第26話 浮いた意識は玻璃の外

家に帰って、手を洗い、風呂に入って、夕飯を食べ、歯を磨いて、鏡を見た。頬に小さな切り傷があって、傷跡に冷水が染みた。水気を取り、絆創膏を探して洗面台の棚を手探ると、指先にも同じような傷を見つけた。

 「はは……傷だらけ……ふぅ」

力なく吐息が漏れる。鏡が白く曇り、晴れる。絆創膏を貼ってみると、なんだかわんぱく少年のような姿の私自身が鏡のなかに映った。こうしていると、私は私を操作しているような二元性に、霞がかるような感覚に覆われる。水中の私と硝子越しの私。水の中では息が苦しくても、一歩引けば静かな傍観者でいられる。痛みも、感覚も、まとわりつく熱も、硝子はそれらを通さない。ただ一つ、感情だけが、二人の私を繋ぎ合わせる。


■□


翌朝、峰二が来た。朝が早くて、私はというと普通に寝間着のままであったし、むしろ、呼び鈴で布団から起こされたし、寝癖も盛大に付いていた。


「あ、うん。じゃあ、上がっとく?」

「いいの?じゃお邪魔するよ」

「なんのお構いもできないけど」


相変わらず母は台所で朝支度をしていて忙しそうだ。峰二を廊下に通して、台所から一部屋離れた居間に連れていく。木造の床は今日もきしきしと音を立てる。


「座ってて」

「ありがとう、花山 鈴」

「テレビとかなんでも付けていいから」

「判った」


ふすまを閉じる。さて、私も支度しなくては。台所を通るとき、母が尋ねる。


「誰だった?なんの用事?」

「うん。友達。私ちょっと風呂」


脱衣室に入り、寝間着を剥ぐと、昨夜付けた絆創膏が捻れて傷が剥き出しになった。また、重い水が私をコポコポと包み込む。九月といえ、朝は少し肌寒くて、浴室の床は昨晩の熱を放射しきっていて冷たい。シャワーが勢い良く、お湯を噴き出す。頭上から散乱したお湯の流れが重力に沿って隅々まで回る。足元には赤くて、青い水の流れが排水口に吸い込まれていくようで、その様を見ると、私はまた硝子越しに私を眺めてしまう。痛みか、眠気か、引き金はともかく私に戻らないと待っている峰二を遅刻させてしまう。目を閉じて、息を大きく吸うと私は私に戻れた。石鹸は早々に済ませて、浴室をあとにした……

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