4 別の噂

 どんなレシピエントとも拒絶反応を起こさない魔法の臓器については――少なくとも現時点ではただの噂話に過ぎないので――取材許可が下りるとも思えず、頭の片隅に留まってはいたものの宮原の中で徐々に日常の出来事の底に埋もれて行く。それが再び意識の上に浮かんだのは本来何の関連もないはずの別の奇妙な噂話が絡んできたからだ。

「宮原さん、聞いていますか?」と、そのとき宮原に声をかけたのは三枝木晴正だ。三枝木はN新聞社のニュース解説担当記者で業界や財界人に知り合いが多い情報通として知られている。家族は妻と遅く生まれた娘一人だが、その娘には先天的な心臓欠陥があるらしい。

 たまたま六本木のショットーバーで神崎と酒を酌み交わしていた宮原を見つけ、三枝木は近づいて来たようだ。

「奇遇ですね。三枝木さんもここにお出入りされていたんですか? おちおち悪口もいえませんね」と宮原が言い、ついで一緒に酒を飲んでいた神崎を「後輩の一人です」と紹介する。「で、いったい『何を聞いていますか?』なのですか?」

「あれあれ、お二人には悪口を言われていたのですか? それは弱りましたね」

 にこやかな笑みを浮かべつつ三枝木がそう応じ、神崎に握手を求める。

「三枝木です。どうぞ、よろしく」

「はじめまして、神崎雄二と申します。以後、お見知り置きを……」

 かなり恐々としながら神崎が三枝木に応える。

「悪口には慣れていますから、どんどん言ってくださいな」

「いえいえ、滅相もない……」

 更に恐縮した様子の神埼に悪びれもせず「ハハハ……」と笑うと三枝木が真顔に戻り、本題に入る。

「例のしばらく世間から姿を晦ませていたマンダリン社CEOのイーサン・ハイドラーさんですがね、復帰したんですよ。ついこの間。久しぶりにテレビ番組に出演してCNNのニュースキャスターに応えていました。まあ、インタビュー内容はいつもと変わりなかったのですが、ハイドラーさんが消えていた期間は、ホラ、重い膵臓病ではないかという噂が真しやかに世間に広まっていたでしょう。それが画面では、まったくそんな病気には見えなくて……。還暦をとうにまわった年寄りですからそれなりにヨボヨボはしていたのですが、すっかり元気な姿に戻り、あの陽気なハイドラー・スマイルを決めてましたよ。わたしはたまたま世間から消える直前の彼の姿を近くで見ていたものですから、とにかくもう吃驚してしまって」

「はあ、そうですか」

 だが、さすがにその情報だけからでは宮原にも三枝木が何を言いたいのか見当がつかない。それで曖昧に首肯きつつ三枝木に訊く。

「で、それが何に繋がるのです?」

「宮原さん、気が付かれませんか?」

「全然わかりませんが……」

「最近お仕事は何をされていましたか?」

「ああ、主に東アジアの売春窟関連でした。特に低年齢の娼婦と男娼についての……」

「そうですか、それはまた大変でしたね。でも、そうだとすると政治経済関連の裏話には若干疎くなりそうですな」

「そうかもしれません。もっとも隣国の紛争も経済も――ここしばらくは――相変わらずの状態でしょうし、景気の良い話は出ていますが消費税が上がってからは混乱していますし、日本期待の電池産業が伸びるにはまだ電気自動車の値段が高過ぎますし……。いや、それは話が逆かな? うーん、降参です。わかりません」

 そう言って宮原が肩を竦めると三枝木は宮原と神崎がまったく予期していなかった内容を口にする。

「世界的に見るとですね、宮原さん。ハイドラーさんだけじゃないんですよ」

 秘密を明かすように宮原と神崎の二人を自分の近くまで来るように手招きする。

「ここ数年で復帰している政治家や財界人がですよ。真偽はともかく一度は重篤が伝えられ、その後何事もなかったかのように復帰しているんです」

 三枝木が口を鎖すと座の空気が真っ白になる。ややあって宮原が三枝木に問いかける。

「そうなんですか? いや、まったく気づきませんでしたよ。ですが、それって単にここ数年で医療技術が進歩したってことじゃありませんか?」

 宮原が自分でも信じていない反論を口にすると、それに答えて三枝木が言う。

「まあ、確かにそれもあるでしょうね。医療技術は日々進歩していますから……。加えて復帰した彼らはみんな大金持ちです。比較してはなんですが、一国の首相や大統領でなければ受けることができないような最新技術のケアだって受けられます。でもね、宮原さん、それにしたって人間、死ぬときが来れば死ぬんですよ。日本の第百二十四代目の天皇陛下にしても、この国の持てる最高技術で治療が試みられたからあれだけ寿命が延びましたが、結局お隠れになられた。ですが調べてみますと、さきほど述べた世間からしばらく身を隠していたお金持ちたちは皆、見違えるように元気になって世間に帰って来ているのです。死亡例は殆どありません。わたしが知っている範囲のことですから統計的な意味はありませんが、それでも手術や寿命で亡くなった例は一パーセントに満たないのです。少なくとも第一回目の生命の危機は乗り越えている。みんな還暦をとうに過ぎた爺様や婆様たちばかりなのにですよ。いくら健康に気をつけたにしても歳を取れば身体にガタが来るのは当前です。なのに、奇跡の生還率。そしてハイドラーさんの場合はまだこれからなのでわかりませんが、何年も前に明らかに臓器移植を受けたと思われる彼らのその後は順調です。普通は臓器移植手術を受ければ残りの生涯はずっと免疫抑制剤を身体に入れ続けなければならないといわれていますが、彼らにはその様子さえ見受けられない。……さて、そろそろどうですか? 宮原さん、面白くなってきたでしょう」

 三枝木の意味ありげな問いかけに宮原と神崎が思わず顔を見合わせる。二人はすぐに例の噂のことを思い出したが、先に口を開いたのは神崎だ。

「先輩、それって?」

「ああ、まさか奇妙なものに繋がったな」

 宮原と神崎の会話に首を傾げた三枝木に宮原が掻い摘んで魔法の臓器について説明する。

「ほう、インドやタイでも噂があるのですか?」

 だが三枝木は既にその噂を聞いていたようだ。

「そこまでは知りませんでしたね。わたしは最初フランスで噂を聞きました。でも、そのときには事実とは思えませんでした。わたしがまだ今回の奇妙な復帰について調べ始める前のことでしたから……。あのとき噂を聞いた相手は医者でしたが、彼女はもちろんそんなものは信じていなくて、日本でいう都市伝説の一つだろうと二人で笑い合ったものです。そんな都合の良い臓器があれば医者要らずだ、などと笑い合いながら……」

「最初はフランスで、ということは他の国でも?」と宮原。

「ええ。もちろんそんな噂は聞いたことがないという人も大勢いましたが、EU圏内では割とポピュラーな噂らしいですね」

「そういえば、ハイドラーさんは――名前はドイツ系ですが――アメリカ人ですよね。ということはアメリカでも噂は流れて?」

「そういうことです。わたしが言うまでみな忘れていましたが、わたしが出かけた範囲では日本をはじめアジアの一部を除き、結構有名な噂みたいでしたね。あるいは、これから日本でも噂が広まるのかもしれませんが……」

「でも実際、そんな臓器があるのでしょうか? 三枝木さんはどう思われます」

 勢い余って宮原は三枝木にそう尋ねたが、三枝木は首を横に振るばかりだ。

「わたしはお金持ちではないし、現在のところ、脂肪肝の注意を医者から受けていますが、明日にも死ぬような健康状態ではありません。残念なことに大金持ちの親しい友人も知り合いもいない。論敵ならいくらでもいますがね。もっともそれが本当に全世界から隠蔽された秘密ならば、友人がいても決して教えてはくれないでしょう。それにもしわたしがその秘密を知っていたとしたら、宮原さん、あなたとこんな話はしなかったんじゃありませんか?」

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