恋滝参り

九榧むつき

恋滝参り・零 暗き淵の篝火の如く

 


 火が燃える。暗き淵の底で。

 決して消えぬたましいの火が。



 リョウは、水の迸る滝壺の澱みを前に立っていた。

 清滝淵。別名、死人淵。

 圧倒的な水量を誇る轟迂川の中流にあって、清龍滝の水を受ける大きな滝壺の一角にあたる。

 揺れる水面の下で、暗く澱む淵の死水。陽炎のように揺れるその闇を見つめ、燎は深く息を吐いた。


 竜神祠に二拝し、軽く一礼をする。滝の傍に立つ祠は、命を絶った悲恋者達を慰める為に建てられた物。

 そう、ここは心中する恋人が身を投げる処─


 滝を後にした少年は、慣れた足取りで沢を降り下って行く。落水の轟音が彼を見送るように、遠くまで鳴り響いた。




 風がざわめき立つ。杉木立の中を一人歩く少年に、相坂は土手の端から声を掛けた。

「待ってくれよぉ、えーと…」

 名前が思い出せず、立ち止まる。その間にも、少年は歩くのを止めずに先へと進んだ。

「そう!そうだ、倉渕。」

 思い出した頃には、遥か遠くまで足を運んでいる。

 慌てて相坂は後を追い掛けた。


「もう少しで、見失う所だったぜ。」

 屈託なく喋る相坂の様子に、極力無関心を装う倉渕クラブチリョウは、困った様子で歩いていた。必要以上の、他者との接触には慣れていないからだ。

 今まで自身に纏わる噂の為に、近づいてくる人間など、居なかったというのに。

「なあ、学校には行くんだろ?」

一緒に行こうぜ。と、軽く肩を叩いて、馴れ馴れしい態度で接する。そんな相坂の無神経さに、正直、燎は腹が立った。

「いい加減にしてくれないか。」

 少し荒げてしまった、声。一瞬、驚いたように目を丸くした相坂が、破顔の笑みを見せる。

「やっと、喋った!」

 あまりに嬉しそうに笑う相坂の姿に、燎は咎める言葉の行き先を見失ってしまった。

「兎に角、纏わり付かないでくれ。」

「なんで?」

 速攻で訊ねられる。困惑した燎の眼差しが、周囲を気にしてさ迷う。

「人目に…付くと困る」

…じゃないか。彼の立場を慮って自ずと出た言葉だが。

「人目が無ければ、良いんだな?」

 懲りもせずに訊く。燎は溜め息を付き、渋々了解した。




 他人の噂は様々だ。

『死人の子』

『親殺し』

『妖怪の子』

『龍神の祟り』

『化け物』

他にもまだある。だが、どれも当たらずとも遠からず…といった処だ。


 そう、自分は化け物なのだ。

 死人淵に打ち上げられていた赤子は、水に濡れ凍える身体で烈火の如く泣いていたという。

 命をくれた両親は、暗い深い水の底。

 夏場とはいえ、他より冷気の漂うあの場所は、夜になれば更に冷え込む。そんな処で一晩中『ここにいる』と云わんばかりに泣いていたらしい。

 その赤子の成れの果てが、自分。

 それ以来、あの噂は燎の身に染み付いてしまった。




「なあ、何で皆と話そうとしないんだ?」

 不躾な質問を繰り返す。相坂という男はバカなのか。そう燎は思ってしまう。

 相坂清己アイサカキヨミ─確か神社の三男ではなかったか? 古くからある神社で、彼も此処で生まれ育った筈だ。

 怪訝に見つめる燎の視線に、相坂─清己は純真な笑顔を向けた。

「俺さ、お前の声が聞きたいんだよ。」

 だっていい声してるだろ?屈託なく笑う彼の笑顔が、眩しくて…辛い。

 燎は知らずの内に走り出していた。




 置いてけぼりを食う形で、清己は走り去った跡の燎の面影を追った。

 記憶の中にある彼は、いつも独りだった。

 誰かといる景色も無いし、声すら碌に聞いた事も無い。いつも黙って俯き加減に空間を眺めているだけだ。

 初めは自分も周りと同じように、彼を避けていた。けれど、それが崩れたのは多分あの時からだろう。

 独りごちに、清己は苦笑した。


 清己が燎の事を気にし出したのは、半月程前。

 御神水を汲んでこい、と神主の祖父に言われ、無理矢理叩き出された清己は、渋々桶を持って、日の出前から沢を登らされた。

 暗い沢道を通り、神水に使っている滝の横の湧水を桶に溜めていたその時だ。

「おはよう、父さん。母さん。」

 滝壺に響く不意の声。

 吃驚したのと、その時の声が不思議と胸に響いたのとで、清己の心臓は飛び出る程に早鐘を打つ。

「そっちは変わらない?」

 声はどうやら祠の向こう…のようだ。今いる位置が祠の真裏だから、この祠かそのすぐ下の清滝淵辺りか。

 誰だ?一体…

 気になって祠の影からそっと覗く。そこに居たのはいつも一人でいるあの─倉渕燎、だった。




 それ以来、毎朝汲みに行っては、燎の姿を観察したものだ。毎朝淵に話し掛けては祠に参る。どうやらそれが彼の日課らしい。

 興味が湧けば、自ずと直接話をしたくなる。それが清己の良い所でもあり“無神経”と呼ばれる欠点だ。


 学校まで来ると、既に燎は到着していた。あのまま更けられたら厄介だな、と思っていただけに一先ず胸を撫で下ろす。

 捜すのは然程難しくない。人気のない方へ目を向ければ良いのだから。そのまま学校では素知らぬ振りをしたが、清己は終業の挨拶が済むか済まないかの内に教室を飛び出して、燎の姿を探した。

 彼をよく見かける通路で、無言で足早に歩く燎の姿を目にする。清己も暫く間を空けてその後を追った。同じ距離、同じ歩調で並ぶ二人。


 疎らだった人波が二人だけになり、更に人気の少ない林縁沿いの道へ。そして彼は陽を遮る、往き慣れた木立へと歩みを進めゆく。

「なあ、倉渕。もう声かけてもいいだろ。」

 仄暗い沢道を上がる手前で、清己は声を掛けた。無言のまま、振り返りもせずに、燎は先へと進む。

「なあ、倉渕。倉渕燎ぉ。」

 流石に癇に障ったのか、立ち止まって振り向きざまに言った。

「何時まで付いて来る気だ。」

「そりゃあ、何時まで…も?」

 凡そ何も考えていないであろう表情に、即座に前を向き、引き離しにかかる。人には薄暗く歩き難い沢道でも、燎にとっては通い慣れた道だ。

 ずんずんと後ろはお構い無しに滝壺まで一気に駆け上がった。もう付いては来ていないだろうと、振り返った燎の眼に、荒い呼吸をしながら汗まみれの笑顔を向ける清己の姿が飛び込んできた。

「…速ぇ、よ。」

 肩で息を継ぎ、手首で汗を拭う。それからゆっくりと清己は燎に近づいた。

 清己はなるべく笑顔を向けたまま、燎に話し掛ける。

「いつも此処に来ているのか。」

 朝は知っているが、今時分は家の手伝いやら友人らとつるんだりやらで、清己自身此処に来たりはしていない。それにいつも、気付いた時には既に燎の姿は無く、だから今日こそは、と後を追いかけたのだ。

 無言の燎の横で、清己は滝の水で顔を洗い、勝手にその隣に腰を下ろした。




 沈黙を続ける燎を尻目に、あれやこれや日常の他愛無い話を清己一人が喋る。もう一刻は過ぎただろうか。漸く燎が重い口を開いた。

「…煩い。」

「何だよそりゃ。」

 笑いながら清己も返す。だが正直出てきた一言がそれで、多少傷付きもして気持ちを凹ませた。が、それでも隣に居てくれる事が少なからず気を許してくれている証だと、勝手に解釈をする。

「倉渕…じゃなんだから、燎、て呼んでもいいか?」

 俺の事は“清己”でいいから。と、構わず話を進める。名を呼ぶ事など認めてはいないと、眉を顰める燎をよそに、清己はご機嫌に顔を綻ばせて更に調子付いた口調を弾ませた。

 燎は横目でそれらを見て、煩わしげに溜息を吐いた。


 物珍しさに話し掛けてきても、どうせ直ぐに近付かなくなる。それまでの辛抱だ、と自分に言い聞かせ、目を伏せる。

 誰であろうと燎に近付いた者は皆、何か悪い事が起これば全てそれを燎の所為にして、自ずと遠ざけた。人間とはそういうもの。化け物は人間に受け入れられない。

 きつく結んだ瞼が苦しい。燎は拒む姿勢で頭を三角座りで囲った腕の中に沈めた。

 期待はしない。いずれ近い内に離れていくから。

 だから関わるな、と呪文の様に繰り返す。




 どの位経っていたのだろうか。気付けば声は止み、滝の水音だけが耳に入ってくる。燎は少し頭をずらして顔を上げた。

 見えたのは、困った様な又は不安げな、子供の顔をした清己の表情だ。

「…何?」

 バツが悪そうに、鼻頭を掻きながら清己は言った。

「悪い。なんか俺、一人で喋り過ぎた。」

 申し訳無さそうにする理由が分からなくて、燎は黙った。その沈黙が余計に清己を責め立てている事など、無論知る由も無く。

 項垂れる清己は何か言おうとして口を噤み、暫く躊躇い、結局出たのは一言だけだった。

「…ごめん。」

 何を謝る必要がある?

 理解せぬまま、燎は立ち上がった。もう陽は暮れ始めているだろう。闇に閉ざされる前に沢道を下らないと、足元が危なくなる。そうなれば困るのは清己かれだ。


 無言で背を向ける燎に、清己は己が彼の気を害したのだと、どうしようもなく落ち込んで、沢道を下るその背中をただ眺めた。その後ろ姿が不意に立ち止まり、ゆっくりと振り向く。

「まだ、其処にいるのか。」

 無表情に近い燎の顔は清己には恐ろしかった。唐突過ぎて言われた事の意味すら掴めなかった。

 だが別段怒っている訳でないのを、いつもと変わらぬ声音で感じ取れた清己は、勇気を出して燎の後に続いた。

「下りるよ。」

「あ…ああ。」

 誘う、でもなく、自分の行動をただ伝える燎。その横顔を見ながら、複雑な思いに清己は駆られたのだった。




 あれから暫く燎と清己の関係は、付かず離れず、であった。清己が近寄ってくる事に燎は何も言わないし、話をしてもあまり会話にはならない。

 知人がいる場所で会うのは燎が嫌がったから、大概人目のない所を選んだが、喋るのは相変わらず清己だけだ。燎はたまに相槌を打つだけで、殆ど喋らない。

 それでも燎自身、幾分か清己を気に掛ける仕草はあるし、清己は戸惑いながらも燎に付き纏っていた。


 淵へ行くのが日課になっているのは朝だけで、放課後は意外にも少し遠めだが街中へ出たり、知らない人の波に紛れたりしている事が多いみたいだ。だがそれでも人間と関わるのは苦手なようで、殆どを燎は独りで歩く事に費やしている。

 清己はあることに気が付いた。

 それは、街中での友人同士や恋人達など、他人を見る燎の眼差しが羨望の光を宿しているという事だ。

「………。」

 燎は気付いていないのかも知れない。そんな彼の姿が何故か清己は悲しかった。

「燎。」

 振り向いた燎の手を掴むと、強引に人波から外れ、近くの公園へと連れ出す。多少驚いてはいるものの、清己の為すがまま燎は素直に付いて来た。

 手近なベンチを見つけ、足を向けると其処は半分野良猫の溜まり場になっていたのか、一斉に猫達が飛び退いていった。何匹かは少し離れた場所で様子を伺っていたが構わず清己は腰掛け、手持ちの菓子袋を無造作に開ける。

「食おうぜ。」

 燎も致し方ない様子で隣に座ると、清己に薦められるままに袋の中身に手を伸ばした。


 にゃあ


 菓子の匂いに釣られてだろうか、小さめの猫が一匹、燎の足に纏わり付いた。その存在に気付いた燎は徐に手を伸ばし、猫の身体を撫でてやる。

 清己は黙って貪りながら、横目で燎の様子を伺った。

 燎が、笑っている。

 唖然としたまま、清己はその光景に我を忘れて硬直した。今まで一度も見た事が無い燎の笑顔に、胸倉を鷲掴みされて激しく揺さぶられた位、心が動かされた。

 他人の笑顔がこんなにも嬉しい、なんて。

 初めてだ。今まで知らなかった。清己は息を飲んだまま燎の笑顔に釘付けになっていた。


 あまりに硬直状態で注視されたものだから、燎は自分が変な事をしたのではないか、と沈んだ眼差しで表情を曇らす。少し哀しげで、諦めの色を含んだ悲しい眸が足元の地面に落とされた。

 それを見て、漸く清己は我に返った。

「あ…あのさ、その…笑ってろよ。」

 半分吃りながら、照れ隠しに下を向く。それだけ言うのが精一杯だ。

「あの、だから…、えぇと、可愛いんだよ。いや、その、綺麗だからさ。」

 言葉が上手く繋げないどころか、余計に可笑しくなってくる。その破綻ぶりに、燎も思わず噴き出した。

「変だ、それ。可笑しいよ。」

「へ…、変、か。」

「ああ。」

 自覚が無いからか、男としての観念がそう思わせるのか、どちらにしても、燎には的外れな褒め言葉と捉えられたのだろう。再度俯き、清己は唇を噛んだ。

「相坂?」

 不安な声音で覗き込もうとする。そんな燎に、顔を上げてもう一度清己は言い切った。

「笑ってろよ、燎。その方が絶対可愛い。」

 真面目な顔で言う清己の気迫に押され、燎はどう返せば良いのか戸惑う。清己はその燎の頬に手を掛け…そして。

「!? あいさ…っ!?」

 いきなり抱き締められて困惑した燎が声を上げても、構わず清己は回した腕に力を込める。

「燎っ、お前は良い奴だっ」

 何を言いたいのか、自分でもわからない。ただ燎の全てを肯定してやりたい、そんな気に駆られたのだ。

 燎も何も言わず、清己にされるがままに黙っていた。それ以前に頭ごと抱き締められた所為で、声すら出せない状態にあったが。


 少し落ち着いた所で、漸く清己と燎は向かい合った。

「え…、…と。」

 流石に気恥ずかしい。我ながら馬鹿な事をしたものだ、と清己は今更ながらに反省した。だが後悔はしていない。

「あの…さ。」

 言いかけて。燎は伸ばそうとした自身の掌を止めて、強く握り込む。良いのだろうか、本当にこの手を伸ばして掴んでも。

 戸惑いはしたものの、燎も抱き締められた時、心の内で嬉しさを感じた。いつぶりだろう、触れられるのも、抱き締められるのも。もう随分と遠すぎて忘れてしまっていた。


 喚び起こされた歓喜を再び亡きものに出来る程強ければ、何も怖くはなかったのに。今はこの手の先が消えて無くなってしまうのが、とても…怖い。


 そんな燎の躊躇を打ち消すように、清己の手は燎の拳を捕らえて温かく包み込んだ。

 握り込んだ拳が解けていく。

 清己はその手を互いに握り合わせてしっかりと結んだ。

「俺達は無二の親友だ。」

 愚直な程に真摯な眼差しで、清己は燎に言った。

「これからもずっと一緒だ。俺が傍に居てやる。いいな、燎。」

 共に居よう。その言葉がどれ程心強いものか、己がどれ程求めていたか、燎自身この時はまだ気付いてはいなかった。


 燎は俯いて、小さく頷く。清己はこの時見せた燎の笑顔を決して忘れる事は無かった。




 相変わらず燎は、学校や町で一緒にいる事を嫌がったが、二人だけの時には思い切り笑ったり、拗ねたりして、まるで子供のように色々な表情を見せた。

 そんな燎の変貌ぶりに、時折振り回されながらも、清己は誇らしげに打ち解け合えた事を喜んだ。


 今や二人きりになれる時間が待ち遠しい。そのニヤケぶりから、周りの友人に揶揄される程だ。

「なあ、きよ。また彼女の事を考えてたろ。」

 隣の席で、友人の秦野はたのはじめが惚ける清己を突っつく。

「違うって。前からそう言ってるだろ。」

 少し不機嫌に顔を厳つかせ、清己がぶっきら棒に返す。それでも上を向くと直ぐに元のニヤケ顔に戻る始末だ。

 今度は何処へ行こうか、それとも何をする? 犬も喰わぬ程に馬鹿げた妄想を繰り返す清己に、秦野は『何を言っても無駄だ』と早々に諦めた。


 当の相手である燎の身辺にはこれといった変化はない。ただ以前と違うのは、清己という存在がいるだけで毎日が頼もしく思えるようになった、という事だ。

 学校にいる間は敢えて清己を遠ざけたが、放課後の二人の時間が早く来ないかと、いつも気が高ぶってなかなか落ち着けずにいた。それ程に毎日が楽しいものに変わりつつあったのだ。




 どちらとも無く待ち合わせの場所まで来ると、我慢の限界を超えて直ぐにじゃれ合う。端から見ているとまるで幼児おさなごのようでもある。睦まじい姿だ。

 一息ついたところで、清己が思い出したように言った。

「なあ、今度家に遊びに行ってもいいだろ。」

 それとも親父さんやお袋さんに会うのは不味いか。

 養子で気を使うなら、下手に顔を出さない方が良いのだろうか。そんな事を考えて思案する清己に、少し複雑な表情をして笑いながら燎は静かに語り出した。


 燎が倉渕の家に入ったのは十六年前。ちょうど倉渕家でも一人息子が独立し、両親の手が空いた頃でもあった。

 まだ赤子だった燎は、幸い発見者である倉渕夫妻に養子として引き取られる事となり、幼児期まではつつが無く成長していった。

 だが、学校に通うようになり他の人間との接する時間が増えると同時に、あの噂の影も一緒に付いて回るようになったのだ。

 燎は養父母を思って何も言わなかった。養父母である倉渕夫妻も付き合いの多い方ではなかった。

 やがて、五十近く年の離れた養親は、養母が急逝したのを期に養父も体調を崩し始めて、三年前から入院している。


 御蔭で現在は殆ど独り暮らしの様なものだ、と苦笑交じりに燎は喋った。


 他愛無く訊いた事を、少なからず清己は後悔した。

「独りで…大変じゃないか。」

 何か少しでも力になれることがあれば。そう思い清己は声を掛けた。でも笑って燎は大丈夫、と返す。

「生活は切り詰めながらやっていけてるし、元々貯蓄もあるからどうにかなるんだ。」

 畑で自前の野菜も作っているんだよ、と努めて明るく振舞う姿が、何処と無く痛ましい。そう思えて、清己は顔を俯かせた。

「全部、独りでやって…いるのか。」

「ああ。」

 さらりと答える燎に、繋ぐ言葉が見つからない。沈黙が暫し二人の合間を流れていった。

「…義理の兄貴は、どうなんだよ。」

 思い付いた存在を口にしたものの余計な一言だったと、清己は燎から返された言葉に痛切に教えられた。


 実の息子は東京の大学に通って以来、家に寄り付きもしない。そんな愚痴を養父がいつも零していた、と。

 結局、義兄とは一度も会っていないと、寂しげに笑顔を浮かべて話したのだ。


 一人で養父の面倒を看ているのか。

 誰も手助けをしないのか。

 燎は…独りで苦しんでいるのに。必死に足掻いて、もがいているのにる。


 理不尽な怒りが静かに清己を取り囲んだ。沸々と込み上げてくる感情が周りを見え難くする。

 臍を噛む思いに清己はもっと早くに気付いてやれれば、と唇を噛んでやり場の無い口惜しさを紛らわせた。


 雨が、しとしとと、降り始めていた。




 豪雨は全てを飲み込む勢いで降り続き、轟迂川から溢れた水が一部の地域を襲った。避難指示が出る程の大雨はここ十数年来では珍しい。

 十数世帯の避難者を受け入れる手配に駆り出されながら、清己は恐らく一人でいるであろう燎の事が気掛かりで、碌に手も付かなかった。

 大丈夫だろうか。不安ばかりが頭の中をぐるぐると迷走する。

 雨が長引けば、川の氾濫に加えて土砂災害にも警戒をしなければならない。

 そんな中、級友が手伝いに来たと耳に挟んだ清己は、慌てて戸口まで駆け寄った。

「よぉ。」

 目の前にいたのは秦野だ。

「忙しそうだから、手伝いに来てやったぜ。陣中見舞いだ。」

 そう言い、勝手に上がり込んで慣れた屋内を自由に歩き回る。幼馴染みでしょっちゅう遊びに来ているのだから、知っていて当然だ。

 半分不貞腐れから黙ったまま、清己は兄貴を含める周りの大人の指示に的確に動く秦野をじっと見つめる。その様子に気付いて秦野自身、苦笑いしながら清己に向かって言った。

「悪かったな。倉渕あいつじゃなくて。」

「か…関係ねぇよっ」

 燎の名が出たことで焦った清己が声を荒げた。自分でもそう言う態度を取ってしまった事に嫌気が差したが、燎の事が絡むと冷静で居れない自分がいる。

 大体こんな人の多い所に倉渕が来る筈無いだろ、と豪語する幼馴染みに、気不味い顔をして清己は秦野を眺めた。

「心配しなくても倉渕の所なら高台だし、崩れるような場所も無いし、大丈夫だろ。」

 それに“龍神の子”が増水で死ぬわけ無いって、と暢気に笑ったりした。

「止めろよ、そんな言い方。」

 その言葉にどれ程燎が傷付いてきたか。理解しているだけに許せない。

「清?」

 口を噤んだ清己を怪訝に見る秦野は、首を傾げながらも忙しさに飲まれ、それきり二人は燎の事には触れなかった。


 だが、人が集まると色々な噂や話が飛び交うものだ。一先ず警戒域を脱した雨天候だが、まだ様子見している集落の人々の立ち話を清己は小耳に挟んだ。

「そうそう、知ってなさる?」

 何気無く耳に入った言葉に、清己は愕然とした。

「倉渕さん、この間亡くなられたそうよ。」

「本当? 御葬式は何処でされたの。」

「多分入院先の近くでじゃないかしら。此方で行なった形跡も無いし。」

「後、どうするのかしら。息子さん、此方へ戻ってらっしゃるの?」

「それは無いと思うわよ。だってほら…」

 ヒソヒソと声の量が落ちる。聞かずともある程度の想像は付いた。清己は手を止めてそのまま神社を出て行くと、真っ直ぐに燎の元へ向かって行った。




 燎は制服姿のまま、縁側に腰を下ろしていた。何気無くただ空を眺めている。

 清己は立ち竦んだ。なんて声を掛ければいい?

 何も思い付かない自分が情けなくて。

 傍に立ち寄る事も引き返す事も出来ずにいる清己に気付いた、燎の方から近寄ってきた。

「久しぶりだね、清己。」

 力無く笑う顔が、痛々しく思えて清己は直視出来なかった。

「…ごめん。俺、何の力にもなれなかった。」

 悔しさからか、視界が潤んで僅かに歪む。そんな清己の温もりがただ嬉しくて、燎は身体を清己の方へ傾けて額を彼の肩にうずめた。

「有難う。少し疲れたんだ。」

 声音は落ち着いていて明るかった。でも、泣き疲れたんだろうと清己は肩に手を回し、抱き寄せて支えた。

 思っていたよりも軽く感じられる燎の身体が脆く崩れそうで、強く抱き締める事すら叶わない。


 繋ぎ止めていた絆が一つ、消えた。そんな不安が胸を掠めた。




 そしてその頃、町内では大掛かりに行方不明者の捜索が行なわれていた。

「遺体が上がったぞ、」

 川岸に打ち上げられた死体に、捜索に駆り出された皆が集まる。だが。

「…どういう事だ、これは。」

 遺体は二つ。一つは行方不明者のもの。もう一つは腐乱死体だ。

 まるで神憑りを見ているようだと、後の話で誰しもがそう語っていた。性別は若そうな女性に思えるが、何か釈然としない。

「まさかと思うが…」

 顔を見合わせあう。だが、思い当たるのはそれしかない。

 死人淵の漂流者。

 この豪雨で淵の外に押し流されたのだろう。


 結局、結論の出ないまま、遺体は解剖へと回された。




 人を愛する事が良くないと、否定したくない。例えそれが同性…であったとしても。

 清己は割り切れない想いを抱え、悶々とした。

 大丈夫だ、と言い張る燎に押されて清己は自宅へ戻ったのだが、それでも傍に付いていてやるべきだったと今も後悔している。

 そんな燎に対する自分の思いが、よく分からないでいたからだ。

 大事に思っているのに違いはない。大切にしたい。護りたい。それが、初めは友情からだと思っていた。だが、違う。

 ほんの少しの仕草や笑顔、声音、視線にドキリとする自分が其処にいるのだ。

 言い様の付かない想い。それをはっきりさせるのは恐ろしい気がして、清己は考えるのをやめた。

 ただ、それでも想いが同情故に始ったのではない、とそれだけははっきりと言える。


 慌しさの中、燎に会えない時間が何故か途方も無く、遠く長いものに感じて、清己は深く溜息を吐いた。




 いずれなされる事であったのかも知れないが。

 大掛かりな清滝淵の捜索が警察、消防合同で行われた事を、数日経ってから清己は聞かされた。

 直接潜ったダイバーの話だと、何も無かった、という事だ。遺体は愚か、遺留品も、骨の一欠けらさえ何も見つけられなかった、という話だった。

 固唾を呑んでその話を食い入るように聞いた清己の脳裏に、燎の顔が浮かび上がる。誰よりも淵に執着していた、其処に実の両親が眠っていると信じていた燎が、それを知ってしまったら。

 浮かぶのは“絶望”の二文字だけだ。


 そして、解剖に回された遺体の結果も同時に知らされた。

 一定の冷温で保たれていたせいだろうか。変色はしていたものの、比較的形を留めていたという話だった。

 はっきりとした死亡時期はわからないが、どれだけ古く見積もっても10年がいいところだそうだ。

 そして、その女性は身篭っていた。色々調べた結果、出産経験は無い、と判断された。


 つまり。

 16年前のあの赤子は誰の子供か全くわからない。その結論は奇しくも燎の耳に届いていた。

 …誰の子でもない。

 そう思い知らされた時の、燎の相貌には絶望が浮かんだ。


 本当に…これで俺は…!!

 笑い声が漏れる。自らを嘲笑う、怒りに近い声が胸の奥から沸々と上がってくる。

 燎は怒りとも哀しみとも付かない感情をぶつける相手を見失い、狂った様に声を上げ続けた。




 話を聞いた後、清己は迷わず清龍滝へ向かった。登る道すがらがこれ程遠く感じた事は無い。上ったところで、燎が来ているとも限らない。

 それでも清己は、間違いなくあの淵にいる、と確信を信じたかった。


 薄闇に閉ざされようとしている滝の周囲で、目を凝らすと僅かに人影が存在するのがわかった。

 祠の陰で小さく身体を震わし、身を縮めている姿に、声を掛けようとして…だが躊躇った。

 しゃくり上げる涙声、ではなかった。唸るような、嗤うような、押し殺した声だった。

「…燎、」

 それでも、意を決して名を呼ぶ。小刻みに震えていた肩が、つと止まり、ゆっくりと振り返る。

 哭いていた。慟哭していた。その瞳は濡れていないにも関わらず、清己には泣いているのが痛い程よくわかった。

「燎。」

 もう一度名を呼ぶ。傾いた彼の身体が清己の元に届くまで、そうは掛からなかった。清己の胸元に顔を埋めた燎は、有らん限りの声を上げて、叫んだ。




 滝の飛沫に当たり過ぎたか、二人の身体は冷たく濡れ衣を纏ったようになっていた。

「もう少し上がった所に堂がある。」

 滝の脇にある細い急な坂を手探りで上り、暫く進むと清己の記憶通りに小さな堂が建っていた。携帯電話の照明を頼りに扉を開けて二人は中へと入っていく。

 清己は奥から使い残しの松明と火を点ける為の古新聞や柴を探し当てて、風向きを見ながら堂の脇で松明に火を点けた。無用心だ、と二人で笑い合いながら火が燃え上がるのを暫し待った。

 濡れた服を脱ぐと、照らし出す炎が清己の身体に陰影をつける。燎も服を脱ぎ、乾き易い様に余分な水分を絞り落とす。


 水に触れると、熱く燃える。燎は火照る身体をそっと清己に預けた。

 松明の爆ぜる音が、堂の周りに響いた。

「いいのか。」

 尋ねくる彼の声に、小さく頷く。寧ろそう訊きたいのは自分の方だ。

 淡く、唇が重ねられる。滑り込む様に舐め入れられた舌先が、互いを知る手立ての様に深く結び合い、絡み合っていく。

「…ん、」

 甘い声が、どちらからともなく漏れ出でた。

「…りょ…う」

 潤んだ瞳が清己を捉える。冷たい指先が彼の背に絡み付いて、二人は暫し肌を重ねた。

 少しひんやりとする燎の素肌は、とても滑らかで、清己は息を飲む程に美しく思えた。

 かたや、清己の身体は鍛えているだけあって、逞しく、既に男の肉体として磨かれていた。

 力強く脈打つ心の鼓動。華奢な身体からは想像できない、燎の心音は、命を滾らす様に熱く燃えている。

 清己はそっとその胸の上に口付けた。紅い痕が花を散らしたように、鮮やかに浮かび上がる。

「…もっと…声を、…聞かせてくれよ…」

 甘く切なく繰り返される艶声は、さざめく波の様に、大きく歓び啼いては小さな甘息を吐き、それ自体蠢く生き物の様であった。

 互いに身体の芯が熱く滾っていく。

 雄の匂いを迸らせて、二人は身も心も一つへと、深く深く絡み合い、結び付いていった。


 淡くまどろむ笑顔が愛しい。流石に熱気が引くと体温も下がってくる。冷えて風邪を引かぬように、清己は燎の身体を抱き寄せた。

「…温かい。」

 胸元を擽るように小さく笑う声が聞こえた。緩く伏せられた睫毛が小刻みに揺れる肩に連動して、肌を刺激する。あまりの痒さに我慢できず、清己は燎をそのまま抱きしめる。

「…んっ…」

 流石に息苦しさの抗議をする燎を、今度は唇で塞ぐ。唾液ごと掬い上げる舌先に、燎も再度深く舐め合わせた。

 這わせた唇を、触れた指先を、追う様に燎の身体が再度燃え上がる。蕩けて溺れる感覚に酩酊するのが恐ろしくて、燎は指を噛んで声を殺した。それでも止まない愛撫に狂喜が体中から溢れ出る。

「ひ…ぁ…清己…ぃっ!!」

「…燎、俺が…俺が傍に居る…」

 何度も囁くように、刻み込む様に、繰り返し言葉を重ねる。共に一つだ、と。決して独りではない、と。肌を重ね、体温を合わせ、息を結び、指を舌を絡ませ合って。吐く息も流れ落ちる汗も互いの匂いさえも、全て混じり合わせて共に居るのだと、燎に分からせてやりたかった。

 そしてそれは、もう淋しさに苦しまなくていい、と燎に伝えたい清己の想いであった。

「…愛して…る、燎。」

「…清…己。」

 うっすらと伝い落ちる雫を掬って口づける。 無理に微笑む燎の表情は、頼り無げな灯火のように儚く揺れた。

「愛している、燎。」

 清己はそっと静かに燎の耳許で囁いた。

「愛している。」

 初めは口にするのが恥ずかしいと思っていた。だが燎を思えば想う程、他の言葉が見つからない。

 ただ深く。なお強く。


「愛して…るよ、清己。」

 弱々しい声だった。けれど全てを以て望んだ声。

 燎は初めて自分自身こんなにも、愛される事を望んでいたのだと思い知ったのだ。

「…清己…ぃ…っ!!」

 痛みが身体中を駆け巡る。張り裂けん程の胸の痛みが、身体をも支配する。

 愛されたい、愛したい。

 ずっと畏れていた他人との関わりが、今ははっきりと目の前にある。それだけが燎の総てであり、清己を見つめて抱き付く。

 藍空に染められた帷が開けるまで、何度も二人の営みを繰り返した。




 朝を迎える頃には、清己を心配した家の者が捜索隊と共に堂の前に現れた。

 大目玉を食らって父親から一喝されたが、清己は毅然と顔を上げ、真っ直ぐに受け止めた。それでも己の行動に対して揺らぎはなかった。正しい、や、間違っている、ではなく、自分自身の想いに後悔をしていないからだ。

 その一方で燎に対しては、針の筵に座らされるように冷淡な視線が向けられる。誰も何も言わないのが却って燎を責め立てた。


 山を下って降りてきた一行は、先に燎を送り届けると、清己を囲うようにして足早に立ち去っていく。

 燎は追い縋る事が出来ず、清己は置き去りにしなければならない辛さに、血を滲ませて周囲を睨んだ。

 二人とも、無力であった。




「少しは頭を冷やせ。」

 親に軟禁状態にされ、為す術がない。この時ばかりは割りと仲の良い兄達も含めて、全てが敵に回った。

 清己はどうしようもない状況と、どうにもならない非力さに、煮え滾る怒りを抑え切れずに叫び声を上げていた。


 ここから出る為なら、なんだってしてやる…!!

 怒りに我を忘れた清己はまず手当たり次第に物を壊し始めた。

 派手な物音に集まった家族を前にしても、周りの制止の声など全く聞こえない。狂ったように、ただただ暴れる清己に誰も手が付けられなかった。

 その非道さに母親さえも悲鳴をあげ、兄達は必死で清己を取り押さえようとする。

『やめて!!』

 一瞬、燎の泣き叫ぶ声が聞こえた。泣き崩れて顔を覆う母親の姿が清己の目に映る。燎の姿は何処にも無い。

 兄達に押さえ込まれながらも、狐に抓まれた様に、清己自身身じろぐ事が出来なかった。

 あれは幻だったのか、それとも…。


 戻ってきた父親に清己はこっぴどく叱られた。

「馬鹿者がっ!!」

 怒声が轟音のように頭上に鳴り響く。

「お前は何を考えて居るのだっ!!」

 厳格な父の怒声に耐えながら、清己は歯を食い縛った。

 反論したい…が出来ない。真っ当な父の言葉は、清己が口を挟む隙さえ無かったからだ。恨みがましく、見据えるのがせめてもの抵抗と言える。

「今一度よく、己のした事を考えて見ろ。」

 父の言葉に、言われた処で反省する事等何もない。

「…俺が…俺が燎を好きでいて何が悪いんだ!!」

 時が経てば若気の至りと言われるのだろうか。それでも今は、燎が全てに思えて清己は父に真っ向から刃向かう。

「魅入られおってっ!! 少しここで頭を冷やせっ!!」

 強引に蔵へ引きずり込まれ、ピシャン、と中扉を閉められた。更に外扉も閉められ、蔵に閉じ込められる。

 それでも燎を諦めるつもりは毛頭無い。

 どうしてるだろう? 燎のヤツ。

 心配になりながらも、暗がりの中で清己はあの別れた後の燎の面影を求めて、空へ視線をさ迷わせた。




 その頃、燎は真っ逆さまに石段を駆け降りていた。

 駄目だ駄目だダメだっ!! やっぱりダメだっ!!

 一緒に居ちゃいけない、清己を求めちゃいけないんだ。

 辛い気持ちが張り裂けんばかりに、燎の心を揺さぶった。全てが狂っていく。己に関わる全ての者が狂っていく。

 養母が急逝したのも、倉渕の家が不和になったのも、養父が亡くなったのも。

 そして、清己も。


 あの後、燎はそっと神社までやって来たのだ。

 荒れ狂う清己の声は、境内で様子を伺っていた燎の耳にも届いていた。

 シラナイ。あんな清己は知らない。いつも僕には、笑って、囁いて、優しく撫でて、微笑んで…。

『燎。』

 甘く囁く幻が、眼前に浮かぶ清己の微笑と共にフッと現れて掻き消えた。切なさが燎の心を苛む。求められない苦しさが胸を焦がす。

 変わってしまう、狂ってしまう。壊して…しまった。

 どんなに拭っても、どんなにあがいても、自分の存在が呪わしい。いっそ初めから居なかったのだと…“倉渕燎”などという人間は存在しなかったのだと、そういう事には出来ないのだろうか。

 何度も繰り返しては、養親や清己の温かな心に励まされ、消し去った愚かで浅はかな悪念。

 けれど今はそれが、一番正しい事のように思う。


 ─居なくなってしまえ─心の何処かで嘲笑う様に声がする。

 ─そうだ、全てお前が悪いのだ─暗い闇が燎の思考を飲み込んでいく。

 ─消えてしまえ、この世から─


 そう云われた時に、燎の目の前には轟迂川の激しいうねりが今にも飲み込まんと、暗い水面を露わにしていた。

「………。」

 堪えていた息が、嗚咽が、堰を切ったように燎の口から溢れ出した。すがるようにその場にヘタリ込んで声を上げて泣き叫んだ。

 燎自身、己の気が触れてしまったのかと思う程に。




 夜半であったが、清己は倉渕宅を訪れた。不憫に思った母親がこっそり蔵の鍵を外し、握り飯を差し入れてくれたお陰で、こうして外に出る事が出来たのである。

 そうした結果、燎の元へ通っているのだから、結局母親の好意は余計な行為であったのかもしれない。

 暫く中の様子を伺い、もぬけの殻になっている事に清己は気付いた。

 何処へ行ったのか。

 答は自ずと脳裏に浮かぶ。清己は再び沢を目指した。


 途中の橋の欄干に誰かが座り込んでいるのを清己は発見した。だが暗くてよく見えない。

「燎。」

 近付いてみて驚いた。燎がそこに小さくなって、蹲っていたのだ。

 清己の声につと顔を上げた燎の眼は赤く腫れて、泣いていたのが見てとれる。

「どうしたんだ…、」

 何も言わずただ小さく頭を振って、しゃがみ込む清己の胸に顔を寄せる。

「…死にたい。」

 か細く呟く声は水音に飲まれる。だが、清己の耳に辛く痛みを伴って伝わってきた。

「燎、」

 無言のまま、ただギュッと腕を掴み取る。その強さが燎の痛みだ。そう清己は感じた。

「行こう、燎。」

 戦慄く肩を支え、何も語らずに清己は燎を立ち上げてゆっくり歩き出す。何処へ向かうのかは、燎も承知していた。




 二人連れ立って歩き、殆ど真っ暗な沢沿いの道を、記憶と感を頼りに探りながら進む。普段の倍以上かけて進む足並みに、お互い終始無言であった。

 握られた手の温もり。それがあれば言葉はいらない。互いに強く、離すまいとしている。燎は俯いて、力強いその掌を握り返す。その感覚が二人の絆に思えた。


 燎の息遣いと気配が、自身の心臓の鼓動と共に伝わってくる。まだそれでもドキドキしている緊張ぶりに清己は苦笑を隠せなかった。今からやろうとしている事を思えば、あまりに滑稽だからだ。

 でも、と自分の心に問うてみる。

 これ以上、辛い思いをさせる位なら。

 意を決した清己の眸に迷いは無かった。

 望みを叶えよう。そして約束を果たそう。『共に在る』と言った、あの約束を。


 その一方で、俯いたまま歩く燎の想いは迷っていた。

 自分がこの世から消えてしまうのには、何の躊躇いも無い。けれど…

 繋がった手を再度強く握り締める。この手の先の、“相坂清己”という人物を亡くしてしまってもいいのか。

 自分を認めてくれた、そして愛してくれた、誰よりも愛しい、その人を殺して。

 それでいいのか? と問う声が心の奥底から響いて離れない。

 寂しいから離したくない、そんな想いもある。独りでいるのは寂しいから。二人でいる事の安らぎを知ってしまったから。


 結局、答えは出せずに滝の前まで来てしまった。 




 死人淵は、暗い夜闇の中に在って更に真っ黒な水面を揺らぎもせず、奈落へ招き誘う様に口を開けている。二人、淵の側に立ち、のたうつ闇に眼を落とした。

「………。」

「………。」

 二人とも何も言わなかった。口を開けば 張り詰めた何かが折れてしまいそうで。

 手の絆が更に強く結ばれる。

 僅かな目配せが二人の合間を行き交った。不意に襲う震えにも、互いの手を握り締めて力ずくで捩じ伏せる。燎も清己も息を飲んだ。そして。

 水面目掛けて思い切り踏み足を蹴り出した。




 それは身も凍る冷たさだった。二人の身体は淵の水と本流の境目を翻弄される様に往来する。

 ごぼっ

 一際大きい泡が清己の口から吐き出される。呼吸の断絶される苦しさに、清己の表情が大きく歪んだ。

 ごぼごぼっ

 自身も泡を吐いて燎は胸苦しさに足掻きながら、清己の姿を追った。暗い水越しに見る清己の姿は、水底に沈む亡霊の様にうねりに揉まれて惨めに彷徨い踊さられる。


 …いやだ!!


 心が悲鳴を上げた。その時初めてどれ程愚かな事をしたのか、思い知らされたのだ。

 燎は心の奥底から叫んだ。

 気付いたんだ。

 死なせたくない。

 自分の愚かな意地のせいで彼をこのまま殺したくない。

 生きて!!

 心からそう願った。 


 最早それは手遅れなのかもしれないけれど。燎は残された力で固く結んだ手を振り解くと、あらん限りの体力で清己を突き放した。

 流れのある方へ、本流へと押し流されて見る間に消えていく清己を見送って、燎は安堵に満ちた心で静かに微笑む。

 力尽きて水底へと沈んでいく燎は朧げな意識の中で、僅かに煌く水面を見上げて祈っていた。

 神様、この命も霊も消えてしまって構わないから、どうか清己の生命は無事に陽の世界へ還して─





 清己に出逢えて、心を通わせ合えた。それだけでも生きた甲斐はあった。

 ああ、もっとちゃんと生きれば良かった。未練が燎の心の端を引っ張って揺さぶりをかける。でも悔いはない。

 走馬灯の代わりに心の内に現れる慈愛と感謝の感情に、燎は何度もそう言い募る。




 けれど、ただ一つ。


 …ごめん、清己。

 泪が一滴、沫となって消える。

 もっと…ちゃんと…君と生きたい…




 そして、無韻が燎を飲み込んだ。







 気が付いた場所は、自室の畳の上、だった。

「…ぁ」

 考える前に、燎の名を呼ぼうとして掠れた声が清己の口から漏れた。

 知りたかった。訊きたかった、燎の事を。彼はどうしているのかを。

「清己、気が付いたのか!!」

「母さん、清己が意識を取り戻したよ!!」

 兄貴達の声が、母親の声が、心配する周りの人々の声がする。


 何故自分はここにいるのだろう。それなら、燎は?

 いつまでも聞こえてこない、燎の声。一番聞きたい声なのに─

「……ょぅ…は…」

「ん、どうした?」

 身を起こしてまで喋ろうとする清己の気配を察して、母親が宥めるように言った。

「清己…倉渕君は、」

 その先の言葉を聞くまでもなく、その表情で理解してしまった。

 愕然としとねに伏す。清己はその身を戦慄かせ、衝撃に言葉を無くした。何故?の疑問符だけがぐるぐると頭の中を回っている。

 誰の声も誰の言葉も入ってこない。

 何故…何故…

 …なぜ俺はここにいるんだ!?


 その後、自分でもどうしたのか覚えていない。

 ただ泣いて、哭いて、声が嗄れて咽の奥がひりついて、苦しかったのだけ、何となく覚えている。




 倉渕燎の葬儀が行われた事を、上の兄が語っていた。清己は虚ろに、体を横たえて兄の言葉を耳にしていた。

「悪いが、お前の撮った写真を使わせて貰ったよ。」

 燎を写した写真、そう多く撮影されてないが、どれも良い表情をしている。感心したように、兄が語った。


 燎の遺体は、ダイバーが潜って確認したが、引き上げるのは無理という結論に達したそうだ。流れが複雑で、潜水にすらかなりの危険を伴う場所らしい。

 燎の身体は何かを託すように手を伸ばし顔を上げていた、と流れの中から垣間見たダイバーの話を淡々と静かに兄は話す。聞き流していた清己は、無意識にその状況を想像して、呻いた。

「……ぅ…ぐっ、」

 置いて行かないで。

 聞こえもせぬ燎の声で誰かが語り責めるような、言葉が脳裏に響いた。堪らず清己は自身の胸座むなぐらを押さえた。

「清己っ!? 大丈夫か!?」

 見られたくない。清己は体を折り曲げて縮こまり、全身で拒んだ。

 どうして放してしまったのだろう。あんなに強く繋いでいたのに。どうして俺は燎を一人にしてしまったのだろう。あんな暗い冷たい所に。

 痛い、胸が痛い。苦しくて、共に逝けなかった己が悔しくて憎くて。のうのうと息をしている自分の今の状況が清己には許せなかった。


 燎の身体を救い出せぬ行政も、都合の良い言葉で誤魔化す親も兄貴達も、燎の存在を認めない社会も、全て総て…許せない。強い憎念と怨念が清己自身を取り囲む。




 あれから数日、清己は喋らず関わらず、ろくに飯も食わずに臥したままの生活を送っていた。

「…よぉ。」

 顔を見せたのは秦野だった。清己は無愛想に目だけで確認し、元の居場所に戻る。

「…顔、見に来るか、迷ったんだけどな。」

 苦笑いしながら、秦野は寝間の脇に胡座をかいた。背を向ける清己に、一息吐いて秦野は自身の緊張感をほぐす。

「あいつ…倉渕の奴…漸く逝きたかった所に行けたのかもな。」

 ぼそりと秦野が言った。望み通りになって、良かったんじゃね? 気軽に笑う秦野が許せなくて、清己は拳を握り締める。

「悪い。今のは失言だった。」

 すぐに訂正する。しかし清己は既に身を起こし、掴み掛かろうとしていた。

 そのまま怒りに任せて秦野を押し倒し、馬乗りになる。その派手な物音に、家人が慌てて駆け付けたが、既に二人は揉み合いになっていた。

 清己の拳が秦野の顔面を打つ。秦野も打たれまいと両腕でガードしていた。向きになって秦野の両腕のガードを引き剥がしにかかる清己の顔に向けて、秦野は大声で叫んだ。

「俺はっ、お前が連れ出してくれると期待したんだよっ。」

 秦野の怒声は、真っ直ぐ清己に向けられた。僅かに滲む涙は彼の悔しさを表していた。

「俺だって倉渕と話してみたかったよっ。どんな奴だったのか、直接聞いて見たかったさっ。」

 その言葉に偽りが無い事は、眼を見ればわかる。清己は自身の怒りより、秦野の言葉に息を飲んだ。

「俺だって…俺だって…」

 言葉にならない想いがそこにはある。その辛さが目に見える分、清己も胸に詰まされるものが喉元まで競り上がって何も言えない。両腕でそのまま顔を覆う秦野を見下ろして、清己も嗚咽した。

「だったら、どうして…っ」

 そうして遣らなかったのか。悔し涙が清己からも零れ落ちる。全てが喪ってしまってからではもう遅いのだ。


 泣き腫らした顔を互いに向けて、気不味げに清己と秦野は向かい合った。気を利かせてか、兄貴が置いていった濡れタオルで強引に顔を拭う。終始無言の二人はその後も暫く押し黙ったまま、所在無げに視線を外してそっぽを向く。

「…出直してくる、よ。」

 徐に立ち上がった秦野は、そう言い残して部屋を出た。


 秦野が出て行った後、正す様に上兄が言った。

「清己、彼が喪主を務めてくれたんだ。」

 その先は言わなかった。清己も兄貴が伝えようとした事が何なのかは分かっていた。




 後で知ったが葬儀費用も秦野ら級友が町中から集めて工面してくれたそうだ。

 中には建前で出した奴もいるだろう。けれど聞いている限りでは、力になってくれたのは決して少ない人数ではない。

 独りじゃなかったんだ。燎…

 何処かで、たがえてしまった互いの気持ちを結び付ける事が出来たなら。すれ違うのが怖くて、燎に寄り添う事しかしなかった。

 それよりも。

 強く唇を噛み締め、清己は苦い想いに疼く胸底を見つめた。

 燎を独り占めしたかった。愚かな独占欲が歯車を狂わせてしまったのかもしれない。

 どうしてもっと早くに連れ出せなかったのだろう。何故あんなに友を、仲間を求めていた燎を俺一人で囲ってしまったのだろう。

 俺は…。

 噎せ上がる程の悔念が渦を巻く。ただ、悲しむ事しか出来ない。いいや、それすらも清己には手の届かない許されざる行為に思えて。

 ただ独り、苦しみと辛さに喘ぎ、涙が零れた。




 病んだ心の清己を、腫れ物を触るように皆がもて余す中、彼の祖父だけは毅然とした態度で清己と交わろうとしていた。時間だけでは決して良くはならない事をわかっていたようだ。

「清己、ここに座りなさい。」

 のろのろと褥から這い出して、正面に正座する。相対す祖父を前に、清己の暗い双眸が囚われた胸中を映していた。

 それを真正面から受け止め、祖父は淡々とした声音で述べた。叱咤するでもなく、励ますでもなく。

「死にたいか。」

 それは凡そ病んだ者に言うべきではない言葉であった。僅かに清己は視線を上げた。

「倉渕君の後を追って、死にたいか、清己。」

 凛と響く声は齢を重ねた者が見せる、命の重さを持った響きだ。

「………。」

 そうだ…と言っても決して許してはくれまい。

 黙ったまま、清己はただ祖父の言葉に耳を傾ける。

「清己、お前は彼の事を他の誰よりも知っているのではないか。」

 祖父の言葉に、無言で清己は目を伏せた。瞼の裏には直ぐにでも燎の相貌が浮かび上がる。

 その先に続く言葉が容易に想像出来そうで、燎が後を追う清己を望んではいないだろう事も理解はしていた。


 冷静な眼差しが清己を捉える。何も言わず、ただ時が過ぎるのを待つように、祖父は静かに目を伏せた。

 暫くした後、今まで何事も無かったような声音で、祖父が口を開いた。

「今のお前はお前ではないな。一体どの面下げて会いに行くつもりだ。」

 容赦の無い言葉と、眼差し。いっそ死ねたらと、何度この数日間考えたかなど、きっと祖父にはわからない。この辛さもこの苦しさも。

 清己は吐き捨てたい程の胸の痛みを、歯を軋ませて無理に捩じ込んだ。


 祖父の全てを見定めようとする視線が、清己の癇に障る。僅かながら、清己は祖父を睨んだ。

「…今のまま死んだとて、何も変わらぬし何も変えられぬ。死んで未来永劫、悔念に苦しみたいのなら、儂は何も言わぬ。だがな、」

 一区切り置いて、祖父は言った。

「清己。彼が完全に死んでいないのを知っているか?」

 不意の不可解な発言に、祖父の真意を測り兼ねて清己は苛立った。

「…燎は…死んだんだ。」

 どんなに悔いても違う形へ望んでも、死んだ現実は変えられない。清己の言葉を平然と受け入れ、敢えて間を取る。そんな祖父の態度に、清己は少なからず眉を顰めた。

「肉体はな。」

 清己はハッとして、祖父を見返した。

「“倉渕クラブチリョウ”という存在は、お前の此処にあるのではないか。」

 そう言い、心の臓を指し示す。心─ああ、そうか。溜飲が下がるように、呼吸が肺の奥まで通っていく。


 そうだ。燎の声、燎の仕草、燎の表情、燎の…想い。俺の胸の内にはいつでも燎が居る。


 それまでの頑なな表情が少し和らいだ。

 確かにその通りだ。あいつの寂しさも、苦しみも。欠片程でしか無いのかも知れないが、それでも誰より知っていると自負したい程に。

 清己の眼に光が戻り始めた。

 ならば。と一呼吸置いて、祖父は真摯に清己の双眸を見据え、静かだが強い言葉でたしなめた。

「清己。お前は生きろ。何があっても、な。そして二度も、彼を殺すな。」

 祖父の眼は厳しく、そしてその奥に慈しみを湛えている。 その眼差しに応える様に、清己の眸も落ち着きを取り戻した。


 祖父の謂わんとする事。それは清己にとって辛い日常になるかもしれない。

 忘れるな。共に生きよ。

 それでも、清己は漸く顔を上げて前を向く決意をしたのだった。

 その先にある、何かを見届ける為に。燎が清己に託したものを。




 暗い林道を沢に向けて上っていく。以前燎と歩いたように、また彼を探し求めて一人で上った時のように。今はこの道程を一歩ずつ確かめるように清己はゆっくりと足を進めた。

「しっかし、よくこんな山道を平気で歩けるなぁ?」

 隣で秦野が何か喚いているが、気にせず清己は自分のペースで歩く。

「俺がついて来なかった方が、良かったんじゃね?」

 皮肉めいた軽い口調で喋る秦野に、自嘲気味に笑みを浮かべ、それでもせっせと歩足を出す。

「…なんかさぁ、俺ばっか喋って馬鹿みてぇ、」

 すっかり息の上がった秦野を尻目に清己は、燎の思い出と共に、人伝に聞いた話を思い返した。


 燎の名は、彼を拾い育てた養父が付けたのだそうだ。

 篝火、ともいうらしい。柴を焼いて天を祭る炎とも。

 真の意は定かではないが、彼を取り巻く暗いしがらみを焼き払う様に、強く生きて欲しいと言う願いがあった、と。


 悔し涙に視界が滲んでいる事に、清己は気付いて立ち止まった。

 トン、と軽く背中を押し出される。

はじめ…。」

 秦野はニッと笑って、何事も無かったかのように、先へと進んだ。清己も手の甲で拭って、終いの滝壺を目指す。




 滝の轟音に混じって燎の声が何処かで響いた。

 『清己』

 明るく優しく、そして切なく。清己は胸に響いたその声を抱いて、静かに揺れる淵の側に立つ。

 多分これで一生分の涙を流したんだと、無理に笑顔を作って、淵の底を覗き込んだ。


 曾て彼がそうしたように。

 其処に眠る霊に向けて。


 ゆらゆらと水面が揺れる。



 陽炎のように燎火が燃える。暗き淵の底で。

 それは、決して消えぬたましいの炎。


     ─ 了 ─

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