第25話 風呂さえあれば構わない

「鈴ちゃんさ、もう本は書きおえた?」


前を歩く、畑先輩の背中越しに声が届く

反射的に目を見開くけれど、別に前を見る必要はない


「すみません、まだです」

「あ、そうなの」


なんだ、責められると思った。そんなことないのか。瞼をゆっくりと下ろし、窓から差し込む西日に備える。本、というのは演劇の台本のことで、去った夏休みに畑先輩から頼まれていたものだった。テーマは「なんでもいい」、正直困る。


「鈴ちゃん、クラスどこなの?」

「あ、2-9です」

「じゃあ、端っこだ」

「そうですね」

「鈴ちゃん、クラス楽しい?」

「判りません、今日初めて会ったひとばかりなので」

「昼は何食べたの?」

「今日は弁当です」

「……あ、そうなの、じゃ部室来なよ。みんないるからさ」

「でも、皆さんのお邪魔しちゃいけないし」

「大丈夫、鈴ちゃんは可愛い後輩だから、邪魔じゃないよ」

ウ。「いえ、そんなことは……」

「的場も喜ぶよ、なにせ二人っきりの女子部員だもの」

そうか、咲先輩もいるのか……行こうかな

「考えておきます」

「それがいいよ」


畑先輩と話しているうちに、新校舎の東の隅にたどり着いた

つきあたりの窓からはグラウンドが見える

緑のネット越しに快音がすり抜けて聞こえてくる

放課後になって、長い時間が過ぎようとしていた……


「ふぅ、鈴ちゃんのロッカーここだよね」

「あ、そこです、ありがとうございます」

「いえいえ」

「私、少しだけ片付けるので、先輩どうぞ先に帰ってください」

「や。待つよ」

「そうですか」


ロッカー内には特に片付けるものは無かったが、なんとなく、放り縁の埃が気になって、雑巾を手に乾拭き、水拭き、乾拭きをしているうちに指に木の破片が刺さる。痛い。ぐぅ。すぐさま抜こうと試みるも、焦るほど、棘は皮の奥へと入り込んでいく。面倒くさい、痛い。あ、抜けた。軽く洗い流して、指をさすると、赤く、玉色の粒が見えない穴から滲んでくる。吸うとなんだか身体に良くない味がして、うぇって感じで、胸がむかむかする。ついでに口もゆすぐと突然、峰二綾乃のことを思い出す。そうか、私、今日のお昼は食べてないじゃん。視界がぼやける、瞳から色が失われていく。午後の授業を一コマだけ二人でサボった。私は教室に戻り、峰二はそのまま満足そうに帰っていった。帰り際に彼女を胸に抱きしめると、苦くて甘い匂いがした。腕を回した彼女の背中は驚くほど華奢で、そのまま離してしまってはいけないような気がしたことを今の事のように思い出す。ふと腕時計を見る。針は七時を回ろうとしていて、一時間近く掃除をしていることに気づく。無意識の中でロッカーがキレイになっていて、なんとなく得した気分になる。あ。


「畑先輩」


机を横に並べて、大人一人分に詰められた、簡易ベッドの上に先輩が気持ちよさそうに寝転がっていた。靴を脱いで、寝ている先輩の上に馬乗りになる。私の両足の間に先輩の胴体がすっぽり収まる。見た目より随分細い先輩の腹。寝息は静かに、私の動悸が高まる。空っぽの両手に地面を支える。手から血の気が無くなる。そのぶん、血流は太腿へ、神経は内股に集まる。机の地面を通して、先輩の脈拍が膝へ伝わる。ああ。なるほど。こんな感じか……


■□


「先輩、先輩、畑先輩」

「ん、ん、、、ん?」

「畑先輩、起きてください」

「ん、あ」

「もう下校時間過ぎそうで、教室でないと」

「あ、うんうん、わかった、はい」

「わあ、すみません、長くなってしまって」

「うん、いいよいいよ、ずっと掃除してた?」

眠そうに目をこすりながら、私の手にある雑巾を指差して、先輩が尋ねた。

「みたいです」

「ふむ」


下校時間の鐘はとっくに過ぎていて、空は夕闇が濃くなりつつあった

二人して急ぎ足で階段を降る

校門は半分閉じていて、傍らに生活指導の先生が二人、佇んでいた

「「おつかれ 気をつけて帰れよ」」先生らが思ったよりも優しく、声を掛けてきたので、用意していた言い訳も、弁明の決まり文句も全部とんで、無言のまま、その場を後にした。頭を軽く、縦に揺らしただけ、見てるぶんには、歩く振動と何ら変わりない。隣にいる先輩も微睡んでいるのか、同じく言葉を交さなかった。


□■


駅につくとようやく時間が動き出したかのように感じた

畑先輩はホームを背に、私を横目に、思い出したかのように尋ねた


「鈴ちゃん、本、いつまでに書けそう?」

「ああ、どうでしょう。もう少しかかりそうです」

「どのくらい書けた?」

「まだ、冒頭も……、考えつかなくて」

「そっか」


家で、お風呂上がりに、何か書いてみようと机にむかうと駄目だった……

(あ)とか(う)とか(そ)とか一文字目をシャーペンで書いて消しゴムで消す

物語を紡ごうとすると、決まって、指が固まったのだ

白紙の原稿を眺めながら、だんだん冷めていく自分の身体が辛かった

私が今まで読んできた文庫本も優秀に取ってきた学校の成績も日々の体験も非日常の経験も人との会話も住んでいる町の風景もなにもかも。何も私を助けてはくれなかった。ただ、記憶のなかにあって、私はそれを硝子越しに眺めているだけだった。分厚い、音も匂いも何も通らない。冷たい記憶の塊。


「どうすれば、書けるようになるか知りたい?」

「え?なんですか、それ」

「どうしたら物語を考えつけるか知りたい?」


聞きたい。いやでも、それを今の段階で知ってしまっていいのか。先輩の積んできた苦労を経ずに、その先の要点だけ、私は享受していいのか?それは私にとって意味のあるものなのか?判らない。でも聞きたい、今じゃなければ、おそらく、この好機は巡ってこない。知りたい。


先輩がにやにやと顔を駅の照明に照らされながら、私を観察している。


「ずいぶん悩むね。あ、そうか、でもどうして?」

「いえ、なんだか、聞いてもいいのかなと思いまして。畑先輩に比べて、私は楽に、その、得られるのは一種のズル のようなものに思えてきまして」

「ふむふむ、なるほど。んー、いいじゃん、ズルしても。俺がね、教えたいわけで、そう思わせたなら受け取っていいんじゃない」

あ。そうか。それもそうか。うわー、なんか恥ずかしい。無駄に躊躇った気分だし、それにうわー、申し訳ない。


「ということで教えたいと思ってたんだけども!鈴ちゃんのその気持ちも尊重しようと思うので、教えま、せん」

まじか、うわ、凄いわ、満面の笑みだわ

「えぇぇ」

「電車も来たし、また来週、自力で頑張って書いて来てねー」


ピープシュプシュ

ピープシュプシュ


閉まる自動ドアを隔てて、畑先輩の姿が遠ざかる。私は俯いたまま、今日起きたガッカリポイントを脳内で整理、反芻している……


転校初日から酷いものだ

良いことなんてそうそう起きない

どうしよう

取り敢えず今晩の一番風呂は確保しよう……

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