藤紫&蘇芳杏

1.1  

私は、いつものように公園のトイレから出ると、まっすぐにあんずの家に向かった。

 空は、西の山際にわずかな光が残っている程度だ。鮮やかなオレンジと赤色が混ざった模様は追いやられ、闇色が全体に空を覆っている。

 春の暖かい、しかしそれでいてまだ冬の痛々しさを残した風が、私の心をさらっていく。


 いい夕方だ。


 私はそびえ立つ大きな門の前に来ると、ぴんぽん、とチャイムを鳴らし――

 そのまま裏口へと猛ダッシュした。


「はぁい――あ、またあなたですか!」


 インターフォンのほうから待ちなさい、なんてお手伝いさんの声が聞こえるけれど、知ったこっちゃない。走る。走る。走る。


……ところで、あんずの家は広い。庭を回るだけでもバイクが必要なくらいだ。漫画を適当に見繕って開けば出てきそうな、いや、それよりだだっ広いいわゆる「お屋敷」。そこにあんずはお手伝いさん――メイドさんと二人で住んでいる。


 他のことに使えばいいのに、といつも思う。ホテルとか。

ということで、


「はあっ、はあっ……」


蝶が舞い花咲き誇る庭で、三十秒でばてた。

……まあ、帰宅部ですから。


しかし、三十秒か。

「記録が、はあ、のび、ない……」

 体力、ダッシュ三十秒分。中学二年としてはお恥ずかしい限りだ。


 そこへ、不法侵入者(まだ侵入していないけど)の私を捕まえにメイドさんが来る。

 今日はバイクだった。


 庭のレンガが敷き詰められて道になっている部分を選びながら、


「待ちなさーい!」

 とヘルメット装備&メイド服で追いかけてくる。

 心なしか、ヘルメットの下にある口元が微笑んでいるような気がした。


「うわっ……」


まだ息が上がっている状態で、再び走り出す。が、何せ向こうはバイクだ。ものすごい勢いで間の距離がなくなっていく。


「き、昨日はっ、自転車、だったじゃないですかっはあっはあっ」


 文句を言うが、メイドさんには聞こえていないようだ。


 ……仕方がないか。


 私は走る速度が徐々に遅くなっていくのを自覚しながら、首にかけているネックレスを取り出した。ヘッドには、銀色の指輪が銀色のチェーンを通すようにしてかかっていた。


 指輪には、紫の宝石――アメジスト。


「変身、するほどでもないか」


私は中指にそれをはめた。チェーンでつながったままの指輪を、指ごと思いっきり前に引っ張ると、簡単に首の後ろの留め金が外れた。チェーンは勢いに沿って、私の腕に巻き、からみつく蛇のような紫色の文様へと姿を変えていく。


少しずつ、力が満ちていくのが分かった。


小さな声で呟く。

「アメジスト、アメジスト、……《我を助けよ》」


 その瞬間、

「――っ!」


 軽い痛みが全身を突き抜ける。

 頭を駆け抜けるのは、とある記憶。


 しかし次の瞬間、私はそれさえふっとばすくらい、大きく、高く跳んでいた。


 高く、高く、高く――もちろん、普通の人間にはできないくらいに。


 お屋敷の屋根が、真下に確認できた。バイクを急停止させ、悔しそうにする(ヘルメット越しだからよく分からないけれど、なんとなくそう思えた)メイド服も見える。


「……ちょっと飛びすぎた」


 適当な頃合を見計らって、落下。

 すたっ、と。


 少々の衝撃を伴って着地する。目の前は、ちょうどあんずの部屋だった。


 トントン、と窓をたたく。中に入りやすいよう、しゃがみこむ。


 中にいた女の子――あんずは驚いた、しかしどこかあきれた顔で、そっと窓をあけた。


「ゆ、ゆかり……いい加減窓から入ってくるのやめようよ。危ないよ」


 その台詞を無視して、私は窓枠に足を乗っけてバランスを取った状態で微笑む。


「はろー、あんず。授業のプリント、届けに来た」



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