第9話

 クオンの背中から飛び降りると、ナヤは木の根元に座り込む子羊へと駆け寄った。

「もう、こんなとこまでにげちゃだめでしょ! おうちにかえるわよ!」

 クオンはその場に立ち尽くしたまま、その和やかな様子を見ていた。しかし、クオンの意識の大半はそこには向けられていなかった。

 子羊を抱き上げるナヤの向こう、木立の先の暗がりの更に向こう。見えないはずのそこから、クオンは視線のような何かを感じていた。それに込められた感情は好奇心や恐怖などでは断じてない。間違えようのない程の明確な敵意。あるいは、殺意。

(くそ、まずい。最悪の状況だ!)

 クオンは心の中で罵りながら、ゆっくりと左の袖口から四元符を取り出し、それを左手に持ち替える。そしてゆっくりと重心を下げ、身構えた。

 向こうにも間違いなくクオンの存在は伝わっているはずだった。そうでなければ子供一人と子羊一匹などはとっくに食われて終わっている。機を見計らっているのだ。ほんの少しのきっかけ、それさえあれば闇に隠れた巨体は動き始める。

(きっかけを与える訳にはいかない。先手を取らなければ)

 そう考えるや否や、クオンは弾かれたように飛び出した。目指すは勿論ナヤの元。一呼吸置けばそれだけで奴に勘付かれてしまう。だからこそ思い立った瞬間に駆け出した。

 突然のクオンの動きに虚を突かれたソレは、勢いに引き摺り込まれて動き始める。潜めていた気配を一気に噴出させ、茂みを踏みしだきながら身を躍らせる。だがソレは自らの大きさ故に僅かにクオンに遅れを取った。

 そして両者の間に置かれたナヤは、湧き上がる巨大なものの音と気配に呑まれて体が思うように動かなく——

「ナヤ! しっかり捕まえてろ!!」

 飛んできたクオンの喝が身を縛る恐怖の糸を断ち切り、言われた通りに腕の中の子羊を強く抱き締めた。そしてクオンの右腕が子羊もろともナヤの体を抱え込んだ。

 クオンは眼前に迫り来る影に向かって叩きつけるように札を突き出し、全身を振り絞って叫んだ。

「爆ぜろっ、《エアール》!!」

 その声に応えるように四元符は眩い緑の光を放ち、一瞬の後に膨大な量の空気を吐き出した。

 高密度な空気で歪んだ視界、四元符が放つ緑の光が照らしたのは、目と鼻の先で爛々と煌めく化け物の双眸だった。

 瞬間、空気は爆音と共に拡散し、真正面からもろに空気の壁を浴びたクオン達は、蹴り飛ばされた小石のように後方へと吹き飛ばされた。


 クオンは爆風に煽られ回転する中で、自分達の飛んでいく軌道の先を確認した。

 取り敢えずは最大の危機を脱した今、考えるのはいかにして逃げ切るかという簡単な事だけだ。しかも逃げ込む先の当てもある。当然、ナヤと子羊を預けた後はすぐにクオンは戦わねばならないが、身一つなら化け物相手でも遅れを取る気はさらさらない。

 なので、今は逃げる事だけに集中する。そう決めると、クオンは左腕と両脚で体の回転を制御し、足から着地した。そして着地の衝撃を前へ進む力に転換して、一人と一匹を脇に抱えたまま村の方へと走った。

 これでこのまま走り続ければ大丈夫、というような生易しい相手ならどれだけ気が楽だったろうか。だが、そこまで上手く事が運ぶことこそが稀だということを、クオンは知っていた。

 バキバキ、ズドン、ベギャメキョ。と、踏む度に少しずつ違う騒音を撒き散らす巨獣の足は、一歩毎に着実にクオン達に迫って来ていた。それは振り返らずとも破壊音と地響きの大きさで明らかだった。

 如何に鍛錬で体を鍛えていようが、所詮クオンは一人の育ち盛りの少年に過ぎない。いや、仮にもっと腕っ節が強くて走るのが速い大人だとしても同じことだ。ただの人間では馬はおろか、狼や猪にだって足の速さでは敵いっこない。勿論、この化け物にだって。

「おにいちゃん……」

 何かを感じ取ったのか、あるいは後ろから迫り来る化け物に怯えているのか、ナヤが心細げな声を上げた。

 だが、大丈夫だ。

「心配するな。ちゃんと村まで帰してやるから」

 そう言うと、クオンは胸の中心より少し下、鳩尾の前辺りに左手の札を構え、そのまま前方へと身を投じた。

「吹き抜けよ、《エアール》!」

 その声に合わせ、クオンの胸と地面の間に宵闇を切り裂く緑の光が溢れ返った。そしてクオンの体が墜落する寸前で、先程と同じく風が吹き荒れた。

 だが、今度の風は一か所に瞬間的に空気を出現させてできる爆風ではなく、継続的に一方向へと空気を吐き出し続ける奔流だった。その方向とは後方、クオンの足のある方だ。

 そして、湧き出る空気の流れがクッションとなって地面にぶつかりかけていたクオンの体はふわりと浮き上がり、そのまま地上すれすれを滑空し始めた。

「わあっ!? わっ、わぁ?」

 倒れて地面にぶつかると思ったのかナヤが悲鳴を上げていたが、その声も途中から疑問に変わる。

(流石にこの状況で歓声を上げられるほどすっ飛んだ子じゃないか)

 そう胸中で一人呟きながら、クオンは風の流れを細かく制御し始めた。そして程なく地響きは遠ざかり、夜の森の中を地面すれすれで低空飛行する二人と一匹という、奇妙な光景が出来上がった。

「メェ……」

 危機が去ったのを感じたのか、ナヤの腕の中の子羊は小さくひと鳴きした。

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