第37話:「周恩来と林彪、罰としてダンスする」

 「な、なんでもない!」蒋中正は顔を真っ赤にさせていた。「もう時間だ、行くぞ!」

 彼女はそういって足を速め、周恩来は黙ってそんな蒋中正の後を着いていった。彼らが礼堂の入り口に辿り着くと、入り口の警護にあたっていた二人の兵士が彼らに敬礼をしてみせた。蒋中正はその時には普段の平静さを取り戻していて、余計な言葉を口にしないまま周恩来の腕に自分の腕を回して来た。柔らかな胸の弾力が即座に周恩来の顔を真っ赤に紅潮させることになった。

 「せ、先輩……!」

 蒋中正は楽しそうな笑みをみせた。

 「なんだ。西洋式のパーティに参加するんだぞ。男女がパーティホールに入る時にはこうするものだろうが?」

 「わざとやっているでしょう」

 蒋中正の笑みを見て、周恩来は思わずそんな言葉を漏らしてしまった。

 「ふふ。翔宇は何を言っているんだ? 聞こえないな」

 蒋中正は彼が明らかに抵抗しているのも無視して、嬉しそうな様子で彼をホールの中まで引っ張って行った。

 パーティホールとして改装された軍校の礼堂は、内部でダンスをするためのスペースと飲食をとるためのスペースに区分されていた。空間に制限があるため、大型のシャンデリアを吊るすことはできず、代わりに適当な個数の電球が天井で灯されているだけだ。加えて、色とりどりの紙細工の飾りが飾り付けてあった。軍楽隊がダンススペースで優雅な西洋式の音楽を奏で、礼服を着込んだ男女がダンスを踊っている。一方の端にある飲食用のスペースでは、各種さまざまなジュースや酒を飲みながら、客たちが楽し気に談笑していた。

 蒋中正はホールに入ると、周囲を見渡してみた。

 「翔宇、人の数が少ない気がしないか?」

 「はい……」周恩来は内心小鹿が跳ね回るような落ち着かない気分だったけれど、蒋中正の質問に答えるべく、落ち着いている風を装いながら周囲を確認してみてから、こういった。「パーティに参加しているのはほとんどが我が軍校の幹部連中のようですね。国民党の高層は参加していないようです」

 周恩来の手配で、軍行の高層以外にも、若く美貌にも恵まれた儀仗隊の女性たちがダンスの相手として招かれていた他、国民党中央委員に対しても参加を求めていたのだけれど、実際には大部分の委員は出席していないようなのだった。

 「どうも彼らは汪精衛に合わせているらしいな」

 「前回の会議の時と情況は同じというわけですね」

 「構わん。来なかったところで、どうせ義理で招待したにすぎんからな」

 「そうですね」

 二人はそんなことを話しながら、飲食のスペースの真ん中へと移動していった。会場にいた人々は蒋中正を認めると、揃って仰々しく腰を折って挨拶をしてみせた。彼女はそんな彼らに対して逐一微笑と頷きで対応していた。少なくない男性の賓客は嫉妬とやっかみの視線を周恩来に向けていたせいで、彼にとっては非常に居心地の悪いものとなっていた。

 蒋中正は男性の賓客たちが周恩来に対してやっかみの視線を投げかけていることに気付きながら、暗に得意な気分に浸っている時、林彪の姿を見付け、彼と一緒に彼女に声を掛けに向かった。

 林彪は白色悪魔という美名を貫徹するべく、こういったパーティに出席する場合でも、純白の礼服を敢えて選択していた。彼女は普段のポニーテールをほどき、真赤な髪を肩のところで遊ばせ、淡い化粧をしている姿は見る人に新鮮な印象を与えるものだった。

 彼女が今晩着込んでいる礼服は女性の体のラインを強調するデザインではあったものの、依然として平坦な体付きはそのままで、惜しいといえば惜しい点であった。

 彼女は飲食用のスペースとダンス用のスペースが接する場所に立ち、パーティ会場の保守という任務を負っていた。会場で提供されているのは酒が少しといった程度で、アルコール度数の強いものは出ていないため、酔っぱらった客が暴れるといったことはないはずだったが、万が一のため、周恩来は会場のあちこちに突発的な事態に対処できるよう人員を配置していたのだった。

 「ご機嫌麗しゅう、蒋校長」

 彼女は蒋中正が自分のところにやって来るのを認めると、自然な動作でスカートの裾を持ち上げ挨拶をしてみせた。周恩来のことは徹底して無視していた。

 「任務、御苦労だな」蒋中正は彼女に笑いかけながらそういった……「ちっとも物怖じしていないようじゃないか。こういった場には慣れているように見える」

 「幼い頃から流行の先端におりました。もちろん大小さまざまな西洋式パーティにも参加しておりましたので、蒋校長の心配には及びませんよ!」

 「ふふ」蒋中正は物珍しそうな眼の色をみせた。「まさか我々の白い悪魔は、戦場以外で、社交の場でも活躍してくれるとはな」

 「私は学生の時、すでに上海の社交ダンス場に出入りしておりました。当時は『優雅な百合の花』と呼ばれていたものです」

 周恩来は我慢できず、つい口を開いてしまった……

 「……優雅な……百合の花……? はは……どの辺が優雅だっていうんだ……」

 林彪は即座に険悪な表情をみせた。

 「翔、翔宇?」

 「す、すみません。正直なところ、優雅なんて言葉が彼女に関わりがあるだなんて想像もしていなかったものですから……」

 「ふん! 土ン百姓が私のすばらしさを理解できるはずもないがな! 説明するのも煩わしいが、お前こそ自分の成りをよく見たらどうだ。まさかそんな恰好でパーティに出席するとは思わなかったぞ? 体に合う西洋式のスーツ一着も持っていないのか? 主・任・さ・ま・は! 蒋校長、あなたの高貴なイメージに影響が及ぶ前に、このもっさい奴を部屋に戻したらどうです?」

 「も、もっさい?」

 蒋中正は驚いたような表情で林彪を見た。顔には相変わらず微笑を浮かべてはいるが、口元は引き攣っているようだった。

 「僕だって他に仕方がなかったんだよ。準備不足だったし、とりあえず軍服を引っ張り出して来るしかなかったんだ……」

 林彪は肩をすくめてこういった……「だからお前は土ン百姓だっていうんだ。お前、未だに辮髪の時代だとでも思っているのか? パーティに参加する服すら持っていないなんて、恥ずかしいとは思わないのか?」

 「お、お前たちいい加減に……」蒋中正の声は震え始めていた。

 「大体僕だって……」周恩来がまさにそうやって言い返そうとした時だった。

 「おや、蒋校長ではありませんか?」

 ボロディンがダンス用スペースから三人の傍までやってくると、蒋中正に向かって僅かに体を傾けてみせた。

 「ボロディン神父、ごきげんよう」蒋中正はすぐに表向きの笑顔を作ってみせると、彼に向かって挨拶を返した。「そちらから来られたということは、もうダンスはご堪能されましたか」

 「はい。次のダンスが始まるところです。今はパートナーを交代している時間でしてね。蒋校長とここでお会いできたのですし、次のダンスにお誘いしたいところですな。蒋校長、如何ですか?」

 「神父のお誘いです。どうして断れるでしょう」蒋中正はボロディンの手を受けると、彼と一緒にダンス用のスペースへと向かった。しかしその途中で彼女は周恩来と林彪に向かって、こう告げたのだった……

 「そうだ。私の目の前で喧嘩をやらかしたことの懲罰として、お前たちも一緒にダンスに参加することを命じる。一緒に来い」

 「……え?」

 「な、なんですって!」

 周恩来と林彪はその命令を聞くと、愕然とし、お互いをみやった。その時にはすでに蒋中正は彼らと離れた場所まで行ってしまっていた。彼らは命令を取り消して貰うよう掛け合うタイミングを逸してしまった格好だった。

 「どうすれば……あいたたた!」

 周恩来は林彪が浮かべている非常に甘美(かつ殺意に満ちた)な笑顔を見ただけで、白のハイヒールが周恩来の皮靴の上を力任せに踏みつけられてしまった。

 「私という『優雅な百合の花』とダンスを踊れるというだけで、光栄過ぎて死ぬ思いだろう。とっとと死ね」

 「だから毎回僕が死ぬ前提で話をふっかけるんじゃないよ……」

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