清算

 平井美紗に迷いは無かった。まっすぐに「みどりの窓口」へ向かう。

「すみません。東京まで行きたいんですけど。」

 僕は自分の耳を疑った。平井美紗はどこに行くと言ったのか。東京?ありえないとは思うが、僕には「東京」と聞こえた。はは、まさかね。きっと僕の空耳だろう。

「はい、東京ですね。」

 駅員の声。さすがに二度目は空耳にするわけにはいかなかった。

「ハァ?」

 僕は叫んだ。どうして東京が出てくるのか。きっと平井美紗は上原優一に会いに行こうとしているのだろう。しかし、あまりに唐突だ。

「あーあ。面倒なことになったねぇ。ピート君のせいだからね。」

 先輩が僕にトドメを刺すようなことを言う。確かに僕のせいではあるけれど、先輩も「おもしろい」と言って褒めてくれたではないか。

「ボクは東京まで行きたくないから。ピート君がんばってね。」

 先輩はどこか遠くに飛んでいってしまった。僕は頭を抱えた。

「この後、僕はどうすればいいんだ?」

 しかし、僕にどうこうできることではない。平井美紗が東京に行くと言うのなら、それに付き合うしかない。僕にできることは、見守ることだけだ。



 平井美紗は新幹線の中で弁当を開いた。

「おお、うまそう。」

 平井美紗は小学生のように喜んだ。平井美紗は幸せそうに弁当を食べ始めた。僕は彼女の横で、その様子を見つめていた。彼女には僕の姿は見えないはずだが、もしも見えたとしたら、さぞかし憂鬱な顔があることだろう。

「次は、ヨコハマー、ヨコハマー。」

 アナウンスが流れる。平井美紗は顔を上げた。

「やば。もう横浜か。早く食べてしまわねば。」

 平井美紗は弁当との格闘を始めた。

 時刻は夜の九時を回ったところだ。夜遅くはあるが、新幹線の中はそれなりに人が乗っていた。旅行帰りの家族連れや、学生たち。日曜日だというのにどこかで働いてきたと思われる、疲れきったサラリーマン。それらの人たちが、新幹線の席の半分近くを埋めていた。

「ごちそうさま。あー、お腹いっぱい。」

 平井美紗は弁当を食べ終えると、ペットボトルのお茶を一口飲んだ。ごみをビニール袋に入れ、いつでも降りられる準備をする。

「次は終点、トウキョウ、トウキョウ。降りる際、忘れ物には……」

「おし!」

 平井美紗は立ち上がった。



 駅を出て、平井美紗は息を吸い込んだ。

「ああ、東京の空気だ。」

 訳の分からない言葉を吐いて歩き出す。平井美紗にはどこに向かえばいいか、分かっていた。一時間ほど前、平井美紗は誰だかに電話をして、こんな会話を交わしていた。

「もしもし、拓也?……うん、あたし。ひさしぶりだね。……うん。あのさ、優一って、今どこにいるか分かる?……へー、路上で?……うん、分かった。何駅?……あーい、ありがとう。じゃーねー。ん?何?……そんなの秘密だよ。……いや、言えないから。……また、みんなで会おうよ、またね。じゃ、バイバイ。」

 平井美紗はキョロキョロと東京の景色を眺めながら歩いた。その田舎者じみた行為を、東京の人たちは無関心で許した。平井美紗は灰色の街を歩いていった。時々地図を見るために立ち止まる。そして自分の居場所を確認すると、再び歩き出した。

「この辺りって聞いたんだけどな。」

 平井美紗は呟いた。立ち止まって、キョロキョロと辺りを見回す。

「間違ったかな。」

 平井美紗は元来た道を引き返そうとした。何せ初めて来たところだ。道が分からなくても仕方が無い。

 しかし、その足を引き止めるように、ギターの音色が聞こえてきた。



 平井美紗はギターの音がする方へと歩いていった。眉をひそめて不安そうな顔をしている。ギターの音だけでは上原優一かどうか、判断できないのだろう。ギターの音が大きくなるにつれ、歌声も一緒に聞こえるようになってきた。少しかすれたような声色だった。

「優一だ。」

 平井美紗は走り出した。線路の下で、ギターを抱えている男が見えた。まだ顔は分からない。しかし、平井美紗は確信に満ちた声で叫んだ。

「優一!」

 ギターの音がやむ。路上のギタリストは顔を上げた。上原優一だった。平井美紗は彼の元まで全力で走る。上原優一は、その姿をボケーっと見守った。

「美紗?」

 上原優一は、自分の前でゼエゼエと息をしている女性に問い掛ける。彼の顔には戸惑いと驚きが見え隠れしていた。

「ひさし……ぶり。」

 なんとか息を整えて、平井美紗が答えた。上原優一は彼女が落ち着くのを待ってから話し掛けた。

「ああ、ひさしぶりだね。どしたの?急に。」

「いや、なんかね、勢いで来ちゃった。」

「ふーん。まあ、座りなよ。」

 上原優一は自分の隣の地面を指差した。平井美紗は、そこに座った。

「びっくりした?」

 平井美紗が白い歯を見せる。上原優一もクスリと笑った。

「うん。びっくりした。もう会えないと思っていたからね。何年ぶりだっけ。」

「二年半ぶりぐらいかなぁ。」

「へー、まだ二年しか経ってないんだ。ずいぶん昔に感じるけれど。」

「あたしはついこの間に思えるよ。」

「それで、何で急に来ちゃったの?勢いでって言ってたけど。」

「うん。実は今日ね……」

 平井美紗は昼間の出来事を語った。上原優一にそっくりな人物に出会ったこと。それで、なんとなく懐かしくなったこと。ただ、僕に「過去に捉われている」と言われたことは、隠しておくつもりのようだった。

「へぇ、それで東京に来たんだ。」

「あー、今『こいつバカだ。』って思ったでしょ。」

「いや、思ってないよ。ただ美紗らしいなって。」

「どこが?」

「無計画で無鉄砲なとこなんか。」

「ふん。受かってた大学を蹴って、単身上京したような奴に言われたくありません。」

「それもそうだ。」

 二人は一緒になって笑い転げた。行き交う人たちが振り返るほどだった。

一通り笑いが収まってからは、とりとめのない会話が続いた。大学はどうか。東京はおもしろいか。バイト先の店長が武蔵丸に似ている。となりの家で猫が赤ちゃんを産んだ。近くで殺人事件が起きた。外国人に話し掛けられて困った……一時間、二時間、三時間。あっと言う間に時間が過ぎた。ちっとも話題が尽きることはなかった。それもそうだろう。話すことは二年分あるのだから。

「でね、あたしは言ってやったんだよ『そんなの放っとけ』って。」

「へぇ、そいつはおもしろいね。」

「でしょう?実際の顔見たら、もっと笑えるんだから。」

「ふーん。写真とか無いの?」

「あ、そうだ。その時、あんまり珍しいから、こっそりケータイのカメラで撮ったんだ。」

 平井美紗はケータイを取り出した。上原優一が覗き込む。

「ぶっ。何これ。」

「ね、笑えるでしょ?」

「うん、笑える。」

「あははは。今見てもおもしろい。」

 二人は再び笑い転げた。僕には平井美紗も上原優一も二人で笑っている時間を楽しんでいるように見えた。二人はしばらく笑っていた。

「ふう。」

 平井美紗が溜息をつく。つられたように上原優一も笑うのをやめた。

 はじめて沈黙が流れた。しかし、話すことがなくなったわけではなく、「話し疲れたから、少し休もう」といった沈黙だった。二人は黙ったまま、東京の町並みを眺めていた。

 もう夜も遅いというのに、人々は活動をやめようとはしない。道の端で騒いでいる若者たち。酔っ払って肩を組んでいる中年の男性たち。「まだまだ夜はこれからだ」彼らがそんな風に語っているように見えた。

「ねぇ。」

 沈黙を破ったのは平井美紗の方だった。

「ん?」

 上原優一は平井美紗の方を向いた。しかし、平井美紗は上原優一を見てはいなかった。

「あのさ。」

 目線を逸らせたまま平井美紗が語る。

「もしも……もしもだよ。あの時、あたしが『遠距離でもいいから別れないで』って言ったら、どうしてた?」

「別れてたよ。俺には、好きな人を放っておいたまま自分だけ好きなことをするなんて無責任なことできないから。」

「そっか。」

「うん……じゃあさ。」

「ん?」

「俺がもし『俺は東京に行くけど別れないでくれ』って頼んでたら、どうしてた?」

「……別れてた。優一の足手まといになりたくないから。」

「だろ。」

 上原優一は息を吐いた。

「結局俺たちは別れてたんだよ。お互いがお互いのことを考えて、自分を殺しあう。だから、俺と美紗は一緒に居ちゃいけなかったんだよ。」

「だけど……」

 平井美紗は顔を上げた。上原優一と目が合った。

「もしも、『遠距離でもいいから別れないで』って言うのと、『俺は東京に行くけど別れないでくれ』って言うのが同時だったら?その時はどうなってた?」

「え?」

 上原優一は言葉を失った。どう答えていいのか、悩んでいるようだった。うつむいて、言うべき言葉を捜す。

「もし……」

 上原優一は顔を上げた。そして、勢い込んで喋り始めた。

「もしも美紗にその気があるんだったら、俺は今でも……」

「ごめん。」

 平井美紗が彼の言葉を遮る。平井美紗は再び彼から目線を外した。

「ごめんね。変なこと言っちゃって。あたしに『その気』はないから。たださ、あたし思ったの。あの時本当の気持ちを話してたらどうなってたんだろうって。いや、本当の気持ちを話せないまま別れたことが何かモヤモヤしたものになって心の奥にこびりついてたのかもしれない。」

「そっか。」

 上原優一は優しく微笑んだ。

「美紗は終わらせに来たんだね。中途半端に終わった二年前の恋愛を終わらせに来たんだ。」

 平井美紗は、ハッと顔を上げた。上原優一の方を向く。優しい笑顔があった。

「そうだ。こっちに来てからの俺の歌、まだ聞いてないだろ。」

 上原優一は少年の笑顔を浮かべた。

「え?」

「聞かせてあげるよ。」

 脇に置いていたギターを手にとる。一本、一本、弦をはじき、音を確かめると、満足げにうなずいた。最後にビィインと全ての弦をはじく。

「『yesterday』」

 上原優一は、ギターを奏で始めた。アップテンポなリズムで、勢いがあった。やがて前奏が終わる。


  雨上がりの街を

  はだしで走った

  足の裏に伝わる冷たさが

  気持ちいい

  このままどこまでも

  走りたい

  つまらない人生を

  振り切って


  それは疲れきったyesterday

  キミは冴えない顔で

  「人生なんてこんなもんさ」と

  呟いた

  なら、ボクは言ってやろう

  「そんな人生、捨ててしまえばいい」

  

  みんな、みんな捨ててしまおう

  機嫌取りの愛想笑いも

  本音の言えない友達も

  服が汚れることなんて

  気にしないで

  水たまりを走り抜ければ

  きっと子どものこころを

  取り戻せるから


  光射す野原で

  ゴロンと寝転んだ

  背中から伝わる暖かさが

  気持ちいい

  このままいつまでも

  眠りたい

  くだらない現実を

  忘れ去って


  それはくたびれ果てたyesterday

  キミは浮かない顔で

  「現実は甘くないね」と

  呟いた

  なら、ボクは言ってやろう

  「そんな現実、変えてしまえばいい」


  みんな、みんな変えてしまおう

  愚痴ばかり言ってた自分も

  一日の最後の溜息も

  日焼けすることなんて

  気にしないで

  野原で眠り続ければ

  きっと昔の夢を

  取り戻せるから


  絶望、失望、叶わぬ願望

  人は胸に抱き、生きていくのだろう

  いつかはカベにぶつかって

  「もうだめだ」と

  誰もが言う

  そうして後ろを向いて歩き出す

  どうしてすぐに諦める?

  目の前にカベがあるのなら

  ぶち壊してしまえばいい


  だから……


  みんな、みんな捨ててしまおう

  目の前に引いた境界線も

  なんとなく生きた人生も

  服が汚れることなんて

  気にしないで

  水たまりを走り抜ければ

  きっと子どものこころを

  取り戻せるから

  きっと昔の夢を

  取り戻せるから

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