第36話:「中正先輩、化粧するといける」

 彼が自分の持ち場に戻ってみると、ソ連兵士たちが埠頭広場の端へと移動し、儀仗隊の兵士たちのために場所を空けてやっているのがみえた。彼女たちは隊列を組むと、蒋中正の号令の下で動きを見せ始めた。

 女性兵士たちの挙動は実に信じがたいものだった。彼女たちの一挙手一投足は非常に生活な位置に定められていて、拳を突き出すタイミングまでまるで同じなのだ。百人近い儀仗兵は同じタイミングで型を作ってみせたのだった。

 「素晴らしい! 素晴らしい! これは本当に見物だ!」

 ボロディンは喜ぶあまり手を叩いて彼女たちの演武を称賛した。

 蒋中正は彼が喜んでいる様子をみながら、内心でホッとしつつ、ボロディンにこう切り出した……「神父、わが校の部隊の水準はいかほどでしょうか?」

 「水準は非常に高いですな」ボロディンは満足げに頷きながらそういった。「これだけの数の人間が同じタイミングで功夫の型を演じてみせるというのは、あなたの学校の訓練の厳格さを物語るものです。彼女たちは戦場でもその能力を遺憾なく発揮することでしょう」

 「神父に褒めて頂きありがたく思います。彼女たちの能力はどれも一目に値するものです。北伐の時機もすでに熟しており、部隊はいつでも作戦遂行可能な状態にあります」

 「命令さえ下せば、すぐにでも北伐を始められると?」

 「その通り」蒋中正は頷きながらそう答えた。「大袈裟ではなく、北伐はすでに秒読み段階にまで来ているのです。とはいえ、詳細をこの場でお話するわけにはいきませんが」

 「分かっています。北伐というのは高度な軍事機密ですからな。本来は作戦発動の時期すら機密のはず。あなたが今こうしてこの情報を口にしてくれたことで、教会に声をかけた理由が分かりましたよ。そうでしょう?」

 「そうです。どのような言い方にせよ、貴国の支援なくして、北伐は達成不可能でしょう」

 ボロディンは冷静に蒋中正を見詰めた。内心では彼女とソ連の政客らを比較しているのだった。

 (この女性は誠実な人柄だな、我が国の政客や首脳とは違うようだ……しかし、これは本当に人格ができているためか、はたまたそう装っているだけなのか……いずれにせよ、これは重要な情報に違いない。計画はいくらか前倒しに進める必要がありそうだな……)

 この時、周恩来が蒋中正の傍にやって来ると、幾らか言葉を交わした後、蒋中正はボロディンにこういった……「神父、お疲れでしょう。先に教堂で休まれては如何ですか。今晩はわが校で歓迎パーティを開催する予定ですので、是非ご出席ください」

 蒋中正の言葉は建前上のもので、ボロディンが中国を訪れた初日の予定はすでに決まっているのだった。本来歓迎式には軍校兵士による演目は含まれていなかったこともあり、予定がいくらか狂ってしまっていたのである。彼女は周恩来のアドバイスの下、ボロディンを埠頭から外すようにしたのだった。

 もちろんボロディンにしてもわざわざこの場に留まっているような理由もなく、蒋中正の指示通り、車に乗って埠頭を後にすることとなった。


 「先、先輩……そ、そんな服で本当に大丈夫なんですか?」

 蒋中正はホールへと通じる廊下を歩きながら、疑わしそうに問い返した……

 「何をそんなに慌てているんだ? 翔宇、これはごく普通の晩餐会用の礼服じゃないか?」

 「それはそうですが……」

 周恩来は蒋中正に追いつき、傍から彼女を見詰めながら、両の耳を赤くしていた。

 蒋中正は晩餐会に出席するため、ボロディンを軍校にある教堂で休息を取らせてから、自分の部屋に戻って風呂に入った上で着替えをしていた。蒋中正は自分で着飾るということに慣れておらず、普段は彼女の秘書に任せっぱなしにしているのだが、今晩のように上流階級の人々が参加する西洋式のパーティに参加する場合は、彼女は我慢して自分の衣裳と化粧のほどについて秘書に全権を託すようにしていた。秘書は彼女のため化粧を手伝った後、晩餐会が挙行される予定となっている軍校礼堂に向かい、周恩来が宿舎の外で彼女を待っていたのだった。

 今夜の蒋中正は、普段軍服を着ている時の様子とは、まるで違っていた。

 濃いめの化粧が施されたことで、彼女の顔には成熟した女性の雰囲気が添えられていた。腰までまっすぐに伸びた黒髪、その髪型には変化はなかったが、櫛を通した後で幾らか水気を含んで、廊下の明かりに照らされ輝いている様は非常に美しいものだった。彼女はバラの香水を体につけていて、石鹸の香りと合わさり、周恩来の鼻腔を刺激して彼を落ち着きなくさせてしまっていた。また彼女は黒のナイトドレスとハイヒールを身に着けていて、艶やかな白い肩が露わになっているだけでなく、僅かに盛り上がった鎖骨も人をハッとさせるほどセクシーだった。高く釣り上げられた釣り鐘形のバスト部分のせいで、軍服を着ている時よりもずっと彼女の胸を豊満にみせてもいる。その上ナイトドレスのスリットは深く腰まで切れていて、美しい足がその合間から見え隠れしているのは、相当に煽情的だった。

 彼女は自分の容姿が男性に対してどれほどの殺傷力を持っているのか自覚していないため、却って周恩来の態度に不満を感じているのだった。

 「翔宇、お前はどうしてそう心ここにあらずといった様子なんだ? 緊張しているのか? まったく、こういった機会になじめないというのは、お前に組織の高層としての自覚が欠けているという証拠だぞ」

 「それは……先輩の仰る通りですが……」

 周恩来は蒋中正に注意される一方で、ぼんやりしてしまった理由を正直に説明するのも恥ずかしく、その場でバツ悪く謝るしかなかった。

 蒋中正はそんな彼の現在の身なりを見ると、冷たい視線を投げかけることになった。

 「それはともかく、お前のその格好はどうなってるんだ?」

 「えっと……その……」

 軍校における高層の一人として、周恩来も自然、今晩のパーティに出席する手筈となっていた。彼は普段から部下に馬鹿にされている恰好では、こういった上流階級の西洋式パーティには不適当だろう、ということは理解していたのだった。

 西洋式のパーティである以上は、西洋式の服装を選択するのが自然というものである。けれどオーダーメイドの服が間に合わず、歓迎式の準備の合間を縫って、大慌てで衣裳ケースの中を引っ繰り返し、留学していた当時着ていた西洋式の服を引っ張り出していたのだった。最終的にモノが見つかったのは良かったものの、数年前にあつらえた服で、ジャケットの寸法が合わなくなっているだけでなく、襟元や袖といった部分も短くなってしまっている上に、もっさい棕櫚色のせいでまるで子供の着る服のようになってしまっていて、どこからどう見てもおかしいのだった。

 彼の服装のセンスに多少の問題があるとはいえ、どう考えてもそんな恰好でパーティに出席するというのは恥ずかしかったので、仕方なく歓迎式典で身に着けていた軍服姿でまたやって来たという次第なのだった。

 「たしかに可笑しな恰好で来るよりは軍服の方がマシだとは言ったが、しかしお前、ほんとに軍服以外にまともな礼服を持っていないのか?」

 「最近はほんとうに忙しかったんです。ほとんど寝ないで仕事していたんですよ。どこに服を買いに行くような暇があったんですか」

 「言い訳するな! 今日の歓迎式典の準備以外に、お前に余計な仕事は与えていなかったはずだぞ。お前は外見というものに無関心なんだから、暇があれぱ睡眠時間を削ってでも服を買いに行けば良かっただろうが」

 「はは……先輩には敵わないですね……」

 周恩来が困ったように笑っているのを見ると、蒋中正は口をとがらせて独り言をいった……

 「まったくその格好……馬鹿か。思いやりというものがないじゃないか。私はお前の威風堂々としたところをみんなに見せたかったのに、その格好じゃ……」

 「はい? 先輩、何か言いましたか?」

 「な、なんでもない!」蒋中正は顔を真っ赤にさせていた。「もう時間だ、行くぞ!」

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