第九章

 今朝の窓からの景色は僕が見慣れたものと少し違っていた。駅から神社までの道が大勢の人で賑わっているのだ。

 昨日の夜、部屋に戻った時から少しずつ準備の人が増え始めていたが、今朝はもうそこだけで村の人口が全て集まってるんじゃないかと思うほどの人手だった。ある人は出店を作り、ある人は道にテープを引き、ある人は駅前に飾り付けをしている。

 実際に夏祭りが始まるのは今日の夕方からなのに——だ。

 準備の人手を見るだけで、この夏祭りが如何に大きなものかが分かる。村の雰囲気と過疎化への偏見から、どこにでもあるような簡単な祭りをイメージしていた僕は、この景色だけで自分の過ちを認めざるを得ないのだった。


 そうして駅から神社へゆっくりと目を遣っていくと、やはり今日は何人かの人が神社の階段を上り下りしている。

 それでもこの神社の祭りと言う割りには、参拝者が少なく感じた。

 疑問に思って階段の下を見ると、なるほどそこに賽銭箱が移されているのだ。夏祭りに来た人々も流石にあの階段は上らないということか……。


 これだけ人が動いていると——まあ、僕の場合、動いていなくてもそうなのだが——見ていて飽きるということはない。

 久しぶりに見る人込みに僕は少しだけ興奮していた。

 例えばこれが都会の祭りで、いつも人通りが絶えない通りの祭りなんかだと、こんなに興奮はしないだろう。そこにあるはずの無いものが突如として現れるから気持ちが昂るのだ。

 そういう意味で、僕の経験から都会でこういう気持ちを感じる瞬間は、例えばクリスマス前の街の雰囲気とかそういうものに近かった。

 村の子供たちがはしゃぐ気持ちも解る気がする。これが京子さんが大切にしている夏祭りなのだ。


 ぼっと風景を眺めていると、ドアがノックされる。声をかけるとやはり京子さんだった。いつもより少しだけ早い時間なのは、彼女も夏祭りが気になっている証拠だろう。


「おはよう。あ、やっぱりもう準備始まってるんだね」

「おはようございます。昨日の夜からやってたみたいですよ」


 二人で並んで窓の外を眺める。

 動いている人がこんなにたくさん視界に飛び込んできたのは久しぶりだ。それだけで目が回ってしまいそうなほど……。


「今年は中止にならなくて良かったね。みんな楽しみにしてるし……」


 去年は転落事故で中止になっていたのだった。それは子供たちにとってひどく悲しいことだっただろう。


「そうですね。盛り上がりそうな雰囲気ですよ」

「うふふ、そうだね」


 そういう会話の中で夏祭りに対する期待が増幅されていく。自然と彼女も僕も二人して頬を紅潮させていた。


「何だか楽しみになってきました。見てるだけでも楽しそうですね」


 何気なく呟いた一言に彼女は一瞬驚いた顔を見せて、それから『くすっ』と声を漏らした。


「君って……子供みたいだね。本当、見かけによらない子」


 言いながら優しく微笑む。午前中の光を受ける彼女のその笑みは、どこかその輪郭をきらきらと暈されていて、その様子は外の喧騒とも美しく対比されて、まるで悠久の時間を越えて変化しないんじゃないかって、僕にそんな感覚さえ抱かせた。


「そ……そんなに変ですか?」

「うふふ、変だよ〜。夏祭り楽しみにしてるリストカッターだなんて……」

「ははは、だから切ってませんってば」


 彼女の言い方につられて笑ってしまう。

 僕の自殺願望——正確には早めの病死を望む心なのだが——も彼女の言葉にかかると、その重くて苦しい雰囲気を一瞬で吹き飛ばされてしまう。

 そう、まるで——。


「まぁ、何はともあれ生きる気力は大切ね」

「ははは、僕って夏祭りが生きる気力なんですか?」


 コンコン。コンコン。

 突然、ドアがノックされた。彼女に会えたことですっかり忘れていたが、僕たちはまだ今日の検診を受けていないのだ。


「光一君、検診よ〜——って、あらららら〜……」

「あはは……お邪魔……してます」


 看護婦さんは僕と京子さんの顔を交互に見た後、一瞬だけ僕に微笑みかけて、その後、何やら納得したように頷き始める。


「そっかぁ、夏祭りだからね〜。西沢さんの部屋からじゃ見えないもんね」


 独り言の様に呟いて僕に体温計を手渡す。

 『去年中止でしたから……』などと京子さんが適当に相槌を打っているが、その仕草がどことなくわざとらしかった。


「ま、良いわ。本当は駄目なんだけど……二人ともここで検診しちゃうから。はい、西沢さんもね」


 そう言って京子さんにも体温計を渡す。

 『あはは』という、いつもとは違う京子さんの照れた笑いがひどく印象的だった。


 京子さんは少しだけ前屈みになりながら、首元から体温計を差し込もうとする。午前中の強い日差しが彼女の開かれた胸元をうっすらと照らして、その色の白さに思わず惹きつけられてしまう。白というより透明に近いような透き通る肌と、恥じらいのため少しだけ紅く染まった頬と、そのはにかむ様な表情と、女性らしい華奢な撫肩と鎖骨と、夏服越しにうっすらと膨らみを見せる乳房と、僕は生まれて初めて生身の女性に性的衝動——衝動というには弱いものかもしれないが——を感じていた。思わず釘付けになってしまった僕に気付いたのか、看護婦さんが悪戯っぽく『熱、高くなりそうね』なんて言ったから、背筋が冷やりとしてしまった。


 体温の他、血圧、脈拍ともに測り終えた後、看護婦さんが何となく窓の外を見ながら呟く。


「今日は駅前で盆踊りもあると思うし、二人で見てて良いわよ」


 盆にはまだ早い時期なのだが、この祭りではそれが風習とのことだった。それを聞いた京子さんが驚いた表情で聞き返す。


「え? 篠田さん、盆踊りって……夜10時過ぎですよ?」


 この病院では基本的に午後8時以降は出来るだけ出歩かないようにとなっている。それでも看護婦さんは笑いながら、


「うふふ、夏祭りだから特別ね。ただし、他の患者さんの手前、騒がないことと、消灯時間は守ること。あ、光一君にとっては、消灯時間守る方が都合良いのか……」


 僕の方を見ながら、何やら含み笑いを浮かべる。

 僕はと言えば、看護婦さんのそんな一言で真っ赤になってしまう様な、自分の初心さ加減が恥ずかしさを助長していた。京子さんの方を見ると彼女も耳まで紅く染めて俯いてしまっている。


「ははは、それ、看護婦さんの発言じゃないですよ」

「うふふふふ。ま、それは冗談としても、せっかくの祭りなんだから楽しんでちょうだいね。お姉さんからのプレゼントよ、じゃね」


 けらけらと笑いながら出て行ってしまう。

 恥ずかしかったが、京子さんと二人で夏祭りを見学出来るのかと思うと、それだけで嬉しい。

 看護婦さんの気遣いに本当に感謝した。

 そのまま無言の時がしばらく続いた後、突然、


「あのね……今日の夜のことなんだけど……」


 京子さんが口を開いた。何となく気まずそうに話し始める。


「篠田さんはああ言ってくれたけど……やっぱり私は見るの止めておくね」


 彼女の少し寂しそうな表情に全てを悟る。以前聞いた通り、彼女は夏祭りを見ることが辛いのだろう。


「思い出の……せいですか?」


 僕はゆっくりと立ち上がり、窓を開けながら呟く。意外に冷たい風が吹き込み、それと同時に外の喧騒が部屋の中へと染み込んできた。

 がやがやと聞こえる音たちの中で、確かに僕と彼女の間にはしばしの沈黙が存在していた。

 その沈黙を破り、僕の質問に答える彼女。


「うん……昔、みんなで行った時のこと、思い出しちゃうから……。やっぱり……辛いよ」

「僕とじゃ駄目なんですか?」


 彼女の最後の言葉に被せる様にして言葉を吐いた。『え?』と驚く彼女と同様、僕自身、自然と言葉が出てくる自分に驚く。


「昔のことを思い出すんじゃなくて、『病気の京子さんと僕が、この病室から二人きりで見学した夏祭り』っていう、新しい思い出を作ることは出来ないんですか?」


 一瞬だけ大きく目を見開いた後、困惑の表情を浮かべる彼女。窓から入り込んでいた風は止まり、人々の声と蝉の鳴き声が混ざり合った、夏特有の音だけが流れ込んでいた。差し込む午前中の日差しも、既にその角度を随分と急なものに変え、彼女の顔は日陰に入っていた。


「君は……」


 そう言いながら少しだけ僕へと歩み寄る彼女。そうしてまた日差しを受ける彼女の表情は既に困惑のそれでは無くなっていた。

 いつも通りの優しい笑み。細められた目には、光を反射させて虹色に輝く雫。

 初めて見る彼女の涙。

 それでも彼女は僕に近づきながら——、


「生きたいんだね……」


 今までで一番近くに彼女を感じる瞬間。

 うっすらと感じる彼女の吐息。

 唇に触れる柔らかで暖かい感触。

 思わず目を閉じた僕の頬に、彼女の髪がはらりと触れて、彼女の頬を伝った雫が触れる。

 部屋の中には相変わらず夏特有の音が流れ込んで、それでも僕と彼女の間には沈黙が存在していた。

 『生きたいんだね……』、リフレインする彼女の台詞。

 いつの間にか……僕の頬を伝う僕の雫が、同じ様に彼女の頬を濡らしていた。


「生きたいんだね」


 そっと唇を離し、もう一度呟く彼女。

 彼女の言いたいことが痛いほどよく分かった。

 きっと……僕はもう死にたがりの僕じゃなくなり始めてるんだって。

 僕をこの世界に縛り付けておくだけの何か、それを発見してしまったから……。

 今の口付けは、その僕の気持ちに対する彼女の容認と再確認の行為だった。


「そうかもしれません。京子さんに会って、僕も変わりましたから……」


 流れる涙が不思議だった。

 女性と初めて口付けしたわりには至極冷静で、頭の中はクリアなのに、感情のどこか一部分だけが昂っていて、その塊が僕の涙腺から液体を溢れさせる。


「君は本当に……素直じゃないんだから……」


 彼女は壊れそうなほどの笑顔を見せ、『くすくす』と微笑む。まるでそんな僕の考えなど見透かされてしまっているかのように……。


「ははは、そうですね」


 二人で泣きながら、二人で笑いあった。僕が彼女に救われた瞬間を二人で分かち合うように——。


「僕は……素直じゃないみたいです」


 そのまま次の言葉は紡がずに、一度だけ微笑んで、またゆっくりと口付けをしてくれた彼女を強く抱きしめていた。


 そうして涙が止まるのを待った後、二人で外の景色を眺める。

 さっきよりも少しずつ人が増え始めたようだった。


「君と一緒に見られる夏祭り、楽しみだよ」


 涙の跡をくっきりと残したままの彼女が僕に呟く。

 昨日までより少しだけ距離が——精神的な距離だけでなく、物理的にも——近くなった彼女の笑顔が嬉しくて、僕も笑顔を作る。

 きっと僕の顔にも涙の跡が残っているのだろう。


「僕も楽しみですよ。それに……僕にとってはこれが初めての夏祭りなんですから……」

「あ、そっか……。うふふ、来年は二人であそこにいられると良いね」


 彼女が指差したのはちょうど出店が出始めている辺り。

 そして指差した手と反対の手で、そっと僕の手を握ってくれた。

 色とりどりの灯りに包まれた出店の間を二人で手を繋いですり抜ける、そこには浴衣姿の彼女がいて、片手にはわたあめを握って、そんな景色が一瞬だけ思い浮かんでふわりと消えた。


「そうですね。来年は一緒に行きましょう」


 彼女の手を握り直し、そっと力を込める。彼女が無言で『ぎゅっ』と応えてくれたことが嬉しかった。


 それから僕たちは一日僕の部屋で過ごした。

 会話の内容と言えば、彼女が以前行った夏祭りの記憶とか、僕が知っている祭りの話とか、そんな他愛も無いことだったけど、それでもその時間は確かに幸せで、以前感じたよりもずっと顕著に時間の流れを速く感じることが出来るものだった。きっとそれは相変わらず繋がれたままのこの手が原因だったのかもしれない。そうして窓の外が薄っすらと朱くなり始め、人々の影が伸び始めた頃、


「もう……死にたいなんて……言わないでね」


 彼女の本音が零れた。

 きっと彼女が僕に一番言いたかったはずの言葉。

 彼女の紡ぐ、簡単な言葉たちに支えられ、救われた僕に——。

 僕はそんな彼女に彼女が一番聞きたい言葉で応えたいと思った。それは同時に僕が彼女に一番言いたい言葉であるはずだから——。


「ええ。僕は……生きていたいんです。大好きな……京子さんと一緒に」


 嬉しくて照れくさくて顔が染まっていくのが分かる。それを彼女に見られたくなくて、軽く顔を背けた。そんな僕に彼女はそっと近付いて、『くすっ』と笑いながら、耳元で囁く。


「私もだよ。大好きな君と一緒に」


 僕は振り向きながらまた口付けをする。今日だけでもう何度目だか分からない程繰り返された、二人が生きている理由。

 彼女の髪から柔らかなミルクの様な香りを感じながら、僕は深い深い海へと沈んでいった。それはきっと嫌なものではなく、誰しもが経験する人生で一番甘美な瞬間を湛えた、深い深い海だった。


 陽が落ち、辺りが薄暗闇に包まれ始めた頃、夏祭りはいよいよ盛況になっていた。

 日頃は街灯すら無く、夜になってしまえば遠くの山々の薄っすらとしたシルエットと、月明りを仄かに反射するだけの水田しかない景色だったが、今日に限っては神社の階段にも灯りが灯され、影しか見えない山に、まるで狐の嫁入りの鬼火の様に幻想的な橙の炎がゆらゆらと揺れ、数多くの出店が見せる色とりどりの電飾は、その通りの両側にある水田に写るそれ自身と見事なまでのシンメトリーを作りだし、いつもの窓枠の向こうの景色それ自体が変わってしまったかの様な、まるで窓枠にぴたりと絵画をはめ込まれたかの様な、そんな感覚を僕に抱かせた。

 今までに見たどんな祭りよりも美しい。

 そう感じたのはきっと、この祭りの規模や雰囲気のせいだけでは無いと自分でもわかっていた。


「ずっと前は……こんな日が来るなんて思いもしなかったよ」


 突然彼女が口を開く。

 部屋の電灯のためにいつもは顔を反射するガラスも、今日は今ひとつその反射率を高められずにいた。だから彼女の表情を確認するために振り向く。そこには僕の想像に反して穏やかな笑みを浮かべ、ガラスの向こうの景色を優しく眺める彼女がいた。


「病気で祭りに行けない日ですか?」


 尋ねた後で彼女の表情の理由に気付く。

 同時にまるで見当違いの質問をしてしまった自分にも気付く。

 そのことが恥ずかしくて僕は少しだけ目を逸らしてしまった。彼女はそんな僕に振り向きながら『くすっ』と一度だけ笑って、


「今日は君との思い出なんでしょう?」


 と首を傾げながら呟いた。

 その表情はどこか悪戯っぽく、それでも至極安らかな笑みで、いつもより薄くなっている窓ガラスの彼女からでさえ、その想い——様々な感情、愛情、慈愛、思慕——が活き活きと伝わってくる様だった。

 僕はその表情を受け止めるために視線を彼女へと戻す。そうして彼女に微笑みかけながら、彼女が喜んでくれると思われる言葉を探した。


「そうですね。今日は——じゃなく、これからは——ですよ」


 そんな僕の様子を彼女は無邪気に喜んで見せ、『くすくす』と声を出して笑った。


「うふふ、リストカッター君はもう過去のものか……」


 そうして相変わらず繋がれた手に少しだけ力を入れ、また優しい口付けをくれる。まるでご褒美をくれる様に——。

 それからそっと抱き締め、耳元で囁いてくれた。


「可愛いね、君は……」


 そんな彼女の言葉に不思議と恥ずかしさは感じなかった。


「京子さんだって……」


 甘えてしまいたい自分を抑えるのに精一杯で、僕が紡ぐことが出来た言葉はそれだけだった。


 やがて午後九時を回り、消灯時間を少し過ぎた頃、電気を消した。

 さっきまでは明らかにこの部屋の方が勢力を持っていたはずなのに、スイッチの音と共に一瞬にして、窓の外が戦況を盛り返す。

 もちろん色彩——という面で見れば、今日に限っては最初からこの部屋に勝ち目なんて無かったわけだが——。

 それはある種異様な雰囲気で、静かで暗くてエアコンが効いたこの部屋はすごく居心地が良く、しかし窓の向こうの明るく美しく光り輝く世界はどこか憧れの別世界の様に感じられ、安堵感と憧憬の入り混じった不思議な感覚を僕に与える。それは僕にかの有名な怪人の話を思い出させたが、僕の場合はそこに孤独感が無いのが救いだった。


 消灯のせいで先ほどよりクリアに見渡せる様になった外界を静かに眺める彼女。薄っすらと月光を浴び、外の色を少しだけその上に乗せて、嬉しいのか哀しいのか自分でも決めかねている様な、それでいて穏やかで静かで、それは彼女がいつも自分の部屋から海を見つめている時の表情だった。

 僕にしてみれば外に対する憧れなどより、余程その表情の方が大切で何度となく彼女の方を振り向いてしまう。するとやはり外を見つめたまま、彼女が静かに微笑む。


「君はやっぱり私のことを見てくれるんだね」


 そう言いながら視線だけを僕の方へと移す。その言葉に気恥ずかしさを覚えながらも、僕も彼女に微笑みかけながら、


「——当たり前じゃないですか」


 その言葉を聞いた彼女は一瞬だけ驚いた表情をして、くるりと僕の方を向きながら、ゆっくりと笑顔を生み出し、


「うふふ、当たり前……か」


 そうしてまた窓へと向き直しながらも、『当たり前、当たり前』と何度も繰り返し口にする。その度に『ぎゅっ、ぎゅっ』と掌を握ってきて、僕もそれに応えようと無言で握り返していた。


「いつの間にかね……私も……君のことを考えるのが当たり前になってたんだよ」


 また僕の方に振り向いて嬉しそうに呟く。電灯に比べてあまりに弱い光源の為、彼女の顔色を伺うことは出来ないが、それでもその表情と言葉には照れが含まれていることがわかった。


「僕が……死にたがりだったから……ですか?」


 自嘲癖のある僕から自然に漏れた台詞だった。

 盆踊りの準備の為か、窓外では様々な色が点滅を始める。その多くの色たちが灰色の——電灯があれば白なのだが——壁に作り出す不思議な干渉模様の中に、僕と彼女のシルエットだけが黒く落とされ、ゆらゆらと揺れていた。

 同じ様に彼女の顔を照らす灯りもゆらゆらと揺れ、少しずつ彼女が表情を変えていく様子が、まるでスローモーションの様に映し出される。


「馬鹿なこと……言わないの」


 少しだけ強く、そして哀しそうに呟いた台詞だった。


「馬鹿なこと言わないの」


 また繰り返す。と同時に僕はスローで変化する彼女の表情に、窓外の光を反射する一滴を見つけた。それはあっと言う間に溢れ、彼女の頬に一筋の光のラインを作り出していく。


「……馬鹿なこと……言わないの」


 今度は少しだけ嗚咽を含みながらの言葉だった。僕は咄嗟に彼女を抱き締め、出来るだけ優しい声で呟く。


「すみません。冗談です」

「馬鹿……」


 震える彼女を安心させたくて、そっと背中を擦る。それでも彼女は込み上げる声を必死で抑えながら、嗚咽を漏らし続けた。


 どの位そうしていたのか——外からは盆踊りの唄と太鼓の音が聞こえ始めていた。


「私が君と一緒にいるのは……ボランティアじゃないんだよ?」


 泣き止んだ彼女が唐突に言う。その表情はどこか凛としていて、さっきまでの涙の影は無くなっていた。


「人助けの為だったら……この部屋にはいないよ……」


 しかし言いながらまた切なくなってきたのか、少しずつ言葉に詰まり始める。どうしようもない不甲斐無さを感じながらも、僕は言葉を出せずにいた。


「私が……私が……どれだけの覚悟でここにいるか……」


 『覚悟』という言葉に違和感を感じた。僕と彼女が二人で夏祭りを見ることに何の覚悟が必要なのだろうか——と。

 そこまで考えてはっとした僕は、軽々しく言葉を口にしなかった自分に安堵する。


「京子さん……」

「私は……君とずっと一緒に……生きて……」


 言いかけたところで言葉に詰り泣き出してしまう。

 彼女が僕と同じように考えてくれていたのが本当に嬉しくて、彼女を抱き締める手に力を込めた。

 そして彼女が口にした『覚悟』の意味がわかる。同時に、恋愛経験の全くない僕にも、それは彼女が処女である証だということが分かった。


「僕も……ですよ。京子さんと一緒に……」


 気を抜けば泣いてしまいそうな感情の昂りを感じながら、僕はそっと彼女をベッドに横たえた。

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