第6話 昔の痛みの忘れ方3

 店内を、ミルクとスパイスの混ざった柔らかけれどピリリと締まったような、不可思議な匂いが湯気と一緒に漂っていく。

 全てを語り終えた女性は、またカップを傾けると、「ふう……」と一息ついた。その溜め息はひどく満足げに聞こえた。


「……この事が、忘れたい記憶と言う事でいいですか?」

「はい」


 そう彼女がきっぱりと言うのに、ゆゆはどう答えればいいのか分からなかった。忘れたいと願う事は、大概はトラウマを忘れるためのもの、時には恋愛の記憶そのものをなかった事にする事と言うものは、ゆゆの店を訪れる客の依頼の中で一番多い物だったが。

 この恋は本当に無駄な切り捨てなければいけないものなのかが、ゆゆには判断が付かなかった。

 ゆゆの表情を読み取ったのか、彼女は朗らかに笑った。そのふんわりと笑う様は、ちょうど朝日の下でのみ咲き誇る露草のようだと思った。栞にすれば気付けば色あせて消えてしまうし、色水にしても簡単に水で落ちてしまう。見ている時はあの青ははっと鮮やかで見惚れてしまうと言うのに、印象としてしがみつかないと言うのを、彼女からは感じた。


「……今度結婚する人は、本当にとてもいい人なんです。私、初めてなんです。私を最優先させてくれて、私の事を本当に大事にしてくれて、私の事を本気で幸せにしてくれようって言う人に出会えたのは。

 お見合いだから可哀想だねとか、親の言いなりとか、好き勝手な事を言う人も多いけれど、私は主人になる人の事が大好きなんです。大好きだからこそ、申し訳ないんです。

 この人が初恋の人にならないと言う事が」


 彼女は心底悲しそうに眉を寄せるのに、ようやくゆゆはどうして彼女は彼の事を忘れようとしているのかの意味が分かった。

 彼に大事にされればされるほど、信じていたのに簡単に裏切られた、その傷が痛むのだ。大事に大事にされていたのに、彼にとってそれは「よくある事」で、特別を一つも返してもらえなかった事が悲しいのだ。疼くのだ。だから今好きな相手の事も疑ってしまうのだ。いつかは自分を裏切るのではないだろうかと。

 ゆゆは少しだけ困ったように人差し指をくいと曲げて唇に押し当てると、彼女に向かって、ただ一言注意をした。


「確かに忘れさせる事はできます。ただ気を付けて下さい。失恋と言うものははしかと同じです」

「はしか……ですか?」

「はい。確かにこじらせてしまったら、忘れる事が一番心身の健康にいい事でしょうが、大人のはしかは厄介です。一度かかったらそれ以降は免疫ができるけれども、あなたは忘れてしまったらまた免疫がなくなってしまうかと思いますが……本当に大丈夫ですか?」

「構いません」


 彼女がふんわりと笑うのに、もう決意を変える事はできないのだろうとゆゆは判断する。

 いつもいつも、自分の店を訪れる客は決して身勝手な事を言わない。いつも考えて考えて考え抜いた故に、記憶を落としていくのだから。

 そうと分かったら、ゆゆは魔法を使わなければいけない。


「……分かりました。前払いですが、よろしいですか?」

「カードは使えますか?」

「申し訳ありません。うちの店は現金だけなんです」

「まあ……ちょっと待って下さいね。お釣りは出せますか?」

「……一応は」


 つくづく、彼女はテンポがワンテンポもツーテンポもおかしい人だとゆゆは苦笑しつつ、ゆったりとした仕草で財布から一万円札を取り出す彼女の指をじっと見ていた。

 お釣りで3334円払えば、きっちりと6666円もらった事になる。

 ゆゆはきちんと電卓を取り出してお釣りを払った後、空っぽになったカップを片付ける事にした。

 奥に出かけると、ゆるゆると魔法の準備に取り掛かる。水盆を精製水で満たすと、その中にハーブオイルを落としていく。


 ぽたんと一滴、ローズマリー。記憶と思い出の象徴。

 ぽたんと一滴、ディル。魔法の暴走を抑え込む。

 ぽたんと一滴、マジョラム。霊を鎮める。


 最後に王妃の涙を一滴落として、ゆゆは花を浮かべた。ぽたりと浮かべたのは鮮やかなマロウの花。鮮やかな桃色は浮かべた途端に徐々に溶けて、最後には艶やかな水色になったと思ったら、一瞬で消えてしまった。

 それらを見届けてから、ゆゆは水盆を持って女性の元へと戻った。女性は不思議そうな顔をして、ゆゆの持つ水盆を眺めていた。

 最後にユーカリオイルを落とすと、水盆は緩やかに波紋を描いて溢れ始めた。


「記憶は、溢れる」


 水盆は徐々に水と一緒に女性の記憶を溢れさせていく。彼女が彼と出会ったと言うコンパ会場が映った。酒気を帯びて陽気な人々の中で気恥ずかしそうに笑う女性と、朗らかに笑う男性。

 目の前の女性は少しだけ悲しそうに眉を寄せていた。

 溢れ出すのは、思い出だけではない。

 初めての恋だった、初めての世界だった、初めて店に入った、初めて色んな事を知った──。

 記憶は数珠つなぎだ。一つが欠ければ、辻褄を合わせるように、色んな思いが、記憶が、消えていく。

 だから色んな願いを魔法に乗せるのだ。

 どうか記憶を忘れても、訪れた人が幸いでありますようにと。


「記憶は溢れ、記憶は埋もれ、記憶は新しい枝葉を付ける。花は咲き、そして散り、枯れ、土に還ってまた芽吹く。

 それが繰り返され、人は思い出を作る」


 床を水が満たしていく。女性は椅子に腰かけたまま、黙って目を閉じていた。彼女が何を思っているのかは、ゆゆにはやっぱり分からないままであった。

 最後に水がすぅーっと床に染み込んでいった後、ようやく女性は目を開いた。さっきまでうっすらと残っていた憂いが既に消えているようだった。


「……確かに依頼は完了しました。でも、本当によかったんですか?」

「……ありがとうございます」


 ほんの少しだけの脅えを残した後、女性は緩やかに笑った。それはひどく無邪気で脆いもののように思えた。


****


 教授は朝に言った通り、昼下がりになったらひょっこりと店に顔を出した。また杖を突きつつ、帽子をひょいと上げて挨拶をする様に、ゆゆは揺り椅子から立ち上がって迎えに行った。


「いらっしゃいませ。講義はどうでしたか?」

「うむ。今日はまあまあだった、かな?」

「そうでしたか。お茶は何になさいますか?」

「そうだねえ……今日は渋いお茶が飲みたいね」

「渋いお茶が飲みたいのなら、ウバで大丈夫です?」

「うむ。ゆゆ君のお茶は美味いからね。喫茶店を開いても問題なさそうだよ」

「褒めても何も出ませんよ?」


 そう言いながら、ゆゆは白いスカートを翻してポットで湯を沸かすと慎重に慎重に茶葉の準備を始めた。教授はのんびりと店内を眺めて、一言ゆゆに言い放った。


「今日もお客さんが来たんだね」

「……あまり来ない方がいいんですけれどね。私の魔法は、たった一つから使えませんから」

「忘却は善か悪か、か。無駄な物なんて何一つないって言うのが、魔法使いの心情だからねえ」

「はい」


 ゆゆはあくまで忘れさせる事はできても、忘れさせた物をもう一度思い出させる事なんてできない。店を開き、色んな訪れる客と話をしながらいつだって迷う事だった。

 ポットからゆるゆると湯気が出てきたので、慎重に慎重にガラスポットを温めると、そこに茶葉を加えて、さらに強く一気に湯を注いでいく。渋い匂いが放っていくのを感じながら、砂時計を傾ける。ちょうど三分後には、砂は全て落ちる。

 ゆゆは今日の魔法を思う。


「大事な物が変わったからと言って、忘れられた記憶はどうなるんだろうって、いつも思います」

「それはゆゆ君の呪文の通りだろうさ。例え忘れてしまっても、想いは残る。それがはっきりと形を成さないだけさ」

「……そうだといいですが」

「いつもゆゆ君は人に寄り添い過ぎる所があるからね。それが君のいい所だろうが、それと同時によくない所だ。人の心は一見繊細なガラスでできているように見えるが、人は忘却する事によってどんどん心を強くしていくのだからね。悔やまない事が一番さ」


 そうだといい。

 砂時計の砂が一粒残らず落ちたのを確認してから、ゆゆはカップにウバ茶を注ぎ入れた。

 外は今日も暑いが、空調の効いた店の中は、今日も涼やかである。

 まだ店のドアはカランとは鳴らない。

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