第8話:「林彪が来たからもう安心だな」

 恵州市両岸、両軍交戦地点。

「報告長官! 我が軍は渡河不可能であります! 指示を願います!」

「お前たちは渡河するフリだけしていればいい、実際に渡る必要はない!」

現場で怒号を飛ばしている女指揮官を無視し、周恩来は岸辺で戦況を視察していた。対岸から飛んで来た野戦砲の砲弾が近くの河に落ち、弾かれた水が彼と指揮官をずぶ濡れにした。

周恩来の部隊が恵州市の対岸に進出してから、戦況は膠着状態に陥っていた。

恵州市は広東省の東に位置し、首府である広州城ともちょっとした距離があった。地理上では三方を東江に囲まれ、北面のみ広大な平原に接続している。

理屈からすれば国軍はこの北面から進軍すべきだった。けれど情報では冏軍は北面の平原に大量の地雷を埋設しているらしい。現在の兵力ではこの地雷原を突破することは不可能だった。周恩来は彼らの作戦計画をすでに見直し、北面からの侵攻を放棄していた。

残る三方向に至っては、冏軍は岸辺に野戦砲を構え、渡河を企図する国軍の進行にあわせて威嚇射撃を加えてくる。冏軍の野戦砲の射程は対岸まで届いておらず、砲弾は東江に落ちていた。対岸で陣を構えている国軍はこの点で安心できたものの、このままでは河を渡ることができないのだった。

「周恩来、どんな状況だ…わ! お前全身ずぶ濡れじゃないか!」

毛沢東は陣地の後ろから周恩来の側に駆けつけると、水浸しになっている彼の姿を見て思わず「ぷぷ」と笑い出してしまった。

 「何しに来たんだ! ここは前線だぞ。危険過ぎる。早く陣地の後ろに下がれ!」

「なにが危険だ。ここに来て数日になるけど相手の砲弾は一発だって岸まで届かないじゃないか。水柱を眺めてるだけだろ? 奴らの装備はショボ過ぎるんだよ」

「だけど岸に着弾するようなことがあれば、君だって…」

 周恩来が全て言い終わらない内に、また一発の砲弾が彼らの前の河へと着弾した。立ち上がった水柱が猛獣のように毛沢東目掛けて襲い掛かった。

「にゃあ!」

「みろ! だから危険だと言ったじゃないか……仕方ない。どうせここにいたってやる事はないんだ。一緒に後ろに下って着替えに行こう。戦場で風邪を貰ったなんて事になったら、いい笑いものだよ」

毛沢東が水で濡れそぼった服の袖を振り回すと、軍服から地面に向かって水滴が滴った。

「……うん。今回は言う通りにしよう」

 二人は後方の陣営に移動した後、乾いた軍服に着替え、臨時の司令部となっているテントに集まった。

毛沢東は司令部に掲げられている恵州の地図を眺めながら、周恩来にいった……

「正直言うと私には冏軍の考えが全く理解できないんだ。本来、恵州は三方面を河に囲まれ、守るに易く攻めるに難い。そして北側の平原はこの地で唯一素早く撤退できる場所になっている。なのに、なんだってそこに地雷原なんて作ったんだろうな? まさかあいつらには撤退っていう考えがないっていうのか?」

「奴らは前回の戦闘で僕たちに負かされた後で、国民政府に帰属した連中なんだ。本来的に利益優先で恩義なんか知ったこっちゃないって奴らさ。現に二度もこうして反乱を起こしている。大方、国民政府を脅して利益を得ようっていう腹なんだろう。つまり、奴らは徹底的に防衛に回って国民政府軍に手の出しようがないって思わせた後で、談判に持ち込もうとしているわけだ」

 「だからこそ私たちは連中を必ず叩きのめさないといけないってわけだな。しかし、北の平原からは言わずもがな、河を渡って攻め込むのも難しい。我々には強力な火器はないし、人数だって充分に揃っていない。その通りだろう、お姉さま?」

 「つまりもっと別の手段で以てして攻撃しないといけないわけだ。そこが今回の作戦のかなめというわけで……うん? お姉さま?」

周恩来がまじめに解説をしている中、今しがたの発言が全く毛沢東らしくないことに気付いた。振り返ってみれば、毛沢東の傍に右手を腰に当てた女軍官がいるではないか。

 「林彪、お前いつの間に入って来たんだ? 長官を前にしてはちゃんと挨拶しないといけないじゃないか」

「誰がお前みたいな無恥無品退屈阿呆の蛆虫にそんなことするんだ。どっか行けよ」

「お前上司たる僕にそんな口の利き方していいと思っているのか。お前軍規がなんたるかほんとに理解しているのか?」

 「……お前ら突然なんだ、どつき漫才でも始めたのか」毛沢東が呆れた目付きで二人をみている。

「こんなうらなり書生風情なんか気にしなくていいですよぅ」林彪は呆れ顔の周恩来など全く意に介さず、毛沢東の前に駆け寄った。「お姉さま遠路はるばるご苦労様です! 本来であればお姉さまのような天使のようなお方は御自ら戦場などにご足労頂く必要はないのですが、それもお姉さまがこうしてお越し下さらなければお会いできなかったわけですものね! 啊啊! これは正しく運命の出会いと言うべきですわ!」

 「周恩来! お前こいつどうにかしろよ! おかしいよこいつ!」

毛沢東は顔を背け、林彪の熱い視線を避けながら、悲鳴に近い声で周恩来にそう助けを求めた。

林彪は毛沢東に迫り、白皙のような腕を伸ばして毛沢東の頬を撫でている。

「お姉さま、この熾烈極まる戦場で、愛の口づけを……」

 「ま、また来た? 助けて!!」

「おい、いい加減にしろ!」

周恩来は乳房に吸い付こうとする子供を引きはがすように、両目を閉じ口をとがらせて毛沢東に迫る林彪を引き離した。

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