モノクロ潰し

新藤悟

第1話 -opening-



 


 寒い。凍えそうだ。

 手袋をしていてもかじかむ両手に力を込め、僕は自転車を走らせる。南国九州とはいえ、冬は当然寒い。現に暗い空からは小雪がちらついて、学校指定のコートの前面にだけ張り付いている。ペダルを漕ぐ足をそのままに片手で雪を払い落とす。地面に落ちた小さな塊は、冷えたアスファルトに落ちて僕の自転車に取り残されていった。冬の風は強くて冷たい。空気は凛として、見上げると、夏とは違った白い雲に覆われていて夜空を微かに白黒まだらに変えていた。僕の回りには誰もいない。時折そばを車が通りすぎていく。雪だけが今は僕のそばにいる。

 雪は好きだけど冬は僕は嫌いだ。けど冬特有の澄んだ空気の夜は大好きで、風が無かったらどんなにいいだろうか。雪が巻き上げられて、車もまばらな国道沿いの街灯に照らされて綺麗に見える。それが風のおかげだというのが少し腹立たしい。

 左手に着けた腕時計を見てみる。時刻は午後九時を回っていた。

 風に負けないよう前傾姿勢にしていた体を起こし、周囲の建物を見る。もう三年間も通り続けた道だから、建物を見れば自分の居場所と帰りつくまでの時間はだいたい分かる。斜め前に煌々と輝くコンビニエンスストアがあった。そこは、冬にはたまに肉まんを買うことがあって、いつ入っても客は僕くらいしかいない。よく経営が成り立ってるな、と思わないでも無いが、それは僕とは関係の無いことだ。僕にとって重宝していれば問題は無い。それに家と高校のちょうど中間点に位置しているから目安にしやすくて、だから家まではまだ後三十分は掛かる。

 寒さに負けて、ちょっと寄って行こうかとも思う。だけど、今日はいつもより遅い。学校に遅くまで残り過ぎた。

 センター試験も終わって、国立大学の前期試験まで後二週間。受験生にとっては最後の追い込みの時期だ。他の同級生はみんな街の塾に通っているけど、中には学校に残って自力で勉強している人もいて、かく言う僕もその内の一人になる。幸いにして成績はまあまあ良かった僕は地元の進学校に入学できて、ウチの高校は高三生だけに夜遅くまで校舎を開放している。暖房の無い冬の教室で勉強するのが嫌なのか、あまり利用する生徒はいないけれど、僕はその恩恵を最大限に享受していると言える。

 遅くまで、とは言ってもだいたい七時過ぎには見回りの教師が来て帰らされる。でも今日は取り組んでいた数学の問題が解けないのが悔しくて、もうちょっとだけ、と無理を言って時間を伸ばしてもらい、気づけば八時前までになっていた。

 見回りに来た担任の数学教師も何も言わず黙って付き添ってくれていたが、途中から時計をチラチラと見始めていた。週末だし、色々と行く所があるのだろう。流石にこれ以上の無理は言えず、そこで中断せざるを得なかったのが残念だった。

 人のいないコンビニの横を通り過ぎていく。腹が減っているけど、小遣いも心許ないし、遅くなると母さんが心配するだろう。電話しようにも携帯は持ってないし、そもそも最近少なくなった電話ボックスを探すよりも、さっさと帰った方がマシな気がする。

 向かい風に負けないよう両足に力を込める。立ちこぎに移行して自転車を加速。眼鏡に張り付く雪が邪魔だけど無視することにする。

 寒い。冷たい風が、頬を切り裂いた様な痛みを与えてくる。

(早く帰ろう……)

 僕は自転車のハンドルを右に切った。国道から逸れて細い道に入っていき、住宅街に出た。同じ様な家が並ぶそこは、たまに帰り道として使う道だ。こっちの方が近くて時間は短縮できるが、夜に通ると街灯が殆ど無いので少し危ない。たまに無灯火で自転車が走ってるから夜にはあまり通らないのだけれど、この日は危なさよりも、早く寒さから脱出したい気持ちが勝った。アスファルトの黒と、道と家を隔てる壁の白さがモノクロの世界を作り出す。壁越しにのぞく常緑樹の緑は、今は夜の色に染められていた。

 この住宅地は、ともすれば迷路の様で、曲がるタイミングを間違えるとすぐ行き止まりに突き当たる。同じ業者が建てた家ばかりなので、景色で判断はつかない。始めて入ったときは、脱出するのに無駄に一時間ほどさ迷ったのも、今となってはいい思い出と言えなくもない。

(もう、ここを通ることも無くなるんだな……)

 受験が終わって合格すれば、僕は県外に行くことになる。こうして自転車で三年間通り続けた通学路を走ることはなくなる。そう考えると、少しだけ感慨深い。

 だけどもまた、引っ越した先で同じ様に通り慣れた道ができて、毎日同じ生活を繰り返し始めていくんだろう。新鮮さは失われて、日常が作り上げられていく。非日常はそこには無い。

 でもそれで構わない。大切なのはいかに素早く新しい事に慣れて日常に組み込むか、だ。毎日が冒険、なんてのは漫画やアニメの中だけでいい。それらを読んで、空想して、時々退屈な日常を残念がる。僕にとってはそれで十分だ。そうして僕らは歳を重ねて大人になり、空想に憧れる少年に苦笑いしながら死んでいく。

 そんな事を考えて時折、我ながら若さが無いな、と自嘲してみる。自嘲して、自分の中でうずく何かに言い訳するみたいにそれで良い、と言い聞かせた。

 そんな事を考えて意識が散漫になっていたんだろう。あるいは、慣れた道程に油断してたのか。何度目か分からない角を曲がって、もう少しで住宅地を抜けようというところで、曲がりしなに何かを見つけた。暗くて分からなかった何かは角に隠れていて、見つけた時には間に合わなかった。

「つうっ!」

 ハンドルを慌てて切り、何とかそれと直撃するのを避ける。思い切りぶつかるのは避けられたが、代わりにバランスを崩した自転車は呆気無く倒れ、僕は硬いアスファルトに投げ出された。痛みが背中を襲い、肺の空気が押し出されて一瞬呼吸が止まった錯覚に陥る。遅れてガシャン、と自転車が塀にぶつかる音が聞こえる。

 何に僕はぶつかりそうになったのか。もし、これが自分の見間違えだったらひどく間抜けだ。かと言ってぶつかって何かを壊してしまったのなら、それはそれで困る。弁償できるほどの余裕はウチには無いのだから。

 痛む背中を押さえつつ不安になりながらも立ち上がって、そっと何かがあった場所に近づく。暗くて確認できないが、何も無い、ということは無く、確かに何かはあった。眼が悪くて夜眼が効きにくい僕は更に近づく。そして息を飲んだ。

 それは人だった。少なくとも僕よりは大柄な男の人で、その人は塀にもたれかかるようにして倒れていた。

 一瞬だけ僕がぶつかったせいか、とも思ったけど、そういう訳でも無いことはすぐ分かった。 

黒いコートの下からのぞく白いワイシャツ。それは汚れていて、何箇所か破れていた。顔の一部には火傷らしき跡があって、だけども塀の影にいるせいで程度は分からない。

 だけども何よりもひどかったのは腹部だった。コートに隠されていたけど、シャツにはべっとりと赤い血が付いていた。まだそれが新しいことは、微かに当たる向かいの家の灯りで分かった。あまりにも生々しく瑞々しい。僕は呆然とそれを眺めてしまった。

――どうすれば良い。

 ひどく非日常的な光景に、その言葉だけがリフレインされる。鼓動は、激しい。

 冷静に、冷静に。自分に言い聞かせ、深呼吸をする。二度、三度繰り返す。

 眼を閉じた。ゆっくり息を吐き出す。それは緊張しやすい僕がたどり着いた単純な方法だ。白い吐息が空気を湿らし、眼を開ける。景色は変わらない。だけども、なんだかひどく落ち着いた自分がそこにいた。

 ひんやりした空気が頬を撫で、頭の中が澄み渡っていくのが感じる。夜空を見上げてみると、雪はもう止んでいたけれど、分厚くなった雲に覆われて星は見えない。

 改めて思う。どうしようか、と。

 選択肢は単純で、助けるか、見捨てるか。人として助けるのは当然な事は知っている。でも、僕の中ではこういう事件とは関わり合いになりたくない、との考えも渦巻いている。

どう考えても普通じゃない出来事。きっと何かの事件だろう。ここで通報すれば、この人は助かるかもしれないし、助からないかもしれない。どちらにせよ、救急車に乗って病院まで付き添って、警察に事情を聞かれて、見ず知らずの人といっぱい話をしなければならない。それが僕にとってはひどく億劫で、想像するだけで胃が痛くなりそうだった。

 足元の人物は時折うめき、荒い呼吸を繰り返している。僕はそれを冷たく見下ろしていた。閑静な住宅地で、冬の夜に人影は全くと言っていいほど無い。そしてそれは、この人物の生死の可能性を僕が一手に握っているとも言えた。

 ひどく面倒臭い。そう思った。

 時計を見る。時刻は九時三十分になろうとしている。

(母さんは…もう帰ってる頃か……)

 もしそうなら、誰もいない家に驚いてるだろう。そして落ち着かずにタバコを何本も消費してるに違いない。僕が帰ってくるのを待って、夕飯にも手をつけずに。あの人はそういう人だ。

「大丈夫ですか? すぐに救急車を呼びますんでちょっと待っててくださいね」

 冷え切った男の人の肩を軽く揺すりながら話しかける。小さなうめきだけが返ってきたかと思うと、一度大きく咳き込んだ。血の混じった飛沫が僕に飛んできてつい顔を顰めてしまう。

 コートの袖でそれを拭き取り、僕は倒れていた自転車を起こすと、乗り込んで住宅地の外へと走らせた。

「もしもし、救急車をお願いします。え? ええ、怪我人です。お腹から結構出血があって、たぶん刺されたんじゃないかと……。えっと、場所は……」

 電話を掛けながら僕はあの人の感触を思い出す。そして思った。冷たい人間だな、と。

 母さんにも「少し遅くなる」と電話で伝えて、僕はすぐに元の場所に戻る。男の人は変わらずそこにいた。血は止まっているのかどうか分からない。だけども、僕はこれ以上何もする気は無かった。

 程なくして救急車がけたたましい音を響かせながら住宅地へ入ってくる。あまりの音に近所の人も家から飛び出してきた。野次馬か、と何とも言えない、ひどく詰まらない気分になりながら彼らを見る。救急車の邪魔をしないよう道だけは開けているものの、好奇心に染まった彼らの存在が正直鬱陶しい。その瞳と、救急車の赤色灯が白と黒の世界にひどく場違いだった。

そんな場所にいるのと吹きつけてくる冷たい風が嫌で、僕は救急車の中に逃げ込んだ。あまり暖かくは無かったけれど、外にいるよりはマシに思える。

 走りだした車内で、救急隊員の人が手際よく処置をしていく。明るい車内で、男の人の傷を見ることができた。きっと、助からないだろう。止まらない出血に何となくそう思った。病院に連絡を取る人と、状況報告の声を上げる人。運転しながら何かを叫ぶ人。それぞれがそれぞれの役目を果たしている。

 そんな中で僕だけが何もしないのが何だか申し訳なく感じてきて、偶然眼の前に降りてきた男の人の手を僕は握った。

 大きな手はゴツゴツしていて、冷え切っている。そして僕の手を弱々しく握り返してきた。

 うめき声が変わる。声は意味のある言葉に変わって、何かを伝えようとしているみたいで、僕は耳を口元へと近づけていった。

「だめ…だ……俺に触っちゃ…いけない……」

 ゴメン、少し遅かったです。

 心の中で、半ば嘲笑うような気持ちでそうつぶやいてみる。今、彼はどんな夢を、もしくは走馬灯を見ているのだろうか。生と死の狭間で、何を思っているのだろうか。

 偶然か、必然か。そんな僕の疑問に応えるかの様に、口から零れる言葉が変わった。

 一度、腹に溜めて、そして彼は搾り出した。

「……死に…たくない……」

 かすれた声で彼は確かにそう言った。


 それから後は、驚くほどに僕の予想通りだった。

病院に到着した時には、彼は完全に意識を失い、一時間も経たずに息を引き取った。死に顔は静かで安らか。青ざめた顔はもう動くことは無い。僕はそれを見ても何も思わなかった。恐怖も、悲しみも無い。少しだけ、ホンの少しだけ羨望に似た感情が僕の中に、僕の予想通りに湧き上がって消えた。

 何となく、ただ現場に居合わせた、という理由だけで僕は彼の最期を看取り、そして同じ理由で警察から事情聴取を受けた。僕はそれに事務的に答え、知ってる限りをありのままを伝えた。それが終わり、病院の玄関に向かうと連絡を受けた母さんが迎えに来てくれていた。

 付き添って歩いてくれる母さんの横を僕も歩く。車に乗り込む前にコートを脱ぎ、後部座席に背負っていたリュックと一緒に放り込む。

 車が動き出し、僕は深くため息をついた。母さんからタバコを一本だけもらい、一mgのタールと〇.一mgのニコチンを肺に吸い込んでもう一度ため息をつく。

 母さんが心配そうに何かを話し掛けてくる。それに僕は相槌を打って、そして出来るだけ笑顔を浮かべて答えてみせる。大丈夫だよ、と。その時の表情は、きっと本当にいつもと変わりないものだったと思ってる。

 翌日、学校に行くと、昼休みに担任に呼び出されて職員室に僕はいた。警察か、それとも母さんからか、学校にも連絡がいっていたらしくて、担任に同じく大丈夫か、とかいろいろと心配の声を掛けられた。

 僕は大丈夫ですよ、といつもと変わりなく答える。そして少しはにかんでみせながら、不謹慎ですけどいい経験になりました、と言ってのける。それがいつもの僕らしかったのか、担任も安心したらしく、すぐに解放された。

 予定調和の出来事。こういう時に取る行動はパターンがあって、それに沿って動けば予想と大きく外れた事は起きない。ただ、僕の予想と大きく外れた事と、少しだけ外れた事があった。

『だめ…だ……俺に触っちゃ…いけない……』

 あの時、僕が触れたのは間違いだったのかもしれない。そうじゃないのかもしれない。答えは分からないけれど、少なくともこの後の未来は僕には予想できなかった。

 そしてもう一つ、少しだけ予想と外れた事。

 僕は大学入試に失敗した。




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