから平気です」

「これから実家に寄るが、嫌なら宿に行っていてもいいんだぞ。社長にも夕子の事情についてはある程度話しておいたから、なんだったら超日のバックヤードにいてもいいんだ」

「それはダメですっ、いけません!」

「うお、急に怒鳴るな」

「わっ、私は残忍さんが大好きで超日の皆さんのファンでもありますけど、けど、だからこそ守るべきボーダーラインがあるんですっ! 正規の手段でパスを手に入れたわけでもないのにバックヤードに入るだなんて、出来るわけがありません! 試合前で気が立っている皆さんの前でちょろちょろして、集中力を欠いてしまったら、そのせいで試合が台無しになってしまったら、せっかくお金を払って見に来てくれる皆さんに失礼です! 万死に値します!」

 拳を握って力説した夕子は、はたと我に返って俯く。

「あああっ、ごめんなさい、つい……。残忍さんが私のことを気にしてくれるのはとても嬉しいし、嬉しすぎて背後にべったり貼り付いていたい心境ですけど、ダメです。やっぱり。私は残忍さんの妻ではありますけど、超日の関係者じゃないですし」

「だな。悪い、俺が余計なことを言っちまった」

「いえ、気にしないで下さい。気持ちだけでも嬉しいです」

 えへへ、と夕子は笑って残忍の手を掴んできた。待たせておいたタクシーに乗り込み、実家へと向かった。山々、収穫シーズンを過ぎた田畑、古びた民家、小学校と中学校の校舎、ディーゼル機関車が走る単線の線路、除雪車によって白線が削り取られたアスファルト、農機具、神社、集落。何もかもが昔のままだった。

 運転手に屋号を告げると、実家の前でタクシーを停めてくれた。この辺一帯の住民は同じ名字ばかりで、フルネームも被っていることがあるので、今も尚屋号が不可欠なのだ。一階はコンクリート製の車庫になっていて、二階と三階に住居部分がある、雪国特有の民家が須賀忍の実家だった。

 実家に上がると、両親が出迎えてくれた。実家を継いだ姉夫婦とその子供達も出てきたが、残忍のマスクに戸惑っていたので、マスクを外してから名乗った。幼い甥と姪は夕子とは面識があるらしく、にこにこしながら夕子に接していた。夕子もまた、甥と姪を可愛がっていた。

 それから、両親と姉夫婦と話をした。夕子が本家の人間との結婚から逃げ出したことは親戚中に知れ渡っていて、その相手が忍であることも周知の事実だった。力ずくでも夕子を連れ戻して忍とは別れされる、と息巻いている、とも。

「それは俺がどうにかしてやらぁ」

 忍は革ジャンの内ポケットからチケットの束を出し、両親に渡した。

「今夜の試合のチケット、リングサイド席を十枚押さえた。本家の連中もまとめて連れてきてくれや」

「いいのか、忍。お前の晴れ舞台に親戚の揉め事を持ち込んだりしたら、会社の人達に悪いだろう」

 父親に案じられ、忍は覆面を被った。

「要は、夕子に執着している奴の心を折っちめぇばええんだろ? んで、俺がどういう人間なのかも知らしめりゃあいい。そんなん、どうってこたぁねぇ。相手は素人だから直接手出しはしねぇが、同じ土俵に引っ張り込むことは出来る」

「でも、そんなの……」

 甥と姪から離れた夕子が、不安げに寄り添ってきた。

「俺の試合を見に来なかったら、また別の方法を考えりゃいい。だが、俺の試合を見に来るほどの度胸があるんだったら、そいつを買って受けて立ってやる。大丈夫だ、夕子。俺はプロだ」

 強く言うと、夕子は少しだけ表情を緩めた。正直言って自信はなかったが、実行しなければ始まるものも始まらない。やっとのことで自由を得た夕子を守るために使えるものがあるなら、ヒールらしくなんでも利用すべきだ。

 それから忍は、長患いの末に亡くなったユウコという遠い親戚のことを尋ねると、母親が謝ってきた。詳しく説明しなかったせいで勘違いさせてしまった、と。

 幽霊となったユウコは夕子の伯母だった。父方の叔父の妻の姪というのは夕子のことだったが、名前が似ていたので母親が混同したのだ。夕子を引き取ってくれた叔父と叔母は夕子の父親の兄夫婦なので、亡くなったのは夕子の母親の姉で、名前の読みが同じだった。そして、字もほとんど同じだった。夕布子ゆうこといい、本家の長男に嫁ぐはずだったのだが、体が弱かったので嫁ぐどころか突っぱねられてしまった。それからは独身を貫いて静かに闘病生活を送っていて、唯一の楽しみはプロレスをテレビ観戦することだったのだそうだ。中でも特に好きなのが、“拳豪”武藏原厳生だった。彼女の遺骨は結城家の墓に収められ、それは須賀家の墓と同じ墓地にあるとのことだった。

 サイン会が始まるのは午後四時なので、まだ少し時間があった。なので、忍は線香とロウソクとマッチを手にし、夕子は須賀家の庭先に生えていた菊を花束にして、墓参りに赴いた。

「夕布子さんにも、残忍さんの試合を見てほしかったですね」

「見に来るだろ。四十九日は明けてはいるが、仏さんになるにはまだまだ程遠い。だから、夕布子さんはその辺にいるはずだ」

 結城家の墓に線香とロウソクと菊を供え、墓石に水を掛けてやってから、二人で手を合わせた。

「夕子は親御さんとは会わなくてもいいのか?」

 忍が尋ねると、夕子は顔の傷に触れた。

「いいんです。あの人達は私よりも本家が大事だから、私は自分のことだけを大事にしなさい、って叔父さんと叔母さんに言われていますから。だから、会わない方がいいんです」

「お前、強いな」

「残酷上等、ってやつです」

「違いねぇや」

「それに、顔を隠していればいいんです。いい方法があるんです」

「想像が付かないでもねぇな」

「それは見てのお楽しみです」

「お楽しみはこれからだ、ってな」

 夕子と笑い合ってから、忍は墓地を後にした。もう一度実家に顔を出してから、タクシーに乗って試合会場に向かった。夕子は駅前にある民宿に宿を取っているので、試合後にまた会おうと約束をしてから別れた。それから忍は残忍となり、生まれて初めてサイン会をした。来てくれたのは小中高時代のクラスメイトや幼馴染ばかりで、同窓会のような雰囲気の中、残忍は百枚のブロマイドにサインをして記念撮影に応じた。

 入場開始、午後六時。試合開始、午後七時。

 五百枚のチケットは完売、フルハウス。



 第一試合、第二試合、第三試合と滞りなく進んだ。

 残忍はバックヤードと会場を隔てるカーテンの隙間から場内を窺い、両親に渡したチケットの座席に目をやった。右側のリングサイド席の最前列と二列目は、本家の人々で埋まっていた。須賀家の人間とどことなく顔が似ているので、すぐに解った。そして、一列目の端に腰掛けている男があの男であると気付いた。十年分の年齢は重ねていたが、間違えようがない。ずんぐりとした体形と胡乱な顔付き、締め方の甘いネクタイはあの時と同じだ。

 それから、向かい側である左側のリングサイド席の最前列に目をやると、完全武装の夕子がいた。残忍のレプリカマスクと《残酷上等》と書かれたTシャツと、右が《Z》で左が《N》のリストバンド、それからハードコア王座のレプリカベルトを肩に掛けている。気合を入れすぎてアクセルベタ踏みだ。確かに顔は隠れるが、それ以外のものはだだ漏れだ。

「……んのやろお」

 照れ臭さで残忍が悶えると、背後でアギラが苦笑した。

「あれがシノブちゃんの嫁さん?」

「まあ、そうッス」

「愛されてるねぇ」

 アギラに茶化され、残忍は言い返そうとした。が、はぐらかすのが勿体ないような気がしたので、言葉を変えた。

「ッスよ。羨ましいッスか」

「いや、別に。俺は未羽ちゃんから愛されているから」

「っだー、ムカつくなあそういうの」

「そう言ってくれるだけ、進歩したね。シノブちゃん」

「アギラさんってほんっとなんなんスか。普通、怒りません?」

「シノブちゃんが俺に心を開いてくれたことを喜んじゃいけない?」

 アギラは、目元を覆うメッシュ地の下で目を細めた。アギラも残忍も被っているのは試合用のフルフェイスマスクではあるが、どちらもマスクマンなので表情の機微は解る。

 第四試合は“ラテンの狂鳥”ファルコと“突貫砲弾”団五郎の対戦で、一秒たりとも立ち止まらずに動き回るファルコを、団はなんとかして捕まえようと奮闘していた。リングを横切っていこうとしたファルコをラリアットで止めようとするが、ファルコはその腕の下を器用に潜り抜けて背後を取り、ヘッドシザース・ホイップで団を投げ飛ばしてしまう。だが、団も負けてはいない。タックルでファルコを捕まえ、正拳突きを喰らわせて弱らせてから、コーナーポストからのフロッグ・スプラッシュを放った。ファルコは巨体の下敷きとなり、ダウンが取られたが、カウント2.7で肩を上げてカットする。団の下から逃れてから、ファルコはコブラクラッチで団の腕を極め、そのまま投げた。コブラクラッチ・スープレックスである。ファルコは空中殺法だけではない、投げ技もイケる。その後も両者は攻防を続け、ファルコがロメロ・スペシャルで団の巨体を持ち上げながらも手足を極めて体力を削り、シューティング・スター・プレスの後にエビ固めで勝利した。試合時間、二十一分四十二秒。

 メイン戦の一つ手前の試合が、残忍とアギラの試合だ。残忍の凱旋試合ではあるが、アギラが手を抜くはずがない。残心を忘れずに、かつ見せ場に拘らず、死に物狂いで喰らい付け。やっと、この男と同じ目線に立てるのだから。残忍はハードコア王座のベルトを肩に掛け、アギラはタッグ王座のベルトを腰に巻き、花道へと通じる通用口に立った。マスク越しに見える世界は狭く、圧迫感があるが、恐怖は感じなかった。いつになく心臓が高鳴り、呼吸も浅くなりがちだったので深く息を吸った。デビュー戦の時のような重たい緊張感が心地良い。

 アギラの入場曲が先に流れ出し、荒鷲が花道に入った。赤と金のマントを羽織り、肩で風を切って歩く様には貫禄さえある。アギラ、アギラ、アギラ、アギラ、アギラ、と入場曲に合わせてチャントが上がる。花道の中程でベルトをスタッフに預けたアギラは、マントを広げてぐるりと会場を見渡してから、駆け出した。一直線にリングに向かい、エプロンの手前で床を力一杯踏み切り――――背面飛びをした。翼の如くマントが広がり、一瞬、荒鷲のシルエットが大きく膨らむ。一回転してリングインしたアギラが立ち上がると、歓声が沸き上がった。それからマントを脱ぎ、コーナーポストに上って翼を広げるかのようなポーズを決める。いつもの流れだ。

 会場の照明が暗転し、紫の閃光が荒れ狂う。ドラムの重低音とエレキギターにバイクの排気音が重なった、残忍の入場曲が町立体育館を揺さぶった。歓声は少し控えめになる。

「ッシャアアアアアオラアアアアアアアアッ!」

 スポットライトが当たる花道に入り、残忍が雄叫びを挙げながらケンドースティックを振り上げると、歓声が膨張した。だが、まだまだだ。熱量が足りない。残忍は花道に待ち構えていた雑誌記者のカメラやネット配信するためのテレビカメラにケンドースティックを突き付け、べろりと舌を出してみせ、それから首を掻っ切るポーズを取り、悠々と花道を歩いた。今回はゴミは飛んでこなかった。

 ロープをくぐってリングインすると、コーナーポストから下りてベルトを外したアギラの手にマイクが握られていた。今日こそはきっちり喋ってくれよ、と一抹の不安を覚えながら、残忍はケンドースティックを肩に担いでふてぶてしい格好を取った。

「残忍!」

 アギラは一歩踏み出して残忍に迫ってきたので、残忍は睨み返す。

「ンッダトゴラァアア!」

「……いい気になるなよ」

 マスクの下でアギラの目が彷徨っていたので、また言葉に詰まっているらしい。デビューして何年経とうが、アギラはあがり症だけは治らないようだ。となれば助け舟を出してやる、百艘ほど、と残忍はマイクを奪う。

「ンダトコラ、てめぇこそいい気になってんじゃねぇぞ。俺はな、てめぇと戦いたくてどうしようもなかったんだよ。何が荒鷲だ、何がタッグ王者だ、てめぇなんか縁日のヒヨコみてぇなもんだよ! 派手な色さえ付いちゃいるが、明日をも知れない身だ! それがなんでか解るか、あ? この、残忍様にケンカを売ったからだ!」

 ブーイングと歓声が入り混じる。そうだ、もっとだ。

「空を飛んだが最後、叩き落として羽を毟って水炊きにでもしてやらぁな! 筋ばっかりで旨くもなんともねぇだろうけどな!」

「凱旋とは名ばかりだな」

 アギラが苦労して次の言葉を絞り出したので、残忍は吐き捨てる。

「っせぇーなぁ! いつまでもヒーロー気取りでいるんじゃねぇぞ、カゴの中の小鳥ちゃん! せいぜいピーピー鳴いていやがれ、俺の生き様を見せてやらぁな!」

 照明に映えるように身を翻し、ガウンの背の《残酷上等》を客席に見せつける。それから、マイクをレフェリーに渡してガウンを脱ぎ捨て、アギラと向かい合った。赤と黄色の紙テープが飛んでくる、アギラの色だ。黒と紫の紙テープも飛んでくる、残忍の色だ。

 紙テープが回収された後、ゴングが鳴り響く。アギラの目と目を合わせ、間合いを測る。すぐに突っ込むのも悪くないが。アギラの残心を見極めたかった。アギラは残忍と一定の距離を保っていたが、ぐんっ、とロープにもたれかかった。ロープの反動を使って駆け出したアギラは、残忍の背後を取り、すかさず人工衛星ヘッドシザースを仕掛けてくる。受けてやる、受けてみろ。

 ぐるんと視界が巡り、マットに叩き付けられる。衝撃の余韻が体に色濃く残っていたが、残忍はロープを手掛かりにして立ち上がり、アギラと目を合わせるべく睨む。着地したアギラは、間髪入れずに次の技を出す構えに入った。低空ドロップキック。

「んげっ!」

 アギラの両足が残忍の脛に命中し、残忍はくの字に折れ曲がって尻だけロープの外に出た。だったらこうだ。すぐさま下半身を場外に出し、トップロープを掴んで逆上がりをしてから、直接トップロープに乗る。場内がどよめく。そうだ、これが俺だ。

「ッシャアオラアアッ!」

 トップロープをばね代わりにして跳躍し、高度を上げてからのコークスクリュー・トペ。アギラはマットの真ん中にいる、この距離と高さと勢いなら届く。視界は回転していたが、残忍の目線はアギラに突き刺さったままだった。すると、アギラはその場でバック転をして両足を上げると、自分目掛けて降ってくる残忍の首を両足首で捉え、残忍の勢いを利用してぐるんと一回転し、膝の間に残忍の頭を押さえ込んだ。フランケンシュタイナー。

 なんだこいつ、なんだ今の。残忍は一瞬呆気に取られたが、アギラの両足の間から脱して体勢を立て直した。アギラは残忍を見据えると、右手を上げて手招きする。もっとやろう、楽しいね。

「……上等じゃねぇか」

 そうだな、もっともっと遊ぼう。残忍はマスクの下でにたりと笑むと、一度身を転がして場外に脱する。レフェリーがカウントを始めるが、無視し、リングの下に仕込んでおいた水の入ったペットボトルを手にしてリングに戻る。ついでにレフェリーを場外に追い出し、鬼無里に相手をさせておいた。

「反則野郎め!」

 一瞬で事を理解したアギラはそう言い放ち、残忍の手中からペットボトルを奪って呷ってから、残忍の顔に向かって盛大に噴き付けた。アギラらしからぬ行動に観客達は戸惑っているが、それもまた想定の範囲内だ。

「ッンダトゴラアアアアアッ!」

 叫び返してから、残忍もまた水を口に含んで噴き返す。アギラのものよりも完成度の高い毒霧に、そこかしこから笑い声が起きる。アギラはもう一度水を噴くが、やはり未熟だった。残忍は首を横に振り、アギラの濡れたマスクを指す。

「不器用な奴だな。いいか、よーく見ていやがれ。毒霧ってのはなぁ、こうやるんだよ!」

 口に入れられるだけ水を入れ、全力で噴き上げる。リングの真上に散らばった細かな水滴は鮮烈な照明を受け、真っ白く輝いた。アギラは感心したように頷いていたが、レフェリーが戻ってきたので我に返り、試合を続行した。アギラの真面目さと残忍の滑稽さを際立たせるための寸劇で、事前に打ち合わせていたのだ。ここまでは予定通りだ、だが。

 フェニックス・スプラッシュ、セントーン、ムーンサルト・プレス、ラ・ブファドーラ、ウラカン・ラナ、フランケンシュタイナー、たまに掴み合ってアームロック、4の字固め、4の字固め返し、エルボー、ラリアット、そしてまた空中殺法の応酬、とアギラと残忍は技を浴びせ、受け切った。その最中、気付いたことがある。アギラは技を掛けに来る直前、ほんの一瞬ではあるが、動き出すタイミングをずらしている。そのせいで何度か不意打ちを喰らいそうになったが、ルチャドールの意地で踏み止まった。それから、技を出し切った後も、ワンテンポ置いてから姿勢を戻す。――――これが、武藏原が言っていた残心か。

 微妙なずれでしかないが、だからこそやりづらい。それを打ち崩せない限り、試合の流れはアギラの手中にある。派手な空中殺法を立て続けに繰り出しているのは残忍だが、アギラの真上に飛び降りても両膝を立てた剣山で切り返されてしまうので、結果としては残忍の方がダメージが大きい。だが、どうしようもなく楽しい。

 楽しいが、本懐を忘れてはならない。アギラのバックスピン・キックを敢えて受け、その足を掴んだ残忍は、アギラの膝を極めてから場外に転がした。リングの右側に出させると、アギラをフェンスに寄り掛からせてドロップキックを放ち、フェンスごとアギラを倒した。

「ッシャアアアオラアアアッ!」

 例によって、レフェリーは鬼無里に任せてある。アギラは呻きながら倒れたフェンスから起き上がり、残忍へドロップキックを返してきた。その足を捉え、掴み、足首を脇腹に押し付けてから残忍は身を転じ、アギラの膝を床に直撃させた。ドラゴン・スクリュー。

「んおうっ!?」

 アギラは素で驚き、マスクの下で目を剥いた。無理もない、ドラゴン・スクリューなど数年振りに出したのだから。久し振り過ぎて足首の極め方が甘かったので、これからはみっちり練習しなければ。のたうち回るアギラを極めながら、残忍は場外乱闘に面食らっている本家の人間をぎろりと睨め付ける。

「俺を見ろ。俺が誰だか解るな?」

 幼い夕子を手籠めにしようとした男――――本家の長男に視線を突き刺すと、男の弛んだ顎が震える。声を聞いたことで、察しが付いたらしい。

「俺を見ろ」

 じたばたと暴れるアギラを解放してから、残忍は立ち上がる。

「俺の夕子にちょっかいを出してみろ、その時は……」

 リングに戻ろうとするアギラの背後に回り、フルネルソン――要は羽交い絞めである――にしてから大きく仰け反り、アギラの両肩を床に沈めた。

「こうしてやっからよオオオオオオッ!」

 ドラゴン・スープレックス。一気に歓声の熱量が上がり、場外乱闘に巻き込まれた観客達から声援が上がる。残忍、残忍、残忍!

「そおらもういっちょお!」

 リングサイドに敷かれているマット目掛け、再度ドラゴン・スープレックスを仕掛ける。アギラの両肩と首の根元がマットに埋まるが、薄っぺらいので大してダメージは軽減されない。ドラスー二連発はさすがに腰に来るので、残忍はアギラから離れて姿勢を戻してから、あのリングサイド席を今一度見据えて凄んだ。

「で、どうする?」

 散らかったパイプ椅子をがちゃがちゃと蹴散らしながら、青ざめた男が逃げ出していく。同席していた本家の家人達も、血相変えて追いかけていった。残忍はマスクの下で舌を突き出してから、アギラをリングに戻し、自分もリングに戻った。

 場外での二発のドラゴン・スープレックスは余程強烈だったのか、アギラは若干ふらついていた。そのため、アギラの残心も崩れていた。となれば、勝ち目はある。延髄切りの連発で畳みかけてアギラの意識を遠のかせてから、コーナーポストに上り、フェニックス・スプラッシュを決めた。片エビ固めを掛けると、レフェリーに合わせて観客も3カウントを取り――――三回、ゴングが鳴った。

 アギラに勝てた。勝ったのだ。得も言われぬ快感を味わっている暇もなく、レフェリーが残忍の手を高く掲げる。残忍、残忍、残忍、とのチャントを全身に浴びながら、鬼無里が持ってきてくれたハードコア王座ベルトを肩に掛ける。それから、マイクを手にする。

「ッシャアオラアアアアッ! ンッダラアアアアアッ!」

 スピーカーを音割れさせながら吼えた後、残忍は呼吸を整える。

「見たかてめぇら、おい、この俺様のルチャを見たかァアアアアアッ!」

 そう叫んでマイクを客席に向けると、肯定の返事が次々に返ってくる。一通り聞き届けてから、残忍はマイクを自分に向ける。

「お前ら、俺が誰だか知っているな?」

 須賀忍に決まってんだろ、と同級生がヤジを飛ばす。それが同級生達に伝播し、スガシノブ、スガシノブ、スガシノブ、とのヤジとチャントの入り混じったものが始まった。

「それは俺だが、俺じゃあねぇ! 俺は“ハードコア・ジャンキー”残忍、いつの日か超日本プロレスを背負って立つ男だ! 解ったかンノヤロオオオオオオッ!」

 仰け反りながら声を張り上げると、スガシノブ、が収まった。

「俺はな、ガキの頃にこの体育館で超日のプロレスを見た。そこで俺は、魂がガツンと揺さぶられた。俺もあのリングに立ち、スポットライトを浴びたいって思ったんだ! それから俺は、ずっと踏ん張ってきた、喰らい付いてきた、這い上がってきた! チャンピオンベルトを腰に巻くその日まで、決して地元には帰らない、帰れねぇって胸に誓ってな! その結果が、これだあっ!」

 ハードコア王座ベルトを突き上げ、ぎらりと煌めかせる。

「だからお前らも、諦めるんじゃねぇぞ! 心の底からやりたいことがあったら、迷わずに突っ走りやがれ! 俺はこれからもリングに上がり続け、お前らが狂うほど楽しませてやる! 俺のプロレスへの愛を、お前らへの愛を、俺のルチャから感じやがれェエエエエエエッ! 俺様最高ォオオオッ! お前ら最狂ォオオオッ! 愛してるぜェエエエエッ、超日本プロレス!」

 と、叫んでから、残忍は夕子に目をやった。夕子は食い入るように残忍を見つめていて、デジタル一眼カメラは膝の上に置かれたままでシャッターを切る手は止まっている。今、夕子は残忍だけを見ている。涙さえ浮かべながら、見つめてくれている。夕子から目線を外さずに、残忍はありったけの激情を込めて咆哮した。

「愛してるッゼェエエエエエエエエエッ!」

 マスクを外した夕子が、私もです、と呟いたのが解った。大歓声に紛れて声は聞こえてこなかったが、口の動きと表情で意味は伝わってきた。伝わってこないわけがなかった。

 これだから、俺の嫁は可愛い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る