第3話

「ひ、ひいい! 夜叉ぁ!」


 庄屋の顔面からは血の気が引き、その場にへたり込んでしまった。

 女は夜叉、あるいは般若、山姥等と呼ばれる、人間を捕らえて食べるあやかしだったのである。


「そう、あたしはいかにも夜叉だけどねえ。とって食いやしないから、怖がらなくていいさ」

「ほ、本当に?」

「夜叉が人間を食うのは年に一、二度で良くてね。常には普通の飯を食うのさ」

「ふ、普通の飯を食うのかね?」

「当たり前さ。毎日人間を食ってたら、いくらいても足りやしないじゃないか。そんななら、あたし達も人間も共倒れしちまうよ」

「それは、そうかも知れんが…」

「それに、伊勢の一揆勢にはあたし達みたいな夜叉やら羅刹といった人外の類が結構混ざってるけどね。食っていい人間は、罪人か敵兵だけって掟になってるんだよ」


 自分を襲うつもりはないと言われても、人外の存在を目の当たりにして、庄屋の恐怖は収まらなかった。


「何もないこんな村に、お、お前さん、何をしに来なすった!」

「だから伊勢の薬売りだって言ったろ? あたしは商売に来たんだよ。ま、ついでに伊勢の近況を広める役目もあるんだけどね」

「つ、つまりお前さん、伊勢の龍神様とやらの手下だと?」

「まあ、あたしは役人や兵って訳じゃないけどさ。鑑札を受けた代わりに色々と命じられて動くから、似た様なもんだね」

「そ、そうかね」

「伊勢では妖が大手を振って歩いてる事も、いずれ和国中に知れ渡るだろうけど。それまで、あたしの正体は村人には内緒だよ?」


 庄屋は、震えながらコクコクと頷いた。

 女は庄屋を通じ、村の各戸に前任者が置いていった配置薬を持って来させる様に告げた。

 伊勢の薬売りは、得意先の各家に一揃いの配置薬を置き、次回の訪問時に減っていた分の代価を請求する商法である。

 野良仕事が終わった夕刻頃には、薬箱を持ち寄った村人達が、庄屋の屋敷へと集まった。

 女は村人を怯えさせない様に角と牙はしまい、再び人間を装っている。

 集まった村人を前に女は、現在の伊勢は一揆衆が支配している旨を伝えると共に、前任者の属していた古い薬座は解体され、自分の属する新たな薬座との繋がりはないので、今回は代価を請求しない事を告げた。

 神宮が潰された事については、意外にもおおむね平静に受け止められた。支配者の末端である庄屋に比べ、一般の村民達は、圧政に怒った民衆が一揆を起こした事に理解を示したのである。

 薬座の一新についても、前任者が配置した薬の代価は請求しないと宣言した事で、深く追求する者はいなかった。


「そういう訳なので、いくら使っていても銭はいらないから、何が減っているか見せておくれよ。どういう薬が特に入り様なのか知りたいからね」


 配置薬の内容は腹痛、解熱、止血、駆虫の各薬品が一揃いとなっているが、どの薬箱も駆虫薬の他は殆ど減っていなかった。


「怪我も病もないなら結構な事だけどねえ。高すぎて迂闊に使えなかったかい?」

「売薬を使わずとも、腹痛は千振、止血は弟切草があるでな。熱は冷水を含ませた布で冷やしておる。ただ、虫下しだけはどうにもならんのじゃ」


 女の疑問には庄屋が答えた。村では虫下しを除き、自生している薬草で間に合っていたのである。

 配置薬に使う薬としては定番だったとはいえ、場所に応じた薬を置かないのは怠慢ではないかと、女は思った。


「それじゃ、虫下し以外は別の、そこらの薬草じゃ代用が出来ない薬を置く様にしようかね」

「どんな物があるかのう」

「そうだね、例えば、まむしの毒消しに使う丸薬。労咳ろうがいに効く煎じ薬。疱瘡ほうそうに効く水薬とかがあるね」


 集まった村人から、ざわめきが広がった。

 労咳も疱瘡も、死に至る難治の流行病だが、それが治るというのである。


「一体いくらなんだ?」


 持参した薬を見本として取り出し始めた女に、村人の一人から声が挙がった。やや若い男だ。


「お前様は?」

「この村で、若衆の頭を務めてるもんだ」

「じゃあ、この場での問答は、庄屋様とお前様に相手を絞らせてもらうよ。大勢から色々言われるとややこしくなるからね」

「わかった。で、値はいくらだ?」

「今回から置いていく薬はどれも、一回分で銅銭百文、銀なら一匁だね。虫下しはこれまでと同じ物だから、元の値段の十文でいいよ」

「百文? とても手が出ねえよ」


 薬の値を聞いて、村人達からはざわめきや溜息が広がった。

 百文は命の代価とすれば決して高いとは言えない。街の商人や職人であれば、一本立ちさえしていれば、何とか用意出来るだろう。

 しかし、自給自足で現金収入の乏しい農村では、とても高価な物である。


「こいつは、龍神様が処方した特製なんだ。使わなきゃ代価は取らないから、是非、置いておくれよ」

「本当に効くんかね? 使って効かずに、高い銭を払う羽目になったらたまらねえしよ」

「誰か、重い病で伏せっている者はいないのかい? そしたら、直に効能を見せてやれるんだけどさ」

「労咳病みなら去年いたけどよ、年の瀬に死んじまったなあ」

「そりゃ気の毒に。他に、誰かいないのかい?」

「そうだ、姐さん。蝮の毒消しがあると言ったろう?」

「ああ。あれは特に売れ行きがいい薬でね」

「酒に漬け込むつもりで、うちに蝮が捕らえてあるんだけどよ。姐さん、そいつに噛まれてみてくれねえか? 毒消しが本物だったら大丈夫だろ?」

「そいつはいい思いつきだね。早速だけど蝮を持って来ておくれ。こういう事は、皆の目の前でやらないとねえ」

「面白え!」


 若衆頭は家に戻り、すぐに壺に入れた蝮を持って戻って来た。


「じゃ、一丁やってもらおうか!」


 若衆頭はにやつきながら女の目の前に壺から蝮を置いた。

 いいぞ、やれやれ、と村人達がはやしたてる。

 誰もが本気ではない。効くかどうか怪しい薬を売りつけて、村人から暴利をむさぼろうとした女を、嘲って遊んでいるのだ。

 女の正体を知る庄屋のみが、ただじっと沈黙を守っている。


「はいよ」

「お、おい! やめろ!」


 女は周囲の制止の声を無視して、壺に右腕を突っ込んだ。

 数秒後に壺から腕を引き出すと、蝮が手首にかぶりついたままだった。

 それを見た村人達からは悲鳴やどよめきの声が挙がったが、女は全く平然としている。


「やっちまった…おい、姐ちゃん! 大丈夫か?」

「平気さ」


 女は噛み付いたままの蝮の顎を左手でこじ開け、壷へと放り込んだ。

 そして、見本として広げてあった薬の内にあった、蛇の絵が描かれている小袋から丸薬を一粒取り出し、口に含んで飲み込んだ。

 噛まれた後からは血が垂れているが、気にする様子も無い。


「さて、この毒消しの丸薬を飲んで、あたしが明日まで何もなければ薬が効いたって事で納得してもらえるかねえ」

「あ、ああ…」


 若衆頭以下の村人達は、言葉もなく呆然としている。


「血止めはしなくて良いのかね?」

「丸薬が効き始めりゃ血も止まるから、心配いらないよ」


 庄屋が尋ねると、女は落ち着いた様子で答えた。


「さて。毒消しを飲んで効き始めると眠気を催すんだ。今日はもう寝るから、明日を楽しみにしておくれよ」


 村人達が中身を詰め替えた薬箱を持って帰っていった後、女は薬の効きが悪くなるからと夕餉を断り、庄屋の家人が客間に用意した床へ入ると早々に寝てしまった。

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