第3話 あの日①

『———ねえねえ、おとうさま、また哪吒と二郎真君じろうしんくんのお話して?嫦娥さまのお話でもいいわ』

『またかい?双儿おまえは本当に、神話が好きだなぁ』

『だって、楽しいのだもの。不思議なのだもの。心がふわふわするの』

『あはは、分かった分かった。お話してあげるからこっちにおいで。ほら、ちゃんと布団もかけて。人形はこっちに置きなさい』

『はあい。ねえ、おとうさま、神仙しんせんってほんとうにいるのよね?ふしぎな法術を使えて、雨を降らせたり風を吹かせたり、変化へんげしたりできるんでしょう?』

『そうだよ。お前の遠い遠い、ご先祖様もそうだったんだから。瑶姫ようひさまを知っているだろう』

『そうよね……』

『どうしたんだい、急に』

『……』

『何かあったのかい?お父様に話してみなさい』

『……その』

『うん?』

『小春が』

『たしか陸さんのところの娘だったかな。その子がどうしたんだい?』

『小春が、神仙なんて噓だっていうの。そんなのいるはずないって。小春のお母さんが言ってたんだって。仙裔せんえいなんて、嘘つきでお金もうけしてたやつらの子孫だって。偉そうにしてるけど、ただのぺてん師だって。そんな不思議な力なんて、誰もつかえやしないって。だから、わたしのことも嘘つきって……』

『ああ……それは困ったねぇ』

『わたし、小春に嘘つきじゃないって言ったのだけれど、小春は信じてくれないの。ねえお父様、どうしてみんな、わたしたちを仙裔というのに、わたしは法術が使えないの』

『うーん。そうだねぇ。血が薄まったからかなぁ』

『血?』

『ちょっと手を貸してごらん。灯火に透かしてみなさい。みえるかい。いま、お前のこの身体の中に流れているのはね、父様と母様から貰ったものなんだ』

『うん』

『それでね、その父様と母様の血は、そのまたお父様とお母様からもらったものなんだよ』

『おじいちゃま、おばあちゃまね!』

『うんうん。双儿はかしこいなぁ。そうだよ。そしてね、それをずうっと遡っていった先に、瑶姫さまがいらっしゃるんだ。わたしたちは瑶姫さまの子孫で、ひいては王母娘娘おうぼじょうじょうの子孫はあるけれど、この身体に受け継がれた力なんていうのは、もうほんのちょっとしかないんだよ』

『……それじゃあ、わたしは術が使えないのね』

『そうだねぇ。双儿が小春に直接みせるのは無理だろうな。それでも、父様のお爺さまのお爺さまの頃には、ちゃんと法術を使える人が、まだそれなりに居たとは聞くけれど』

『でも、でも。そうだと小春に、神仙がご先祖さまなのよって信じてもらえなくなっちゃう……』

『……双玉、いいかい。確かに私たちは仙裔だ。でも、今となっては仙と人の違いなんて、あってないようなものなんだよ。世の中では未だに仙と人を比べて、仙の方が偉いと言う人が沢山いて、名前が一文字の凡人ただびとだからと差別されてる人が色んな所にいるけれど、あんな馬鹿げたことはないんだ。ちょっと髪の色や目の色が違うだけじゃないか』

『人だって仙だってね、生まれより行いだ。仙が仙たるのは、その力と、何よりその振る舞いによってなんだよ。それが仙と魔を分けているんだから。それを忘れちゃいけない。双玉も、仙裔だと人に頭を下げられたこともあるだろう。仙裔だとお前を讃える言葉を受けたこともあるだろう。お前は特に、水家このいえの娘だからね。これからいくらだって、そうしたものを受け取る機会がある。けれど、人々が差し出す敬意は、私たちの遠い過去の祖先が成した偉大な功績に対してのもので、私たち自身に向けられたものではないんだ』

『だから、誇りに思うべきものではあるけど、驕るべきものではない。同じ様に、双玉が他の誰かと会った時には、仙裔だとか凡人だとかではかりにかけちゃいけない。ただ、その人の本質を見極めなさい』

『大丈夫だ。仙だとか人だとか、そんなこと考えなくていい時代がやってくるから。父様たちが作ろうと目指しているのはそういう世界なんだ。お前が大人になるころには形くらいはできていると思う。』

『……わかったわ、おとうさま。わたし、がんばる。がんばって、ちゃんとした大人になる!』

『うんうん。きっと、お母様も褒めてくれるよ。わたしたちの双儿は本当にいい子だなぁ』

『でも、残念だわ。もう、物語の中のようなわくわくするような出来事は見れないのね』

『そんなに悲しそうな顔をしないで。……今だって、術を使える人が全く居ないわけじゃないんだから』

『ほんとう?おとうさま、ほんとうに?』

『うん。でもね、それは秘密なんだ。小春にだって、他の誰にだって言っちゃいけない。そうだなぁ。双儿がちゃんと秘密を守れるなら、「小姐おじょうさま」いつか会わせてあげるよ』

『きっとよ。「小姐おじょうさま小姐おじょうさまってば」きっと』

『約束するよ、双儿。きっと、あの方に会わせてあげ「小姐おじょうさま楊解元ようかいげんがいらっしゃいましたよ」』


「まあ。お兄様がっ?」


楊解元ようかいげん”の三文字は、双玉そうぎょくに対して覿面てきめんに覚醒効果をもたらした。

 記憶の海に沈んでいた間、感情が見えなかった顔が、花がほころぶように美しい笑みへと変わる。

 だいぶ前から傍らで声を掛けていた侍女は、そんな主の様子に、少々あきれた表情を浮かべた。


秋香しゅうか、お兄様はどちらに?」


「もう半時辰はんじしんも前から母屋の方にいらっしゃいます。宴まではまだ時間がありますので、おそらく小姐おじょうさまに会いにいらしたんだと思いますよ。まったく、探したんですからね。お部屋にいらっしゃるかと思ったのに、またこんなところまで出歩いて。やっと見つけたと思ったら、人形片手に考え事なさってるし」


「いつも言ってるでしょ。家の中でくらいは自由にするわ」


「それに異論はございませんが、せめて一言でも知らせて下さいと、私も何度も申し上げているじゃありませんか。いつもいつも、大奥様や飛燕様がいらした時にごまかす私と春香しゅんかの身にもなって下さいよ。何度心臓が止まりそうになったことか!」


「もう、ごめんなさいってば。ちょっとお父様のことを思い出していたのよ。今度、あなたの好きな桂花糕けいかこうが出て来たら、あげるから、ね?」


 桂花糕と名のつく糕点おかしは祥国各地にあり、金木犀の花が用いられているのが共通しているだけで、干菓子であったり、焼き菓子であったりと、それぞれの地域の個性が出るのだが、水家本邸があるここ泉南せんなん一体では、糖蜜などを加えたもち米粉を練って成型してものを、蒸し上げたものを指す。

 水家の厨房を預かる料理人の中に菓子作りが得意な者がいて、特に桂花糕は、彼女の得意の一品であった。

 舌の上に広がる上品かつ複雑なコクのある甘さが、混ぜ込まれた金木犀の花の香りや、ほろりと崩れもっちりと歯を跳ね返す食感と相まって、一口食べればやみつきになる菓子に仕上げられている。

 国内有数の商家ならではの厳選された一級素材を使用し、研究に研究が重ねられた独自の配合で作られており、納得のいく素材が手に入った時にのみ作られる事から、双玉の口にもなかなか入らないものである。


「そ、そんなことでは、ごまかされませんからね」


 ふい、と顔を背けた秋香じじょの口元が笑っていることにはとっくに気付いていたが、双玉は更に賄賂ごほうびを上乗せした。


「仕方ないわね。じゃあ、東風楼の荷花酥にかそもつけちゃう」


 荷花酥は、幾度も巻いては延ばし、巻いては延ばした油入りの麦粉の生地で、甘い餡を包み込んで饅頭状にした後、十字の切れ目を入れて揚げたものである。

 切れ目をいれてから油に入れる事で、幾層も重なった生地が花びらの様に咲き、蓮の花のような見た目になることからこの名がつけられている。

 東風楼の荷花酥は使用生地が二種類。切れ目は花弁が六枚になるように入れられており、中心部分の白い花びらと外側の薄桃色の花びらの対比が美しい、目にも楽しいものとなっている。もちろん中に入れられた山査子さんざしの甘酸っぱい餡と、サクサクとした小気味良い歯触りの皮の相性も抜群で味も申し分ない。

 なお、綺麗に花開かせる為には熟練した料理人の技が必要なので、値段も手の込みように比例して、一般的な荷花酥の数倍になる。

 好物の菓子を並べたてられた秋香はすぐに陥落した。

 といっても、もともと双玉は出されたおやつを秋香達に分けたりしているので、さきほどからの双玉の言も秋香の態度も、言って見れば予定調和の茶番である。

 双玉が幼い頃に売られてきた秋香や春香は、双玉にとって窮屈なこの家で唯一、気のおけない存在だった。他人の目がない時には、あまり主従関係に拘らず自由に過ごしていた。

 双玉より少し歳上の二人は彼女のことを妹のように見ているところもあって、秋香の、本来なら一介の侍女にあるまじき言動は、そういった気安さからきている。


「仕方ありませんね、それで手を打ちましょう。でも、ほんとうに次からは出歩く際には知らせて下さいね」

「分かってる分かってる。さあ、お兄様のところに行くわよ。長くお待たせしちゃったけれど、まだ怒ってないかしら」

「本当に分かってるんだか……。大丈夫ですよ、李解元がお嬢様に怒るなんて、あるわけないじゃないですか」

「お兄様はすごくお優しいから、それはそうだけど」

「あら、惚気ですか」

「本当のことを言っただけよ。からかわないで」

「はいはい、ごちそうさまです」


 軽口を叩き合いながら、長い着物の裾を上手くさばいて、二人は庭園の中を足早に進む。水家本邸は四進四合院しごういんを主とし、大きめの庭園を挟んで左右に三進四合院が建つ作りとなっている。四合院とは、中心の開けた内院(中庭)の四方を建物が囲んだ“口”の字型の建築様式で、三進、四進は、外の通りに面した大門から、一番奥に配置される罩房とうぼうに至るまで通り抜ける門や広間の数を示す。三進四合院は上空から見えれば“目”の形となり、四進はさらにその上に四角が追加される、といった具合だ。一般的な家屋は一進四合院かあるいは三合院であるので、水家の隆盛のほどがよくみえよう。

 双玉が先程まで居たのは西の旧本邸の、口の字の右の|に位置する東廂房とうそうぼうの一室で、幼い頃、双玉が暮らしていた場所だった。

 庭園を抜けると、すぐに本邸が見えてくる。廂房そうぼう脇の通用門から入り、宴の準備が着々となされている第二中庭へと出る。双玉に気付いて礼をする使用人達の間を通り抜けながら、第三中庭へと続く通り抜けのできる広間に近付くと、目当ての人物は柱に飾り付けの提灯を下げているところであった。


せい兄様!」

「双玉?」

「お嬢様!ああよかった。やっといらっしゃった。楊解元ようかいげんを止めて下さい。手伝うとおっしゃって聞かなくて」


 楊倩ようせいの側で慌てていた春香がほっとした顔で、双玉に泣きついた。当の楊倩ようせい本人は小さい踏み台の上で、手に持った棒の先に引っ掛けた提灯を一際高い場所に掛けるために、危なっかしい手つきで角度の調整をしている。楊倩は名を呼ぶ声に反応して、双玉らの方をちらりと見たがすぐに視線を戻した。


「きたのか。これだけ掛けてしまうから少し待ってて」

「はい」

「お嬢様!」


 春香しゅんかが慌てた声で呼ぶが、双玉は苦笑してかぶりをふる。


「こういう時のお兄様に何を言っても聞かないわよ。ほら、早く済ませてしまいましょう」


 台を抑えに掛かった双玉に、春香は小さく溜息をつくと、自らも補助に回る。何度目かの挑戦で提灯を掛け終えた楊倩はゆっくりと踏み台を降りると双玉に向き直った。


「悪かったね、久しぶり双玉」

「お久しぶりです倩兄様。お待たせしてしまってすみません」

「いいよ。どうせまた春香と秋香をまいて遊びに行っていたんだろう」


 朗らかに笑った楊倩に、彼のこの表情が好きな双玉も思わず笑顔になる。茶器を取りに行っていた秋香が戻って来て茶を淹れる傍ら、双玉は楊倩に席を勧めると自らも対面に腰掛けた。


「本日はどうしてこちらに?」


 秋も深まったつい一月ほど前、州都で行われた、官吏かんり登用とうよう試験である科挙かきょの第四次試験—–郷試ごうしで見事首席しゅせきとなり、解元かいげんと呼ばれる立場になった彼は、本当ならば今頃、来年の春に首都天瑶てんようで執り行われる会試かいしに向けて旅立っているはずである。


「お世話になったれん大師の八十大寿はちじゅっさいのたんじょうびとあれば、参上しないわけにはいかないよ。幸い、ここから天瑶まではそう遠くないから、一月二月遅れても問題ないしね。それに……」


 言葉を切って、楊倩はじっと双玉をみつめる。先程までの楊倩の答えが方便だということも、今向けられている視線の意味も、双玉は充分に承知していた。

 そもそも、八十大寿とは言っても、祖父である漣耀光れんようこう本人はこの本邸にはやってこない。

 若い頃に水家いえを出て先々帝に従って以来、祖父は実家との縁を絶って、朝廷に尽くしてきた。

 嫡腹むかいばらであった祖父を奸計かんけいろうして実家から追い出した妾腹しょうふくの長子とその母は、祖父が先々帝に重用されるようになると手の平を返してすり寄っては、各方面での融通を求めるようになったが、当然、耀光がこれを承諾するはずもなく、本家との溝は深まるばかり。

 よって、本来であれば、双玉がここ本邸で暮らしているという事態は発生しなかったのであるが、そんな険悪な両者の状態が一変したのが三十年前。

 祥国各地で次々と大規模な天災が起こり、未曾有みぞうの国難に直面した折に、耀光は水家へと赴いて、兄の前で膝を折った。

 結果、水家はその莫大な富の一部を放出し、水家が幹部の一角を務める祥国の商業・流通網を司る互助連合—–烏葵うぎかいは全面的に朝廷への協力を約することとなる。

 そして、復興への兆しが見え始めた二十八年前。耀光の息子で、双玉の父である当時十四歳の水碧正へきせいが本邸へと送られ、養子に入った。誰がどうみても人質だったが、幸か不幸か水碧正へきせいが水家に預けられたその翌年に、当時の当主が没し、その跡目を継いだ現当主は父に似ず引き際を弁えた人物であったため、水碧正へきせいを利用して我を通すことはほとんどなく、せいぜい大師の名を箔付けに利用するくらい。耀光の実家に対する態度も従前よりやや軟化したものの、両者は付かず離れずの距離を保つこととなる。

 今度のうたげもその一貫で、名目は耀光の祝いのえんだが実際のところ朝廷との繋がりと、水家の結束の誇示が目的だ。

 そのため、普段は各地に飛んでいる血族姻族一同もこの日ばかりは一堂に会している。ただでさえ、代替わりして間もない朝廷で要職にある耀光が、瓜田李下の極みたるこのような場に顔を出すはずもなかった。

 ほんの最近まで出入りの豆腐屋の息子として、現当主次男の遊び相手を務めていた楊倩がそういった事情を知らない筈もなく、なにより彼の眼差しが雄弁に、ここに訪れたのは双玉に会うためだと告げていた。

 しばらくじっと双玉の顔を見つめた楊倩が、何やら決定的な続きを口にしようとしたその時、間の悪い事に新たな人物がこの場に割って入った。


「双玉、双玉は居ないの」

「おばさま」

「そんなところで油を売っていたのね。早くこちらにいらっしゃい。あんたに会いたいというお客様がいらっしゃっているのよ」


 現れたのは現当主の第四夫人王氏。目下、当主の寵愛を一番に受けている女性だが、押しの強さと、欲の強さが目に付く言動が多く、双玉はこの人物を苦手としていた。


「でも、いまお兄様が」

「え?あら、楊倩も来てたの。双玉あんたね、その呼び名はやめなさいと何度も言っているでしょ。腐ってもあんたはこの家の娘なんだからね。家の品を落とす様なことをするんじゃないの。そんな貧乏臭い凡人と何か誤解されたらどうするの。高く売れなくなるじゃない、まったくいつもあん」

「四夫人おくさま


 立板に水のようにするすると王氏の口から出る雑言に、思わず秋香が声をあげる。


「何。秋香。どうしたの。……なんなのその顔は。あたしに何か言いたい事でもあるわけ?」

 気に入らない、といった鋭い目つきで睨みつけられた秋香の手が明らかに震えた。双玉と春香が目線で秋香に静止をかけるが、秋香はとまらなかった。


「その、その言い様はあんまりかと」


 王氏の表情が目に見えて凍った。怒りを隠しもせずに、秋香に近付きその顔を覗き込む。


「なあに、たかが侍女ふぜいがこのあたしに意見しようってわけ?あんたいつからそんなに偉くなったのかしら。誰がそんな目で見ていいって言ったの?ねえ」


 視線を逸らさない秋香に、王氏は手を伸ばして、曲げた人差し指と親指の腹で彼女の頬を挟むと力を入れて捻り上げる。


「良い肉付きね。あんた、誰のおかげでこうやって飢えもせず健康に生きてられるか、分かってるの?あたしがその気になったらあんたなんてどうにでもできるのよ?青楼せいろうにでも売ればあんたのこの生意気な性根も少しマシになるんじゃないかしら。ねえ、何とかいいなさいよ」


 痛みに涙が滲んだ目で、しかし反抗的に睨みつける事をやめない秋香に、激昂して更に力を一杯引っ張ろうとした王氏の手首を、横合いから伸びてきた白い手が掴んだ。


「おばさま、いい加減になさってください」


「邪魔しないで!あたしはこの生意気な下女にしつけをし「たかだか第四夫人がこの私に意見するつもりですか?」」


 中指と親指で作った環で手首をがっちりと固定し、振り払おうと伸びて来た他方の手も捉えた双玉が、静かに言う。やっと双玉の方に視線をやった王氏は彼女の感情のない目に頭から冷水をかけられたような心地になった。


「なにを」


 双玉は王氏に身を寄せると、彼女の耳元で言う。


「ご自身がおっしゃったんでしょう。侍女が第四夫人に意見をしてはならないと言うあなたが、大師の孫で、仙裔で、水家直系の姫であるこの私に、正妻ですらない、いつでも取り替えの利く序列四番目のしょうの分際で意見しようと?」

「あんた」

「この手にはめているの。美しい白玉の腕輪ですね。あなたがこのように優雅な暮らしができるのは誰の、どの家の恩恵だとお思いですか?この目出たい日に、容易に人の目にとまる場所で、公然と、自家の姫と、朝廷の認めた挙人で、末は大官になるかもしれない人物への侮辱を口にする、その浅はかさ。どなたに似たのでしょうか。水家の者を名乗るならば、相応の態度を示して下さい」


 にっこりとんだ双玉は手首を握った指に力を込めながら少しずつ、少しずつ内側へとひねりを加えていく。


「年長者と思い、今まで何も言いませんでしたが、あまりに度が過ぎると笑えるものも笑えなくなりますわ」


「まあまあ、双玉。それくらいに。四夫人も落ち着いて下さい。秋香も悪気があってああ言った訳ではないのですから」


 いよいよ王氏の顔が色を失った段になって、今まで沈黙を保っていた楊倩が絶妙の間で仲裁に入った。やんわりと双玉の手に手を重ねてほどかせる。


「四夫人。ここは私の顔に免じて秋香を許してやってくださいませんか」


「王氏!双玉も。何をしているの、早くきなさい。お客様がお待ちよ!」


 王氏の返答がなされる前に、痺れを切らせた様子で、第三中庭の側から現れた第二夫人平氏が割って入ったことで、その場はなんとなくお開きになる。

 双玉は、赤くなって痛々しい爪痕の残る秋香の頬を労る様に撫でると、楊倩に向き直った。呆然としたまま、本能的に解放された手をさする王氏はもはや、目にも入っていない様だ。



「お兄様、見苦しいところをお見せしてごめんなさい」

「いいよ。けどあんまり無理しないようにね。ほら、お客様が待っているんだろう。いっておいで」

「でも」

「私はここで待ってるから、終わったら戻ってくればいいよ」


 僅かに逡巡した双玉であったが、平氏のせかす声にとうとうこの場を離れる決定をし、踵を返した。


「絶対待ってて下さいね、お兄様!」


 そう言い残して、双玉は平氏と共に正房の広間へと向かった。

 だから、双玉はその後、その場であった出来事を知る事はなかった。


「よ、楊倩。あんたもね。解元だか何だか知らないけど、調子にのらないことよ。旦那様や他の方々は表立っては言わないけど、あたしははっきり言うわよ。双玉に懸想しているようだけど、あんたみたいな凡人が水家の娘を娶るなんて、分を弁えないご大層な夢みてんじゃないわよ。あのにはせいぜい使い道のあるとこに嫁に行ってもらわなきゃならないんだからね」


 未だ混乱した頭で、苦し紛れにこう捨て台詞を吐いた王氏と、その言葉に常からは想像出来ない凄絶な笑みを浮かべた楊倩のことを。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る