第2話  とある少女の婚姻の夜

娘娘おきさきさま、お入りください。」


 頭に被せられた紅布の下、足下に僅かに入る先導の灯りに照らされた石畳の先に、緋色の敷居が見えた。どこかの部屋に到着したようだ。

先導役の宮女に手を引かれるまま、中に足を踏み入れると、そのままとこまで案内される。入り口から十五歩程。案外小さい部屋のようだった。


「娘娘、皇上こうじょうがいらっしゃるまでこちらでお待ちください。それでは、奴婢ぬひはこれにて失礼致します。」


 戸が閉まるカタンという木の音が響くと共に、双玉は紅布を剥ぎ取った。灯火の一つもない、先ほどとは別種の暗闇が目を覆う。目が闇に慣れるにつれて朧げに見えて来た室内は驚く程狭く、簡素なものだった。

 腰掛けている寝台を除けば、部屋の中央に小振りの円卓と椅子。卓上には酒と菓子らしきものがみえる。向かって左側に化粧台。奥に柜子たんすが一つ。

 どれも慶事に相応しく赤で飾られているものの、それだけだ。先刻の式といい、いち妃嬪ひひんでしかないとはいえ、天下の皇帝の婚姻の儀式にしては余りに質素すぎる。


 宮中の習わしなど知らないが、これが普通だとは到底思えなかった。

 少なくとも、ついさっき双玉が経験した婚姻の儀それは、平民百姓いっぱんじんの婚姻の儀よりも、ことによると短かった。

 どんな苦行を強いられるのかと覚悟してきた身からすれば拍子抜けしたほどだ。


 双玉が入宮する原因となった宰相 ——— 朱子毅しゅしきから付けられた目付役の侍女、梅花ばいかに事前に教えられた通りならば、当代皇帝の三妃は既に二つ埋っている。皇后の位こそ空位だが、両妃が皇上に従ってからそれなりの月日が経つらしい。

 もちろん、妃以下の婕妤しょうよ昭儀しょうぎ、貴人や美人と言った位の低い側女そばめなどは、それこそ一束いくらで売れるほどいるだろう。

 一応、とはいえ、三番目だから、簡略化したのか。

 それとも、双玉の入宮の経緯のせいだろうか。だが双玉と朱子毅の取引は、限られたものしか知らない。そしてそれは全て朱子毅の手の者だ。

 そもそも祥国開国から続く、由緒正しい仙を祖とする今や国一番の商家しょうか、水家の千金れいじょうで、大師の孫娘である双玉の身分からみるなら妃としては至極適格。薄待を受けるいわれは無い。とすればこれも、朱子毅の嫌がらせの内だろうか。女性としての一生で最も重要な、華飾の典さえ、貶める心持ちの。

 そこまで考えて、馬鹿馬鹿しい、と双玉は心中で吐き捨てた。この婚姻が決められた時点で自分の心は既に死んでいると言うのに。今更、何を期待していると思われたのだろう。儀式が盛大であろうとそうでなかろうと、自分にとって毛一筋程の違いもない。

 ———もう、どうでもいいのだ。

 双玉は、懐から木彫りの櫛を取り出した。梅花に懇願してなんとか持ち込んだそれの、丁寧に削られた背に繰り返し触れ、彫られた少し不格好な花びらを撫で、綺麗に刻まれた己の名を指でなぞる。せい兄様は今どうしているだろう。

 はにかみながら、この櫛を手渡された日がどこか遠い世界のことのように感じられた。

 こんなものしか、今はあげることができないけれど、そういって、どこか申し訳なさそうに手製の櫛を差し出だしたせい兄様の顔が、まるで目の前にいるかのように鮮明に蘇る。

詩を作るのも、絵や書も得意なくせに、手先は不器用な倩兄様かれが、この小さな櫛ひとつ作るのにどれほど苦労するか十分に承知していたから、どんな金銀財宝を貰うよりも嬉しくて、思わず涙ぐんでしまった。

 そんな私に、兄様が面白いくらい慌ててしまって……思い出した情景に、微笑みの形を作りかけた双玉の口元は、目的を達成する前に強ばって真一文字に結ばれた。

 双玉は気持ちを抑える様に深く深く息をつく。

 全ては、今となっては決して戻れない過去のことだ。それどころか、もう二度と、彼の姿を見る事すら、自分には叶わない。

 ———身分が違っていなければ。

 仙裔せんえい凡人ただびとだと、そんな下らないことを気にする者が周りにいなかったら。自分が、それを気にされる身世みのうえでなかったら。

 

 彼を思う時、浮かぶのは目だ。絶対に、迎えに来るからと告げた、何よりも意志の強い、澄んだ目。もう見る事も、見られる事も無い、あの目。

 好きだった。

 見つめられるだけで緩やかに幸せが満ちて行くようだった。

 幼い頃からずっと一緒に育った兄様の側にいると、まるで陽だまりにでも居る様に限りなく穏やかな気持ちになれた。

 いつか倩兄様が官位かんいを得たあかつきには、正々堂々と馬にのって、真っ赤に飾り付けられた御輿みこしを従えて、我が家に迎えに来てくれる。

 自分はそれに乗ってお嫁に行くのだと、純粋に信じていた。

 それほど昔のことではない。ほんの一月前までは、確かに自分に、そんな今となっては笑ってしまうほど、夢のような幸せが訪れるのを信じていたのだ。

 あの日、自分の人生が劇的な転換を迎えた——— 祖父の八十歳の大寿たんじょうびの宴の日までは。

 

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