第26話:「中山艦の反乱」

 政治的な動揺が北伐に対して影響を及ぼしてしまう以外にも、より恐ろしいのは、もし汪精衛と蒋中正の二人が「どちらが王か」といういさかいが原因で衝突することになってしまった場合、二人に対して世人の持つ國母の遺志を継ぐ救国の英雄というイメージが、権力闘争に明け暮れる目先の利益だけにしか関心のない小物、というものに墜ちてしまうことだった。そんな風にして彼らが國母の遺志を継ぐ継承者としての正当性を失ってしまえば、国軍は北伐における存在感を失ってしまうことになる。

 新時代の貴族として、また孫中山の継承者として、蒋中正にとっては、彼女個人の感情が国家の一大事に影響を及ぼしてしまうのは、絶対に見過ごすことのできない話だった。汪精衛もまた彼女がそう考えているだろうということも、理解していた。

 けれどもし彼女が中山艦の出航を許してしまった場合、それは汪精衛に屈服したことを意味するわけだ。直接国軍に命令を下すことができたという前科を元に、彼はこれから同様の手段によってその他の部隊にも命令を下すことになり、蒋中正が軍隊を掌握しているというのも、肩書の上のことでしかなくなってしまうのだ。

 彼女が出航を認めるか認めないかに関わらず、この事件は彼女にとって不利な状況に働いてしまうのだった。

 (どうすればいいんだ……このままだと私はこいつの手の内に落ちてしまうことになる……)

 蒋中正の表情がどんどん苦しいものになっていくを見て、汪精衛は自分の勝利を確信することになった。

 「その様子だと、私の次の一手を理解していながら、あなたはまだ反抗するおつもりのようですね? 存分に期待していますよ。はははは!」

 (くそっ! 策が全く浮かばない! どうすれば……誰か、たのむ……翔宇……私を助けてくれ!)

 蒋中正がそうやって、窮地に追い込まれ瞼を閉じようとした時だった─

 「先輩!!」

 まるで蒋中正が助けを求める心の声を聞き届けたかのように、周恩来が慌ただしく校長室のドアを押し開けて来た。

 「翔宇! まさか、お前……」

 まさか、本当に私の心の声が伝わったのか? 蒋中正は一瞬そんな幻覚を覚えたが、顔を赤くして緊張した様子、それに彼の後ろに控えている憲兵の姿を認めると、それがただの妄想に過ぎないものだと悟ることになった。

 「先輩、大変です! 中山艦の乗組員たちが埠頭で抗議行動に出て、憲兵たちと衝突しました。暴動のようになっていて、どっちも殴り合いに発展してしまっています! 憲兵隊はすでに増援を埠頭に向かわせました!」


 ─数分前。

 『誰がお前の未婚の妻だ! ……私は絶対にお前と結婚などしないぞ! 絶対にだ!』

 (未婚の妻? 結婚……!)

 周恩来は校長室の外に立ち、ずっと二人の会話を盗み聞きしていたが、終始ドアを挟んで耳を傾けているだけだったために、彼には二人の会話が断片的にしか聞き取れていなかった。

 (先輩はどうして突然そんな話を? 彼女とあの変態は、そういう関係だったんだろうか……)

 彼らの前後の会話を知らなかったばかりに、周恩来はかえって想像力を刺激されることになった。

 (先輩はあんな変態のことなんか気に入るはずがない。それだけは僕にもはっきりと言えることだ……まさかあいつが先輩に結婚を迫っているのか? くそっ! 本気で先輩に狼藉を働くつもりじゃないだろうな!)

 彼の焦りはどんどん募り、ドアを開けて室内に飛び込みたくてたまらなかったが、理性が彼にそれを許さなかった。

 (だめだ。これは僕個人の憶測に過ぎないんだし、そんな理由で室内に入るなんてことはできない。そんなことをしたら先輩に面倒をかけることになってしまう……)

 周恩来がそんな風に、この厄介な事態をどうすべきか煩悶している時だった。背後で言い合う声を聞いて彼が振り返ると、そう遠くないところから、蒋中正の秘書と二人の憲兵が走って来るのが見えた。

 彼は尋常でない事態を悟り、彼らに尋ねた……

 「こんな時間に、一体なんの用だ?」

 「周主任!」憲兵の内の一人が彼の前に駆け寄ると、慌てた様子でこういった……「中山艦で騒ぎが起こっているんです。私たちはこの事を校長に伝えようとしたのですが、秘書がそれを阻んだものですから。校長は賓客と会談中だといって……」

 「一体何が起こったんだ? まずは僕に話してくれないか」

 憲兵は彼に埠頭で起こっている暴動について説明すると、ずっと周恩来の後ろで立ち尽くしていた毛沢東が続けて口を開いた……「それって、すぐに蒋中正に報告した方がいいんじゃないか?」

 「お前の言う通りだ。だけど……」周恩来は難色を示した。「僕だって今すぐにでも飛び込んで行きたい。だけど常識から言って、先輩があいつとの話し合いを済ませてからでないと……」

 パン!

 毛沢東は有無を言わせず、彼に平手打ちを見舞った。周恩来だけでなく、秘書や憲兵たちもその行動に呆然としてしまった。

 「バカ! お前は何を心配しているんだよ?」毛沢東は腰に手を当てていった……「蒋中正を助けたいんじゃないのか? 私はあいつのことが気に入らないけど、お前がそう望むっていうのなら、私はお前のその考えを支持するぞ! 余計なことなんて心配するな! 男だったらやる時は一気呵成にやっちまえ!」

 普段なら、周恩来はきっと彼女の行動に文句をつけていたことだろう。けれどその時ばかりは、彼女のそんな言動によって力を得たのだった。

 (こいつの言う通りだ……今は余計なことを考えている時じゃない!)

 彼の中で何かが燃え盛ったように、二人の憲兵に対してこういった……「よし! 僕たちで室内にいる校長に直接報告を行う! 万一の時には、僕が全て責任を負う!」

 「はい!!」

 周恩来の命令を受け、二人の憲兵は秘書を押しのけ、三人は校長室のドアの前へと迫った。

 「先輩!!」

 彼はそう気勢を上げると、ドアノブへと手を伸ばしたのだった─

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