花になれ

折戸みおこ

***

  それがいつ、どんなときに来るのかなんて判らないけれど、人は大きな決断に迫られることがある。それはあなただって同じことで、その決断を迫られた時に考えることを、悩むことを諦めてしまうとそれより未来で充実した生活なんて過ごせる訳はないの。あなたはきっとこの事をよく分かってくれているはず。

  だからあなた、今日の夕方に家に帰った頃には珍しく「ただいま」も言わずにカバンを放ってリビングのカーペットの上に突っ伏してしまったんでしょう? 何をするでもなくごろごろして、時たま仰向けに大の字になって寝転がって。制服のスカート履いたまんまなんだからやめなさいって言っても聞いた風でもなかったじゃない。

  そしたらあなたは起き上がってカバンの中を漁って、手帳ほどの大きさの一枚の紙を取り出した。それを高く持ち上げて眺めたり、天井を見上げたまま顔の上に乗せてみたり、そんなことばっかり。何を見ているのか判らないくらい遠いところを見つめていたわ。

  その一枚の紙もこたつの上に乱雑に置いて、リビングの隅に置いてあったエレキギターをあなたは徐に弾きだした。もう何回も弾いたオリジナルの曲を小さく歌いながら弾いて、適当にコードを鳴らしながら言葉を並べて。

  結局あなたは浮かない顔のまま、ギターをギグバッグにも入れずに置き去りにして大学の資料を本棚から引っ張り出した。

  あなたは5校ほどの資料を目の前に並べ、一冊とってはめくり、また一冊とってはめくっている。どの学校もそれなりに名の通った公立大学や私立大学だ。そのうち、お父さんに薦められた大学が3つ、自分で選んだ大学が2つ。そろそろ今年のセンター試験が近いけれど、それは来年度高校三年生になるあなたにとってはついに受験戦争に突入するということを意味していた。

  2年生3学期は3年生0学期だ。そんな文句が冷蔵庫に貼っている学年通信にも大きく書かれてあった。いかに早く受験勉強に着手するか、それが合格への鍵である。あなたはこの間の三者面談でも先生からそう言われていた。お父さんはこの学年通信を見て感心しつつ頷いていたこともあった。猫も杓子も大学と言われているこの世の中で、それなりに学力があるあなたには、名門校を目指して欲しい。それがお父さんの願いだった。

  冬の夜は更けるのが早く、結露した窓には外の街灯の光が薄くぼんやりと映っている。あなたは大学の資料を見終わったのか、こたつの中に入ってぼんやりと天井を見ている。炊飯器が炊き上がりのお知らせ音をけたたましく鳴らした。お鍋からはほのかにスパイスの匂いが立ち上る。

  あなたはゆっくりとこたつから出て、放り出したままだったエレキギターと読み散らかしたままだった大学資料を自分の前に並べて正座した。その膝の上には、あの手帳大の白い紙が置かれている。大学資料を睨む。視線を逸らして、エレキギターを見つめる。俯いて、白い紙に目を向ける。あなたは少し眉根を寄せて、その白い紙をこたつに置いた。カバンから筆箱を取り出して、そのジッパーを開ける。シャーペンを握って、あなたは白い紙に向き合った。その紙に大学の資料を睨みつつ書き込んでいく。しかし、あなたは途中でペンを止めた。瞼をぎゅっと閉じる。目を開けて、その書きかけの紙を両手で持つ。あなたの瞳は、エレキギターを捉えていた。

  そしてついに、あなたは立ち上がった。両手に力がこもり、固く、強く、握り締める。握り締められた白い紙はクシャクシャと皺を寄せていく。その紙には“進路希望調査”と書かれていた。口を開いた途端、唇をきゅっと結び、また開いたかと思うと下唇を噛む。視線は足元に落としたままだ。足先はカーペットの毛を捉えて踏ん張っている。肩にも次第に力が入っていく。深く息を吐いて、吸い込むと同時に顔を上げ、わたしを見つめた。

「音楽が、したい」

  あなたはやっとの思いで口に出した。「音楽がしたいの。先生に何言われようが、お父さんに止められようが、そんなの関係ない。大学には行きたくない。音楽が、したい」

  あなたの瞳はみるみる間に涙を溜めて、今にも溢れそうだ。

  きっと、苦しかったのよね。誰にアドバイスをもらったって、結局決めるのは自分だもの。悩んで、迷って、何か大きなものに押しつぶされそうになって、追い立てられて、それでも悩むことを止めるなんてできなくて。

覚悟はあるの、と聞くと、小さく、しかししっかりとあなたは頷いた。あなたの瞳は動じない。ただただ私を見据えている。

  頑張りなさい。わたしはそう言って微笑んだ。あなたは涙を一筋流して、私に精一杯の笑顔をみせた。

「ありがとう、お母さん」

  大丈夫、そうやって悩みぬいた末の決心は、きっとあなたの人生の中で、一番の糧となり、支えとなるだろうから。

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花になれ 折戸みおこ @mioko_cocoa

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