第2話

三階の廊下で三枝のじいさんと会ったので、二言三言あいさつを交わした。

いつものジャンパー姿で欄干に腰かけて廃物池に釣り糸を垂らしていたが、さすがに今日の釣果はまだゼロのようだった。

じいさんはしょっちゅうその3メートル四方ほどの濁った池から得体のしれないゴミやらガラクタやらを釣り上げているが、たまにヌタメやウナギ、へんぺん魚など本物がかかることがあって、そういうときに通りかかるとじいさんは気前よくその場でおすそわけをくれた。

だが正直言ってそんなものは気味が悪いので、にこやかに受け取りつつも、いつもおれはだまって102号室の堀口にそのまま渡しているのだった。

堀口はそれでとくだん病気なんかもしていないから、別におれが非道をはたらいていることにはならないはずだ。


三枝爺は総じてとても人のいい老人ではあるが、おれのことをいつも「坊主」とか「二代目」といった呼称で呼びかけてくるので、おれはそれだけがいやだった。

そう意識してしまうと彼に限らずどの住人も、おれを透かしてその背後にいる先代の大家、死んだ祖父の幻影を見ているような触感があって、どうにも落ち着かない。

とはいえこのアパートで暮らしていく限りはあの祖父のことを忘れていくなんてことはできやしないのだろう。

それこそこの欄干の見事なツル曲線なんかも祖父がひとつひとつ特殊函数をこねて手ずからこしらえたものらしいし、なんだかこのアパートの部分部分にはすべて祖父の肉体の残渣が焼き付いているかのようで、じっと見つめているとなんだか眩暈がしてくる。

その臓腑に寄生してうまくやっていくにはおれにはまだあきらかに足りていないところがあって、それが単に生きてきた年月の積み重ねなのか、あるいはなんらかのもっと大事な資質なのか、おれはまだ判断がついていない。


いずれにせよ、大家のやるべきことは仕事であって、仕事とは家賃を集めることだ。


今日はまず体力のあるうちに310号室の赤羽からあたってみることにした。

やつはおれがもっとも苦手とする住人のひとりだ。

赤羽はまだ歳若い水商売の女で、それなりに稼ぎはいいはずなのだが、それをそっくりそのままどこかのホストにつぎ込んでいるせいで、いつも手持ちの貯金はほんのわずかしか残らないらしい。

夜の繁華街に咲く艶花がこんなボロアパート住まいのうえ月々の支払いにも困っていると知ったら、幻滅して離れていく客も少なからずいるのではないだろうか。

金曜にはいつも深夜の4時過ぎに帰ってくるからこの時間はまだ寝ているはずで、しかし逆にこういった隙でも突かないとやつはなかなか捕まらないのだった。

大家には家賃滞納者を叩き起こす純然たる権利があると、おれはそうかたく自身の心に信じこませて、玄関のベルを鳴らした。

一度の呼びかけでは反応がなかったので、二度三度と繰り返した。


しばらく待ったところでドアのずっと奥から「カギ、あいてるから」と寝ぼけた声で返答があった。

防犯上いかがなものか、と注意すべきなのだろうが面倒だったので何も言わずに中へ入らせてもらった。

遮光カーテンを一面に引いた室内は冬の夜のようにまっくらで、それを足元の蛍光灯がうすぼんやりと青白く照らしていた。

赤羽は家賃の支払いも滞らせるくせに室内のインテリアには妙に凝るやつで、この蛍光灯も塗料で発光させるいまどきのタイプではなく、天然の黒燐光を使ったほんものだという。

何よりも目を引くのは、玄関から廊下、奥の居間に至るまで一面に置かれた大小さまざまな水槽の数々である。

いつだかそのでかい水槽ひとつをまるごとひっくり返したときがあって、こぼれた大量の水で床下どころか階下の天井までぜんぶ駄目になったので、おれはもう片付けてくれと何度も頼んでいるのだが、一向に聞き入れてくれない。

下の部屋の小野寺はそれでなぜかおれのところに怒鳴り込んできたうえ、しまいにはおれが殴られかけたので、本当に迷惑で勘弁してもらいたいのだった。


やがてその水槽のひとつの奥からのっそりと寝起きの赤羽が現れた。

その無防備な姿におれはいたずらに心を揺さぶられる。

厚いガラスに蛍光灯の光がプリズムのように歪んで、優雅にひらひらと動かすその赤い背びれの骨筋を七色にきらめかせていた。

赤羽が身をくねらすたびに鱗のひとつひとつがぬめぬめとした乱反射をまとって、こちらの奥にしまってある何か抗いがたい衝動に訴えかけてくるのだった。

おれは赤羽が苦手だった。


「大家さん、おはよう……」

赤羽はぶくぶくと細かなあぶくをはいた。

ぱくぱくと開け閉めするえらの動きで小さな水流が起こって、藻屑の森を波立たせた。

「ごめんね、あたし起きたばっかりなの。あまり頭がはたらかないわ」


「いや、こちらこそすみません。ですが、」

そこまで言ってから、おれはもうしまった、と思った。

なぜこちらが敬語を使っていて、あちらは子供をあやすような口ぶりなのだ。

赤羽としゃべるときはいつもこうで、本来はおれが上から話すべき立場なのに常にやつに舵を握られてしまう。

だからといって、戦う前から負けていては話にならない。

「家賃の支払い。お忘れじゃないでしょうか」


「あ……そうだったわね。ええと、二ヶ月分だったかしら。ごめんね」

「三ヶ月ですよ」

おれがまばたきするうちに赤羽はもう靴棚の上の小さな丸い金魚鉢の中に移っていて、長い尾びれが球体のなかで赤白になびく様は吹き流しのビー玉を思わせた。

蛍光灯のちらつき加減が金魚鉢のレンズで収束し、壁にゆらゆらと光の厚みの像を投げかけていた。

赤羽が身をひるがえすとちゃぷんと水音がして、水面にできた波紋がまたその光をゆらめかせた。


「うーん。ごめんね。もう少しだけ待っていただけないかしら」

「いや、それはどうにも」

「そうね、もう二ヶ月待って頂戴。そしたら全部まとめてお支払いするから」

「この前もそう言ってぜんぜん遅れっぱなしだったじゃないですか」

「違うのよ。今度はほんとうだから」

「なにが違うものですか」

「ほんとうよ。絶対の絶対のほんとう」

「なにが絶対だというんです」


「あたしね、結婚するの。ほんとよ」

赤羽は一息だけついて、こともなげにそう言ってのけた。

おれは少なからずその言葉に狼狽してしまって、またおどろいていたそのこと自体にも大いなるショックを受けてしまった。

つとめて平静を保とうとしたが、言葉がのどのところで痰にからんでいるような感覚だった。

「それは……おめでとう、ございます」

それだけ言うのがやっとだった。


「そうね、もう少し前に言っておくべきだったわ。あたしのお客さんのひとりで……とてもいいひと。あたしを大切にしてくれるの。やさしいひとよ」

おれはその語りを半分聞いていないようなものだった。

やつの話がこんなにも頭をただ通り過ぎていくのははじめてのことだった。

「だから、近々このアパートから出ていくと思うの。急なお話でごめんなさい」


こういう日はいずれ来るだろうな、とは思っていた。

住人がこのアパートを去っていくとき、おれはいつもたまらなく空虚な気分になる。

それは祖父の死を聞いた時よりももっと、祖父のことを知っている人間がひとりひとりいなくなっていくことへ対する、たまらないおそれと喪失感であった。


「ふああ……あたし、また寝るね。ねむいの。ごめんね、お話はまた今度ね」

おれはもうこの場でこれ以上話しても無駄だと思ったから、赤羽が悠々と暗がりの奥に消えていくのを黙って見ているしかできなかった。

赤羽のいう今度がいつになるかは、今は考えたくなかった。

そして赤羽は去り際にこちらを振り向いて言い残した。

「……それとも一緒にあたしと寝る?」


自分の顔が耳まで赤くなってくるのがわかった。

おれは答えず逃げるようにして310号室をあとにした。

いや、実際逃げ出したようなものだった。

廊下から外を見上げると、いつのまにか日は天頂まで登っていて、長袖では肌に汗がにじむくらいの気温になっていた。

これからまだまだ続く負け戦の予感に、おれは実に惨憺たる気分になった。

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