第6話 邂逅

 自らの運命が変わった瞬間とその元凶。忌々しい男の顔を脳裏から消すため、楊倩ようせいの姿を眼裏まなうらに描くと、双玉はいっそう強く手中の櫛をいた。

 許された唯一ただひとつの希望のみちが閉ざされてなお、彼女は、彼を忘れられない。

 あるいは、閉ざされたからこそ、渇きはさらに彼女をさいなむ。いつだって、楊倩ようせい双玉そうぎょくにとっての自由の象徴だった。それはつまり、彼女の望み、彼女の心の全てと同義だ。

 心は死んでも、体は死なない。

 楊倩のやわらかい笑みを、忘れぬように何度もなぞりながら、いっそ死ねば楽だろうと、あの日以来幾度くり返したか知れないことをひとちる。だが、楽な道が取れないことは双玉自身がよく知っていた。あの宰相が何を求めているのか、双玉は知らない。

 けれど、水双玉すいそうぎょく、彼女は正しく仙裔である。


 踏みにじられたことを当然として生きるには、彼女の矜持は硬質うつくしすぎた。

 



 風を感じた気がして、双玉は瞼を開いた。

 皇帝が訪れるまで門扉もんぴが閉じられているはずの暗闇に変化はない。気のせいかと視線を動かすのと、黒い物体が音もなくへやに降ってくるのは同時だった。

 

 薄闇に浮かぶ濃い闇が人の形をとっていることを認めて、総毛立った双玉はまず、入り口との距離を確認した。石床だ。身のこなしを見るだけでも、まともな人間ではないのはわかる。

 刺客か、あるいはそれに類する人間か。刃物は持っていないように見える。

 ほんの小さな部屋だが、門に向かう線は遮られていて、そこから逃げ出すのは困難であることが予測された。

 

 誰何をすべきか迷った僅かの間に、先に人影が言葉を発する。


「あんたが、水双玉?……答えなさいよ」

 

 意外にも若い女の声で問うた影は、おもむろに床に近づいた。


「ふうん。流石にみてくれは悪くないわね。でも、もうそれ取ってるってどういうこと。あの昏君をなめてるの?いい趣味してるじゃない」

 

 黒い顔覆いで、影の表情は見えない。全てに黒い薄帳がかかった視界は、現実味を双玉から奪っていた。

 気負いのない小馬鹿にしたような調子で一方的に語る影に、ようやっと、言葉が返る。


「あなたは誰」

「あんたは知らなくていいことよ。あんたが知っておくべきなのは、後宮にあんたの心の休まる場所はないこと。信用できる人間もいないこと。周りは全部敵だと思いなさい」

「そんなの、後宮ここに限らない」

 

 その返答は、どうやらお気に召したようで、影は笑い声をあげた。決して声は大きくない。ただ、その密やかさがかえって嗜虐性しぎゃくせいを感じさせた。


「まるで世の中の全部があんたに借りがあるみたいな態度ね。じゃあ、今までになかったことを足しましょう。知っておくのよ、後宮ここでは私がいつだってあんたの命をとれることを」

「欲しいなら今とればいいじゃない」

 

 引き出しやすいところに仕舞われている虚勢は、すんなりと張られる。

 奪ろうと思えば無駄な問答などなしに、とっくにことが済んでいるのは、いまいち現状に実感がわかない脳でも分かるから。

 

「私もそうしたいんだけどね。ときじゃないらしいの。だからせいぜい怯えなさい。そう簡単には死なせてあげないわ。苦しんでもらわなきゃ」

 

 らしい。それは、この影が、自らの意思だけで動いているわけではないということだ。

 湧いてきたのは、行き場のない怒りだ。

 朱子毅といい、この目の前の影といい、生まれてこのかた、屋敷をろくに出たこともないこの身に、一体どこでこれほどの因縁いんねんが結ばれたのか。

 自分は、なんのために、あの鳥籠にこもっていたのか。理不尽さに涙が出そうになる。

 『水家の娘』と『水双玉』は必ずしも同義ではない。『水家の娘』という立場に向けられた悪意は、彼女がどこで何をしていても避けようがない、という事実を、この時の双玉は真に理解していなかった。

 どうしたって彼女は箱庭で育てられた千金だ。

 

「あなたは誰の使いなの」


「それも知らなくていいことよ」


 朱子毅ではないの、そう喉元まで出かけた言葉を押し戻した。違ったら目も当てられない。相手は双玉のことを知っていて、逆は何もない。

 下手を踏めば、もとより薄氷ほどの確かさしかない祖父の生存への希望を、さらに削ることになりかねない。


「飼い主の名前は出さないのね。見直したわ。少しは考える頭があったようで」


 心中を読んだかのような返しに驚いて、双玉はまじまじと見えない目に視線を向けた。


「驚いた?私はなんでもわかるのよ。そうね、今何を考えてるかあててあ」

「ムホウ、そこまで」


 人影が増えていた。新たな影はやや小柄で、声も高い。けれど、その手はムホウと呼ばれた影のうなじをつかんでいた。

 それから二つの影は音を発するのをやめた。


「あなたは誰」

 応えはない。そして、長くはない静けさの後、最後まで何事もなく小柄な影は、かき消えた。

 

「ムホウ、一体これは何なの」

「気安く呼ばないで。私、あんたが大っ嫌いなの。本当はいますぐ殺したいのよ」

 

 先ほどの気負いのない声とは別人のようだ。

 このわずかの間にどんな心境の変化があったのかは窺い知れない。原因はおそらくさきほどの小柄な影か、あるいは名を呼んだことか。


「もう行くわ。忘れないでね、私はいつもあなたを見ている」

 

「私は、あなたのこと嫌いじゃない」 

 

 返された背に、反射的に投げた言葉は双玉の本心だ。

 腹蔵のない言葉を発する点では、来歴不明の刺客すら、今の彼女にとっては、好ましい人間に思える。


「やめて虫酸が走る。長く生きたいなら、私に媚を売るより、あの方をこれ以上傷つけないように過ごすことよ」


 最後に、またひとつ大きな情報を落として、ムホウは現れた時の時間を巻き戻すように天井に消えた。

 ムホウのあの方は、きっとこの後宮に居るはずだ。そして、過去に自分と会っている。

 また、一つ課題が増えた。

 課題は積もっていくばかりなのに、今の彼女にはそれを解決するすべはない。

 

 考えても、考えても、この身の他は何一つ彼女の手には残っていない。

 それを持っているのは、彼だけだ。 


其方そなたが、大師の娘か」


「来ないでください、陛下」

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祥国伝 @v_alpha

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