第30話:「考え直してください、蒋校長!」

 このラジオもまだ普及しておらず、主要メディアが印刷媒体だった時代、民衆の大部分が衆知している日報以外にも、午後から発売が開始される晩報というものがあった。

 この頃の一般大衆は日の出とともに仕事をはじめ、日の入りと共に休むという生活をしており、その筆頭といえるのは埠頭や倉庫で肉体労働に従事するブルーカラーだった。彼らは早朝から仕事を開始するため、昼間に報道に触れるような時間がない。従って仕事が終わってから発売される晩報が、彼らにとっては世間の動きを把握するための主要なツールだったのだ。

 このため、晩報市場は各種の政治組織が読者を奪い合うためにしのぎを削る場ともなっていた。

 数百年に渡る外国との貿易史を継承するここ広東にも、様々な土地から大量の労働者たちが埠頭での仕事を求めて集まっていた。彼らは知識水準の比較的低い貧困大衆であり、このため感情的には同じ労働者の立場に立ち、不平不満を代弁する報道を支持していた。

 広州の共産主義小組が発行する晩報は、この点において膨大な数の読者を有しており、その影響力は無視できるものではなく、報道に触れた読者が自ら小組に加入する流れができていた。

 自然、艦長が軟禁されたことで埠頭に追い出されていた乗組員たちも、食事と運動の他は、こういった晩報を読むことで時間を潰していたわけだ。

 当初、乗組員たちは李之龍が憲兵によって軟禁されてしまっていることを知らず、憲兵もまたそのことを彼らに伝えていなかったため、彼らはただ言われるがまま待っている他ない状態だった。そういった状況は、周恩来と毛沢東が李之龍と面会していた時、新聞売りが販売する晩報を一部の乗組員たちが目にするまで続いた。そこでようやく、彼らは自分たちの艦長がトラブルに巻き込まれてしまっていることを知ったのである。

 『李之龍が不当逮捕される。蒋中正は釈放すべし』

 似たような見出しが小組の発行する晩報のトップを飾り、彼が逮捕されてしまった前後の様子が大々的に書き立てられることになっていた。事件の後で周恩来もこれらの関連報道に目を通してみたが、その内容は彼が知っている事実とはかなりの隔たりのあるもので、過激な言い回しもまた読んでいられないようなものだった。が、情報が制限されている上に教育程度の低い乗組員たちにとって、これらの報道の他にも、晩報内にちりばめられた蒋中正への不当逮捕に対する抗議を鼓舞する記事は、彼らの情緒を扇動するに足るものだった。

 ニュースはまたたくまに中山艦全てに伝わり、一時的に李之龍から環を預かっていた副艦長も乗組員たちの怒りの炎を抑えることができなくなってしまった。唯一対処可能だったのは、乗組員たちに埠頭でのデモ行動を容認し、乗組員の心情に立っていることを示すことで、怒りの感情で中山艦の管制が奪われてしまうことを防ぐこと、つまり、砲台を占拠されることによって取返しの付かない事態に発展しまうことを避けることぐらいだった。

 デモ行動は数時間に及んだが、乗組員たちの行動には何の成果も伴わなかった。彼らはだんだんと抑制が効かなくなり、怒りの炎を押さえ付けることができず、感情の矛先は憲兵の身に振り向けられることとなった。憲兵たちはこういった大型のデモ行動に対処する経験に乏しく、武力によってのみ彼らの行動に対応することしかできなかったため、結果、あっという間に暴動の様相を呈することとなってしまっていたのだった。

 「……これが今回の事件の原因に対する分析です。またその経過と結末に関しては皆さまもご承知の通りですので、この場で繰り返すことは省かせて頂きます」

 周恩来は淡々とした口調で、夜を撤して制作して来た報告書を、正面に腰を下ろしている蒋中正や他の出席者に対して読み上げた。

 その翌日。

 周恩来による報告が行われた後、蒋中正はすぐさま校長室において会議を招集した。李之龍の責任の追及に関するものだった。周恩来と毛沢東の他にも、汪精衛もまた広州城から朝早く軍校まで駆け付け、自ら傍聴者の立場で参加していた。

 蒋中正はこう切り出した……「李之龍、何か話したいことはあるか?」

 李之龍は周恩来の傍に立っていた。彼の傍には二名の憲兵が控えていて、彼の一挙手一投足を監視していた。

 「あります、もちろんありますとも! 今回の事件はあなたが正当な理由もなく私を軟禁することによって発生したものだ! 責任を取るべきはあなたでしょう!」

 「貴様がそう言うだろうことは私も分かっている。しかし、中山艦の最高責任者として、現在、貴様の部下は重大な軍規違反に出ているのだ。それでいて、まさかお前に何の責任もないなどと言うつもりじゃないだろう?」

 毛沢東はその言葉を聞くと、我慢できずに口を挟んだ……「蒋中正、言いがかりもほどほどにしろよ! 大体なぁ……」

 けれど彼女が全て言い終わらない内に、周恩来が彼女を睨み付けた。彼女は不満そうな表情を浮かべたものの、口を閉ざした。

 この会議が始まる前から、周恩来は李之龍の立場が非常に危ういものだということを知っていた。それで、本来は毛沢東に対して出席せず、執務室に残っているように言っておくつもりだったが、彼女は固くなに李之龍の傍にいることを求めたのだった。彼女の九頭の牛と二匹のトラを合わせたような強烈な抗議の末、彼は彼女の出席を認めたのである。但し、彼女にはある約束をさせていた。

 『会議での事は全て僕に任せること。何が起こったとしても、静かに座っているんだ。勝手な行動は認められない』

 毛沢東としては認めるか認められないかに関係なく答えるしかなかったため、彼女は大人しく口を噤むしかなかったのである。

 もちろん、彼女がこんな風に口を挟むことによって、不愉快に感じるのは周恩来だけではないのだ。

 「もう少し僕のことを立ててくれ。ここは普段、お喋りをしているような場所じゃないんだ。もしこれ以上騒ぎ続けるっていうのなら、僕だってお前に言って聞かせることもできなくなってしまうぞ」

 「……分かったよ」毛沢東は固く口を閉じたまま、低い声でそう答えた。

 一方の端で椅子に腰を下ろしていた汪精衛は、蒋中正と毛沢東の言い合いを見ると、口の端を持ち上げていた。突然持ち上がったこの騒ぎに興味を示している様子だった。

 「ごほん、本題に戻ります」周恩来は咳払いをしてみせると、こう続けた……「先……校長、私としては今回の事件は一つの誤解によって生じたものだという風に認識しています。私としても軍校の立場から、今回の事件の責任者を求める必要性は承知していますが、李之龍が今回の事件の責任を負う必要はないと考えています」

 「ふん……」蒋中正は両目で彼を見据えていった。「詳しく話せ」

 (どうも先輩は心を鬼にして、李之龍をスケープゴートにするつもりらしい)

 周恩来は蒋中正の仏頂面を眺めながら、彼女が内心で何を考えているのかを見極めようとしていた。

 (だけど先輩が僕に彼を弁護するチャンスをくれた以上は、全力で彼のために釈明をするしかない!)

 「今回の事件の原因を統括すると、これは国民政府と軍校の間にある意志疎通の齟齬にあるといえます。李之龍は軍人として、国民政府からの命令を執行することは理に適った判断です。命令に疑いを挟む合理的な理由がない中で、彼が軍校に対して校長の許可が下りているかどうかの確認をする道理はありません。従って、李之龍が勝手に軍艦を動かしたという指摘には当たらないのです」

 蒋中正が何の反応も示さないでいるのを見ると、彼はまたこう続けた……

 「また今回の暴動に関しては、誤解によって李之龍が捕らえられてしまったことによって発生した、予想外の事件です。厳密にいえば、現行制度下における政軍分離の結果ということができます」そこまで言うと、周恩来は思い切って、蒋中正と汪精衛に向かってこう言い放った……「……もし李之龍に対して事件の責任を押し付けるというのであれば、彼に対する不公平であるという指摘を免れ得ないでしょう」

 直接的な物言いに出た彼に対して、蒋中正は一瞬戸惑ったようだった。一方で、汪精衛は大笑いをしてみせたせいで、その場にいた人間の注意は彼の身に集まることになった。

 「お見事! お見事! 実によく出来た意見だ! 蒋校長、見たところあなたの部下はあなた自身よりも物事の道理に通じているようですな! 私としては最初からこの騒ぎの必要性が分からないでいるのですよ。私としても、あなたはさっさと李艦長を釈放し、私が与えた派遣任務を執行させてやるべきだと思いますがね」

 彼はそんなことを言いながら、故意に「私の」という点を強調してみせた。それは蒋中正の耳に刺さるのに充分な物言いだった。

 周恩来は彼の相手をすることなく、続けてこう結論を下した……「従って、今我々がすべきことは、誰かの責任を追及することではなく、今回の事件による影響が国民政府や軍校、引いては北伐に対して及ぼす影響を最小限に抑えることです。もし李之龍に対して罪を着せ、処刑はおろか終身刑に処すようなことがあれば、国軍と共産主義小組との関係に重大な影響を及ぼすことは確定的であり、北伐に対しても何ら益とはならないでしょう……校長には、再度の検討をお願い申し上げます」

 蒋中正は彼の言葉を聞き終えても、山のように身じろぎ一つせず、目を閉じ、腕組みをして座ったままだった。その場にいた全ての人間が、得意満面となっている汪精衛を除いて、緊張しつつ彼女の言葉を待っていた。

 (お願いです……先輩、判断を誤らないでください……!)

 周恩来の手は緊張のあまり汗をかいていた。

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