第十一話 残念と残心

 体力も戻って傷も癒えたが、気分は緩む一方だ。

 それもこれも、夕子がいるからだ。いや、人のせいにしちゃいけねぇんだけど、と思いつつ忍は身を起こした。幽霊のように朧気な存在でしかなかった妻を見つけ出し、掴まえ、彼女に対して抱いていた好意を自覚してからというもの――――火が付いた。

 そのせいで夜を徹して事に耽ってしまい、またも裸で寝てしまった。隣に寝ている夕子もまた裸身で、カーテンの隙間から差し込む朝日を浴びて白い背が輝いている。忍は二度寝したい気持ちを堪えてベッドから抜け出ると、欠伸を噛み殺した。用を足して、そのついでに汗と体液でべとつく体を洗い流していると、夕子が眠そうな顔でバスルームにやってきた。忍が脱ぎ散らかした超日本プロレスのTシャツを着ているのだが、サイズが大きすぎるので襟から肩がはみ出しそうになっている。

「また寝過ごしちゃいました……」

「俺のせいだ、気にするな。今日はあれだ、午前中はいつものトレーニングで午後はネット配信する番組の収録だから。悪の秘密結社のやつだよ」

「それじゃ、御夕飯は」

「収録の後に呑みに行くかもしれねぇ」

「そうですか……。だったら、仕方ないですね」

 夕子はしゅんとして、Tシャツの裾を握り締めた。なんだ、そのあざとい仕草は。忍は妙な気を起こすまいと自制しようとしたが、下半身はそうもいかなかった。

「ぁ、その……」

 夕子は照れ笑いしてからTシャツを脱いで入ってきたので、忍は自分の理性の弱さを嘆きながらも、妻の愛撫を甘んじて受け入れた。この分では、道場に行く前にも運動する羽目になりそうだ。

 プロレスラーでなければ、身が持たなかっただろう。



 ネット配信される番組の内容はこうである。

 ヒールユニット・悪の秘密結社のメンバーの素顔を見せよう、という名目でひたすら遊び倒すだけで、カットされることを前提としてだらだらと下らないことを話しているだけなので、緊張感も締まりも何もない。要するにホームビデオのような代物だ。番組として成立するのは、ひとえに編集が上手いからである。

 今回は室内遊技場に行き、ボウリングとカラオケとゲームセンターで遊び倒す、とのことだった。前回は釣りに、前々回はバーベキューに行かされた。

 ボウリングでは牛島がストライクを何度も出し、カラオケでは鬼無里がボカロやらアニソンをひたすら歌い、その間、大上とブラッドと残忍は盛り上げ役に徹していた。ハードなトレーニングの合間の息抜きには丁度良かったが、連日連夜の疲れが今頃出てきた。トレーニングの最中は平気だったのだが、気が抜けてしまったらしい。

 ゲームセンターでひたすらクレーンゲームに興じた残忍は、紙袋一杯の景品を得た。美少女フィギュアは鬼無里に押し付け、洋画のグッズはブラッドと大上に押し付け、牛島にはゆるキャラの携帯ストラップを押し付けた。

「これ、本当にもらっていいのか?」

 牛島は太い指でふなっしーをいじりつつ、怖々と尋ねてきた。

「別にいいッスよ。俺、クレーンゲームをしたいだけであって景品には興味ないッスから」

「ないのか!?」

 大上に驚かれ、残忍は頷く。

「ないッス。格ゲーするみたいなもんッスから。それに、コツを覚えるとそんなに難しいものじゃないッスから」

「シノブちゃん、変わってんなぁ」

 今に始まったことじゃないけど、とブラッドは付け加えてから、スターウォーズのマグカップをショルダーバッグに突っ込んだ。

「先輩、なんかずっと眠そうですね」

 艦これのフィギュアをバッグに入れつつ、鬼無里が訝ってきた。

「まあ、ちょっとな」

 残忍はマスクの下で苦笑し、後輩をあしらった。仕事に支障を来さないためにも、これからは夕子とセックスする頻度を下げるべきだろう。だが、その決意がいつまで持つやら。武藏原からあれほど言われていたのに、いざ目の前に甘い蜜があると貪らずにはいられなくなる。心身を鍛え上げてきたつもりだったのに、まだまだ鍛え方が足りなかったようだ。

「んで、この後はどうする? 宿舎に直帰するのもなんだから、どこかで飲んでいくか」

 大上の提案に、三人は声を揃えて快諾した。残忍もそのつもりでいたので了解しようとしたが、ふと思い止まった。

「あ、俺は今回は抜けさせてもらうッス」

「嫁さんがいるからか」

「あー、まあそうッスね。だもんで、先に帰らせてもらうッス。お疲れ様っしたー」

 牛島の言葉を口実に利用し、残忍は悪の秘密結社の輪から離れた。最寄り駅に向かおうとしたが、立ち止まって振り返り、十数メートル後方の物陰を注視した。ビルとビルの間にある隙間から、きらりと光るものが突き出されていた。カメラのレンズだ。

【夕子、そこから動くな】

 残忍が夕子のアドレスにメールを送ると、レンズが引っ込んだ。人混みを掻き分けてビルとビルの隙間に行き着くと、そこには案の定夕子がいた。その手には、やけに立派なデジタル一眼カメラが握られている。しかも望遠レンズを装備している。

「はひ」

 マスク姿の夕子は変な声を漏らし、後退ったので、残忍は人目に付かないようにするために夕子を更に奥へと押し込んでから、彼女を壁に押し付けて退路を塞いだ。

「どの辺から尾行してきたんだ?」

「……道場から出ていった時から、ずっと」

 夕子は気恥ずかしげに目を伏せ、もじもじする。そこは照れるポイントなのだろうか、と残忍は疑問に駆られたが、論点はそこではないので本題に戻した。

「そのカメラはどうした、ついこの前まで高校生だった人間が買えるような代物じゃないだろ」

「ぉ、叔父さんが、高校入学祝いにって買ってくれたんです。試合中の残忍さんを綺麗を撮れるようになろう、って携帯カメラで色んなものを撮って練習していたら、叔父さんが写真が好きなんだなって思ったみたいで、それで。望遠レンズはバイト代で……」

「俺と結婚したんだから、ストーキングする必要はねぇだろ?」

「それとこれとは別っていうかなんというかその、ぅ……」

「ただの趣味だってのか?」

「かもしれません……。残忍さんのことを追いかけて、じっと見ているとなんだか凄くドキドキして、見つかったらどうしようって思うともっとドキドキして、そしたら今日は本当に見つかっちゃったからもっとドキドキしちゃって……うぅ……」

 夕子は真っ赤になり、残忍の腕の中で身悶える。

「スリルを味わいたいだけじゃねぇの?」

「違います、違うけど、違わないような、うぅん……」

 夕子はおずおずと残忍の胸に縋り、顔を埋めてきた。

「――――なんで、残忍さんまでドキドキしているんですか?」

 夕子の潤んだ目が、ドクロの覆面を被った男を捉えてくる。ぎらついた街明かりがその瞳に光を与え、暗がりが彼女の肌の白さを際立たせる。夕子は薄手のセーターとやはり地味な紺色のスカートを着ているが、身を寄せ合っていると、その下にある瑞々しい肢体の感触が蘇ってきて下半身が疼いた。夕子の手が残忍の手を取り、ぎこちなく指を絡めてきた。その指を握り返そうとして、躊躇う。

「い……いいですよ? 私は、別に……」

 夕子の気弱ながらも蠱惑的な囁きに、残忍は理性がぐらついたが、ぐっと堪えて夕子の指を解いてから手を握った。

「行くぞ」

「え、あの、どこに」

「俺をぶん殴ってくれる人のところだ」

 このままでは、やっとのことで得たハードコア王座すらも危うくなってしまう。自分だけは身を持ち崩すはずがない、と考えていたが、そんなのはただの思い上がりだ。心が弱いことを自覚していたつもりだったが、それも驕りでしかなかったのだ。

 妻の手を引いて、夜の街から抜け出した。



 私鉄から地下鉄に乗り継ぎ、五駅目で下車した。

 地上に出たところで電話を掛け、相手先に了解を取ってから、タクシーを拾った。どこに行くのか解らないのが不安なのか、夕子はしきりに外を窺っていた。車中では、残忍は夕子の手を出来る限り柔らかく握ってやった。すると、不安が少しは紛れたのか、夕子の様子が落ち着いた。

 行き着いた先は、郊外の住宅地だった。その一角にある三階建ての立派な邸宅が、武藏原厳生の自宅だ。残忍がチャイムを押すと、インターホンには妻の小夜里が出てきて応対してくれた。鍵を開けてもらい、ガレージに収まっている黒のハマーを横目に見つつ、階段を昇ってドアを開けた。

「夜分遅くに失礼するッス」

「こ……こんばん、は……」

 残忍の後ろに隠れながら、夕子は恐る恐る玄関に入り、玄関脇に飾られているパネルを見て目を丸めた。

「ダブルアクション・アーミー!」

 パネルの中身は、若き日の武藏原とパンツァーの写真だった。夕子が口走った単語は、アメリカの団体に所属していた頃の二人のユニット名で、謳い文句は“暴発に気を付けろ”である。

「うぁ、わあああ……」

 軍隊のスナイパーを思わせる衣装を身に付けた二人は筋骨隆々で、迫力満点だった。夕子が見とれていると、小夜里がやってきた。

「いらっしゃい、シノブちゃん。お、そちらが嫁さんか?」

 一七〇センチ近い長身の女性、武藏原小夜里むさしばらさよりは以前と変わらぬ気さくな態度で出迎えてくれた。全体的にスレンダーで、シャープな顔付きで長い髪を一括りに結んでいる。結婚しても尚、機械技師としての仕事を続けている。

「あ、はい、その、そういうことになります。私、結城夕子、じゃなくて、す……須賀夕子、です」

 残忍の名字を名乗るだけでも赤面し、夕子は俯いた。

「ダブルアクション・アーミー時代のむっさんを知っているなんて、結構ガチなファンだな、シノブちゃんの嫁さん」

 小夜里に感心され、残忍は半笑いになる。夕子のことなので、残忍の師匠であったがために武藏原も追いかけてしまったのだろう。

「そうッスね。んで、武藏原さんはどちらに」

「リビングに連れ出しておいた。んで、込み入った話なら、あたしが夕子さんの相手をしておくけど」

「お願いするッス。あと、酒は勘弁してもらえないッスかね。飲んだら余計にこんがらがりそうなんで、はい」

「安心しなよ、酒は出さねぇよ。むっさんの傷に障るしな」

「ありがとうございます。んじゃ、夕子、小夜里さんから付き人時代の俺の話でも聞かせてもらえや。だが、門外不出だからな?」

 残忍が凄むと、夕子は目を輝かせて頷く。

「はぁいっ」

「それじゃ、夕子さん。あたしの部屋に来なよ」

 小夜里は夕子を連れて二階に上がっていったので、残忍は一礼した後、スリッパに履き替えてリビングに向かった。この家には、良くも悪くも思い出がある。

 須賀忍が超日本プロレスに練習生として入門する以前、一年半ほどは武藏原の付き人をしていた。父親に言われるがままに上京したその日に超日本プロレスの道場を訪れ、入門テストを受けさせてもらおうとしたが、身長も体重も足りなさすぎて門前払いを喰らった。二度三度と追い払われたが、必死に食い下がっていたところ、地方巡業を終えて帰ってきた武藏原が忍に目を留めて、こう言ってくれた。こいつはしばらく俺が預かる、モノになるかどうかはそれから決めりゃいいだろう、と。

 その日から忍は武藏原の付き人となって武藏原の家に住み込み、散々扱き使われながら、基礎から筋トレを教え込まれた。あまりの苦しさに何度も心が折れそうになり、忍よりも体格のいい練習生が音を上げて一週間と経たずに逃げていく様を目の当たりにしながらも、武藏原への反骨心とプロレスへの執着心でしがみついた。

 身長も一七〇センチ台まで伸びたので、上京してから一年半後にやっと練習生になることが許された。それからひたすら練習し、練習し、練習し、デビューすることが出来たが、それでも武藏原は忍を一人前とは認めてくれなかった。メキシコでの武者修行を終えても、同様だった。だから、ハードコア王座を獲ったことも褒めてはくれないだろう。長いプロレス人生の中では、初の王座戴冠なんて通過点の一つに過ぎないからだ。

「失礼しやッス」

 残忍が一礼してリビングに入ると、“拳豪”が待ち受けていた。

「おう、久しいな」

 ドスの効いた声の力強さは、負傷欠場する前となんら変わりはない。武藏原厳生は体格に合わせたサイズのソファーに腰掛けていて、シャツを膨れ上がらせている筋肉に衰えはなかった。トレードマークである眼帯は外していて、両目の視力を合わせるためのメガネを掛けていた。右目の視力は普通だが、左目が極端な弱視なのだ。

「やっと嫁さんを連れてきてくれたと思ったら、引っ込ませやがって。楽しみにしていたんだぞ、会わせてくれるのを。まあ、座れ」

「ちょっとややこしい関係なんスよ、俺と夕子は。失礼しやッス」

 向かい側のソファーに腰掛けた残忍は、小夜里が用意してくれた緑茶で喉を潤してから、一つ深呼吸した。武藏原と向かい合って話すのは、プロデビューが決まった時以来だ。それまでは、背中越しに命令されるか、忍の背中に怒鳴り付けられるか、引っぱたかれるかのいずれかだった。師匠と弟子である以上、何年経とうと対等な関係にはなれないのだ。リングの上では別だが。

「話ってなぁ、あの嫁さんのことか?」

 武藏原は太い腕を組み、座面にもたれかかる。

「それもそうなんスけど……。武藏原さんって、小夜里さんと結婚したばっかりの頃はどうだったんスか? アッチの方は」

「あぁ?」

 武藏原が頬を歪ませたので、残忍はマスクの下で同じ表情をする。

「武藏原さん、いっつも言っていたじゃないッスか。目の前の快楽に逃げるな、って。でも、御自分はどうだったのかなぁと」

「ちょっと目を離している隙に生意気になりやがって。ハードコア王座戦の時のマイクパフォーマンス、ありゃあなんなんだ。パソコンで見ていたんだが、女房と一緒にげらげら笑っちまったぞ。お前は体もちっこくて力はないが、喋りは上手いんだよなぁ」

「受けたんならいいッスけど。で、本題はどうなんスか」

「……答えづらいことを聞きやがる」

 武藏原は深くため息を吐いてから、目を逸らした。

「まあ、俺も男だからな。結婚してからしばらくは、収まりがつかなかった。小夜里と出会ったのはシノブちゃんを付き人にしてから一年後だったから、まあ、ちったぁ把握しちゃいるだろう」

「そうッスね、やたらと追っ払われた時期があったッスね」

「お前も男だから、察しは付いていただろう」

「そうッスね、多少は」

「じゃあ改めて聞くなよ、さすがにこれは恥ずかしいんだから」

「そうッスか、だったら次の試合でそのことをいじろうかな」

「巌流島で床にぶち込むぞ」

「冗談ッス」

「んで、本題ってのはその後のことか。嫁さんが出来て盛りが付いちまったら、どうやって収まりを付けたのかってことを聞きたいんだろ? だったら、最初からそいつを言いやがれ」

「真正面からぶち当たっても弾かれるだけッス」

「そりゃ試合の話だ。俺とシノブちゃんの体重差は三十キロ以上はあるからな。――――脱線すると余計に間が伸びて恥ずかしくなっちまうから、さっさと片付けちまおう。そうだな……なんというか、相手を知ればいい。なんでもいいから話をして、時間を作って一緒にメシを食って、出掛けて、感覚を共有するんだ。要するに寂しいんだよ、やたらめったら女を抱きたくなる時ってのは。シノブちゃんもちったぁ経験があるだろう、リングに上がる前に猛烈な孤独感を感じたことは」

「そりゃ……まぁ……」

 体格差が大きすぎて勝ち目のない相手との試合、自分に声援を送ってくれるファンがいない試合、噛ませ犬になることが決まり切っている試合、マットに沈んで天井を見上げることが解り切っている試合。自分の入場曲を聞きながら花道を歩く最中、身を翻して逃げ出したくなったことは一度や二度ではない。対戦相手から猛烈に痛い大技を掛けられることへの恐怖、着地を失敗すれば命の保証がないルチャの技を繰り出す瞬間の恐怖、心ないヤジを飛ばされることへの恐怖、といったものが常に胸中に渦巻いている。プロレスラーは、それらの恐怖を乗り越えてロープをくぐり、マットを踏み締めて背筋を伸ばしている。

 残忍は試合に慣れてきたので恐怖を感じなくなったと思っていたが、そうではないのだと今し方気付いた。デリヘルを使う頻度が増えたのは、女の肌と触れ合うと恐怖を紛らわせることを知ってしまったからだ。少女のような容姿のデリヘル嬢を選び、女子高生のようなコスチュームを着せていたのは、俺は強いからこの女の生殺与奪を握れるのだ、という馬鹿げた安心感を得るためだったのだ。

「俺は寂しかったんだよ」

 武藏原は“拳豪”らしからぬ言葉を口にし、背を曲げる。

「でもって、怖かったんだな。歳を取るにつれて体力が持たなくなるし、ケガの治りも遅くなるし、技も鈍くなるし、試合で何度も狙われたもんだから左目の視力は落ちに落ちて、今となってはほとんど見えちゃいない。腰は危なっかしい、首も怪しい、膝もいつ壊れちまうか解らない。それでもどうにかこうにかやっていたんだが、お前らみたいな若くて元気のいいのが次々にデビューしていくのを見ると、羨ましいやら悔しいやらで気が狂いそうになるんだ。酒に逃げようとしたこともあったが、てんで弱くてダメだった。女も扱い方を知らなかった。だから、俺はこのまま潰れてしまうのかと、リングから下りなきゃならなくなるのかと思っていた頃合いに、小夜里と出会った」

 ひどいことをしちまったよ、と武藏原は苦々しげに零す。

「朝から晩まで、擦り切れるまで、あいつが気絶するまでヤッちまったことは一度や二度じゃなかった。愛想を尽かされてもおかしくなかったんだが、小夜里は俺を見放さなかった。どうしてなんだと聞いてみると、あいつはこう言いやがった。あたしも寂しかったんだよ、だからおあいこだ、ってな。いい女だろ?」

「ッスね。小夜里さん、すげぇいい女ッスよ。あと、すげぇタフッスね。武藏原さんと一晩中レスリング出来るんすから」

「ああ、全くだ。それから、俺は別の方法で小夜里と解り合って落ち着いたってわけだ。だから、まあ、なんだ。シノブちゃんも素直になれ。そうすればなんとかなる」

 武藏原は言葉を収めると、顔を覆って俯いた。本当に恥ずかしかったらしい。十年近く接しているが、武藏原が恥じらう様を見たのはこれが初めてだ。武藏原厳生もただの人間だったのだと思い知らされ、ほんの少しの落胆と多大な安堵感を覚えた。

「復帰戦、楽しみにしているッス」

「……おう。覚悟しておけ、生意気な口をパイプ椅子で塞いでやる」

「んじゃ、俺はハードコア王座ベルトで殴りに行くッス」

「アメプロかよ」

 武藏原は一笑し、表情に余裕が戻ってきた。

「俺を殴りはしないんスか」

「なんだ、殴られに来たのか。変な奴だな」

「ッスよ。だから、敢えて殴られそうな質問をぶちかましたんスけど」

「出来ることなら一発ぶん殴って逆水平チョップを十発ほど叩き込んでからコーナーに追い詰めて低空ドロップキックをかましたところでリングの中央に引きずり出してダイビング・エルボーでも喰らわせてやりたいが、そんなことをすればお前の嫁さんが泣くだろ。あと、小夜里にしこたま怒られる」

「尻に敷かれているんスね」

「悪いもんじゃないぞ。俺を戒めてくれるものがあるってのは」

 それから、師匠と弟子は互いの近況報告をした。武藏原の自叙伝の出来は上々で、半年後には出版されるのだそうだ。内容は教えてくれなかった。買って読め、とのことだった。雑談の中で、武藏原はこんなことを言った。

「残心って言葉を知っているか」

「確か、武道の用語ッスよね」

「技を決めた後も気を抜かずに身構えておけ、という意味合いの言葉なんだが、シノブちゃんにはそれがなかったんだ」

「過去形ッスね」

「近頃のシノブちゃんの試合には、その残心がある。無意識だとしたら、これからはそいつを意識してみろ。そうすりゃ、今度こそザンネンとは呼ばれなくなるだろうさ」

「その呼び方はやめて下さい、ホント」

 居たたまれなくなり、残忍は首を竦める。デビューして間もない頃、体の仕上がりも今一つで試合運びも未熟だったので、ネットや雑誌などで残忍ならぬザンネンだと揶揄されていたからだ。

「アギラには残心があるんだよ。長いこと柔道をやっていたからかもしれねぇが、隙があるようでないんだ。お前はあいつを疎んでいたみたいだが、そこまでは気付かなかったみたいだな」

「……最近はマシになったッスよ、それは」

「だったら、アギラとはもっと仲良くなれ。そうすりゃ、お前とアギラはいい試合が出来るはずだ。体格が近いルチャドール同士だからってのもあるがな」

「だといいんスけどね」

 話し込んでいるうちに夕飯時になったので、小夜里が作ってくれた夕食をありがたく頂いてから、残忍と夕子は武藏原家を後にした。タクシーを呼んで駅に戻り、地下鉄と電車を乗り継いで帰路を辿りながら、夕子は小夜里から聞かされた付き人時代の忍の話をしていた。どれもこれも若気の至りばかりで情けなかったが、それもまた自分なのだと思い直した。いや、開き直った。

「夕子。次の休み、一緒に映画でも観に行こうか」

「ぇ、あ、いいんですか?」

「いいんだよ。ぼやぼやしていると、観たい映画の上映が終わっちまうし」

「じゃ、じゃあ……ロック様が出てくるアクション超大作を」

「うん、俺もそれが観たいんだ。ロック様が出てくると安心感が違うよな」

「負ける気がしませんね」

「勝てる気もしないけどな」

 その夜、二人は久々に交わらずに寝入った。その代わり、互いが寝付くまで手を繋いでいた。暴力的な渇望が満たされていき、体の内側が潤っていくような、心地良さに浸っていられた。

 夫婦とは、こういうものなのかもしれない。

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