8 噂の真相

「残念ながら、ミスター宮原。わたしはそれを直接見たことがありません。ですが、それが本当に万能なのかどうかはともかく、あると信じられる例を、わたしはいくつか知っています」

「それはいったいどういった機序で、ええと、与えられた人に馴染むのですか?」

「おそらくそれは奇跡だろうと考えられています」

「奇跡というと、例えばiPS細胞開発のときのような遺伝子の絞り込みがほぼ一発で成功したというような奇跡的な研究成果があったということですか?」

 アブドゥ記者に対して宮原はそんなふうに問いかけたが、自分が例として挙げた内容にまるで確信が持てない。文字通り、暗中模索あるいは五里霧中といったところか? だが、それに答えるアブドゥ記者の態度もまた曖昧なのだ。

「ええ、確かにあれはあれで奇蹟と呼んで良い出来事だったかもしれません」

 何か思い当たる節があるのか、アブドゥ記者が次の言葉を紡ぐまで時間がかかる。

「はじめて買った宝くじに当るという類の奇跡ですね。奇跡という言葉をごく普通に定義すれば、まったくありえない確率でそれが達成されるということになりますから……。ですが宮原さん、奇跡というのはそういったものばかりではないのです」

 アブドゥ記者は聖書を例に挙げて『奇跡』について説明する。

「例えば聖書には『奇跡』という言葉はどこにも用いられておりません。その代わり聖書では『奇跡』を三種の内容によって定義しています。第一が奇跡を要因から表す『神の力』、第二が奇跡をその波及効果から表す『驚き』、そして第三が『しるし(徴)』です。聖書で特徴的な表現がこの『しるし』で奇跡をその意義内容から定義する言葉なのです」

 すなわち奇跡を行えた者は選ばれた者であり、それゆえ単なる人ではなくて神的な存在であり、その証拠が『奇跡』を行ったこととされるのである。特にヨハネの福音書(註10)において多用される。

 あの日、マニラ市内のホテル最上階のラウンジバーで情報提供者のフロレンド・P・アブドゥ記者が宮原に意味したのは、そういった意味での奇跡なのだ。

 アブドゥ記者の名前は突如として行方を晦ませたN新聞社の三枝木晴正が残したメモの中に発見される。そのメモには十数名の外国人の名前が載っていたが、フロレンド・P・アブドゥに関しては三枝木自身の優先順位が低かったようで、彼がアポイントメントを取ったという痕跡が見出せない。アポイントメントの記載があったのは別の数名の人物だが、実際に三枝木がそれらの人々に会っていたのか、それとも会う前に行方を晦ませたのかもメモだけからでは判断できない。

 別の正式なノートに内容を移す前の、いわば短期の備忘録として三枝木の自宅に残されたそのメモは当然三枝木の行方を捜索している警察関係者の手に渡ったものだ。宮原は自身の交友ネットワークをフル活用して極短期間でその内容を掴む。だが名前を掴んだからといえ、それですぐ面会が叶うわけでもない。誰であろうと見ず知らずの相手から連絡を受ければ、まず不審に思うものだ。そこで宮原はメモに名前が記された人物のうち、わずかでも自分と接点のありそうな者を探す。メモには、それが記された時点で三枝木が掴んでいた人物の職業と連絡先が記載されていたので、その作業は宮原の手に負えないほど厄介とはならない。そこでさらに伝手を頼り、宮原は今回の海外取材先であるフィリピン・マニラ市在住で、またマニラ速報社の記者でもあるフロレンド・P・アブドゥを第一の情報提供候補者に選んだのだ。

「……ということは、ある種の宗教団体が例の噂に関係しているということでしょうか?」と宮原はアブドゥ記者が『しるし』としての奇跡について言及した後で尋ねてみる。「あるいは、ある宗教そのものと関連して?」

 宮原の問いかけにアブドゥ記者が一度目を瞑ってから静かに答える。

「隠しても仕方がないので単刀直入に申しますが、その奇跡は宗教上の奇跡ではなく、奇跡を起こした本人そのものに由来する奇跡なのです」

 だが、そう答えられても宮原にはまったくピンと来ない。

「ええと、フロレンドさん。わたしにはまだあなたの仰った意味が良く理解できないのです。それでもあなたのお言葉をそのままの意味で受け取りますと、そうですね、誰にでも良く馴染む例のものは、どこかから発見された約二千年前の『彼』の遺体由来ということになってしまいますが……。その解釈でよろしいのでしょうか?」

 次にアブドゥ記者が宮原の質問に返答するまでには長い時間がかかる。宮原も口中に渇きを覚える。

「その答えはイエスであり、またノーでもあります」

「……といいますと」

「つまり『彼』の部分についてはイエスですが、それは遺体ではないのでノーとなります。それは生身の『彼』に由来します。そして先まわりして答えてしまえば、世界中で大ヒットしたあの見世物映画のように琥珀の中に捉えられた蚊の血液からクローン培養されたようなものではありません。もっともそんな技術がこの世にあったとしての話ですが……」

「では、実際に『彼』の子孫が生き延びているというわけですね。この世界のどこかに……。でもそれが移植用の、贈呈用の例のものに使われているとは、わたしには信じられません。それではクローンからの品よりもさらに惨い話になってしまいます。機序はともかく、人道的立場からは……」

「いえ、宮原さん。それは『彼』の子孫から提供されたものではありません。そもそも『彼』に子孫がいたかどうかさえ、はっきりとわかってはいないのです。またフィクションの話になってしまいますが、大ヒットして映画にもなったあの小説に描かれていることは確認された事実ではありません。もしかしたら『彼』自身がその事実について誰かに語っていたかもしれませんが、残念ながらわたしはその情報を得ていません。なので、そういった意味で、わたしは事のすべてを信じているわけではないのです。わたしが知っているのは、あなたが最初にわたしに連絡を取られたときに使われた『奇妙な復帰』を成立させる例のものが、それを提供する結社側の人間に『彼からのもの』と呼ばれているという事実だけです。その符丁は……」

 アブドゥ記者がそこで宮原の耳を指差す。自分の口許に近づけるようにとジェスチャーする。宮原が素直にそれに従う。

「その符丁は『ダビデのパン』です。でも、それが実際に意味するのはイエス・キリスト本人の内臓のことなのです」

 アブドゥ記者のその囁きを聞いたとき、宮原は驚きを通り越し、瞬間的に呆れてしまう。そんなとんでもないことが例の噂の真相だとは宮原にはとても信じられなかったからだ。

 だが、その言葉を聞くために宮原が屈めた腰を元に戻すとアブドゥ記者の目は笑っていない。たった今自分にそれを告げた口調そのままに無機質だ。さらに目の奥には暗い色が沈着している。そんなアブドゥ記者の姿が宮原の心を徐々に薄ら寒いところへと連れて行く。けれども宮原は強く思う。そんな非常識なことがあるはずがないじゃないか、と。すると宮原の心の葛藤に気づいたかのようにアブドゥ記者が言う。

「信じる、信じないは、宮原さん、あなたの自由です。……それに、わたしにアドバイスできることがあるとすれば、やはりそれは事実無根だった、ある宗教に纏わる都市の噂の一つだったと笑って忘れてしまうのが一番の得策だろうということです。少なくとも感情の面では最も良い解決策だと信じます」

 アブドゥ記者はそう言ったが、宮原にはすぐに気持ちの切り換えができない。だから別方面からアブドゥ記者に質問する。

「フロレンドさん。今聞いた事の真偽はともかく、ではいったいどんな結社がそれを必要なものに――奇妙な復帰を望む者に――提供しているのですか? ご存知でしたら教えてください」

 するとアブドゥ記者は目の色をさらに暗くし、ボソリと宮原に呟く。

「呪われた者たちですよ」

「えっ?」

「例えば、元は弟子であったにも関わらず、わずかな金で『彼』を売ったあの男は二千年以上の時を隔てた今でもその汚名を返上できていません。それどころかあの男の名は、あの宗教を信じる者たちのみならず、それ以外の世界中の多くの人々に裏切り者の代名詞として記憶されてしまいました。また同様に、自分たちの宗教を守ろうと『彼』を処刑してしまったばかりに、やはり長い間、祖国を奪われた流浪の民が存在します。そんな彼らが何かの偶然で『彼』を発見したとしたら、いったいどういった感情を抱くでしょうか?」


 註10(希)Ευαγγέλιον、(ラテン語)Evangelium。

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