第十章

 薄い暗闇の中で月光を反射している彼女の顔にそっと触れる。

 その表情はこれから起こる出来事を予期してか、不安と期待の入り混じった至極複雑な表情だった。

 ただそれでもどこか安心している様で——。そんな京子さんをいとおしく感じながら口付けをする。僕がそっと首筋に手をかけると、


「あ……ちょっと……待って……」


 彼女が気まずそうに話しかけてきた。経験が無い為、次の一言が想像も出来ず、一瞬にして不安が湧き上がってくる。こういう時にどういう表情をして良いのか、僕にはわからないのだ。そんな僕の表情を見て悟ったのか、京子さんが次の言葉を続けた。


「うふふ、違うの。あのね……」


 ゆっくりと言葉を続ける京子さんを見つめながら、今度は自分の表情が理解できていた。今の僕は間違いなく安堵の表情を浮かべているはずだから——。


「どうしたんですか?」

「あ……うん……私ね、その……初めてだから、何か敷いた方が良いと思って……」


 最後の方は僕から目を逸らしながら話していた。彼女の頬がより一層紅く染まるのが分かる。僕はそのまま頬に口付けをして、


「すみません。気が回りませんでした……」


 そう言いながら隣の引き出しからバスタオルを取り出した。京子さんが体を浮かしてくれたので、その下にそっと敷く。一部分だけ盛り上がってしまった敷布団に少しだけ違和感があった。


「ううん、気にしないでね。ちょっと……緊張しちゃうけど……続けて……」


 緊張しているのは僕も同じだった。知識はあっても実践は無いのだ。ひどくぎこちない愛し方になってしまうのは目に見えていた。

 それでも少しでも京子さんを安心させようと、そっと片手で彼女の前髪をかき上げる。目を細める彼女を見ながら、そのおでこに口付けた。

 その時、『京子さんは前髪を上げている方が可愛い』なんてことを考えたから、少しだけ緊張が解れた気がする。


「僕も……緊張します。実を言うと……初めてで……」


 思っていることを素直に伝える。それでも京子さんは嫌な顔一つせず、僕を抱き締め、また耳元で囁いた。


「可愛いね、君は……」


 その一言で僕の中のずっと深くて柔らかい部分の堤防は決壊し、その更に奥からたまっていた気持ちが突然溢れ出すのを感じる。そのまま彼女の耳に口付け、頬に口付け、唇へと——。


「う……ん……」


 切なそうな声を上げる彼女に、昼間よりも激しい衝動を感じ、ごく自然に舌を伸ばしていた。柔らかな唇の感触、それを感じながら更に奥へと——。

 どうして良いのか分からずに閉じられたままの歯をそっと撫でる。目を閉じてその部分だけに集中していた。やがて彼女も悟ったらしく、そっと口を開けて迎え入れてくれる。


「ん……」


 吐息と舌を絡める水音が響く。明らかに窓外の音の方が大きなはずなのに、僕の耳には彼女の声しか聞こえていなかった。

 そのまま柔らかな頬をそっと撫でる。それでも彼女に触れたいという衝動は抑えることが出来ず、僕の手は少しずつ身体の方へと下っていった。

 首筋を撫でた後、一瞬だけ躊躇ったが、思い切って胸へと手を乗せる。京子さんは下着を着けていないらしく、服の上からでもその柔らかさを感じることが出来た。


「あ……恥ずかしい……」


 口付けをしたままで、そんなことを言う京子さんにますます興奮してしまう。

 力加減が分からず痛がらせないようにと、自分の指先一つ一つにまで細心の注意を払った。


 そうして二人きり、手探りで真っ白な雲の中を進んで、僕達は一つに重なった。






 全てが終わった後、夢見心地のまま彼女の隣に横たわる。自然と差し出した腕に京子さんが腕枕をする態勢となった。そのままもう一度、軽く口付けをする。

 充実感を伴う疲れと、月光を仄かに乗せた彼女の表情は不思議と清々しく、その表情を見た僕は何故だか安心して、仰向けになった。彼女の片手がそっと僕の胸に置かれる。

 天井に目を遣ると窓外から入ってくる光たちが点滅しながら、様々な模様をそこに作り出していて、その神秘性がこの部屋をまるで別の場所のように感じさせた。


「天井、綺麗ですね」


 照れくさいような、恥ずかしいような、どことなく所在無いような、そんな感覚から何気なく話を振る。彼女は僕の腕に頬を押し付けながら、


「そうだね」


 とゆっくり呟いた。京子さんの暖かさを感じながら、そのまままた無言が部屋を包む。ただそれでも今度は所在無さは感じなかった。


 心地よい怠さを感じ、外の喧騒を聞きながらゆっくりと目を閉じる。

 瞼の裏には窓外の光の点滅を反映して、もっと沢山の色たちがきらきらとまるで万華鏡のように、モザイクのように、形を変えていた。


「今年の夏祭りも……もうすぐ終わりだね」


 彼女の声をどこか遠くに聞きながら、僕は深い安心感の闇の中へと落ちていった。


 どれくらい眠っていたのか——ドアの外の慌しさにふと目を覚ました。

 天井の光は消えてしまい、夏祭りが終わってしまったことを表している。

 慌てて隣を向くと、そこには彼女の穏やかな寝顔があった。周期的に膨らむ胸の柔らかさを体に感じながら、いつまでも見入っていたくなる僕をよそに、ドアの外は慌しさを増していく。やがてその音に気付いたのか彼女も薄っすらと目を開けた。


「……んん、あ、ごめん……。寝ちゃった……」

「いえ、僕の方が先に寝てしまいましたから……」


 嬉しそうな笑顔を見せた後、彼女がドアの方を振り向く。

 そうしてドアのガラスの向こうで、人影が慌しく横切っていくのを見ると、また僕の方を向いた。


「急患……みたいだね」


 まだ眠いのか、ゆっくりと目を閉じたり開けたりしながら、そう呟いた。


「あぁ、それで騒がしいんですね」

「ん。急患の時はいつもこうだよ」


 彼女が言うには、田舎の病院で人手が少ないために、突然の患者のときは病院中が忙しくなるらしい。


「折角の夏祭りなのに……嫌だね」


 そう言って僕の胸にそっと頬を押し寄せてくる。

 さっきまでそこにあった彼女の腕は、いつの間にか僕の首に回されていた。そしてそのまま僕の頬に口付けした後、


「そろそろ……部屋に帰らなきゃ……」

「え? このまま泊まるっていうのは……無しですか?」


 京子さんはどこか寂しげに微笑んだ後、


「それは退院してからのお楽しみにとっておくね」


 と呟いた。それから僕たちはもう一度口付けをした後、どちらからともなく身体を起こす。

 肌を重ねたというのに、相変わらずどこか恥ずかしく、僕は彼女の体を見ないように、視線を逸らしながら服を着た。

 そんな僕に彼女は後ろから抱きつきながら、耳元で囁く。


「可愛いね、君は」

「拗ねてるわけじゃ……無いですよ?」

「うふふ、うん、また明日ね。朝、早めに来るから……」


 そう言って、出来るだけ音を立てないようにドアを開けようとする彼女を、そっと後ろから抱き締めた。仕返しに耳元で囁く。


「可愛いですよ、京子さん」

「馬鹿……」


 一瞬で耳まで染めてしまった京子さんを振り向かせ、もう一度強く口付けを交わした。抱き締めた肩はやはり華奢で、『彼女といつまでも一緒に歩きたい』と思う自分に、最早以前の様な違和感は感じなかった。


 彼女が出て行った後、一人で枕元の電気スタンドを点ける。そしてノートを手に取った。


 『今日はとても幸せでした。

  夏祭りも本当に楽しそうで、来年がすごく楽しみになってしまいましたよ。

  京子さんにとっても、そうであったなら嬉しいです。

  だからもう夏祭りは見たくないだなんて、言わないでくださいね。

  これからは僕と一緒に色んな所に行って欲しいんですから……。

  何だかまだ恥ずかしくて信じられないけど、

  今日は僕が生きてきた中で一番幸せな一日です。』


 『長い時間、何年も何年もかけて作り上げてきた、

  凝り固まった不思議な感情が、

  一瞬で壊れる瞬間を感じました。


  その傍らで、逆に一瞬で生まれて、

  大きく膨らむ感情があることを感じました。


  作るのに何年もかかったものが、一瞬で壊れるのなら、

  逆に一瞬で生まれたものは、何年でも生きていて欲しい。


  僕はもうリストカッターじゃないんですね。

  生きている理由というものが、やっと見えてきました。』

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