第25話
それは突然訪れた。
降って湧いた出来事とはこういう事を言うのだろう。
こんな事が起こるなんて、まさにそれが起こる瞬間まで考えた事はなかった。
でも起こったのだ。
それが事実で、真実で、現実だった。
俺と凛は誘拐された。
いつものように、龍や遥を入れた四人で遊んだ帰り道の事だった。俺は幼い妹の手を引き、家に入ろうとしたその瞬間。後ろから何かを押し当てられた感覚があったかと思うと、一瞬で意識を失っていた。
次に意識を取り戻したのは、見知らぬ暗い部屋の中だった。状況が解らず戸惑うしかない。とりあえず、立ち上がろうとして気付く。俺は木でできた椅子にロープできつく縛り上げられていた。口には猿轡がされている。一歩も身動きを取る事が出来ない。
かろうじて動く首を動かして部屋の中を見渡す。薄暗い部屋の中に見えたのは、あまりに恐ろしいものだった。
包丁。鋸。ナイフ。ハンマー。はんだごて。電動ネジ回し。やすり。ペンチ。ホッチキス。スプレー缶。金属バット。ロープ。ガスバーナー。チェーンソー。
日常生活の中で目にするものでありながら、凶器となりえると考えられるものが、無造作に堆く積まれていた。
「っ!」
あまりの恐ろしさに声にならない悲鳴を上げた。猿轡のせいで、それはくぐもった声にしかならない。
拘束されたままで無理矢理動こうとして、椅子が倒れる。受身を取る事も叶わず、そのまま床に叩きつけられた。
そして、その時になって初めて自分の真後ろにいた存在に気がつく。
椅子の上に自分と同じように猿轡をつけられ、拘束された妹が座っていた。今までは背中合わせの体勢で座らされていた為に視界に入っていなかったのだ。
「んっ!」
「凛っ!」と言おうとしたが、猿轡の為に声にはならなかった。
「おや、やっとお目覚めかな」
その声は、仰向けに倒れた俺の脳天の方向から聞こえてきた。
見上げる様に声の主を見る。
「おはようございます。誘拐犯です」
男は場違いな満面の笑みを湛えて、俺を見下ろしていた。
見たところ、歳は二十に達しているのだろうか。大人と子供の境目。そんな存在に見えた。
お世辞にも容姿がいいとは言えない男だった。だらしなく伸びた髪がどことなく不潔な印象を与える。つぶれた鼻に、厚い唇。ぎょろぎょろと光る眼が特徴的だった。
「うん。ちょっと。聞きたい事があって誘拐させてもらったんだ。そうなんだ。うん」
まるで自分自身に言い聞かせるような口調で、男は言葉を紡ぎ始めた。
男の目はどこを見ているのか解らないくらいギョロギョロと激しく動いた。落ち着かなさそうに足踏みをしている。
「僕はね。どうして、こんな事をしたかというとね。聞きたい事があったからなんだ」
男は痒いのだろうか。頭を乱暴にガシガシと掻き毟っている。
男は俺を見下ろしたまま言った。
「人は他人の為に自分を犠牲にできると思う?」
今までたどたどしかった男の言葉がこの時になってずっしりとした重みを持ち、俺に降りかかって来た。
そして、この言葉は俺の心の中にべったりと入り込んできた。まるで泥水が渇いた砂の地面にぶちまけられたようだ。ゆっくりとじわじわと、泥水は砂を浸食していく。
この時の俺は恐怖と混乱で何も言う事が出来なかった。
「僕は。うん。それを確かめたくて。うん。そうなんだ」
「そうなんだ、そうなんだ」と呟くように繰り返しながら、男は恐ろしい凶器の山に手を突っ込んだ。
「うん、まあ、この辺かな」
手に持っていた物は、鋸やはんだごて等、特に統一感は感じられなかった。本当に無造作にそれを掴み取ったという印象だった。
「さて、どうしよう……どちらからやろう……」
男は俺と凛を品定めするように見比べた。
そして、俺は今から恐ろしい事が始まろうとしている事に気がついた。
あまりの恐怖の為に俺は失禁した。ズボンの中が俄かに暖かく湿る。胃の内容物がせぐりあげてくるのを感じる。涙が止まらなくなる。歯の根が合わず、がたがたと身体が震えだした。猿轡があふれ出した唾液で塗れる。
「ああ、汚いな」
男は顔をしかめて俺を見ていた。
「とりあえず、綺麗な方からやろう」
男は無造作に凛を縛り付けていた椅子を手に掴んだ。凛はまだ目を覚ましていないようだった。
「っ!」
俺は声にならない声を上げて、抗議する。
男はギョロリとした眼を俺の方に向けた。
「それとも君が妹の代わりに先にやられる……?」
「うう!」
俺は恐怖した。
凛が殺される。
俺は殺される。
凛が。俺が。凛が。
男は俺の前にしゃがみこんで言った。
「君に選ばせてあげる」
この男は何を言いだそうとしている。
「生き残れるのは、君か妹どちらか一人だけだ……」
男は残酷な一言を言い放った。
「どっちが死ぬ?」
俺の頭の中は真っ白になった。
生き残れる
でもどちらかだけ 俺は助かる 凛は でも俺は助かる
凛は どうして あれは
凛はどうする
助けて
凛は助けて
自分は どっちかだけ
死ぬのは
死ぬのは
死ぬのは
――――死ぬのは嫌だ
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