第31話:「蒋中正、椅子を斬って決意を示す」

 周恩来の手は緊張のあまり汗をかいていた。

 彼ができることは全てやり尽くしていた。今はただ、蒋中正が彼の進言を聞き入れて考えを変えてくれるかどうかを待つしかなかった。

 しばらくして、蒋中正は考えを巡らせると、僅かに口を開いた。

 「お前の言う通りだ。もしこのまま李之龍を断罪するなら、それは奴にとって不公平というものだ」

 周恩来と毛沢東が人心地つくと、李之龍の強張っていた表情も多少ほぐれ、会議室の雰囲気もゆったりとしたものに変わり始めた。

 「まさにお前の言う通りだよ。確かに今回の事件は国民政府と軍校の意志疎通に問題がある。その点について私からは何の異議もない。混乱を避けるために、軍令を発布しよう。これからはいかなる部隊も、国民政府から命令を受け取った際には、一律、私に報告しなければならない。私の確認をとった後で、任務を執行するというものだ」

 「ふふ」満面の笑みを浮かべていた汪精衛は、両目を細くして蒋中正を見詰め、思わず口元をきつく結んだ。

 彼女は汪精衛の表情が変化したことに気付くと、彼に顔を向けていった……「これは混乱をさけるための措置だ。汪主席にはご理解願いたい」

 「待ってください。あなたが仰っているのは、あなたの同意がなければ、国民政府は国軍に対して命令を下せないというものでしょう? それで国軍は国民政府の軍隊だと言えるのですか?」

 「それは誤解です。国軍はもちろん国民政府に対して忠誠を誓っていますが、軍隊というのは専業軍人による指揮を必要とするものですからね。そうでなければ有効な働きはできませんから。今回の事件がまさにその好例というものです。私はこの軍令によって、二の轍を踏むことを避けようとしているに過ぎません」

 「ふん……」

 汪精衛は依然として笑みを浮かべていたものの、ゆったりとした様子は失われていた。出席していた他の人間は、彼の表情が歪むのを認めた。

 国民政府の主席として、彼は国軍に対して任務執行を要求する権利を持っている。だが軍隊の管理については、完全に軍隊内部の仕事だということだ。孫中山の遺嘱のために、彼には軍隊内部の運用に関しては干渉することができないのである。蒋中正が一旦この軍令を発布してしまえば、仮に彼が直接軍官に対して命令を下したとしても、蒋中正の許可がないかぎり、その執行は不可能ということだった。

 最終的に蒋中正は公然と国民政府の命令状に違反することはしなかったものの、この軍令によって彼が蒋中正に加えようとしていた打撃は防がれてしまったのだった。

 彼のそんな様子を見て、蒋中正は表情を変えないまま、こう続けた……

 「他に、もう一つ軍令を発する。私は李之龍を中山艦の艦長の職から外すことに決めた。李之龍はしばらく、軍校において待機するように」

 その瞬間、会議室の空気は一気に氷点下まで下がったように感じられた。

 周恩来は信じられないといった面持ちで蒋中正を見た。天国から地獄へと転落してしまったような気持ちだった。

 「ど……どうしてですか!!」李之龍は振り絞るようにそう叫んだ。「私には何の過失もないことは明らかになったはずだ! どうして私の職を解くのです! どうしてあなたは私と兄弟たちを引き離すようなことをするんだ!」

 「いつからお前に軍令を発布する理由を一々説明しなければならないことになったんだ?」

 李之龍は唖然と言葉を失ってしまった。

 彼は全身に冷や汗をかき、口元を強張らせながら、その場に跪いて蒋中正に向かって頭を伏せた。

 「お、お赦しください蒋校長! 私の態度が無礼であったことは謝罪いたします! どのような罰も受けます! 仮に今の職を外され、水兵に降格されても構いません! ただ、ただ中山艦から下ろすようなことはしないでください! 私と中山艦の仲間たちは固い絆で結ばれているんです。生死を共にする仲間なんだ! 兄弟たちが北伐で生死の淵に立たされている中で、私だけがこの軍校に残るなど、私には耐えられません! お願いします蒋校長!」

 彼の兄弟たちと共に戦うために、彼はメンツも捨て、道理も怒りも忘れ赦しを乞うことを選んだのだった。

 しかし蒋中正は動じることなく、まるで死刑執行人のように、李之龍に向かって極刑を宣言してみせた。

 「軍令はすでに言い渡した。これ以上何を言っても無駄だ」

 「あ……あ……」

 李之龍は愕然とした表情を浮かべ、この事実を完全に受け入れることができないまま、崩れるようにしてその場に座り込んでしまつたる

 周恩来は漠然と李之龍を見詰めながら、内心で溜息を吐いていた。と、彼は目の前にいる蒋中正が見ず知らずの他人のようになってしまったかのような違和感を覚えることになった。

 (この冷酷無比な独裁者は、本当に僕の知っている蒋中正先輩なんだろうか……?)

 彼がそんな風に考えに沈もうとした時、校長室に聞き慣れた声が響き渡った。

 「蒋中正!」

 声を上げたのは、毛沢東その人だった。

 「お前、李之龍同志の言葉が聞こえなかったのか? あんまりだぞ! 彼はそもそも何も間違ったことはしていないんだ、どうして彼を中山艦から下ろそうとするんだよ? どうしてお前は彼から大切な物を奪おうとするんだ!」

 「ば、バカ、お前……!」

 毛沢東は掴みかかるようにして蒋中正に詰め寄り、指さしながらそう罵っていたのだ。周恩来は彼女を止めようとしても間に合わなかった。

 そして、蒋中正は彼女に返事をすることなく、その場でやおら立ち上がった。

 「憲兵!」

 「はい!」

 李之龍の傍に立っていた憲兵がすぐさま彼女に敬礼してみせた。

 蒋中正の整った長い指が毛沢東に向けられた。

 「軍法に則り、この会議の場で暴れた者を禁固三か月に処する! この女を連れ出せ!」

 憲兵は命令を承服すると、すばやく毛沢東を抑え込んだ。

 「手を放せ! おい! 蒋中正! 私の話を……」

 「先……いや、校長、彼女は一時の衝動に駆られただけなんです、彼女を……」

 毛沢東が騒いでいる中で、周恩来が「命令を撤回してください」と言い終わらない内に、蒋中正は言葉もなく、さっと腰に帯びていた「中正」を抜くと、座っていた椅子の一角を斬り落とした!

 「静かにしろ!」

 蒋中正の予想だにしない行動に、その場にいた誰もが目を見張り、口を閉ざすことになった。

 彼女は「中正」を手にしたまま、堅い意志を帯びた目でその場にいた人間を見渡した……

 「いにしえに孫権が机を斬り、曹操への抵抗の意志を示した……今我が蒋中正は椅子を斬り軍令にかける決心を示す! 誰が何を言おうが、これ以上は容赦はしないぞ! 憲兵! 連れて行け!」

 周恩来は黙ったまま毛沢東が憲兵に連れられて校長室を出ていくのを見守っているしかなかった。

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