琥珀王樹の舟を浮かべ

 まったく琥珀王樹こはくおうじゅふねを浮かべるような話だ。ニリはじっとりと濡れた岩を踏みしめながら思った。

 夜明け近くにたちこめた霧は一向に引く気配を見せず、日が南中しそうな今もあいかわらず辺りを白々と染めている。ニリの外套も長靴も水蛇革で出来ていたが、はみ出た袖や髪の毛はすっかり濡れそぼってしまっていた。首を振ってきつく編んだ後ろ髪を捕まえると、ぎゅっと握る。ぼたぼたと滴る水を払って、少し遅れてついてくる男を待った。

 村の西にある浜辺は塩によって凍ることこそないが、それだけに岩から染み出る水は氷よりも冷たい。防水の効いた長靴がないと、洞窟へたどり着く前に足が凍りついてしまう。応急処置にと水蛇革で靴を覆うように包んでやったものの、男の歩みは遅い。彼よりずっと身長の低いニリが、常に引き離し過ぎないよう気をつけねばならぬほどだ。それはこびりついた藻や苔の、足場の悪さも関係しているだろう。あの革は水を完全に弾き寄せつけない代わりに、他の獣革以上にすべりやすい。幾度も転んだせいもあって、男は頭からびっしょりと霧と潮水で濡れていた。

 あきらめればいいのに、とニリは彼の遅々とした歩みを待ちながら思った。風は凍えるほど寒く水は痺れるように冷たく、転んで打ちすえた傷は痛むだろうに、一言も弱音を吐かずについてくる男が正直なところ憎らしかった。

 浜辺の洞窟は、ニリの場所だ。霧の湿っぽさも、潮の匂いも、普段ならニリにはちっともつらくない。滴り落ちる水音と、遠ざかる波の音を聴きながら夜明けをひとり歩くのは、いつでもニリの心を落ち着かせた。それが今日は、この男のせいで台無しだ。

 男がまた足をすべらせて、数える指をあふれて幾度目かの転倒をしたとき、ニリはついに男へ言い放った。

「そんなんじゃ日が暮れても辿り着かない。無理だ、もう帰れ」

 男は上体を起こしてニリを見上げた。男の顔は寒さによるだけではなく青白く、村の者にはない色をしていた。北東の都に住むものより、たぶん白い。ずっと遠くから来た客人だとニリはおさから聞いていた。

 男は困ったように眉尻を下げ「君には申し訳ないけれど」とやわらかな声で言った。

「私はその洞窟へ辿り着くまで、夜を越えても帰るつもりはないよ」

 語尾を伸ばさずくっきりと切る抑揚は、海沿いに住む者の言葉にはない。かといって都の、一言ごとに唾を吐くような早口でもなく、平らかで聞き取りやすい。そのことがまたニリを苛立たせた。

「いい大人が、ばかみたいに。宝探しなんて子どものすることだろう」

 村の西にある浜に財宝が眠っているという話は、幼い頃から何度も聞いていた。

 なんでも昔、戦に敗れたどこかの王族が追い詰められてこの浜から舟に乗り、そうそう遠くへは行かぬ内に沈んで消えたのだそうだ。その王族は財宝をたっぷり積み込んでいたから舟は浮かばなかったのだろうと噂になり、それがそのまま貧しい村の夢物語となって、ずっと語り継がれてきた。この話の虜になるのは村のものだけではなく、何処かから聞きつけて、遠くはるばるとやってくる者も少なくはなかった。

 男もそういった、ニリには想像もつかない遠いところから来たようだった。地名を聞いても、それが何処にあるのか村人の誰もわからない。それに名前も耳に馴染まず、何度聞いてもうまく聞き取れない。鸚鵡返しにくりかえしても、どうやら発音も音の数も違うようで、何度か試して男は納得し、イツンでいい、と短縮したかたちで名乗っていた。

 そんな男を客人としてもてなすよう長が言ったのは、彼が金持ちだったからに他ならない。物腰も上品で、おそらく頭もいい。きっと何処かの貴族だ、と誰かが言えば、次の日には彼はかの財宝話で海に沈んだ王族の末裔すえではないかと噂になり、誰も彼もがそれで納得してしまった。彼にならば財宝を見つけることができ、そして金離れのいい男だから村にも幾ばくか落としていってくれるに違いない。そんなニリにとっては都合が良すぎてばかばかしい、まったく琥珀王樹の舟を浮かべるような話で、洞窟の道案内へとかりだされている。いい迷惑だ。

「だいたい、財宝がどうの言ったって、それが何かすらわかっていないのにおかしいと思わないのか」

 刺々しいニリの声に、「舟だよ」と男は穏やかに言葉を重ねた。

「私が探しているのは、海に沈んでいった舟だ」

「そんなことは知っている! 私が言っているのは、その舟に積まれていた財宝だかなんだかの話だ」

「知らないのかい」

 男は驚いたように目を瞠った。

「知らない。知りたくも別にない」

 村で熱心に語ってた老爺も、たくさん人を引き連れてきたどこだかの商人も、宝が何かはわからないのだと語った。何かもわからないものによく情熱を注げるものだとニリは首を傾げたが、彼らはそれがまた夢をかきたてるのだと、寝言のようなことばかり言っていた。高慢ちきの商人の、なめし革に水をかけて放置したような生臭さを思い出してニリは顔をしかめた。

「君は『琥珀王樹の舟を浮かべるような話だ』と言うから、知っているとばかり思っていたよ」

 男はぱちぱちとくりかえし瞬きながら言った。どうやらとても驚いているようだった。

 琥珀王樹の舟を浮かべる、というのは、村に古くから伝わる慣用句だ。滅んだ王族の沈んだ財宝を見つけるような、都合が良くて夢のような愚かな話に引っ掛かる、という意味だ。他にも途方もなく叶うあてもない夢を描いているとか、とにかく先のない、すぐ未来には沈んで失敗してしまうような話に使う。

 それを彼へ伝えると、青白い顔に理解が広がり、そして苦笑いが紫の唇を彩った。

「なるほど、琥珀王樹そのものの認識が、この地には残らなかったのだね」

 男の言うとおり、琥珀王樹という言葉はこの慣用句に使われるばかりで、それが何なのかは誰も知らなかった。琥珀というからには鉱石なのか、それとも王樹というのだから樹木なのか、それすらはっきりしない。しかし彼はそれを知っているのだと思うと、ニリはふいに、彼が遠くから来た旅人なのだということを意識した。話で聞き、肌の色で知り、言葉を耳で味わってわかったつもりでいたが、それは余所者ということでしかなかった。けれど突然に、ニリの中に存在するひと抱えほどの大地の何処でもない、外からやってきたのだ、と腑に落ちた。すると、これまでただただ不愉快でしかなかった男が、イツンという聞き取れない異国の名を持った男として、鮮やかに感じられた。そしてこのイツンという男の存在に感心しそうになって、ニリはあわてた。

「ふうん、それが財宝の正体ってことか。それは金か、宝石か? 舟が沈むくらいの宝って、どれだけの量だ。夢はあるが、欠片も見つからないんじゃ信じられない」

 大げさに手を広げて、振り払うように言ったニリに、イツンは再び「舟だよ」と秘密をささやくように言った。

「もしかしたら他にも積まれていたかもしれないが、いちばん価値があったのは、その舟そのものだ。琥珀王樹という香木で作られていた」

 香木、とニリは口の中でくりかえした。馴染みのない言葉だが、香という意味ならばわかる。火をつけその煙香を楽しむ嗜好品だろう。都ではたしなみだと伝え聞く。

「燃やして香って、消えてなくなる煙の何処に価値がある?」

「香りは身に纏う装飾品や、絹と同等の価値があるものだよ。そして琥珀王樹は稀少性がある。なにしろずいぶん昔に、種そのものが失われている。すべて嵐で海へと流されてしまった。今では浜辺にときおりうちあがるだけという、非常に稀かなものなんだ。ほんの小さなひとかけらが、同じだけの金や貴石より価値がある」

 なるほど、と納得しかけたが、ニリはうなずきかけた首に力を入れて傾げた。

「いくら積んでも、木なら浮くし、もっと簡単に見つかっているはずだろう」

「ところが、この樹は浮かないんだ」得たり、とイツンは笑った。「君の言う『琥珀王樹の舟を浮かべる』という言葉の本当の由来は、ここにあると思うよ。水に沈む木で舟を作っても、海を渡れるはずがない」

 琥珀王樹は、乾燥するに従って樹木から脂がにじみだし、それが層を成して積み重なる。樹脂に覆われた木は年月を経るほどに艶を増し、まるで琥珀のように金色に光り、生木のときよりもはるかに重くなるという。そしてその琥珀色となった木片は、火を灯すと飴のように溶けて、えもいわれぬ薫香を醸しだす。その香りは、まるで四季をひとつひとつ味わうかのように、時とともに刻々と変化する不思議な香りと伝えられている。あるいは、それが歩んだ歴史そのままに、森から海までの道のりを歩いていくかのように香るとも。

「イツンは、調香師なのか」

 香りにとても詳しい、と訊けば、彼は首を振った。

「いいや。私はずっと琥珀王樹を探していたんだ。詳しくもなる」

 肩をすくめ、彼はひょいと立ち上がる。上着の端を掴んでぎゅっと絞った。

「さて。宝探しではなく香木の舟捜しだと言ったら、私は洞窟へ案内してもらえるのだろうか」

 絞っても絞っても滴る水にも、イツンはまったく滅入っていないようだった。ニリは犬へ骨を放るように手を振り、肩をそびやかした。

「どうやら私も琥珀王樹の舟を浮かべてしまったようだから、仕方ない」



 先を進むと決めた後も、イツンの歩みが早くなるわけではなく、ニリは次第に退屈になってきた。ひとりではないので何も考えずに霧や水音を楽しむわけにもいかないし、かといってイツンは歩くのに手を貸してやるほどの子どもではない。もっとも、ニリより体の大きなイツンが転んだら、手を貸したところでともに転ぶだけだ。

 ニリは跳ねるように五歩先へ行くと、イツンを振り返った。

「王族は、なぜ琥珀王樹の舟を浮かべたんだ? 浮かばないと知らなかったのか」

 足下を見ながら、慎重につま先を岩へ這わせていたイツンが顔を上げる。

「もちろん知っていたと思うよ」

 一歩を踏み出し、岩へ押しつけるようにぐっと固定して、もう一方の足を引き寄せる。歩幅は子どものように小さく、動きは錆びた鋏のようにぎこちなかったが、語る言葉はゆたかに響いた。

「昔、この辺り一帯を支配していた女王があり、彼女は琥珀王樹をとても愛していたそうだ。そして琥珀王樹の森を育み、管理していた。彼女は琥珀王樹のあるじだった。あるとき、この女王を玉座より引きずりおろさんと旗を掲げた者たちがいて、女王はとても追い詰められた」

 民は戦に疲れ、貧しさにあえいだが、女王は譲らず、抗戦を民と兵に強いた。そしてついに攻めいられんとすると、女王は「琥珀王樹で舟を造れ」と人々に命じた。そして言葉通りに舟を作らせ、その舟に乗り込んで海へ出た。

「『我が身の、我が宝の、ひとかけらとて何人にも与えぬ』とね」

 そして水に浮かばぬ舟は沈み、まるで後を追うかのように嵐が起きて、女王の愛した琥珀王樹をすべて道連れに、海へ押し流していったそうだ。

「それは、呪いかなにかなのか?」

「さあ、そこまでは。ただ、女王はこの海にいにしえから棲まう大蛇と契りを結んでいたそうだ。だから暴君であろうとも、誰も文句はいえなかった。かんなぎだったから。だから大蛇が彼女のために道連れにした、とも伝えられている」

「ひどい話だ」ニリは吐き捨てるように言った。

 この海は嵐が少なくほとんど凪いでいるが、それだけにこの浜はとても貧しい。潮流に取り残されたようだ、と人は言う。残された国が貧しさにふるえて千々になって、それでも莫大な富を抱いたまま、今に至るまでひとかけらも渡すまいとしているなど、なんとひどい女王だ。そのほんのひとかけらでも拾えていたなら、昨年の冬、ニリの家族は二人も減らなかっただろう。

 村の者が、真偽のしれぬ財宝話を子々孫々へと語り継いできたのは、この貧しさの功罪に違いなかった。真面目に働いても一向にゆたかにならない生活が、彼らの耳に心地よい夢物語を染みつかせてしまった。それがどんなに愚かなことだとわかっていても、もしかしたら、と希望にすがり、そして死んでいく。夢に走って働き手が消え、家族みなが冬を越せなかった家も、村では少なくない。

 もし、とニリはゆっくりと歩いてくるイツンを眺めた。

 もしも彼が、本当に舟を見つけたならば。同じ重さの金と等価だというその香木を、欲しいとはいわない。ただ、もう村の誰もが馬鹿な夢を見ないようにならないだろうか、とニリは思う。琥珀王樹の舟を浮かべるものが、私で最後にならないだろうか、と。


 それから後は、ひたすら黙って洞窟への道を急いだ。

 イツンの歩みを待ちながら歩くと、いつもは気がつかなかったものに気づく。これまで自分の庭であり、自分が知らないのだから洞窟には何もない、と高をくくっていたが、もしかしたらもしかするのではないか、とニリはすっかり信じはじめてしまっていた。そんな自分にはっと気づき、嫌悪しては、しかし夢を見るくらいはいいのではないか、どうせ今日だけのことなのだから、と思い直す。そんなことをくりかえしているとイツンに話しかける余裕などなく、かろうじて彼を待つことだけは忘れていなかったが、自身の経験を信じて足下は疎かになりつつあった。

 霧は晴れず、日は落ち、夕暮れの赤い絨毯が岩の上を音もなくすべって消えていく。夜の息吹から逃れるように、ニリは水蛇革の鞄から角灯を取り出し、同じく水蛇革に包んで懐深くに携えてきた木ぎれに火をおこした。道幅がしずしずと狭まる中、ふたりは明かりの輪によって距離を縮めた。やがて大小さまざまに道を遮っていた岩が壁のように迫り上がり、そして天井までが覆われるようになった。洞窟だった。

 当初は辿り着いたら自分だけでもさっさと帰ってしまおうと思っていたはずが、ニリはイツンを先導したまま奥へと向かっていた。彼という新しい目が、そして自分にはない遠く深い知識が、これまでとは違うニリの洞窟を見つけてくれるはずだ。そう思うと、凍えていた心が冴えわたる気がした。

 しかし、普段とは違う歩調で時間をかけて歩いてきた疲労は、たしかに積み重なっていた。ニリはうっかり足を滑らせかけ、岩へ手をついてしまった。たっぷりと水を含んだ苔が手の中で冷たく弾け、ニリは悪態をつきながら体勢を立て直す。そしてふとそれに気づいて、目をこらした。

 間違いない。苔の中に、小さな白い花がいくつも咲いている。花が咲くのは二月も先のはずだ。ぎょっとして手を離すと、いつもは潮の匂いにかき消されてわからない、花の咲いたその当日の朝だけ香る、独特の香りが鼻腔を抜けていった。

 呆然と花を見つめるニリに、イツンが追いつく。

「なんだか花のような香りがするけれど」

「苔の花が咲いたんだ。いつもより早い」

「花?」彼は初めて眉をひそめた。辺りを見まわし、「花なんて咲いていないよ」

「咲いているじゃないか。足下を見てみろ。ああ、ほら、これも」

 ニリは先ほど苔についた手をイツンへ差し出した。手の中には、白くて薄い蝋のような花びらと、淡い緑の花粉がいくつかこびりついていた。イツンはニリの手を見下ろし、奇妙な顔をした。その白い顔を見上げると、洞窟の天井から羊歯杉がふさふさした枝を重たげに垂らしているのが見えた。喉の薬にもなる薬草の、すっと通る爽やかな香りが胸を満たす。しかし羊歯杉が青々と枝を伸ばすのは、夏の時期のはずだ。

 見えるものが信じられず手を伸ばすと、足の裏にくしゃりと落ち葉を砕くような不思議な感触が伝わり、霧のように目の前に森が広がった。

 一瞬にして波音が葉ずれに、水音が優しい朝露のしたたりとなり、春風のようにかろやかな緑の香りが、身動ぎに合わせて仄かに香った。もうとっくに日は落ちたというのに、朝焼けが水たまりにたゆたい、さまざまな色を織った白い光がたなびく。羊歯杉のやわらかな陰があたたかく揺れ、風が緑を運んでいく。

 ニリは戸惑い、ただただ呆然とした。イツンも驚いたように目を瞬かせていたが、何かに気づいたらしく、ニリの踏みしめた足下を調べ、砕けた小さなかけらをひとつ摘んだ。

 泥の中に落としたらすぐわからなくなりそうな土くれだった。しかしそれは森の土で、そこから緑が芽吹き、小さな箱庭のような森がその中に息づいていた。イツンはそれを指先ですりつぶして粉にすると、角灯の蓋を開け、火の中に落とした。

 すると途端にこれまで充ち満ちていた光は赤く落ち、木々は夕暮れの茜色に染まりながら溶けていき、代わりに黄金の麦穂揺れる草原が現れた。葉ずれは重たげに頭を垂れる稲穂の重なり合うさざめきとなり、乾いた風は実りを約束するゆたかな香りに満ちている。朝露のしたたりは母なる慈雨となり、やがて海へと至るせせらぎの清らかな水の気配をさわやかに漂わせ、不思議な充足と幸福で胸を支配した。

 ニリはかわるがわる目を奪う香りに圧倒され、たたらを踏む。足下で森を抱いた時の結晶がもろい骨のように崩れさり、年輪渦巻く螺旋の、天を貫くような大樹をゆらすあまやかな風と降り注ぐ陽光を閉じこめた、琥珀の雨を呼び寄せる。じめじめと肌に張りつく潮水は金の光に代わり、どこかあたたかさすら感じられた。そのあまりの心地よさに思わず目を閉じて感じ入るニリの腕を、イツンが掴んで押しとどめた。

「鼻を押さえて」

 ぽかんと彼の顔を見上げていると、イツンは焦れたように指を伸ばしてニリの鼻を摘んだ。軽く捻られると、ニリは痛みのあまり目をぎゅっと瞑った。

「ほんの少しだったが、酔ってしまったようだね。すまない、燃やしてみないと確信が持てなかったから」

 イツンは鼻から指を離し、ニリが遠ざけようと伸ばしていた手を取った。その手のひらを、ニリ自身によく見えるように差し出す。

「咲いていなかった。わかるかい?」

 ニリの手には白い花びらも緑の花粉もかけらも付着しておらず、苔のちぎれた緑だけがついていた。たしかに花が咲いていたはずだ。この目で見たし、香りも嗅いだのに、彼は咲いていなかったという。ニリは自分が信じられなくなりそうだったが、火で燃やしてみた、というイツンにふと思い出した。

 まるで四季をひとつひとつ味わうかのように、時とともに刻々と変化する不思議な香り。

「琥珀王樹!」

 思わずイツンがそうしたように地面を見下ろし、琥珀のような木片を探した。するとちょうど両手を広げたくらいの、大きな琥珀のような塊が岩の狭間にあるではないか。ニリが両手を伸ばすと、突然、地震のように世界が揺らめいた。

 まさしく足下をすくわれるような地震は一度ではおさまらず、二度、三度と洞窟ごとゆさぶられるような衝撃が走ったかと思うと、次第に周囲の岩が迫り上がり、ばくりと割れた。岩の中にはどろどろとした真っ赤な火が燃えていた。ニリは転がるようにしてその赤から逃れ、背後へ跳んだ。すると直後、地崩れのような轟音を立てて、足下の岩が沸騰するように砕け散った。

 火のように見えたものは、そうではなかった。

 口蓋だ。燃えるように見えたのは、その奥で細い舌がゆらゆらと揺らめいていたせいだ。そして、はじめに大きな琥珀のように思えたのは、目だった。

 それは大蛇だった。

 ほんの少し頭をもたげただけの状態でも、見上げても見上げ足りないほどの大きさだ。洞窟には水蛇があがってくることがあるが、それでもこんなとんでもない大きさの蛇は見たことがない。水蛇と同じく金色にも見える白に、うつくしい雫の紋を描く鱗が細かく全体を覆い、色の濃淡が波のような縞模様を描いている。

 ニリは見るものが信じられず思わず後じさり、イツンにぶつかった。そして、はっと我に返った。これもまた、琥珀王樹の香りに惑わされているせいではないだろうか?

 先に見た花も、森も、朝焼けも草原もイツンには見えなかったようだった。ならば、今回も彼は見えてないのかもしれない。そう思いイツンを見上げて、ニリは息を呑んだ。

 イツンは食い入るように大蛇を見つめていた。

 悲しみと喜びが同時に訪れたような、それでいてあどけない微笑を浮かべているような顔で、ぽつりと何かをつぶやいたかと思うと、その瞳から大粒の涙を一粒こぼした。

 大蛇はふたりを見つめ、耳がきんと痛むような警戒音を発しながら、細い舌を炎のようにちらちらと揺らしていた。

 イツンは、その警戒を押して一歩、前へ踏み出した。あわてるニリの耳に鋭く、蛇の威嚇音が突き刺さる。

「かあさん」

 大蛇を見つめて、イツンが言った。それは穏やかで親しげで、それでいて初めて出会ったような驚きと納得をたたえた、揺るぎない声音だった。

「かあさん、わかりますか。私です。――……」

 イツンが、やはり何度聞いてもニリの耳には聞き取れぬ名を言った。大蛇からの警戒音が、ひたりと止んだ。

「遠く、とおく北の果てまで逃げのびました。おかげで命は継ぎましたが、戻ってくるのが、あまりにも遅くなってしまった。長いながい時が過ぎて、人の世界はすっかり様変わりしました。かあさん、ねえ、知っていますか」

 抑揚少なく静かに語りかける彼を、大蛇はまぶたのない瞳で見つめている。

「あの国はもう、かけらも残っていないのですよ。土地も、兵も、言葉も消えて、今や国の名さえも忘れ去られた。最後の女王の名だけが、琥珀王樹の舟とともに傲慢な暴君とうたわれるばかりで、その名を疑うものは、もはやただのひとりもいないでしょう。人の世に、あの国を振り返るものはない。……もう、誰も秘密を暴くことなどできません」

 ニリには、イツンが何を言い始めたのか、彼が何者なのか、そして大蛇といったいどんな因縁があるのか、さっぱりわからなかった。しかし彼は、この大蛇こそが目的で村を訪れ、洞窟へ行きたいといったのだと理解した。

「かあさん、“彼”はまだ、そこにいるのでしょう?」

 イツンの問いに、大蛇はかすかに怯んだように見えた。体表を光の波がすべっていく。

「海でも、土でも、火でもいい。どうかあなたの思う方法で、よいように返してあげてください。彼を、……父を、永久に女王のままでいさせるおつもりですか」

 大蛇はイツンの方へ向けて頭をぬうっと伸ばした。岩がまた崩れ、中からまだまだ続く蛇の身体がゆっくりと這い出てくる。大蛇は頭だけで長身のイツンと同じほどの高さがあった。その大きな頭がイツンの胸を小突き、彼は大蛇の額にそっと頬をすりよせた。イツンの白い肌は、大蛇の白い鱗の色とよく似ていた。光の加減で金色に見える冷たい膚。

 やがて大蛇が身をくねらせ、岩を崩しながらその渦巻く年輪のような身をほどくと、内側には木でなした小舟があった。その小舟は、まさしく棺であった。大蛇の力によるものか、あるいはこの場所の環境が作用したのか、小舟に横たわる人影はまるで今にも目を開けそうなほど、ただ深く眠っているかのように見えた。イツンに面差しのよく似たそのひとは、腐敗も分解もしておらず、とても死して忘れ去られるほどの年月が建ったとは信じられない。白い装束の周囲には琥珀色の輝きが鏤められ、緑と花の香りにあふれていた。

 両手を胸の上に握り、体を縮めたその姿は女性のように見える。少なくともニリは、女性だと思った。イツンの話を考えるなら、偽りなのかもしれない。けれど遺体を暴かず、衣も破らずに確かなことなどわからない。

 大蛇は舟を解いたものの、その中の遺体をただ哀しげに見つめるばかりで、動こうとはしなかった。もし、遺骸が朽ちていれば大蛇はここにはいなかったのかもしれない、とニリは思った。もしその身が見つかり、誰かに暴かれたりしたら、と怯えたからこそ。そして、かたちのこれほど綺麗に残ってしまった遺体を己自身で砕くこともまた、大蛇には出来なかったのだ。

 長く、またたきのひとつもなくじっと棺の中を見つめ続けた大蛇は、やがて小舟から彼を連れだし、愛撫のように呑み込みはじめた。ひとつに、ひとつに。手も足もない彼女には、失わずに海へ連れて行くにはそれしか術がなかったのだろう。時間をかけて、牙のひとつも立てずに呑み終えると、長い身をくねらせながら、大蛇は海へと消えていく。遠く長い時を経て、ようやく女王は、決して浮かび上がることのない舟に乗って、海の底へ沈んでいったのだった。



 琥珀王樹の舟、といったものの、小舟そのものは琥珀王樹ではなかった。

「琥珀王樹は生まれが特別な木ではないんだ。元はこの辺りにある松と同じ」

 抜け殻となった舟を見下ろしながらイツンがぽつりと言った。

「大蛇の一族にはね、自分とはちがう生き物と子を為すために、変質させる力がある。変質を受け入れたかれは、人を惑わす魔性の香りを常に纏うようになったというよ。彼は傾国と呼ばれるようになり、美貌と香りを求めて、巫であるはずの身を手中に収めようと人々は争った。彼は香りをどうにかして抑えるために、木で出来た数珠を身につけたそうだ。そしてその数珠は三日と経たぬ内に香木へと変わった」

 小舟の中にはぎっしりと琥珀王樹の数珠が詰まっていた。イツンはその数珠を手に絡め、そっと目を閉じた。

「今はもう、誰も知らない国のはなし」

 掠れた小さなつぶやきは祈りのようだった。しばしの沈黙を経て、吹っ切ったようにイツンは立ち上がると、数珠をニリへと差し出した。

「君にあげるよ。私には不要のものだから」

 数珠を受け取り、爽やかな森のような香りを嗅ぐとすべてが幻だったような気もした。ニリは遠いところから来て、今もずっと遠いところにいるままの男を見上げた。近づいたと思ったら離れていく不思議な存在。

「もちろん、私ももらうけどさ」

「ん?」

「イツン、あんたに不要ってことはないと思うよ」

 きょとんと目を丸くしたイツンに、ニリは肩をすくめて見せた。

「……かあさんが作った、とうさんの形見なんだろう?」

 迷子になった少年のような顔をして、イツンは幾度も瞬きをした。そしてくしゃりと顔を歪めて、やっと悲しむ場所を見つけたというように、ぽろぽろと静かに泣きはじめた。

 ニリは彼に背を向けて暗い海を見つめた。長い旅路の果てにたどり着いた舟の波止場に、気が済むまでは泣かせてやろうと思ったのだ。

 松明に照らされて黄金色に輝く舟を横目に、ニリは大きく深呼吸した。潮の匂いが肺いっぱいに広がる。ニリの場所だ。

 琥珀色の森の香りは、イツンが泣き止んでから確かめよう。きっとそれもまた、新しいニリの日常の香りとなることだろう。

 琥珀王樹の舟は、もう浮かぶことはないのだから。

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彼岸片 @highkyo

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