第5話 昔の痛みの忘れ方2

 私が忘れたい事……。

 私は元々幼稚園から短大まで、一貫して女子校に通っていました。自分で言うのも難ですが、世間知らずなのだと思います。同い年の男性とどう接すればいいのかちっとも知らないんです。だって学校の先生より下の男性としゃべった事なんて一度もありませんし、うちの学校は厳しくて、小説やドラマでありがちな先生と生徒の間の恋愛と言う物は厳重に禁止されていましたから。

 恋って言う物は私の中では想像の外の物であり、私には降ってくる事のないものだと思っていました。ドラマや小説を見たり読んだりしても本当に他人事で、自分も男性と一緒にいたいと言う風に思う事があるのかなんて検討も付きませんでした。

 中学生、高校生はそのまま男性に対して興味をさっぱり持ちませんでしたし、親も何も言いませんでしたが、短大になってからは、段々と気になるようになりました。

 短大になったら、今までは内部からの進学組ばかりで、私と同じく男性に対してどう接すればいいのか分からない子達ばかり固まっているのに対して、短大でしたら外部からの入学組も混ざりますから、自然といろんな価値観が増えます。


「駄目よ、私達最後の学生生活なんだから。今時流行らないわよ、卒業したら即結婚なんて。どんどんいろんな恋を楽しまないと」


 私がゴルフ部に所属しようと思ったのは、単純にゴルフでしたら持って行くクラブやバッグの大きさで優先的に学校内の駐車場を借りる事ができるからでした。ゴルフ部はよく他校とのコンパを開いて、一緒に飲み会をする事が多かったですから、自然と一番男性と関わる事が多いんです。これは後から友達から聞いた話ですけど、ゴルフ部は彼氏が欲しい人が一番入る部なんですって。そう言えば彼氏を作っている子達も多かったように思えます。

 私は正直、コンパでご飯を食べるのは楽しいんですけど、あんまりお酒は飲めませんし、お酒を飲まないと言う事で自然と車で酔っぱらった皆を運ばないといけませんでしたから、正直疲れました。そこまで絡み酒になるほども飲まなかったらいいのにと思うんですけど、お酒が飲めるのが楽しいんでしょうね。皆でわいわいとお酒を飲んでる姿はとても楽しそうでした。

 彼と……私の忘れたい人と出会ったのも、何回目かのコンパででした。

 見た目は普通の人、だったと思います。黒い髪にピアスで何個も耳に穴を空けている人。ただ異様に女子の扱いに長けているせいか、初対面の女子への印象がものすごくよく、逆に何回か既に会っている女子や男子からは「あいつは絶対やめておけ」と釘を刺されるような人でしたね。私は何人も何人も彼にコロリと落ちていくのに、「一体どういう事なんだろう」と本気で訳が分かっていませんでした。


「ねえねえ、若菜。あんたあの人のメアド聞いて来てよ」


 一緒にいた友達もすっかりとやられてしまっていました。私は意味が分からず、どうやって聞けばいいんだろうと思いました。

 夢中になっている子達はともかく、既に彼の性格を把握している子達は頑なに「やめておいた方がいい」の一点張りで、連絡先は知っているみたいですが、決してそれを教えるような事をしなかったんです。今思えば、その子達の反応がもっとも正しかったんだと思います。

 正直、何が困ったかと言うと、私は彼の事を全く何とも思っていないと言う点です。彼の事を好きではないのにメアドを聞きに行って、あらぬ誤解を受けたら嫌だなと思い、どうしたらスムーズに聞けるんだろうと思いました。結局お手洗いに立った彼について化粧直しと称してトイレに行き、トイレ前で待つ事でした。


「あの、メアド教えてもらっていいですか?」


 トイレから帰ってきた彼に声をかけてみたら、彼に心底変な顔をされてしまいました。そりゃそうでしょうね、私はどう見ても学校でも浮いてしまっていましたから。周りからは育ちがよさそう、お金持ちオーラが出ている、浮世離れしていると言われますが、当時の私はその自覚が何一つありませんでした。

 彼は驚いたように目を瞬かせた後、ぽつんとこちらに尋ねて来ました。


「……ちなみに、誰に言われたの?」

「私の意思では駄目なんでしょうか?」

「えっ!? どこがそんなによかったの」


 今思うと、彼にしてみれば友達に聞いて来いと言われたんだったら、「自分で聞きに来て」と言う風に言って私に穏便に帰って欲しかったんでしょうが、当時の私にはそう判断を下すための経験が足りませんでした。いけませんね、ただでさえ私はいろんな事に疎いのに、一番大事な部分でまで考えが足りないなんて言うのは。

 私はただ、彼としゃべっていて思ったのは「しゃべりやすいな」でした。いつもコンパでお会いする男性は皆優しかったですが、どこかよそよそしい雰囲気がありましたし、下心が見え見えだから、迂闊に近付きたくなくって、いつも友達の傍から離れませんでしたから、あからさまにオーバーリアクションでテンション高く話しかけられると、私も全然話せなくなるのに対し、彼は随分と自然に自然に話を振ってくれるんです。

 今思うと、それは女性に慣れていると言う証拠ですから、私みたいな全く男性の事を知らない女が近付いてはいけなかったんです。モテる人はモテる人で大変なんでしょうが、初恋って言うものは基本的に一度しかしないものであり、初恋のトラウマなんて言うものははしかみたいなものだと思います。一度かかったらもう二度とかからないんでしょうが、成人してからのはしかは長くこじらせるとも聞きます。

 私はその時、早く逃げればよかったのに、彼のペースに気付けば乗せられていました。今思っても彼にとっても不幸な事でしたね。

 女性の扱いに慣れ過ぎている男性と、男性経験が何一つない女性。一緒にいて一見都合よく見えても、これほど不幸な事故って言うのはなかなか恋愛の中でもないように思えます。


「……別に、何もよくなかったんですが」

「じゃあ何でそんな事聞くの? からかった訳じゃないでしょ」


 今までこんな風に、あからさまに狙われていると言う扱いでもなければ、完全に女子扱いと言う訳でもなく、それでいて距離感が近い。こんな扱いされた事なく、私はただただ、何とか一生懸命しゃべろうとしていました。


「あの……その。ごめんなさい。……聞いて来てって言われたんです」


 とうとう私が観念して謝って頭を下げた時、彼は一瞬真顔になったかと思うと、弾けるように笑い出していました。どうしてそんなリアクションするのか分からず、私はただただおろおろしていたように思えます。


「そんな事、言わなくってもよかったのに。頑張ったんだからさ」


 そう言って頭を撫でられてしまいました。私はただただポカンとした後、結局彼に送ってもらって酒の席に戻りました。


「どうだった!?」

「教えてもらえませんでした……ごめんなさい」

「あっちゃー……ガード高いね、本当。いいよいいよ。ありがとう」

「うん……」


 そう言いながら私は席に着いた時、何かが当たる事に気付いてスカートに触れました。スカートのポケットに、入れた覚えのないメモがくるまって入ってたんです。私は思わず彼を見ますが、彼は男友達と一緒にしゃべっていました。

 車で酔っぱらった皆を送り届けた後、家でそのメモを広げました。彼のメアドだったんです。私はびっくりして、そのメアドに送りました。どうしてこんな事したのかと。

 彼はしれっとした感じで返事をくれましたね。


「だって、君は自分で聞きに来たじゃない」って。


 それから、私は彼とたびたび会うようになりました。コンパ以外でも彼の対応は優しくて、私はそれに夢中になっていたように思えます。

 でも友達からは苦言が続きましたね……。


「あの男はこれが手だから、絶対これ以上一人で会っちゃ駄目。傷付くのはあんただよ」って。


 それを言ってくれるのが友達の優しさでしたが、私はその時何も分かっていませんでしたね……。友達はどうしてそんな意地悪を言うんだろうと普通に思っていましたから。

 そう言えば、彼からは一度も「好き」と言われていませんでしたし、私も一度も「好き」と言いませんでしたね。

 例えばカフェに入った時、顔を近付けて「何にする?」とメニューを傾けてくれるのも。映画館に入った時に「暗いから足元気を付けてね」と軽く手を繋がれて引かれるのも、野球の試合を見に行った際、あまりに高い席しか取れなくって、大きな段差に脅えていたら、軽く手を繋いで「大丈夫大丈夫」と言ってくれるのも。全部彼氏彼女の関係であったら特別だけれど当たり前なものなのかもしれませんが、私達はただ「一緒にいる」だけで「付き合ってはいなかった」んです。私は夢中になり過ぎていて、その事実に全く気付いていませんでした。

 流石に不安になったのは、また二人で会うために待ち合わせしている際。彼はごくごく普通にメールを送ってきた時でした。

 内容は「友達がちょっと大変みたいだから話聞かないといけないんだ。ごめん」と言うものでした。

 友達と私を天秤にかけて、友達に負けてしまったのは仕方がありませんが、彼は思いやりのある人だと思いますから、私はそれでいいと、仕方なく一人で帰る事にしました。

 私は彼と会うまで、一人で飲食店に入る事ができませんでしたが、彼にあれこれと連れ回してもらったおかげで、ほんの少しだけ耐性がつき、初めて一人で喫茶店に入ってみようと思いつきました。せっかくおしゃれして外に出てきたのに、一人で帰ってしまうのは寂しかったですし。

 カランと言う音を立ててドアを開けると、ウェイターさんが「いらっしゃいませ」と声をかけて下さり、一人用の席に案内してくれました。私はウェイターさんについていって、窓際の席に向かうと、ちょうど向かい側の席に楽しそうに話をしているカップルがいました。ああ、この人達はデートができたんだな。そう思ってすぐ忘れるはずでしたが、男性の方に見覚えがあったんです。私は思わず固まってしまったのを、今でもよく覚えています。


「……どうして、ここにいるんですか?」


 彼は少しだけ目を大きくした後、彼と一緒にいる女性と一緒にこちらに顔を向けました。綺麗な人だったと思います。雑誌に出てくるような綺麗な化粧をして、肌を見せつつも下品にならないようにコーディネイトをした、自分によく合う栗色に髪の毛を染めた人。


「知り合い?」

「友達」

「またあんた、彼女でもない子と普通に遊んで。ごめんね、こいつさ彼女いてもいなくっても、普通に女友達と遊べちゃう奴だからさ」

「うるさいな……彼氏に振られたって言って散々泣いていたのはどこの誰だよ」

「あんたが失礼な事してるから、私がいつも他所のお嬢さんに謝ってるんでしょうが。ごめんね」


 そうか。

 その時、どうして今まで友達が散々「あいつだけはやめておけ」って言ってくれていたのかがよく分かりました。

 女遊びが激しいと言う訳ではないんです。これは後から友達に聞いた話ですが、世の中には姉弟と言う構造でずっと仲良い家族だと時折あるんだそうです。男女の距離感を測り間違えて、距離感が近過ぎて気付けば女性が好きになってしまう男性と言う人が。そして大概、その男性は女性に対して興味がある訳ではないので、ただ男友達と同じように接しているのを、女性は彼女扱いしてもらっていると勘違いする事が。

 本当にただの事故だったんだと思います。

 私はあの時、涙も出ませんでした。


「さようなら」


 結局ウェイターさんが注文を取りに来てくれましたが「帰ります」とだけ言って、何も頼まずに店を出てしまいました。

 初めての恋だったのだと言う事は、店を出てから初めて気付きました。

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