第32話 損気

 私の窓際の席、その斜め前には綾乃が座っていて、ときおりこっちを振り返ってはニヤッとする。まあ私は別に綾乃の大きな目と筋のはっきりした顔がどちらかというと好きで、見返り姿を見るのは別に構わないのだが、綾乃、先生が教壇で今にもチョークを投げつけそうな表情をしているから、はよ前向け。まったく、呑気なものだ。さて、どうするか。校了原稿は夢の中にあって、現実には氏名と空虚なタイトル枠と何か書かなければと昨晩、重責に駆られて一文字だけ無造作に書き捨てられた「む」だけが原稿用紙の上にあった。どうしよう。今書こう。授業はこの際聞かなくてもいい。前の学校でやったところだから、少しは飛ばしてもついていけるだろう。では何を書こう。例えば夢のなかに出てきたもの、う、なんだっけ、タイトル『』。うう、判らん。思い出せ、うう。くっ。


 駄目だ。思い出せない。そもそも筆が原稿の一マス上でとんとんとんと踊るだけ、全く動き出しそうにない。どうしよう、このまま畑先輩のもとに行き、頼めば、期限は伸びるであろうし、そうした方が今の私にとっても現実的だと思える。けれど、伸ばすことが出来ると認識した私はこの先いつまでも迫りくるタイムリミットへの切迫感を失くしてしまうし、そんな状況で私は自分が強いて原稿を書くような人間でないことを知っている。ともかく今日、書きあげなければ締切期限は永い時間の彼方へと消え去ることになるだろう。


 そうしているうちに2限終了の鐘が鳴り、お昼休みに突入した。リミットは放課後だ。綾乃が斜め前の席から弁当箱を持って「花山鈴、お昼食べに行こう」察してくれよ。「ごめん、やることがある」怪訝な顔をして机の上の白紙原稿とにらめっこをしている私をみて、綾乃がおもむろに大学ノートから一枚白紙を抜き取る。タイトルのようなものを一番上に書いたあと、つるつるつるつる文章を書き込んでいく。止まらない綾乃のペン。表を黒く覆い尽くし、裏返して書き続ける。なにこれ。


 


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