チョコレート・ホーリーナイト:チョコレート

 視界を覆い尽くすのは白一色。目に痛いほどの白だ。そしてこの斜面ときたら。

 束の間、はき慣れないスキー板のことも握りしめたままのストックのことも意識から飛び、脳内の全てが真っ白に塗りつぶされる。

「転び方はさっき下で教えた通りだ。あとは実践あるのみ。さあ行くぞ」

 何言ってるんだ航兄貴。初心者がいきなり上級者コースって。

「先に行くぜ」

 うわ本当に行っちまった。

「嘘だろ」

 見下ろす斜面は、下から見上げていた時とはまるで別物――ほとんど崖だ。

「俺、行くぞ。亮太も来いよ」

 ちょ、翔平も滑り出したし。怖くないのか。あいつも初めてなのに。

 くそ、こうなったら俺も。

 ええと、怖いからって体を後ろに反らすと余計加速するって言ってたな。前傾を心がけて、と。

 航兄貴と翔平の姿がどんどん小さくなっていく。なんで翔平の奴あんなに上手いんだよ。置いて行かれちゃたまらない。

 ええい、ままよ!




「意外。秋山って運動音痴なんだ」

 片桐の声だ。指先でつつかれる感覚に目を開くと、雪上で大の字になった俺の横に片桐がしゃがみこんでいて、素敵な笑顔を返してきた。くそ。

 そうか、一応無事に降りられたのか俺。どうやって滑って……いや、転がってきたのか覚えていないが、とりあえず誰にもぶつからずに済んだようだ。

 俺のスキーウェア、表面は雪で真っ白。しかし寒さを感じない。それどころかウェアとグローブの内側は汗でじっとりしている。どちらかというと冷や汗か。

「……雪だるま」

 立ったままぼそりと呟き、腕組みして俺を見下ろすのは理緒。

 ただひとり、志帆だけが俺の体から雪を払い落としてくれている。やっぱり志帆は俺の天使だ。

「航兄貴たちは」

「あそこだよ」

 志帆が指さす方を見ると、航兄貴と翔平はリフトのそばにいた。もうついていけない。

「志帆。俺にも初心者向けの指導を頼む」

 俺の言葉に、三人の少女――志帆と理緒、そして片桐――はお互いに目配せし、憐れむような笑みを浮かべた。うう情けない。だが構っていられない。そのくらい怖かったのだから。


 そう、俺たちは今スキーをしている。ゲレンデに隣接したペンションを航兄貴の知り合いが経営しているとの事で、冬休みを利用して一泊旅行に来ているのだ。


     *     *     *


「いらっしゃーい、航ちゃん。待ってたわよ。志帆ちゃんも大きくなって」

 ペンションに着くなり、オーナーと思しき女性が航兄貴に抱きついた。

 この人がオーナーか。割とハスキーな声をしている。それにしても長身だ。百八十センチを越す航兄貴と目の高さがあまり変わらない。長い髪を後ろで一つに縛っていて、とにかく目が綺麗。目尻に小皺があるものの、美貌を引き立てる笑い皺だ。女性の年齢を想像するのが失礼なのは承知だが、幾つくらいの方なんだろう。

「大きくって……。去年とそう変わらないと思いますけど」

 苦笑する志帆ごしに、片桐の表情が目に入る。小さく開いた唇が震えているが、寒いのだろうか。

「こちら、オーナーの藤田さん。今年四十歳の男性だよ」

「ええっ」

 志帆の言葉に、俺は驚きの声をあげてしまった。

 片桐も目を見開いている……が、何だろう。ただ驚いているだけなのとは違うような。彼女の形良い唇はきちんと閉じられていて、もう震えていない。それどころか、薄く微笑んでさえいるように見えたのだ。

「志帆ちゃん、今年はもう終わりよ。四十になるのは来年よ、ら・い・ね・ん」

 航兄貴はというと、上体を反らして顔をオーナーから遠ざけている。そうか、オヤジに抱きつかれている状況なんだよな。傍目にはそうは見えないけど。

「若いぃ。綺麗ぃ」

 理緒は目を輝かせてオーナーの腕を掴み、早速スキンシップ。実に理緒らしい。

「夜はクリスマスパーティ用にチョコレートケーキも用意してあるわよ。それまでゆっくりスキーを楽しんできてね」

「よろしくお願いします」

 冷静に頭を下げたのは翔平。一連の事態に全く動じた様子がない。こいつのマイペースぶりは時々誤解を生むが、つきあいの長い俺にはわかっている。有り体に言えば翔平は他人よりほんの少し……、鈍いのだ。


     *     *     *


 スキーを終えてペンションに戻ったが、俺たち六人の他に客はいない。貸し切り状態だ。

 クリスマスイブは志帆とふたりきりで。そういう気持ちも少なからずあるが、俺たちにはまだ早いという気持ちの方が若干勝っている。今ふたりきりになっても、きっと緊張で何も喋れないだろう。急いては事をし損じる。亡くなったじいちゃんがいつも言っていた。

 それにしても、女性陣の仲の良さとテンションの高さときたら。驚いたことに、あの片桐が大声で笑い、理緒や志帆と抱き合い、飛び跳ねんばかりのはしゃぎようだ。

「すっかり理緒のペースだな」

 女性陣はよく喋り、絶え間なく笑い合っている。

 三角関係というのは不安定な状態だ。でもそれは片桐にとって必ずしも悪い環境とは言えないのかも知れない。でなければどうしてこれだけ笑い合えるというのだろう。今日の片桐の笑顔は、一泊旅行という特別な状況によるものだけではない、心からの笑顔だ。少なくとも、俺はそう信じる。

 だから俺は、この場で翔平に言うために用意してきた言葉を言わないことにした。

「理緒と洋子ちゃん、どっちにするんだ、翔平」

 そう、その言葉を……っておい。

「航兄貴」

 今それを言うのか、と慌てて制止しようとした俺を遮るように、オーナーが明るい声を張り上げた。

「チョコレートケーキよお」

「うわぁ」

 少女たちの歓声が、クリスマスツリーを飾る色とりどりのライトをも上回る華やかさで室内を彩る。

 オーナーのケーキは絶品だった。生地に練り込まれたチョコレートと、スポンジに挟まれたチョコクリーム。適度な苦味と適度な甘味がバランス良く口の中で混じり合い、たくさん食べても飽きが来ない。

「食べ過ぎちゃう」

 理緒を筆頭に女性陣はよく食べる。思えば普段からだ。そのくせ三人とも華奢な体型を維持しているのだから不思議としか言いようがない。


 さすがに食べ飽きてじっとしている俺たち男性陣のところに、オーナーが近づいてきた。ううむ、志帆から男性と聞かされているのに女性にしか見えない。しかし間近で喉仏を観察すると、さすがに男性だとわかる。

「女の子たち、揃いも揃って可愛い子ばっかりね。あんたたち、しっかりつかまえておきなさいよ」

「どういうわけか、妹は亮太にぞっこんでね」

「ぞっこんて――けふっ」

 航兄貴の口から飛び出した死語につっこもうとしたら背中をはたかれた。

「問題は翔平の奴なのさ」

「ふふ。二兎を追う者……ね」

 さすが人生経験が豊富というか。オーナーは航兄貴が言おうとしたことをすぐに理解したようだ。

「俺は――」

 口を開いた翔平は、しかし言葉を続けられない様子だった。一瞬だけ翔平に視線を向け、オーナーが静かに話し始める。

「チョコレートって不思議よね」

 ここでチョコレートの話題ですか。

「それ自体が強烈な個性を持っている癖に、他のお菓子と混ぜると途端に引き立て役にも回ってくれる。もっとも、作り手がチョコの量を間違えなければの話だけれど」

 航兄貴が頷いている。参ったな。純粋にチョコの話なのか、何かの喩えなのか。俺にもわかるように話して欲しいな。

「航ちゃんの前で言うべきことじゃないかも知れないけど、言っておくわ」

 また無言で頷く航兄貴。俺たちも黙って聞くことにした。

「誰かが誰かを好きになるのって素敵。同時に複数の人を好きになることだって自然だわ。でも好きっていうのは厄介ね。独占欲や不安は嫉妬を生み、相手を束縛したくなる。そこに愛を感じる人もいるけれど、窮屈な環境からは素敵な笑顔が生まれにくいものよね」

 オーナーはそこで言葉を切り、楽しそうに笑い合う美少女三人を目を細めて眺めた。

 そうか、オーナーは航兄貴――志帆の家庭の事情を知っている。オーナーの言葉は、聞きようによっては浮気さえ肯定するような内容だけど、でも実際にはそうではないことがなんとなくわかる。

「あたしは人が好き。男も女もよ。でもあらゆる束縛から自由でいたい。結婚なんてしたくもない。だから、男として生まれたことよりも女として生きていくことを選んだけれども、そのことを後悔していない」

 俺と翔平を交互に見て、さらに続ける。

「でも男として生きていく子には別の忠告をしておくわよ、いい?」

 翔平だけでなく、俺も頷くのを確認してから、オーナーは再び口を開いた。

「ここぞという部分では躊躇わずに相手を束縛なさい。もちろん、その時には相手をただひとりに決めておくことが条件よ」

 息を呑んだ様子の翔平だけでなく、俺も姿勢を正してオーナーの言葉を受け止めた。

「何事もバランスが大事。相手の全てを束縛せず、ある程度は自由にね。チョコレートの強烈な個性、生かすも殺すも作り手次第ってことよ」

 そういって柔らかく微笑むオーナーのところに、三人の美少女が集まってきた。

「ごちそうさま! とっても美味しかったです」

 何を思ったか、翔平が勢いよく立ち上がる。

 まさかこいつ、今ここで……。いや、がんばれ翔平。お前の結論を聞かせてくれ。

「俺、トイレ行ってくる」

 ありゃ。

「行ってらっしゃーい、翔平。あ、そうそう洋子はあたしのものだからね。渡さないぞ」

「うん。あたしも翔平より理緒がいい」

 翔平が軽く躓く様子が視界に入った。

 今のところはこれでいいのかな、と思いつつ、

「どうなってんの、志帆」

「僕にもわかんない」

 俺の問いに答えつつ、志帆の視線は片桐と航兄貴の間を往復する。これはどういう意味だろう。

「うわぁ」

 理緒の声に、俺たちの視線はペンションの窓へと引き寄せられた。

 クリスマス恒例のイルミネーション。ゲレンデを包む華やかな光が、ここの窓からよく見える。

 オーナーが気を遣い、室内の照明を落とした。

 暗がりの中、女の子たちの顔がイルミネーションに彩られる。

 チョコレート・ホーリーナイト。

 中でも君が一番綺麗だよ、志帆。

 メリー・クリスマス。

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