第2話 幻想、現想

-零-


――死ぬ程楽だって? 何を君は言ってるんだい?

――死ぬことより楽なことなんてあるわけ無いだろう?


 -一-


 春が来た。長く感じた冬が終わり、枯れた木々には花が咲いて、この季節の定番である桜がそこかしこで咲き、そしてあっけなく散っていく。分厚いコートで身を守ってた人々も段々と薄着に変わって身軽になっていく。何となく曇天が多かったような空は晴れの日が多くなり、微かな温もりを与えるだけだった太陽は今は確かな暖かさを僕らに感じさせてくれていた。

 そして僕は大学生になった。

 あの事件はどうやら僕に何らかの精神的ダメージを与えていたのか、予想以上にあっさりと前期試験を失敗してしまった。元々が先生に持ち上げられて挑戦したようなもので、僕自身はあまり受かるとは思ってなかったからダメージは大きくはない。

なまじ成績が良かったから誤解されがちだが、僕自身の能力はそれほど高くはない。確かに高校では上位にいたけれど、それだってただ勉強をしていたからそのポジションに入れただけだ。部活にも入らず、あまり趣味もない。一人距離の割に自転車で通っていたから一緒に帰るような友達もいないし、地元の友人は高校以降疎遠になっていた。なにより、僕自身あまり友達と遊ぼうという気にもなれなかった。

 気軽に話せる友達はいた。けれども彼らは同じ塾に通っている仲間同士で仲が良かったから僕が深く入り込むスペースは無い。その程度の付き合いの友人とつるむ気も起きず、だから僕は時たまテレビを観るだけで、勉強をするくらいしか無かった。

 人並み以上に勉強はしたつもりだ。それでいて第一志望校にかろうじて受かる程度の実力しか無い。教科書レベル、もしくはそれより少し程度の高い問題しか解けないのだ。もうすでに学力レベルは僕の限界に達していて、だからこそ受験に失敗しても「やっぱりか」程度にしか思えなかった。

 何にしろ、期待されるのは僕にとって過大評価に過ぎない。過ぎなくて、でもその期待に応えたいとは思ってしまう。そして、期待に応えられなかったのは悔しい。自分の能力不足を棚に上げて、原因をあの事件に求めてしまうのはきっと僕の持つ弱さなんだろう。

幸いにして後期試験で別の大学に合格し、晴れて僕は大学生という気楽な肩書きを手に入れる事ができた。本来ならばここでも必死に勉学に励むべきなのだろうけど、そんな気概を持っている学生が日本全国にどれだけいるのだろうか。誰かそこのところを調べてみてくれないだろうか。もっとも、僕は調べるつもりは猫の毛先ほどもないけれど。

 大学生。そこそこの責任と大きな自由。モラトリアムの時間。何と素晴らしい。そこで得るのは経験か、堕落か、それとも怠惰か。きっとそのどれでも無くて、その全てなんだろう。

 僕自身は奨学金を受けて学生をしている以上ある程度真面目に勉強するつもりではある。けれど、周囲に流されやすい僕がそれを継続できるかというと我ながら怪しさバツグンで、それなのに無理に抗うのも面倒な話だ。だから僕も大多数の学生の中に埋もれてしまうんだろう。


「えー、こうして運動方程式を立てていくと微分方程式ができあがるわけですが、この場合の微分方程式を解くためにはまず『e』のラムダエックス乗をこの式に代入します。そして……」


 夢も目標も無く毎日を僕は過ごしてきた。その流れに乗ったまま入学式で人生初のスーツを経験し、大学近くの安い木造アパートを借りて一人暮らしをスタートさせた。大学の寮なら家賃はずっと安いけれど、キッチンも風呂もトイレも共同、という環境が嫌で、アパートを借りた。最低でも風呂やトイレくらいは一人で入りたい。よって少々無理したわけだが、まあバイトをすれば何とかなるだろう。どうせお金を使うこともそうそうあるまいし。


「こうすると後は未知定数Aが出てきまして、ここで初期値を使います。t=0の時の……」


 何もかも初めて。だけど初めて尽くしの慣れない環境での時間はあっという間に終りを告げた。これまでとは違う教育システムにさえ、まるでずっと前から知っていたようにすぐに馴染んだ。

不慣れは慣れに、特殊は平凡、非日常は日常に。

 目標は暇つぶしに、希望は退屈に食い潰され、努力は怠惰に塗り潰される。

 そうして一ヶ月が過ぎた。

 チャイムが鳴り響く。それと同時にため息に似た何かがそれぞれの口から吐出された。それは学生だけでなくて授業をしていた教授さえも同様にして同等。


「それでは今日はここまで。さっき言った問題をレポートとしますのでやってくるように」


教科書に印を付け、閉じる。顔を上げると教授はすでに黒板消しで黒板をモスグリーン一色に染め始めていた。

 気の早い学生はすでに教室を飛び出していく。大多数は片付けそっちのけで友達とおしゃべりに興じ、静かだった部屋は今はもう違った色に塗り潰されていた。

 僕もため息を吐き出し、ルーズリーフを教科書に挟みこんで教室を出て行く。吐き出された息には空気以外の何が含まれているのか、僕は興味はない。

 古い建物の、少しだけ暗い教室から出ると空は五月晴れの快晴だった。燦々と降り注ぐ日光に瞳を焼かれて白く染まり、僕は立ちくらむ。


「おっす! きょう、お疲れっ!」


 そんな僕を後ろからの衝撃が現実に引き戻す。振り返るまでもない。背後から底なしの元気で僕に飛び掛ってくるのは一人しかいない。


「なんだ、ちゃんと来てたのか」

「第一声がそれってひどくね?」


 口では非難するものの、その表情に気にした様子も無い。もちろん僕もそれが分かってるからこそ、他人に軽口を叩けるのだ。

 生来なのか、それとも成長していく中でひねくれてしまったのか、僕は口があまり良くない。無論、他人にやたら噛み付いたり失礼なことは言わないが(というより言えないのだが)、一度親しくなると途端にダメだ。自由に口を利ける、という事は一切の気兼ねがなくなるということで、僕は態度もそれ相応に変わる。だから言葉を交わす人間はそれなりにいても友人と言えるのは少ない。というよりも、失礼な態度をとっても大丈夫な人間としかあまり付き合わない、というのが正解か。となれば当然親しい、と言える人間は限られてきて、たった今僕に飛び掛ってきたこの君原正祐も残念ながら僕がそんな態度をとっても大丈夫という、名誉ある称号を勝手に授けられた人間だった。


「冗談だよ。授業中にコソッと後ろから入ってくるのが見えた。ずいぶんと社長出勤だな。大方、先週教えてやったレポートもやってないんだろ? わざわざノートまで貸してやったのに」

「うっ……それは、まあ、なんだ、その……」


 途端に曖昧な笑みを浮かべてしどろもどろになる正祐に、僕はこれ見よがしにため息をついて見せる。わざとらしく肩を竦めて、呆れた、といった態度を示す。もちろんこれもポーズだ。

身長一七三cmと、一七二cmの僕とほぼ同じ背丈で体重もほぼ同じ。だけども日本人特有さを大事にしている僕とは違って正祐は、昔からなのかそれともいわゆる大学デビューなのかは知らないけど、髪を見事なまでの金髪に染めていた。男の顔なんぞ見ても嬉しくもなんとも無いが、表現するならば髪の色以外の容姿は至って普通。ややイケメンよりか。初回の授業から寝坊し、入学当初から合コンや徹夜で遊び倒すという、まさに絵に描いたような大学生生活を満喫している。テニスサークルに所属していて、今も形だけのラケットを肩から下げているコイツに「テニス好きなのか?」と尋ねた時は予想通りの返事が返ってきて逆に驚いた。


「だって楽しい大学生活を送るためにはテニスサークルは必須っしょ?」


 ノリが良いのは構わないが、少々世の中をなめてるんじゃないのか、と思わないでも無い。

 黒髪黒目黒ぶちメガネで工学部所属。他人の性格評価で「落ち着きすぎてて若さが足りない」というなんとも有難い評価を得た地味な僕とは正反対の若々しい、ともすれば幼すぎる、とも形容できる正祐とは何故か気が合った。同じ学科の懇親会会場で話したのがきっかけだったが、それ以来一緒に過ごすことが多くなっている。主に僕が世話をしている気がしないでもないが。


「もういいや。単位落としちまえよ。どうせもう出席足りないんだし」

「いやいやいや! まだ大丈夫大丈夫! まだ一ヶ月だしこれから毎回レポート出せばなんとかなる! ほら、もう一通り楽しんだからこれからは心を入れ替えて生活するし!」


 僕なんかと一緒にいるよりも、もっと楽しく過ごせる人間がいるんじゃないのか、と思わないでもないが、僕としてもまあこういった話し相手はそうそう得られるわけでも無いのでそこは黙っておく。実はコイツマゾなんじゃないか、と思ったのはあくまで秘密で。


「もう一ヶ月だし、そろそろお前もバイト始めるんじゃないのか? この前言ってただろ」

「あー、うぅ……」

「あーうー、じゃねえよ。ま、どうせ僕には関係ないけどな」

「いやー、そこはね、ほらさ、友達を助けると思って教えてくれると嬉しいかなー、なんて……」

「やだ」

「頼む!」


そう言ってパン、とやけに景気いい音を立てて手を合わせてくる。無論僕は神様でも仏様でも無いのでご利益は無い。無いはずなんだけど……


「……」


 狭いキャンパスのど真ん中でこうも真剣に拝まれると、どうもやりづらい。今も他の人がチラチラとこっちを見ながら通り過ぎていって、向こうは特に何も思う所は無いのだろうけど僕としては異常に居心地が悪い。大した事では無いと分かってはいるのだが、大勢に注目されるのはどうも苦手だ。太陽の熱とは別の意味で背中にびっしりと汗が浮き出てくるのが分かって、この異常事態を終わらせるために僕はもう一度ため息をついてみせた。


「分かったよ……でも寝ててもいいから授業だけはちゃんと参加してろよ。出席点が足りないのはどうしようもないからな」

「さんきゅっ! 心の友よ、恩に着るぜっ!」


 何処かのいじめっ子みたいなセリフを口にしながら抱きついてくる正祐。そっち系の趣味など繊毛の先ほども無い僕は横に逸れて、それを丁寧にお断りする。


「とりあえず食堂に行くか……」


 抱きついた先がエアーだったにも関わらず抱きしめるポーズを続ける正祐を無視して僕は食堂に足を向けた。くだらない会話に時間を取られて、いつの間にか周囲の人影もだいぶ減っている。このままだと席が空いてるかどうか。


「おい、ボーっとしてないで……」

「何してんだ? さっさと飯食おうぜー」


 後ろにいたはずの正祐が何故かすでに前にいて僕を呼ぶ。テレポーターか、貴様は。

 僕のくだらない葛藤をよそに悩みの種が解消されたからか、実に晴れやかな表情だ。他力本願なのが癪にさわらないでもないが、まあこれもコイツの生き方なんだろう。別に悪いことじゃない。


「? おーい。もしもーし」


でもまあ、コイツのおかげでそこそこに退屈しない学生生活を送れそうだし、事実、高校時代よりも楽しいと僕は感じられてる。その代償と考えれば単位の世話くらい安いものだろう。

 止めていた足を動き出し、正祐の隣に並ぶ。少しだけ僕の前を歩いてるのが表してるみたいに、僕をこれからも引っ張っていってくれるんじゃないかと予感してる。いや、これは願望か。ずっとレールの上を歩き続けてる僕が、ちょっとだけ道を外すのを許してくれるという。


「ん?」


 一歩二歩と歩き始めたその途端に何かの気配を感じて僕は振り向いた。けれど振り向いた先には誰もおらず、感じた気配もすでに無くなっていた。誰かに見られてた、というのとはちょっと違う。誰かに見られてる意識というのはずっと昔から強く感じてきたから良く知っている。今回感じたのはそれとはまた違った、妙な感じ。例えるなら急に生暖かい風が首筋を撫でたような、空気の異常。明確な違いは感じた僕にしか分からず、誰にも説明できない歯がゆい違和感。それが指向性を持って僕に襲いかかってきていた。


「どうしたんだ?」

「いや、何でもないよ」


 首を振って正祐に僕は答えた。どうせ大した事は無い。どうにも僕は周囲に対して敏感すぎるのだ。自分に関係ない事でも気になってしまう、僕の悪い癖。そんなのでデリケートな胃にダメージを与えるのもバカらしい。些細な事だ、どうせ。

 割り切って僕は忘れる事にした。僕と関係ない事ならそれで良い。関係してくるならその時、だ。どうせ原因も分からないなら対処のしようが無い。


「あっ!」


 食堂に入った途端に正祐はそんな声を上げた。違和感について考えてたせいで、正祐が何かを見つけたのかと思ったけど、正祐は自分の財布をこれでもか、と言わんばかりに凝視してた。賑わってる、このキャンパス唯一の食堂のせいであまり周りの関心は集めなかったが、ワナワナと震えながら大声を出しやがったおかげですぐ後ろの人から何事か、という視線をビシビシと感じる。だがコイツはそんな事お構いなしに、またしても僕に向かって手を合わせてきた。


「……金貸してくんない?」


 そう言って四円しかない財布を見せてきた正祐を僕はグーで殴っていたりする。


 -二-


 大学に入った途端に年齢というものはスキップされるものだと僕は考えている。具体的には入学した瞬間に誰であろうと二十歳になる。それくらいお酒についてみんな頓着は無くなるし、周りの大人たちも誰も注意はしない。よほど無茶な飲み方をしない限りは目くじらをたてることも無い。実際、入学早々お酒を飲む機会には事欠かないし、今日もまた僕はその席で一人黙々とグラスを傾けていた。

 酒の場は嫌いではない。けれど、見知らぬ人たちの中で心から楽しむことなど僕には到底無理だと、大学入学してからの一ヶ月で学んでいる。酒を思いっきり飲むのは気心の知れた友人とだけ。そう決めていた僕は今日開かれたとあるサークルの歓迎会に、ただ食費が浮くからという理由だけで参加して、勧誘に近寄ってくる先輩たちと適当に話を合わせながら料理と酒を楽しんだ。周りの空気にあてられてそれなりに楽しくはあったけど、所詮それだけだ。僕という人間がそんな会で心から楽しめるはずもなく、僕も最初からそれが分かっていたから、二次会のお誘いも断って一人夜空を時折見上げながらアパートへの帰路を歩いていた。

 夜空を眺めるのは良い。特に雲一つない時は最高だ。星座の名前に興味は無いけれど、星を見ると何となく心は落ち着く。まだ少し肌寒い夜風が火照った体に心地良く効いてくる。

 鞄を持たず、財布と携帯と鍵の三種の神器だけを身につけて、誰への気兼ねなく歓迎会の行われた賑やかな街を歩き続けたつもりだった。金曜のおかげで何処の店もドアが開く度に店内の喧噪が漏れ出て街を彩り、そして僕の神経を密やかに逆撫でする。

 楽しそうな声。そして僕には縁の無い世界。

 僕と言う人間が馴染めないのはいささか残念ではあるが、それが僕である以上仕方無い事だ。 

 角を曲がって路地へ。路地は路地でお店がいっぱいあって、店員らしき人が道行く人たちに声を掛けている。そんな路地をさらにもう二、三か所曲がれば急速に声は小さくなり、あっという間に静かな場所が広がる。そしてそここそが僕の居るべき場所。

 逃げたわけじゃない。逃げたわけじゃなくて、僕を繕わないでも大丈夫な世界へと戻っただけ。


「とは言っても…言い訳だよなぁ……」


 ぼやいてみるが、別に気が晴れるわけでもない。

 自然と視線は地面へと下がって視野が狭くなる。それに引きずられるみたいに酒のせいで高めだったテンションも急降下。いつもの高さに落ち着く。暗がりには道行く人が捨てていったゴミがそこかしこに散らばって、まだ夜も早いというのに誰かが胃の中身を戻した跡があった。脇には猫の死体。車にでも跳ねられたのか、寂しく一人で亡くなっている。


「死ぬ時ってどんなだろう……?」


 猫の向こう側に車の影を想像する。急速に迫ってくる車。鳴り響くクラクション。そして衝突音。僕の視界はグルグルと回り回って地面に激突。暖かさも冷たさも何も感じずに意識が黒く染まっていって。

 そして僕の想像は途絶えた。

 いつの間にか閉じていた眼を開く。猫は死んで、僕はまだ生きていた。


「みんな何を考えながら生きてるんだろうね」


 歩きながら独りごちる。

 毎日が楽しくないわけじゃない。一日の中にも楽しい時間、面倒な時間、辛い時間、悲しい時間があって、辛い時や悲しい時よりもずっと楽しい時間が多い。

 気心の知れた友達と過ごすのは幸せ。

 ご飯を食べている時は幸せ。

 眠い時に眠る。それも幸せ。

 幸せだと思える時間はそれなりにあるはずで、毎日それを僕は享受している。だから僕は幸せなはずだ。

 なのに。

 その幸せな時間さえも面倒だと感じている僕がいる。生きることが面倒だと感じている僕が確かにそこにいる。

 罰当たりだ、と思う。生きたいのに生きられない人、生きることを拒否される人は世の中にはいて、僕はその中で生きることをまだ許されている。これだけでも幸せなんだろう、きっと。


「そのはずなんだけど……」


 死んでもいい、と思ってる自身を否定できない。別に死にたいわけじゃないし、そこまで世の中に絶望してるわけでもない。そもそもが絶望なんてしようが無い。希望が無いから。だから生きていても死んでしまおうが構わない。消極的自殺願望者というべきか。

 願うのは緩やかにして急速な死。いつ死んでも誰も恨まないし、死ぬ時はあっさりと死んでしまいたいという僕のわがまま。そしてそれはたぶん、実現しないんだろう。世界はそこまで僕に都合良くはできていない。

 こんな風に考えてしまうのは僕だけなんだろうか。もしそうなら、他の人は何を願って生きているんだろうか。


「まったく……」


 自分にため息が出る。いつまで経っても治らない僕の癖。どれだけ歳を無駄に食えばこの思春期みたいな思考から抜け出せるんだろうか。


「さっさと帰って寝るか……」


 こんな何の生産性も無いクソッタレな考えは寝て忘れてしまうに限る。寝て起きればまたいつもと同じ朝。そして相似な一日を過ごしていくだけだ。

 と言いつつも気づけば僕は見慣れない場所へと入り込んでいた。元々があまり通ったことの無い道だったから、何処かで曲がる場所を間違えたのだろうか。立ち止まって振り返ってみるけど、もうすでに自分が何処にいるのか分からなかった。

 戻るか、それとも進むか。

 普段だったら戻るんだろうけど、と思いつつも僕は前に足を進める。アルコールが入ると無駄にアクティブになるのも僕の悪癖の一つだ。

 真っ直ぐ進めばその内に大通りに出るだろう。地球は丸いのだから。少し火照った頭で気楽にそう考えながら、静まり返った狭い路地が多くある住宅街を歩いた。

 そうして十分も歩いただろうか。時計を見てなかったのでどのくらい経ったかは分からない。そしてふと気づく。


「風が無いな……」


 昼間の陽気そのままの格好の僕に肌寒い風が吹いていたけど、今は完全に止んでいた。いや、止んでいたと表現するのは正しくない。


「よどんでいる、の方が正解かな」


 全くの無風。風が無いどころの話では無い。木々は静まり返り、服は揺れず、空気の流れが一切感じられない。妙に息苦しくて、自分が暑いのかそれとも寒いのかも微妙。もしこの状態が続けば、空気も腐り落ちてしまうのではないかとさえ思える。


「まるで世界が隔離されてしまったみたいだ……」


 小説でよくあるストーリーが思い出した。突然異世界に召喚されて、右も左も分からぬまま勇者として魔王退治に向かわされる。平凡な日常が突如として終わりを告げ、慣れぬ世界に苦しみながらも仲間に助けられながら目的を果たしてハッピーエンド。だけど現実にそんな事があるはずがない。

 そんなハッピーエンドなんてものは妄想の産物で、有り得ない。有り得ないからこそ皆が物語を愛するのだから。

 気味の悪さを感じて僕は少し早足に歩き始める。一歩を大きく、回転は速く。ともすれば大きな足音が聞こえそうな程に、内心の心細さを誤魔化すように歩く。

 歩きながら違和感を覚える。何かがおかしい。空気だけでなく、何かが足りない。家を出る時に忘れ物をしたような、そんな些細な感覚。些細なのに気になって仕方ない。

 気持ちの悪い汗が背中を流れている。額に手を当てると、びっしりとした冷や汗がまとわりついた。

 落ち着け。自分に言い聞かす。

 背中を押し続ける焦燥に抗うために一度足を止めて深く息を吸い、空を見上げる。そして気づいた。

 どの家にも灯りが点いていない。まだ寝静まるには夜は浅く、辺りには古い家や対照的な真新しいマンションが建っている。なのに部屋の窓からは一切光が漏れていなかった。そのくせに通りの街灯だけは妙に明々と道路を照らしている。

 加えて音も無い。大通りから離れているからかとも思ったが、ここまで車の音が無いのはおかしい。人の影も無い。眼に入る景色はまるでハリボテの様で生気を感じさせてなかった。

 どうなってるんだ。

 何か変化が欲しくて、僕はポケットに手を入れる。と、携帯に触れた。

 慌てて取り出し、折りたたみ式のそれを開いた。そして半ば予想通りの姿を見た。

 仄かな光を放つ画面の上にある携帯のアンテナは圏外。それなりの都会でこれは有り得ない。試しに正祐に電話を掛けてみるけど、耳にはお決まりの文句しか聞こえてこない。

 その時。

 突然、落雷に似た音が耳をつんざく。地面を揺らし、ハリボテの窓がガタガタと震える。

 それに続いて銃声の様な音。今度は爆発。隣の家の二階が吹っ飛び、破片が空を舞った。


「なっ!?」


 ガラスの雨が僕に向かって降り注ぐ。転がるようにして塀の影に隠れ、両手で頭を覆った。

 屋根の破片だろう。大きな瓦礫が目の前に落ちて弾ける。細かい破片は弾丸の様に手に落ちてくる。


「くぅっ……! 何なんだよ、コレッ!」


 人工物の雨が終わらない内に再び爆音。今度は向かいの家が一気に半ば程崩れるのが見えた。続いてその隣も。

 雨が止んで、ようやく僕は顔を上げた。そして見た。

 黒と白の二色しか無かった夜空が赤く染まっていた。崩壊した家から轟々と炎が昇り、僕を見下ろしていた。いや、見下していた。

 視界一杯に広がる炎が意思を持ったみたいに動きまわり、ただ呆然として見上げるだけの僕を嘲笑っている。そんな気がした。

 首を捻って他の場所に眼を移す。

 爆音や崩壊音に混じって飛び交う怒号。痛いほどの静寂に包まれてたはずなのに騒がしいまでの叫びがそこかしこから上がっている。その事に、僕はやっと気づいた。

 少し離れた、五階建てくらいのマンションの一角が崩れる。外装のパネルがガラガラと音を立ててアスファルトを傷つけ、だがそこから剣を持った男が飛び出すのを見た。

 電柱を蹴り、屋根を蹴って空を舞う人間。いや、人間と言って良いのだろうか。

 何者にも、重力にさえ縛られていないかの様に自由に空を飛び跳ねる。そして手には大剣。物語の世界みたいに戦う彼がそこにいた。


「そっちに行ったぞ!! 援護しろっ!!」


 怒鳴り声に等しい命令が辺りに響いて、それに伴い地面から銃弾が吐き出された。

 目の前で飛び跳ねていた男性を援護するように放たれ、視線をその行き先に動かせばまた別の男が屋根の上に立っていた。

 彼もまたあちこちを飛び跳ね、銃弾をかわしていく。だが、かわしきれていない。

 遠目できちんと見えないけど、かろうじて当たっていない、というのが正しいか。避けると言うよりもよろめいているように見える。


「死ねよぉぉぉっ!」


 何とか体勢を整えて、男が構えた。その瞬間を見て、僕は驚嘆した。

 叫んだと同時に何も持っていなかった掌から火の玉が飛び出す。頭大の炎が剣を持った男目掛けて飛んでいった。

 火球を何度も何度も走りながら撃つ。剣を持った方もジャンプして避けて、少しずつ距離を詰めて行っていた。その一撃一撃が遠目からでも必殺の威力を持っていると分かる。映画の撮影なんかじゃない、紛れもない殺意をぶつけあっていた。

 それは魔法だった。魔法の世界だった。男なら一度は憧れる世界。現実を知らない幼い頃には自分にだってRPGのキャラクターみたいに魔法が使えるんじゃないか、と空想を膨らませていた。そして現実を知って切り捨てざるを得なかった世界が眼の前にあった。

 二人の距離が一足に近づく。至近距離からのファイアーボールを避けると、逆袈裟斬りに手の中の剣を振り上げた。

 そこに影が割り込んだ。見るからに頑丈そうな大きな盾を前面に押し出して、剣を防ぐ。

 一度剣を持った男が離れ、その隙を逃さずに炎を放つ。体を捻って避けたが、恐らく髪くらいは焼けただろう。傍目から見てもそれくらいギリギリのタイミングだった。そしてそれは不幸にも僕の方目掛けて飛んできていた。


「うわぁっ!?」


 我ながら情けない声を出してその場を飛び退く。転げ回りそうにしながらも、僕は驚きを禁じ得無かった。

 体が軽い。

 まともにここ数年は体育以外に運動はしてなくて、僕の体はなまりきっているはず。なのに一足で数メートルの距離を助走もなく悠々と跳んでいた。

 何故だ、という疑問よりも先に僕の中でむくむくと何かがこみ上げてくる。それは誰もが捨てたはずの幻想。遠い昔の憧れ。


――僕にもできるかもしれない


 ふざけた妄想だ、という嘲りに「誰もみていないから」と言い訳して崩れかけた塀に手を掛ける。力は要らない。ただ軽く地面を蹴るだけ。

 果たして、僕は簡単に塀に乗れた。そして塀を蹴る。体が宙を舞う。高く、高く体は浮かび上がり一足で軒先の上へと登り切れた。もう一度脚に少し力を入れれば屋根の上へと辿り着いてしまった。

 流石に彼らほど自由には跳べない。けれども今の僕には十全。高く高く昇り、開けた視界からは彼らの戦いの様子が良く見える。

 彼らから少し離れた所で光が瞬く。どうやら、他の場所でも戦闘が起こっているらしい。何が起きているのか、そんな疑問が浮かぶがそれさえも些事だと投げ捨ててしまう僕がいた。

 グッと拳を握り締める。

 間違いない。僕は高揚している。心臓が高鳴る。こんな気持ちは何年ぶりだろうか。

 再度足に力を込める。屋根を離れ電柱を蹴る。マンションの壁を駆け、別のアパートへ飛び移り、遥か高みから文字通り見下ろす。地面では、彼らと違って自由に跳べないのか、多くの武装をした人たちがある人は空目掛けて銃を放ち、また別の人は地面に力無く転がっていた。その中で一人、あちこちを駆け回っている人がいた。

 かなり長い黒髪に七分のシャツとパンツをはいた女性。申し訳程度に防弾チョッキらしき物を着ているけど、一向に戦闘には参加していなかった。倒れている人の所に駆け寄ってはその人に向かって手を当てていた。


「あれか、ゲームで言うところの回復役みたいな人か」


 しゃがんでは手を当て、また別の場所に飛び跳ねるみたいにして忙しそうに働く。髪が踊り、時折光が彼女の横顔を照らし出していた。

 暗いのと遠いので見えづらいけど、ちょっとだけ見えたその顔は結構可愛かった。横顔だけで判断はできないが、かなり可愛い部類に入ると思う。

 あんまり女性の顔を凝視するのも良くない。そう思った途端、まるで僕に気づいたみたいなタイミングで体を翻して別の場所に行ってしまった。そして入れ替わる様にして別の人が倒れてる人に近寄ってきた。白衣を着た、見るからに医者らしきその人は手際よく道具を取り出して治療を施していった。 

 ならばさっきの女の人は何をしていたのだろうか。

 もう一度手を当てていた女の人を目で追いかける。別の人に手を当てていたが、それ以上他に何かをしている風では無い。その証拠にまた同じ様に医者らしき人が手当を繰り返していた。

 僕は彼女の姿をずっと追いかける。いつしか僕の関心は魔法でも戦闘でも無く、彼女自身に向けられていた。それは我ながらとても珍しいことで、その理由を探していて思い当たった理由につい苦笑いが溢れてくる。

 まさか、彼女に惚れたとか? それこそ有り得ない。僕が誰かに恋をするなんて。

 浮かんだ考えに自分で突っ込みを入れて笑う。ホントに、なんて馬鹿げた考え。

 頭を振ってそんな考えを振り払い、顔を上げた。

 心臓が跳ねた。

 顔を上げて彼女を見た時、彼女もまた僕を見ていたから。

 初めて正面から彼女の顔を見る。大きめの目に小ぶりの鼻。絶世の美人、というわけでは無いけど、愛嬌があって思ったとおりに可愛らしい。そんな彼女がこっちに驚きの表情を浮かべて呆然としていたけど、すぐに我に返って何事かを叫んでいた。だけど悲しいかな、周囲の銃声や爆発音がうるさすぎて全く声が届かない。

 必死で彼女が叫んでる。その表情は慌ててる様でもあり、僕に対して怒っている様でもある。

 きっとこんな所にいる事を責めているんだろう。あるいは危険だから離れろと叫んでいるのか。少し落ち着きを取り戻した頭でそんな事を考える。そうだ、どう考えても僕みたいな人間がいる所では無い。

 そう、僕はあくまで一般人。物語の主人公になりたくてもなれない、力の無い町人Aに過ぎないのだから。傍観者は遠くで勇者の成功を祈るだけでいい。

 そう考えると、僕がひどく場違いな場所にいる気がしてきた。いや、気がする、じゃない。実際に僕はここにいてはいけないのだ。

 彼らは異常だ。そしてこの場所も、空間も。

 ここは危険。ずいぶんと遅かったが、ようやく僕に対して脳が警報を発する。よくよく考えれば今、僕がいる場所も三階建てのアパートの上。柵も何も無い、むき出しの空に僕は接している。なぜ今までこんな危ない場所にいることに気づけなかったのだろうか。

 早くここを離れよう。幸いにして隣の家の屋根までは普段の僕でも降りれる距離。不思議な世界はこれで終り。帰って寝れば何も無かったと信じられる。

――本当に、そうなのか?

 一度知ってしまった世界。憧れ。知ってしまった僕は戻れるのだろうか。

――大丈夫、諦める事には慣れているよ

 自分で自分に語りかける。これまでそうやって生きてきたから。だから僕は変わらない。彼女から眼を離して僕は屋上から飛び降りようとした。


「……え?」


 顔を上げたその時、目の前は白かった。赤かった。そして衝撃。そして灼熱。熱さと痛みが遅れてやって来て、自分を覆っているものが炎だと気づいたのは間抜けにも頭から空へ飛んでしまってからだった。

 アツイ。クルシイ。

 どうする事もできずにもがき、僕は地面に近づいていく。その最中に思ったのは――ああ、これでやっと

 そこで思考は途切れた。



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