第三十話 甦える記憶

「光、光」

 平帆太郎明明は毎夜、同じ夢にうなされる。光という自分に取って大切な姫が深い崖から転落しようとしている。自分は必死にその手を握ろうとするのだがもう一歩のところで損なってしまう。光は地下の魔王の手によって地下深くに消え入ってしまう。

「光!」

 虚しい叫びで目が覚める。夜はまだ深い。

「光」

 帆太郎は呟く。その姫が自分に取ってかけがえのない女性だと言う事は分かるのだが、それが誰で、どんな関わりの女性か分からない。結局、自分が帆太郎という名前だと言う事しか記憶にない。深夜の寝屋で帆太郎は懊悩する。

「私は一体、何者なのか」

 大斧大吉、梅田大輔、大斧小吉、木偶坊乞慶、蟹丸、茹で蛸、難破時化丸という男たちが自分を、

「殿」

 と呼ぶ。何故か分からないが、甲斐甲斐しく世話をしてくれる。ありがたい事だ。しかし何故、そんなに尽くしてくれるのかが分からない。光明法師という寺の住職が何かと説法をしてくれる。「人間の記憶とは摩訶不思議なものである。現実に起こった事を忘れ、ありもしない事を現実と勘違いする」と。光という女性が無限の地獄に墜ちていることなど、実際にはありもしない。だが、自分は彼女を助けたい。この手で抱きしめたい。自分は好色ではない。だが、その欲望だけはなんとしてもなさねばならぬ。夜が空けるまで光を思う。そして、空虚な気持ちで飯を食らい。僧侶達や大吉達の成す事をぼんやりと見ている。そんな毎日が続く。自分はこの世の役に立たないものなのか。苦悩は続く。


 時は少し、遡る。

 征夷大将軍となり、平氏討伐に赴く事になった源重朝は叔父である対馬守義為の館を尋ねていた。目的はいとこである、光姫に逢うためである。

「光姫。この度の帆太郎様の件。深くお悔やみ申し上げます」

 重朝は哀悼の意を示した。

「ありがとうございます」

 光姫は気丈に対応した。

「実は、貴女だけにお教えしたい事があります」

「何でしょう」

「私は平氏を倒した後、四万の兵を引き連れ、坂東に行こうと思っています」

「都には戻らないのですか」

「はい。坂東に渡り、そこで征夷大将軍として政を担おうと思います」

「帝に反逆すると言う事ですか」

「いえ、朝廷に巣食う、左大臣、藤原不平等を追い落としたいと考えています」

「まあ」

「そこで、提案なのですが、貴女も一緒に坂東へ下りませんか。もちろん源太郎君も一緒です。そこで、帆太郎様の菩提を弔いませんか」

「父に相談しなければ」

 光姫は言った。

「それは、いけません。私の坂東行きは誰にも知られてはならないのです」

 重朝は強く言った。

「黙って、坂東に行くと言う事ですか?」

「そうです。隠密裏です」

「分かりました。夫が生まれ、そして終焉した場所に源太郎と共に参りたいと思います」

「ならば今夜、こっそりと万福寺においで下さい。家臣の安達安盛(あだち・やすもり)がお待ちしております。輿を用意しておきますのでそれにお乗り下さい。後は万事、私にお任せあれ」

 重朝は胸を叩いた。

 その夜、光姫は女中も付けず、対馬守義為の館を出た。源太郎を連れてである。万福寺は館のすぐ側である。

「光姫、お待ちしておりました」

 安達安盛は松明を持って待っていた。

「ご足労を掛けます」

 光姫は安盛を労う。

「重朝の殿は近々に平氏を滅亡させる戦いに出ます。我らは討伐軍につかず離れずついて行きます。お時間は掛かりますが、屈強な兵を警護に取り揃えましたのでご安心下さい」

 安盛は言った。

「お世話になります」

 光姫はお礼をした。


 はっきり言おう。重朝はいとこの光姫が好きだった。正室の甘子は気が異常なまでに強く、さらに嫉妬深かった。重朝は実は辟易していた。対して光姫は芯こそ強いものの、物腰は柔らかで優しい。重朝は光姫と婚姻したかった。しかし、河内源氏との絆を深めたい宝条氏時が強引に甘子との婚姻を進めてしまった。甘子は重朝の父、源頼親の妻時子の妹だ。その事も重朝に複雑な感情を引き起こさせていた。重朝は光姫に帆太郎の菩提を弔わせ、帆太郎が死んだ事を実感させた後、自分の側室にしようと思い立った。それにしても甘子には内緒である。ばれたら『後妻討ち』をするに決まっている。甘子は、重朝にとって恐怖でしかなかった。だから、秘密のうちに事を運ばねばならなかった。なので、甘子は都に留め置いた。重朝の裏切りに気付いた藤原不平等に殺されてしまえとまで内心思っていた。

 そして、尾張国、桶狭間で重朝は平氏を滅亡させた。これで、野望の第一歩がなった。次は坂東への道を突き進むだけである。勝利を祝う陣中に、安達安盛に守られた光姫の輿がやって来た。

「ご勝利、おめでとうございます。夫、帆太郎明明に成り代わり御礼申し上げます」

 光姫は言った。

「ありがとう。次は坂東です。ここからは我が陣中に守らせて行きましょう」

 重朝は努めて冷静に言った。心の興奮を見せる訳にはいかない。

「はい」

 光姫は答えた。


 そのころ、都では祝勝の気配が満ちあふれていた。『平氏、滅亡す』。藤原不平等は喜びに浸り、一人昼酒を呑んでいた。ところが、ところがである。勝利した重朝軍が一向に凱旋しない。

「どないなってるねん」

 不平等は詰問使を派遣した。その結果は驚くべきものだった。

『都にはもう戻りません。私は坂東に行き、征夷大将軍として政を担います』

 重朝は返答した。

『それならそれで結構。ただし、我が私兵四万を返せ』

 さらに詰問使を送ると、

『四万の兵は我に帰順しました。故にお返しできません』

 重朝は言って来た。

「なんやて」

 不平等は吃驚した。

「追討軍や、追討軍や」

 不平等は怒鳴ったが、兵もそれを指揮するものも払底していた。


 平氏滅亡、重朝軍、坂東に来たるの報を受けた、江戸留守居、千葉秋胤と平塚青芝は驚愕した。

「さて、いかがするべきか」

 千葉秋胤は言った。

「抵抗するか、帰順するか」

 それに対して平塚青芝は、

「千葉殿は好きにするが良かろう。わしは、孫やひ孫を全て殺された。例えこの身が滅びようとも徹底的に抗戦する」

 と怒りに震えて答えた。

「じゃが、敵は四万と聞く。我ら五百の兵で戦っても螳螂の斧。あっという間に蹂躙されてしまうであろう」

 と秋胤。

「それはそうじゃが」

「ここはひとつ江戸を明け渡し、各々の本拠にて様子をうかがうのがよろしいではないか」

「うぬ。仕方あるまい。水盛が育んだこの江戸を明け渡すは口惜しいが」

 青芝は歯噛みすると、秋胤に同心した。


 征夷大将軍、源重朝の軍は足柄峠に差し掛かった。かつての大戦で兵、一万八千に守られていた砦も今は面影無く、無人の峠を悠々と進んだ。

 宝条氏時は嫡男、旨時を失って一時、憔悴していたが気を取り直し、

「良時、これからはお主が宝条を盛り立てよ」

 と次男、小次郎良時に期待を掛けていた。その良時が重朝に尋ねた。

「大樹、本拠地を如何致しますか。やはり、坂東の中心、江戸でございますか」

「いや、江戸は滅亡した平氏の本拠地。縁起が悪い」

 重朝は却下した。

「では何処に」

「かつて、東の旧帝が鎌倉に都を立てたであろう。そこを大々的に改修して本拠とする」

「なるほど、ご慧眼」

「それとな、私は光姫と源太郎君をお連れして武蔵国、鶴見にある苦災寺に行き、前の大将軍、帆太郎様の菩提を弔う。舅殿、小次郎、先見し鎌倉の縄張りを頼む」

「ははあ」

 氏時達は先発した。

 重朝は安達安盛に熊虎狼痢を引き連れ、光姫と源太郎を伴って、苦災寺に向かった。苦災寺は森の中にあり、見つけ辛い。安盛は民人に道を聞きながら、それを見つけた。熊虎狼痢は前の平氏討伐で厚盛を討った後元気を失っていた。いくら敵の大将とは言え、若年。それに鎧の下に笛を持つ風流人。そんな善良の若者の命を野蛮な自分が討ち取って何の手柄になる。これなら、経法などの武勇の者と当たれば良かった。後悔の念が心を苛む。戦とは悲喜こもごもである。

「あれが苦災寺です」

 重朝は光姫にいった。

「大樹殿、私は源太郎と二人で菩提を弔いたいと思います。話す事が沢山あるからです。その間、大樹は住職と面会していてくれませんか」

光姫が言った。

「そうですか。うん、そのようにされるが良かろう」

 帆太郎と最期の別れをし、その後、自分の側室になるよう口説く。重朝はその時使う美辞麗句を考えていた。


 重朝は本堂に向かった。所々、火事で燃えたように炭になった材木が転がっている。

「なんだ、この荒れ寺は。なぜ帆太郎様がこのような場所に葬られているのだ」

 重朝は訝しがった。

 境内には五人の修行僧がいた。

「あい、済まぬ。私は征夷大将軍、源重朝というものです。ここに前の征夷大将軍、平帆太郎明明殿の墓があると聞き、菩提を弔いに参りました。是非、住職殿にお逢いしたい」

 重朝は名乗った。それに対して、修行僧は困った顔をする。

「我が師、光明法師は誠に言いにくい事ながら、亡くなった平氏一門の法要をしております。大樹殿は一門を滅亡させた方。お逢いになるのはご遠慮下された方が良いのでは」

 修行僧の一人が言った。

「なんと、ここは平氏の菩提寺か」

「そうではございませんが、我が師は亡くなった武蔵守様の兄でございます」

「武蔵守の兄様。それは、風花太郎平光明殿と言う事ですか」

「さようでございます」

「ならば、私は住職の仇。遠慮したがよろしいか」

「はい」

 修行僧は言った。しかし、その時、

「構わぬ。次郎らの最期、わしに聞かせてくれ」

 住職、光明法師が現れた。

「よろしいので」

 重朝が尋ねると、

「戦の勝敗は時の運。其方に遺恨は無い」

 光明法師は答え、本堂に案内した。

 本堂には巨大な不動明王像があった。右手に黄金の利剣、左に真珠で出来た羂索を握りしめている。恐ろしい形相である。

「次郎は、武蔵守は潔く戦い、死んだか」

 住職は尋ねた。

「武蔵守殿初め一門の方々は勇敢に戦い。落命されました。特に武蔵守様のご最期、古式に則った見事なご切腹。介錯した我が家臣、鈴木高綱は感動しておりました」

「そうか」

 住職は一瞬胸が詰まったような顔をした。

「ところで、貴殿はなぜ、坂東に来た。都に凱旋すれば栄誉を受ける事、約束されているだろうに」

 住職は聞いた。

「私は、この坂東で政を担おうと考えております」

「武家の政権を作るのじゃな」

「はい」

「西の都を裏切るのじゃな」

「いいえ、私は都に巣食う公家ども、中でも藤原不平等を倒そうと思うだけで、帝に歯向かう事など、考えていません」

「そうか」

 住職は考えると、

「それは国中の民人の幸せにつながるか」

 質問した。

「そう思います」

「武蔵守は民を守り、幸せにするため力を注いで来た。そして、道半ばで倒れた。わしも昔、同じ考えを持って行動し、破れた。貴殿にその思いを託していいのか」

「はい。そのように努力いたします」

 重朝ははっきりと答えた。

「ならば良い。この坂東を基盤として全国津々浦々にその政策を広めよ」

「はっ」

 思わず、重朝は平伏した。


 そのころ、光姫は源太郎と帆太郎の墓標に手を合わせていた。

「あなた、あなたと過ごした日々は余りに短うございました。しかし、その濃密な時間、光は忘れません。私はこれから剃髪し、源太郎を育てながらあなたの事を思い続けます」

 涙が頬を伝う。これが帆太郎との別れだ。光姫は知っている。重朝が自分を側室にしようとしている事を。だが断固拒絶するつもりだった。確かに重朝は親切で優しい。しかし、その裏にある欲望が光姫には見えていた。重朝は聖人君子の皮を被った野心者だ。帆太郎とは違う。それに屈する気持ちは無い。

 光姫はそろそろ立ち去ろうと思った。重朝の来る前に出てしまおう。重朝配下の熊虎狼痢は蛮将と知られているが、本当は涙もろくて直情の持ち主だった。彼に事情を話し、逃げるのを手伝って貰おう。そう思っていると、

「光」

 誰かがその名を呼んだ。

「えっ」

 振り向く光姫。

「貴女は、光であろう」

 帆太郎だった。

「光、私は記憶を失っていて、貴女と私の繋がりが分からない。だが毎夜、貴女が夢に出て来て苦難に遭っている。私はそれを助けよう。そして抱こうとしている。貴女は一体何者なのだ」

「帆太郎様、私は、私は貴方の……妻です」

 光姫は帆太郎に駆け寄り、思いっきり抱きしめた。

「妻……そうだ、光は我が妻だ!」

 帆太郎の心が開いた。

「光!」

「貴方!」

 その瞬間、帆太郎の記憶は甦った。

「光、光!」

「貴方」

 抱擁は続いた。


「えっ?」

 帆太郎の墓標を訪れた重朝は、信じられない光景を見た。帆太郎が生きて、光姫を抱いている。

(なぜだ!)

 心で吠えた。

 帆太郎の亡霊であろうか。いや、違う。尊敬する帆太郎が生きていたのは嬉しい。しかし、こうなると光姫は我がものにならなくなる。重朝は激しい嫉妬に駆られた。そして墓標を離れ、足早に立ち去った。

 寺の外には安達安盛と熊虎狼痢が待っていた。

「鎌倉に急ぐぞ」

 重朝は不機嫌そうに言った。

「光姫と源太郎君は」

 安達安盛が聞く。

「知らん」

 そう言うと重朝は馬を走らせた。

「輿は」

「捨ててしまえ」

 慌てて追いかける二人。訳が分からなかった。

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