ご褒美ごっこ

月館望男

バカップルな二人は試験勉強に励む。

 俺は今絶望的に困っていた。


 よく小説なんかでは絶体絶命という状況を表すのに、様々な比喩表現なんかを使うが、今の俺には、そんな事を考える余裕なんかない。そのくらいに困っていた。

 状況? 説明が必要か。そうだな。まず俺の目の前には一冊の雑誌がある。文字の書いてあるページよりも写真の方が多いタイプの雑誌だ。

 もう少し詳しく説明すると、その誌面の大半は肌色で占められている。昔、年上の親戚が中学生になった俺に言った言葉を引用しようか。


「そういうときの女ってのはな、肌が上気するもんなのさ。だから見た目がちょっと赤くなる。まぁピンクだよな。だからこういうのをピンクっていうんだとさ」


 なるほど。確かにその通りだと思う。目の前にある雑誌の誌面の大半も、やっぱりピンク色がかって見えるのだから、お説ごもっともなわけだ。

 彼の従順な徒弟であり、その遺物の継承者でもある俺としては『あなたは正しかった』と、そう称えるべきなんだろう。今はそんなことやってる状況じゃないがな。


――まぁつまり、今俺の前に「これがお前の犯した罪の証拠だ」とばかりに晒されているのは、紛う事なきエロ本なのだ。

 で、その向こう側なんだが……えーと……現在、諸般の事情により顔を上げる事が不可能な状況にある為、正確には確認出来ないのだが……多分、ここにもピンクというか赤味がかった顔色をしている一人の女性がいる。

 もちろん、俺の目の前にある雑誌の女性達のような理由で肌を赤くしているわけじゃあない。それとは全く別の理由、怒り、憤怒、激怒。まぁそんなところだろう。

 そんな理由で顔を真っ赤にしたその女――涼宮ハルヒが、そこにはいるわけなんである。

 状況把握はOKか? じゃあそろそろ、このモノローグを遺書の推敲に移らせてくれ。

 この後、絶対的に訪れる怒号と暴力によって絶命するであろう俺が遺す、最後の言葉だ。えーと、谷口へ……。


「……ちょっとキョン」


 お前の貸してくれた本やビデオ、DVDは責任を持って、その所有権を明らかにし、俺の死後、汚名がこれ以上増えないようにして欲しい……


「ちょっと聞いてんの?!」


 聞いてはいる。聞いてはいるが、俺の聴覚は現在お前の糾弾に対して反応しないように自己防衛規制を働かせているのだ。聞こえない。キコエナイ。アーアーアー。ボクナニモシテナイヨー。


「バカなこといってんじゃないわよ! これはなんだって聞いてんの!」


 ええい! 耳を抓んで引っ張るな! 俺は某剛田雑貨店の長男でもなければ、お前はそんな俺の母親でもないはずだ! っていてててててててて!! かーちゃん勘弁してくれよー! 

 ハルヒは俯いて現実から目をそらしていた俺の右耳を「ぎゅい」っと抓むと、これでもかと引っ張っている。

 やめろっ! マンガやアニメじゃないんだから、引っ張られても伸びないんだぞ! 耳がちぎれたらどうするんだっ!

「じゃーキリキリ応えなさいっ! このエロ本はなんだっつってんのよ、このエロキョン!」

 わかってんじゃないか! 見ての通りのもんだよ! お前ら女子にはわからんかもしれんが、俺のような思春期真っ盛りの男子高校生にとっては、ある意味死活問題になりかねないほどの必需品だっ!

 とりあえず開き直ってみたが、状況が改善するわけもない。

 しかも、ハルヒの激怒はエロ本を所持しているということについてのみ言及されているわけではなかったようで、引っ張られたままの俺の右耳は、外耳から鼓膜までナイスなまでに拡大され、ハルヒの罵声と怒声を否応なく聴覚に送り込んだ。

「そんなのはわかってんのよ! 問題はこの内容だっつってんの! な、なんなのよこの『巨乳ローラー作戦 全国縦断爆乳マップ』ってのはっ!」

 ハルヒの親御さんが聞いたら絶望した上に卒倒までしそうな言葉を音読したハルヒである。

 怒りに我を忘れているというか冷静さを欠いているというか、まぁそんな状況とはいえ、女性が音読すべき言葉ではない。

 だが今、怒り以外の理由――おそらくエロ本のタイトルを読み上げてしまったという恥ずかしい事実――で顔を赤くしているあたり、その羞恥分は、しっかり俺に対する懲罰に加算されているはずだ。

 また一歩地獄が近づいてきた気がするね。さよなら現世。

「大体あんたはみくるちゃんがいた頃からいやらしい目で見てたし……なんなの? あんた巨乳萌えだったの? むしろ巨乳フェチなの? こ、こんな……」

 床においたままのエロ本の端っこを、汚いものでも触るかのように指先でつまんで取り上げ、真っ赤な顔でその中身をぺらぺらぺらっと確認するハルヒ。「うあ……」とか「うそ……」とか「こんな……?!」とか言ってる。

 いや待て、そんなお前が驚くようなノーカットだったり無修正だったりするような内容ではないはずなんだが。

「うっさいバカキョン! エロキョン!」

 最早毎度お馴染みの呼び名である。

 ちなみにハルヒは、そう怒鳴りながらも視線は誌面に釘付けだ。

 その表情は開かれた表紙に阻まれて確認できないが、おそらく、まぁ……その……凄まじい鬼の形相になっていることは疑いないだろう。

 俺に対する死刑の内容を、どんどんエスカレートさせていっているであろうこともまた疑いない。非常に残念だが。

 しかし実のところは死刑にされるより、もっと辛い宣告もされかねない状況なんだがね。


 そんな俺の溜め息が現実となり、全てが過去形になる前に言っておくと、今の俺とハルヒの関係ってやつは、いわゆる彼氏彼女というものであり、恋人であってステディだったりする。

 数ヶ月前、卒業を迎えた朝比奈さんに、

「お邪魔虫一号は先にいなくなりますから、涼宮さんにちゃんと気持ちを伝えてあげて下さいねっ」

 なんて風に背中を押された俺は、SOS団部室で一人窓の外を見ていたハルヒに、自分の気持ちを伝えて――現在の関係に至っているのだ。

 端折りすぎだって? いいんだよ、こっちはそれどころじゃないんだからな。なにしろ語ったところで、今やその関係が過去形になるかどうかの土俵際なんだぜ?

 ああ、一つだけ言っておくと、強引に拉致ってきてから一緒にいた二年間、朝比奈さん「で」遊んでばかりだと思っていたハルヒは、その時外を見ながら泣いていたんだ。

 静かに涙を流していたハルヒに声をかけると、あいつは俺の胸に飛び込んできて、しがみつくと嗚咽を交えながら「みくるちゃん、行っちゃったよぉ……淋しいよぉ……」と言い、それから文字通りワンワンと泣いた。顔を真っ赤にして。

 つい数分前まで同じ場所で『みくるちゃんの卒業を祝う会』なんてやってたときは、少しだけしんみりとはしていたものの、涙だけは最後まで見せなかったのにな。

 その時俺は、こいつがどれだけ朝比奈さんに甘えて、頼って、そして大好きだったのかを改めて知った。

 そして卒業という仕方のない別れとはいえ、大事な仲間が去ってしまった現実に、ハルヒが打ちのめされている事も、な。

 だから俺は、泣き続けるハルヒを抱きしめて頭を撫でてやりながら……ずっと俺が側にいてやるから心配するなって言ったんだよな。

 ついでに自分がハルヒの事をどう思ってるかってことも言った。そんだけだ――結局全部話してるくせに、肝心なところ渋るんじゃねーとか言うなよ? 俺にだって人並みの羞恥心はあるんだ。

 まぁあいつは最初驚いていたようだったけど、今まで以上にしがみついてきて……それから「ずっとずっと……一緒にいてね」って言いながら顔を俺の胸に埋めて……まぁOKしてくれたわけなんだがな。あーあ、あの時のあいつはあんなに可愛かったのにな……。


 そんな俺の回想的妄想を知ってか知らずか、ハルヒは読んでいたエロ本『巨乳ローラー(以下略)』を俺に叩きつけると、音を立てながら立ち上がった。

 そして、投げつけられたエロ本を抱えて挙動不審気味に見上げている俺に人差し指を突きつける。真っ赤っかな顔でな。

「きょっ……!」

……きょっ?

「きょ、巨乳は垂れるんだからねっ!!」

……すまん。怒鳴られたり怒られたりするのは状況的にわからんでもないんだが、今のお前の発言は全くわからん。なんだって?

「う、うるさい! うるさいうるさいうるさいっ!! いーい?! あたしも頭冷やしてくるから! 戻ってくるまでに参考書と問題集とノートを開いて! その! エロ本を! あたしの目の届かないところに捨てておきなさいっ! いいわねっ!」

 そう言い捨てて「ばかみたい! ばかみたい!」と、相変わらず真っ赤っかな顔で俺の部屋を退場するハルヒ。呆然としたまま閉まるドアを見送る俺。

……えーと。どうやら死んではいないようだ。うん。生きてる。

 無意味に手足の感覚を確かめながら、一人肯く俺。

 考え違いでなければ、どうやら俺は自分の人生にも、そして二人の関係にも終止符を打たずに済んだらしい。いや、実際考え違いでないことを祈るばかりだけどな……。やれやれ。




   ◆  ◇  ◆




 コンビニの袋を下げて戻ってきたハルヒは、まだ怒ってはいたようだが、それでも随分冷静になってくれたようだった。とりあえずレジ袋からは鉈も斧もナイフもでてないみたいだしな。

 ただ、買ってきたアイスと飲み物と菓子類の代金は「罰金。これくらいで済んで感謝しなさいよ」との御言葉とともに突きつけられたレシートによって、俺の財布から昇天召された次第なんだがね。

「ちょっとキョン。座りなさい」

 言われなくても座ってるが、とりあえず居住まいを正してみる。平たく言えば正座だ……笑うな、そこ。

「あんたね、今後本だろうが誰であろうが女の胸見るの禁止だから」

 なんですと?

「禁止って言ったの!」

 待て。手抜きアニメやマンガじゃあるまいに、現実じゃバストアップショットばかりが視界の中に入るってわけじゃないんだぞ。

 どうやったって胸だって視界に入ってくるもんだろう。無茶を言うんじゃない。

「そんなのわかってるわよ! 女の胸をいやらしい目で見るのが禁止だっつってんの!」


……。

……。

……。


 絶望した。

 いや、俺だって女性の姿を視界におさめるにあたって、四六時中そういう目で見ているわけじゃない。だが俺だって男だ。しかも思春期の男子真っ盛りだ。

 大きめの胸とか大きめの胸とか大きめの胸とかを見れば、それはそれで「嗚呼、好ヒナア」とは思うのであり、ああ朝比奈さん、貴女はなんで卒業してしまわれたのでしょうか、と嘆くことだってあるわけであり――。

 その、なんだ、そんな悲しみや衝動をエロ本(故人・現在地はゴミ箱)なり、エロDVD(ハルヒ未発掘)なり、エロビデオ(同上)なりに託して自己処理をしているわけであって……。

 それらを一切禁じると仰るんですかハルヒさん。

 俺は最後の一言だけを声に出して慨嘆した。

「そ、禁止。わかった? もし、あんたがそれを破って……今度ココであんなもん見つけたら……」

 ぎく。その次に続く言葉。それは、かつては恐怖の対象ではあれども大して効果のなかった『死刑』だったのだが、今では絶大的な効力を発揮する別の言葉に変わっていた。


「別れるからね!」


 チェック・メイトだ。これを言われたが最後、俺にはもうどうにもできない。絶対服従だ。強制隷従だ。コードなんちゃらである。

 俺は表向きは黙って肯く事しかできないながらも、心の中ではエロDVDやエロビデオの保管場所隠蔽工作の強化や、闇商人・谷口との取引方法の見直しなどをシミュレーションし始めていた。

「わかった? じゃ、今回は許してあげるから、さっさと始めるわよ!」

 港湾沿い倉庫街での闇取引風景を脳内でシャットダウンして、足を崩しながら肯く。

 やれやれ命拾いした……と思ったら、灰色の試験勉強のスタート宣言である。

 まぁ今日は最初からそのつもりだったんだが、昨夜使よ……熟読した後で格納場所に戻し損ねたエロ本のせいで、初っぱなからこんな修羅場になっちまったわけなんだけどな。

 そんなわけで朝からとんでもない超展開になっちまったが、こうして予備校に放り込まれもせず、親も公認の元、専属家庭教師をしてくれているハルヒには、本当に感謝している。

 あんな事の後でこんな事を言うのもなんだが、二人でいられる時間は、やっぱり嬉しいし楽しいからな。それで学力も伸びるっていうなら、言う事なしだろ?

 さて、ちょっと頑張るとしますかね……。



   ◆  ◇  ◆



――うーむ。どうにもこうにも煮詰まった。

 ちなみに先ほどの修羅場が終了し、即ち勉強タイムに入ってから既に一時間ばかりが経過しているんだが、ハルヒに出された課題がどうしても解けない。

 この家庭教師サマは聞けば丁寧に教えてくれるのだが、二度三度同じところでつかえると、ちょっと眉毛が吊り上がるのが玉に瑕だ。まーそんな表情も付き合い始めてからは可愛いと思えるようにもなったんだが……こほん。

 で、現在俺が絶賛つっかえている問題ってのは、多分前にも教えてもらったところなんだよなー……これは出来れば自力で解きたい。超解きたい。

 別に吊り上がったハルヒの眉毛が怖いとかそういうわけじゃない。教えてもらっている以上、やっぱり力を付けたいし、それを証明して見せたいところもあるんだよな。

 だから……ピピピピピ――あーあ……。

「はい終了ー。どう? できた?」

 タイムアップを告げるケータイのアラームを止めながら、俺の手元を覗き込むハルヒ。

 すまん。努力空しく散った敗残兵の気分で項垂れながら、ノートをハルヒの方に向けて差し出す俺。

「んー……」

 思案顔……というか思案声のハルヒ。

「顔上げなさいよ。現実逃避してても頭に入んないわよ。じゃ、ここからね」

 そういうと赤ペンを手に持ち、○や△をつけながら、参考書の参照部分とともに解説を進めていくハルヒ。ああ、ちなみに△ってのは×の代わりだったりする。

 なんでもハルヒ先生曰く「解こうとする意識がある限り×なんてないのよ。白紙回答には×で当たり前だけどね」とのことなんだが、まぁペケはペケだよな。

「あー……うーん、キョン。これ、わかんなかったの?」

 ハルヒが赤ペンの尻でトントンと突いているのは、俺が最後まで悩んでいた問題だった。焦った文字で書かれた【問15】の下は残念ながら空欄だ。

 すまん。前にも教わったヤツの応用だってのはわかったんだが……。

「んんー……」

 ちらっとハルヒの表情を見ると、やっぱり若干眉毛が上がっている。口もアヒルになりかけている。そりゃそーだよなー。お前の嫌いな空欄だしなー。

「わかんないのは仕方ないかもしれないけどね、キョン。空欄じゃアドバイスのしようもないわよ。一から教えてたんじゃ全然進歩ないでしょ? 途中まででもなんでも書いてくれれば前進を認められるし、教え甲斐もあるのに……」

 すまん、と意気消沈しながら素直に謝る俺。

 機嫌の良いときのハルヒならば、「ほらほら、凹んでたって仕方ないでしょ。一緒に解いてみよっ!」とか言ってくれるわけなんだが……。

 まぁ今日は御存知の通り御機嫌はあまり芳しくない。っつーか悪い。それも俺が悪いせいでな。

 顔を上げてみれば、ハルヒはアヒル口のまんま参考書をペラペラとめくって、溜め息なんぞついている。やっぱ空欄はまずかったな、わからんとこまで書き込んでおきゃよかった。

「まー仕方ないわね。良い時間だし、一旦休憩しましょ」

 と赤ペンを机に放り出して伸び上がると、そのまま後ろの本棚に寄りかかり、ずるずるとだらしなく半ば倒れ込むような姿勢になった。

 首だけが本棚に寄りかかる形で、再び溜め息。


 ちなみに今日のハルヒは淡い黄色のキャミソールに白のサマーカーディガンという涼しげな格好をしている。まぁ季節も季節だし、活発なコイツによく似合ってはいるのだが……。

 その、なんだ、俺の視線としては倒れ込んだハルヒの胸元に集中してしまう。

 というのも、コイツの胸はそこそこボリュームがある方なもんだから、身体にぴったりとしたキャミソールなんかを着てそんな姿勢になると、胸のふくらみの下部分、いわゆる下乳に、こうキャミが食い込んで……ふくらみの形が露わになるのだ。

 そんなものが視界に飛び込んで来たわけで……なんというか――色々持てあます。

「なーに、ぼーっと見てんのよ、バカキョン」

 けしからん双丘の向こうから、ハルヒが不機嫌そうに言う。完全にジト目である。

 しまった。俺、凝視しちまっていたのか?

「まったくもー……ちょっとは凹んでるかと思ったら、人の胸じろじろ見て……ほんっとエロキョンなんだから。禁止っつったでしょー」

 呆れた声で言いつつ、テーブルから消しゴムを取って投げつけてくる。いて。

「大体あんたねー、エッチな事ばっか考えてるから教えたところ頭に入っていかないんじゃないの? あーんなエロ本読んでさー。あーやだやだ。バカキョン、エロキョン」

 完全にぶーたれて、やる気なく罵るハルヒ。怒鳴り声で罵倒されるより、これはダメージがデカい。なんというか軽蔑されているというか見捨てられかけているというか……。

 凹みもしたが、イラっと来たのも正直なところだ。

 確かに俺はあんまり頭がよろしくない。なにしろこれまでの積み重ねが薄いしな。勉強に集中するのも得手じゃない。でも、俺なりに懸命に考えてるし、真面目に取り組んでるつもりだ。

 やり方は若干厳しいものの一生懸命教えてくれているハルヒに報いたいし、感謝しているし、恋人同士という関係になって数ヶ月とはいえ、こうして二人きりという状態でも『勉強は勉強』と、ヘンな気を起こしたりしないよう自重しているんだぞ。

 確かに俺は、両親からも小中時代の担任教師なんかからも「努力が見えにくい」だの「やる気が感じられない」だの言われ続けてきたようなヤツであり、またそういうのを見せるのが気恥ずかしいというかなんというか……。

 まぁそういう性格なもんだから、伝わりにくいかもしれん。だが、それでも努力はしているんだ。勉強もそうだが、ハルヒを大事にしたいし、その、なんだ、ケモノとかケダモノとかにならないよう、思春期の流されやすい衝動を抑える努力もな。

 実際、俺たちは恋人同士とはいうものの、まだキスしかしていない。しかも数えられるくらいだ。えーと。俺の記憶が確かならっ……ていうか忘れるわけもないんだが、まだ4回か?

 ちなみに付き合う前の閉鎖空間でのアレはノーカウント扱いだ。ハルヒは夢だと思ってるわけだしな。

 今だってお前が俺の視界に入ってきたわけで、見ようとして見たわけじゃ……うむ、それはウソだな。見ようとして見た。

――でもな……。

 まだブーブーブツブツと言いながら、今度は千切ったルーズリーフを丸めたものを投げてくるハルヒの不機嫌顔に俺は声をかけた。


「お前は禁止禁止っていうけどな。自分の恋人のまで見ちゃいかんのか。滅茶苦茶だな」


 言ってから「しまった」と思った。

 ハルヒのさっきの言い様にも、自分の不甲斐なさにも少々苛ついていたもんだから、若干ではあるが語尾が吐き捨てるようになってしまったのだ。情けない、ガキの八つ当たりだ。

 こりゃ噴火するぞーと身構えたのだが、ハルヒの不機嫌面はゆっくりと赤くなり「な……ななな……」と意味不明の音声を漏らすばかりだ。怒りのあまり故障したのか?

 で、わたわたしと起きあがろうと、もがいている。そのついでに、今頃気づいたのか、下乳に食い込んでいたキャミをぐっと引き延ばし、カーディガンの前を合わせて胸を庇うように身構える。

 どうやら準備が完了したらしい。はい、どーぞ。

「なななななにいってんのよ! こっちにだって心の準備とか、い、いろいろあるの! ばかっ! ばかばかばかっ!!」

 怒鳴られるのは予想通りだったんだが、なんか内容が予想と若干違うような気がする。

 えーと、なんだ? ダメなのか? いいのか?

「だ、だめなわけじゃないけど……って、なに言わせてんのよ! 休憩終わりっ! 終わり終わり終わりっ!!」

 結局、本日何度目かわからんが「アホキョン、エロキョン、バカキョン」というコンビネーションを、高橋名人もビックリの連打で鼓膜に叩きつけられながら、俺は再びテキストに向かい合う事になった。なんだってんだろうね。



   ◆  ◇  ◆



 比較的涼しい午前中から始まった勉強会も、二度の休憩を挟み、ふと気がつけば正午をとっくに過ぎた位置に長針が来ていた。

 一度目の休憩の後から、ずっとブツブツ言っていたハルヒだが、結局それは昼飯の買い出しに行く間も、食ってる間も続けられた。

 ちなみに今日は、両親は朝から揃って外出なので、昼飯は近所のパン屋で買った総菜パンだ。

 妹はミヨキチのとこに遊びに行っているので、ブツブツ言いながら上の空で思案顔状態のハルヒを尻目に、二人分のパンをヒョイヒョイと選んで購入。

 一応お伺いをたてたものの、いつもは口うるさいくらいにチョイスに文句をつけるくせに、今日に限って「なんでもいいわよ」と来たもんだ。どうしたってんだ?

 そうそう、余談のようにさらっと言ったが、つまり現在の我が家は、俺とハルヒの二人だけという状態だったりする。

 谷口が愛読する類のマンガだったら、速攻で押し倒すようなシチュエーションだが、そんな気を起こさないよう努力をしている俺は、そろそろ誰かに表彰されてもいいと思うんだがね。

 まぁ……急にそんな気を起こしてもハルヒに蹴り飛ばされるだけだろうし、そんな事でコイツに嫌われたくもなけりゃ、悲しませたくもないしな。

 第一、ただでさえ朝から失態を晒しているわけだし、そんなムードになりようもない。

 妄想と知識ばかりは広がっても、所詮は悲しきチェリーボーイ。実戦的な課題に臨むには、まだまだなにもかもが足りないってこった。

 そんな課題よりも目先の問題集をやっつけねーとな。ハルヒに嫌われたり悲しませたりしたくなけりゃ、まずはそっちからだ。うん。

 と意気込んで、午後の部開始……と思ったのだが、上の空のままパンを食べ終えたハルヒは、一息ついたのか、くいっと眉を上げて座卓に手をつくと、ずずいとその身を乗り出してきた。

 表情はといえば、いつぞやの授業中に襟首掴まれて後頭部を強打した時から変わらない『なにか思いついた』顔だ。

「午後からはやり方を変えるわ!」

 案の定だな。で? やり方を変えるったって、なにをどう変えるんだ? 一問空欄回答する度に、そこのアクリル定規で叩くとかそういうわけか?

「それもいいわね。でも、違うわよ」

 ぬふふふーと笑いながら応じるハルヒ。ちょっと怖いぞ。叩きたいのか?

「ムチを入れるのもいいけど、アメもあげないとね」

 なんですと?

「だからー。これから夕方までは1時間区切りで課題出すから、それに全問正解したら、一つずつ、あんたの言う事きいてあげるわ。どう?」

 どうって言われてもな。言う事きくったって、どんなことだ? なんでもいいのか?

「そりゃーあんた次第よ。でもまーあんまり無茶な事言い出したら、その後でどんな目に遭うか……わかんないわけじゃないでしょ?」

 絵に描いて額に入れたくなるような『にっこり』で応えるハルヒ。

 その絵画にタイトルをつけるなら『選択 ~厭々殴られるか、悦んで殴られるか~』ってところだ。無茶なことなんか言えるわけがないな。そもそもそんなつもりもないし。

 まぁコイツの事だ、退屈しのぎのお遊び程度のつもりなんだろう。それに、俺としても目の前に人参をぶら下げられれば、そりゃ頑張るしかないってのもある。否やはないぜ。

「じゃ、答え合わせ含めて一時間ってことで、回答制限時間は四十五分にするからね。せいぜい頑張りなさい! キョン!」

 へいへい。



――一時間後。

「んーと。まぁこれもOKね。ただ先生によってはペケもらう場合もあるから、注意しなさいよ。あと、あんた焦り過ぎ。もう少し丁寧に書きなさいよねー。途中式読めないわよコレ」

 俺はシャープペンを強く握りすぎていた手をぶらぶらと振りながら、へいへいと応えを返した。で、結局どうなんだ? まぁ聞くまでもなく、その表情を見ればわかるけどな。

「うーん。あんた単純過ぎるんじゃないの? おまけコミだけど、一応全問正解よ」

 先ほどとは違う『にっこり』でノートを返してくるハルヒ。うんうん。こっちの方が断然いい。生命の危機とか感じないし、なによりも可愛いしな。

「ばーか。で? どうすんの?」

 照れた顔を必死に堪えるように口を尖らせてそっぽを向くハルヒ。どうすんの、とはつまり、コイツのいう『アメ』の話である。なんでも言う事きくってやつだ。

 でもって、俺の方はというと聞かれるまでもなく、既に内容を決めてあった。

「ハルヒ。お前今日、ヘアゴム持ってるか?」

「……え? あると思うけど?」

「じゃあ、今日はこれからずっとポニーテールにしてくれっ!」

 言いながら大袈裟に頭を下げてみせる俺。これくらいならいいだろ?

「……はぁ。まったくもー……わかったわよー。あんたって、ホントにポニーテール萌えなのね。まぁ、あんたにしちゃ上出来なお願い事だけどさ。じゃ、洗面所借りるわよ?」

 ポーチを片手に席を立つハルヒを見送りながら、天井に向かって息を吐く。

 やれやれ、なんでも言う事きくったってなぁ。限度ってもんがあるし、ハルヒの機嫌を損ねるわけにもいかないし……まぁ午前中の失点は、今のやりとりで大分帳消しに近くなったのかね?

 鼻歌交じりで席を立っていったハルヒを思い出して、俺は安堵の溜め息を漏らした。ふぅ、やれやれ、だ。

 その後、部屋に戻ってきたハルヒは、いつか見たポニーテール姿よりも、かなり長くなった尻尾を「どう?」なんて言いながら、ピンと指先で跳ね上げて見せた。

 まったくけしからん。俺の心のときめきゲージをレッドゾーンに叩き込むような仕草だ。

 そして感想を言おうとする俺に、べーってな具合に舌を出してみせ、憎まれ口を叩きながら、

「条件をちょっと変えるわよ? お願い事は十分間の休憩中にできる事にすること。それと、全問正解したんだから、次からは少しずつ難易度上げていくからね? わかった?」

 と、相変わらずの絶対王政ぶりを見せつけ、嬉々として問題集に出題マークをつけ始める。

 やれやれ、お手柔らかに頼むぜ?


――で、また一時間後。

「……ちょっとキョン。あんたなんで、この集中力を試験で出さないのよ? ひっかかりやすい応用問題出したのに、ちゃんと出来てるじゃない」

 まーな。それは前にも同じようなヤツやったし。ケアレスミスには気をつけろって散々言われてるからな。2回検算したんで、危うく他の問題が時間切れになりそうだったがね。

 苦笑する俺を余所に、ハルヒは嬉しそうな顔でノートに最後の丸印を書き込んでいる。おいおい花丸はやめてくれ。高三にもなって、さすがに恥ずかしい。

「なーにいってんの! これはちょっと誉められるべきところよ? よくできましたってスタンプがあったら押してあげたいくらいよ」

 じゃ、今度用意してくれ。

「そーね。百均とかにあるでしょ」

 いやいや、冗談だってば。慌てて手を振る俺。でもハルヒは喜色満面である。こりゃ学校にこのノート持って行く時は谷口の視線に要注意だな。

「で? どーするの? ご褒美は?」

 ご、ご褒美って……思わず口に含んでいたお茶を吹き出しそうになりながら、慌てて口を押さえる。

 しまったな、今回はちょいと自信のないところもあったんで、考えてなかった。えーと、えーと……じゃあ、その、なんだ。誉めてくれ。

「ん? なにいってんの、誉めてるからご褒美あげるって言ってるんじゃない」

 怪訝そうなハルヒ。いや、そりゃそーなんだが。こう、もっと分かり易く誉めてくれ。

「えー? ちょっとキョン、そんな言い方じゃ、わけわかんないわよ。頼むんなら、ちゃんと分かり易く頼みなさい」

……えーと……んごほなでげふんてくれ。

 咳払いと同時に、これ以上無いくらい分かり易い一言を言ってみた。

「ちょっとキョン! ふざけてんの? 終わりにしちゃうわよ?」

 作戦失敗。通じなかったらしい。終わりにされてしまうのは困る。でも恥ずかしいんだ。察してくれ。その、なんだ、撫でてくれ。

「……は?」

 頭。

「……へ?」

 えーと、これはなんの罰ゲームですか? アメと言いつつも、実は捻りを加えた角度からの、かなり高度な心理的ムチですか。そうなんですか。

「えーと……? そんなのでいいの?」

 どうやら通じたらしい。

 だが、今度は俺がそっぽを向く番だった。咄嗟に思いついた事とはいえ、恥ずかし過ぎて、まともにハルヒの顔が見られん。無理だ。

 ええい、穴はどこだ穴は。今なら世界記録を出せるほどの速さで飛び込んでやるぞ?

 ハルヒの大爆笑が耳に届く前に、手近な穴に飛び込もうと思ったのだが、残念なことに俺の部屋には、俺が隠れられるサイズの穴などというものはなく――笑い声の代わりに、おずおずと座卓越しに伸ばされてきた手によって、俺の髪はゆっくりかき回された。

「ふふっ……」

 心底嬉しそうなハルヒの含み笑いが聞こえる。

 その、なんだ、自分で言っといてなんだが、すごい恥ずかしい。これはいかん。動悸がしてきた。誰かラッパのマークの救心の優しさの半分を俺のおなかに急降下してくれ。

「キョン、もうちょっとこっち来なさい」

 撫でられながら、頭を座卓側にぐいっと引き寄せられる。すっかり為すがままでキュウリがパパだ。

 座卓に手をつきながら言われるままにすると、目の前にハルヒのニコニコ顔があった。

 いつもの100ワットの笑顔とは、ちょっと違う笑顔。やっぱりちょっと、いや、かなり照れているらしい。目もちょっと潤んでるっていうか、なんかこう、滅茶苦茶可愛い。

「……撫でられるときは、目を閉じるもんなの」

 初めて聞いたがそういうもんなのか? まぁウチのシャミなんかは気持ちよさげに撫でられてる時は目を閉じちゃいるが。

 とりあえず従う俺。撫で続けるハルヒ。その手の感触が、ふと止まったかと思うと、

――ちゅ。

 額に、少し、湿った感触。

「おしまいっ!」

 目を開けると、ハルヒは真っ赤な顔でポニーテールと、うなじの後れ毛の側面を見せてそっぽを向いていた。横目でちらちらと俺の方を見ている。

 えーと……今の音と感触は……その……。

「なんでもないわよ! さー次いくわよー! こら! 触るな!」

 額に触れようと伸ばした手を物凄い勢いで押さえつけられ、この休憩時間は終了となった。……今日のコイツは色つきリップじゃないと思うから、キスマークとか大丈夫だよな?



   ◆  ◇  ◆



 そのまた一時間後の現在、科目は変わって英語になっている。

 で、俺はっていうと最後の長文和訳をタイムアップギリギリで書き上げた後遺症で、右手首を揉みほぐしながら、お裁きを待っているところだ。

「んんー……? キョン、ちょっとここ、どうなってるのか口で説明しなさい。日本語になってないわよコレ」

 あーえーとこれはだな……。

 必死に説明する俺。確かに俺の和訳の後半は、かなりカタコトの日本語になってしまっている。「てにをは」は辛うじて成立しているものの、ソレとかアレとかコレが多すぎるのがナニだ。

 それを一つ一つ「じゃーこれは? で、これは?」などという問いに応えていく。理解はしているんだということをアピール。必死過ぎるかもしれんが、喰らいついてなんぼだ。

「うーん、まいっか。まぁ今回の範囲だと教科書からしか出ないんだから、ちゃんと見直しておきなさいよ? あとであたしのノート見せたげるから」

 感謝。△がつきそうだったところからスタートした赤ペンの軌跡は、へにゃっとした○になり、二重の感謝である。やれやれ助かった。

 ん? ってことは?

 俺はノートをさらっと確認する。単語OK、穴埋めOK、英作文へにゃ○、ラストの長文和訳へにゃ○。おっと、これはいわゆる全問正解ってやつですねハルヒ先生。

「まーそーゆーことね。おまけよ? あたしの採点じゃなかったら、確実にペケか部分点よ。もらえて半分ね。訳はどっちも配点高いんだから、ここで取らないとダメなんだからね」

 でも、全問正解は全問正解だよな?

「だからそーだっつってんでしょー。努力賞よ、努力賞。こんなんじゃスタンプは『がんばりましょう』だからね。で?」

 待ってました。いやスタンプじゃないぞ。その、なんだ、ご褒美タイムを、だ。

「はいはい。で? なにすればいいの?」

 えーと。その。じゃあキ、キスをだな。

「さっきしてあげたじゃない」

 さっきのはおでこじゃないか。って、やっぱりアレはそういうことだったのか。

「あ」

 あ、じゃない。語るに落ちるとは、まさにこのことだなハルヒ。


「うっさい!」


 ニヤつく俺を小突くハルヒ。なんだよ顔赤くして。くそー可愛いぞ。

 なんとなくムラムラしてきてしまった。といっても性的な意味でというより、こう、からかいたくなるというか、いじめたくなるというか、いたずらしたくなるというか、そんな感じだ。

 そんなわけで一週間ぶりのキスを要求したいと思う。額ではなく、マウストゥーマウスで。

 俺自身も赤面していることを自覚しつつも、そんな現実を無視して堂々と要求する。ええい、オマケとはいえ正当な権利の主張だ。堂々としてなにが悪い。

「もー……あんたってほんっとにムードもへったくれもないわね」

 そう言いながらも、まんざらではない表情のハルヒは、座卓に手をついて身を乗り出すと、ちょっと顔を上げて目を閉じた。いわゆるキス待ち姿勢だ。

 あ、いかん。ムラっときている。背中とか臍下の当たりがゾクっとする。

 自重しろ俺、自重だぞ。今は勉強中なのだ。下手を打てば、またバカキョン、エロキョンと言葉と拳で殴打され、ハルヒはお帰りになってしまうかもしれん。自重だ。自重しろ――。

 結論から言おう。ダメだった。

 俺はゆっくりとハルヒの唇に自分の唇を触れさせたのだが、触れた瞬間にハルヒが「……んっ」とか声を漏らしたもんだから、誠に遺憾ながら俺の理性のネジには左回転のモーメントが、のっしりとかかってしまったのである。

 速攻でグラつくマイ理性ネジ。そんな脳内風景に従って、俺は重ねた唇を少しだけ離した。それからまたすぐに触れさせる。

 悪戯心を抑えきれなくなった俺は、ハルヒの緩く閉じた上下の唇。その谷間に自分の上唇を差し込むようにして、ハルヒの下唇を軽く挟み、啄んだ。強く、弱く。上唇も同じように。

 ハルヒのそれを挟んだまま、唇同士を擦りつけるように、顔を動かして舐る。

 柔らかく、少し冷たいハルヒの唇の肉質を、際限なく確認するように繰り返す。

 薄く塗られた軟膏のように、少しぬるりと粘る感触はリップのせいだろう。

「は……ふ……」

 隙間から漏れた、聞いた事もないような甘い声に、ネジにかかった左回転がさらに強まる。グッバイマイ理性。

 いや、まだ大丈夫だ。俺の野性を封印した理性というフタのネジ止め箇所はまだ三カ所あるはず。多分。

 ネジが一本コロリといってしまった俺は、そのネジを探すかのように、座卓の上をまさぐって、ハルヒの左手を掴んだ。

 唇は重ねたまま、そのまま指を絡める。逃げてしまわないように。

 悪戯心はとどまる事を知らず、再び鎌首をもたげ始めた。えーと自重ってなんて読むんだっけか? じじゅう? じおも?

 そんなアホな事を脳のほんの片隅で考えながら、俺は唇で柔く挟んだハルヒの下唇に、軽く舌先を触れさせた。ちょん、ちょん、とノックするかのように。

 ノックの成果は絶大だったのか、訪問者を受け入れるためか確認するためか、住人が顔を出してきた。

 唇に感じるその冷たさは、俺とハルヒの体温の差なんだろうか。それとも俺が熱くなり過ぎているだけなんだろうか。

――そんな思考はすぐにどうでもよくなった。

 触れ合わさっていた粘膜の扉同士が押し広げられるように開かれ、ハルヒの舌と俺のそれとが直接触れあったからだ。体験したことのない感覚に、頭がパニックになりそうだ。

 そのままおそるおそるといった感じで、舌先で触れあう。絡め合った指先に力が入ってしまう。それくらいの衝撃だった。

 とてもじゃないが各種参考書にある「絡め合う」なんて無理だ。そんなことをしたら、多分俺はこの座卓を叩き割って、その残骸を飛び越えてしまうだろう。空中を平泳ぎしながらな。

 その後? なにをどうしようとするは予想出来るが、する自信はない。だからダメだ。

 気が付けば残り一本になってしまった理性のネジ止めを必死に抑え込みながらも、ハルヒの唇を、舌を、俺は求め続けた。ハルヒも同じく返してくる。

 ぬるり、ざらりとした冷たい器官が俺の粘膜を刺激する度に、鳥肌が立ちそうになる。

 いや、既にそうなってると思う。もう一つの「たつもの」は、さっきからもうガッチガチだ。ポジションが悪い為、ズボンに押さえつけられて、正直痛い。

 ハルヒは鼻から、隙間から甘い音つきの吐息を出し、その度に求めるものが増えてしまう。

 これはもう仕様だ。いつやめればいいのかわからん。仕様だけど、さすがにヤバい。身体を支える左腕も限界が近い。股間も痛い。

 結局俺は、左腕が震え出すギリギリ手前で、ゆっくりとハルヒから身体を離した。

 薄く開いていた瞼を、次第に広げる。視界の一番手前にあったのは、同じように薄く目を開いているハルヒの顔だった。

 頬どころか顔中が、そして白いサマーカーデガンの隙間に見える肌すらも上気していて、ぼうっと焦点のあっていなさそうな瞳で俺を見返している。

 俺とハルヒのが混ざっているであろう体液に濡れて、てらてらと光る唇と口角。そこに、どうしても視線が吸い寄せられてしまう。

「……」

「……」

 沈黙。なんて声かけりゃいいのかわからん。ハルヒも正気を取り戻したのか、慌てて座卓の上から身を引くと俯いてしまった。

 ポニーテールに結い上げているせいで、むき出しになった耳がてっぺんまで赤いのがわかる。

 でも、多分俺も同じだ。

「……」

「……」

 沈黙延長戦。さすがに耐えきれなくなった俺は「ちょ、ちょっとトイレに……」なんて腰を上げると、ハルヒも「う、うん。えと、あの、ごゆっくり」などとワケのわからない言葉で送り出してくれた。

 トイレに入ってしたことは、ジッパーを降ろしてジョン・スミスを露出して用を足す……とではなく、ベルトもボタンも全開にして、とりあえず下半身を全露出させることだった。

 いや、なんだこりゃ。「お前一体どうしたんだ」と問いかけたくなるくらいの硬度と角度だ。

 今は特に催しているわけではないから助かったが、こんな状態で排出したら軽いパニックになりそうだぞ。

「……ったく、ちったぁ自重しろ」

 そう独りごちた俺は、ジョンに軽くゲンコをくれてやったのだが、その軽い刺激にさえ、過剰な反応と感覚が下半身全体に拡がって――俺はトイレで一人悶絶してしまった。もちろん痛みもあったわけなんだけどな。

 やれやれ、なにをやってんだかね……。



   ◆  ◇  ◆



 気まずい。いや、別になにかハルヒを怒らせるような真似をしたわけじゃない。

 そういうわけでは全くないんだが。実に気まずい。初めて感じる気まずさだ。腰が座らないというか、居場所がないというか。

 ああそうだ。『身の置き所がない』なんていう表現があったな。多分それだ。

 さっきトイレから出たついでに顔も洗ったのだが、洗面所の鏡に映るニヤケ面に驚いてしまった。二・三発左右から挟み込む形で平手をくれてやったのだが、一向に治まる気配がない。

 なんとか表情を引き締めても、フニャリとなってしまう。なるほど、これがハルヒの言う「マヌケ面」ってヤツか。三年目にしてようやく認識したぜ。

 なんとか平静を保とうと努力しつつ自室に戻ると、今度はハルヒが「あ、あたしもお手洗い」なんて言って、そそくさと部屋を出てしまった。

 やれやれ、目も合わせられないじゃないか。どうしたもんだか。


 そんなわけで、現在の俺はというと一人の部屋で、ハルヒ先生のお帰りを待ちぼうけているわけなんだが、非常に気まずいのである。

 一人しかいない上に、ここは何年もの間住み慣れた自分の部屋……のはずなんだが、まるで身の置き所がないのだ。

 とりあえず自分の席に座って、テキストを流し読みしたりするのだが、全く集中できない。

――これでハルヒが戻ってきたら、どうなっちまうんだろうか。

 なんだ、やっぱりこう、雪崩れ込んでしまう展開になるんだろうか。

 いや、いかんぞ。そんなつもりなかったじゃないか。大事にしたいし、こう、なんだ、一段階登ったからといって、簡単にホップステップジャンプというワケにはいかんのだ。

 いや、したいかしたくないかで言ったら、そりゃあしたいさ。したいけど、なんつーか、その、ほら、なんだ。『準備』とかできてないし。

 うん。だからできないしな。はっはっは。一安心一安心。


――買ッテオキャヨカッタ。


 俺は盛大に座卓の上に突っ伏した。マンガなら目の幅涙が流れるところだ。

 こうやってハルヒがちょくちょくウチに上がり込むようになってからというもの、妄想を逞しくした俺は、実は何度かそういうモノを販売する魔法の小型自販機の前を自転車で素通りするという不審者そのものな行為を繰り返していたのだ。

 まぁ……結局その度に挫折してしまって、『現物』はここにないわけなんだけどな。

 後悔先に立たずっていうけど、先に立たない上に、役にも立たねーもんだな……なんて無意味な言葉遊びをしていると、部屋のドアが勢いよく開いてハルヒが帰ってきた。

「さー! 続きやるわよっ! ノート開いて鉛筆持ちなさ……ぃ……」

 かなり元気よく、それこそ鬼教官風に登場したのだが、俺が突っ伏していた顔を上げて視線が重なった瞬間、それまでの勢いが音を立てて萎んでいくのがわかった。

 なんというか「ぷしゅぅ……」って書き文字が見えるようだ。

 で、見る見る顔が赤くなっていくハルヒ。やめてくれ。俺まで赤くなってくるのがわかるじゃないか。

「えと……続き……」

「あ、ああ……」

 結局お互い視線も合わせられないまま、座卓に向かい合った俺たちだったのだが、それでも問題集にチェックをつけて、次の課題を出題してきてくれたハルヒにあわせて、俺も真剣に取り組むことにした。

 ええいっ、渡された問題集を受け取るだけでビクビクするな俺っ!

 とにかくこう、なんとも言えない空気が部屋に充満しているのを感じる。色に喩えるなら、明らかにピンクだ。桃色だ。こんなんなら、あの灰色空間の方がなんぼかマシだぜ。

 とにもかくにも問題に取りかかる俺。そうそう、勉強しないとな、勉強勉強……。

 えーと……なんじゃこりゃ?

 出された課題を見て、頭の上に20cm大の疑問符を浮かべる俺。

 なんというか、その、基礎中の基礎というような簡単な問題ばかりだ。分量こそ今までと変わらない数だが、さっきの課題と比べると明らかに易しいレベルだ。

 こんなもん間違いようもないし、速攻で終わっちまうぞ? サービス問題か? ははぁ、後半にスゲーのが待ちかまえてるって寸法か? やるなハルヒ、だがその引っ掛けには乗らないぜ。

 俺は油断せず、問題を熟読しながらノートに回答を書いていく。うんうん、集中出来ているじゃないか。よしよし。


――ウソだろ?


 数十分後、全ての回答を書き終えてしまった俺は、愕然としていた。

 なんのことはない、最後の長文和訳も、その前の英作文も以前にやった構文の焼き直しだったし、問題文自体は違うものだったが語彙的にも難しいものはなく、多分……全問正解は確実だったからだ。

 えーと。これはなんのつもりだ? あのハルヒがこんな簡単な問題出すわけないと思うんだが。これはなんかの間違いか? あいつも、ぼーっとしてたみたいだし、出題ミスなんじゃないか?

 俺は念入りに見直しをしてみたが、やはりどこにもヒッカケらしき要素はない。

 回答も満足のいく出来だったので、無意味に和訳の日本語を丁寧にしてみたり、綴りが明確になるようにブロック体を強調して書き直してみたりしながら、この後の事を考えていた。

 このままこれを提出すると、多分確実に全問正解という結果になる。

 ということは、その後に待っているのはご褒美タイムであって。その、なんだ、そうなるとハルヒは休憩時間中にできることであるなら、俺の言う事をなんでもきいてくれるというわけで。

 えーと、その……。

 俺は頭のどこかで、せっかく締め直した理性のネジが勢いよく左回転しながら緩んでいく「きゅるきゅる」という音を聞いていた。

 マズいんじゃなかろうか。この雰囲気、この距離感、さっきまでの出来事。

 総合して考えながら頭に浮かんでくるのは『若さ故の雪崩』とか『機関車大暴走』とか『青春の土砂崩れ』とか、そんな意味不明の見出しばかりだ。ええい、特太ゴシックめ、俺の理性を削るんじゃないっ!

 机に置かれたケータイの時計を見る。まだ制限時間までは少し余裕があった。

 考えろ、考えるんだ。確かにムード的には悪くないかもしれないが、こんなご褒美的な流れでそんなことになるのは避けたい。というか出来ない。

 しかし、換気をしてもこの部屋に充満した空気は入れ替わってくれなさそうだ。

 さてどうすればいい。この桃色空間を一掃して、できれば、その準備がしっかりできた別の機会に持ち越すというか、次回にチャレンジというか。

 でも気まずくならず、せめてお互い顔を見て笑えるっていうか、ハルヒがいつもの様子に戻ってくれる為には……。

 その時、俺の視界の隅にグレーのゴミ箱が引っかかった。そして、今朝そこに放り込まれたばかりの秘蔵品が頭に浮かぶ。

 次々にその雑誌の名場面が脳内スクリーンに投影されては消え……その最後に、元気いっぱいに俺を叱りとばしていた、今朝のハルヒの表情が映された。

――これだ。

 俺は天啓を得た気分だった。

 下手を打てば嫌われるかもしれないが、この些かプラス方向に傾きすぎた空気を中和するには、少々あざとい手段を取るのも致し方ないというもんだ。

 こんな事を頼めば、さすがのハルヒも顔を真っ赤にして怒るだろう。ポイントは、あくまでも冗談っぽく言うこと。真剣に言ったら恋人同士とはいえ、明らかにただの変質者っていうか、脳内下半身男になってしまう。それは困る。

『エロキョン! バカキョン!』といつもの調子で怒ってくれればいい。

 その後で、冗談だよ冗談、とフォローすれば、最悪ビンタ、うまくいけばポカポカパンチくらいで許してくれるだろう。で、後はいつも通りの空気に戻る……と思う。


――よし。


 覚悟を決めた俺は、無意味に握りしめていたシャープペンをおくと、ハルヒに声をかけた。

「できたぜ。なーんか、随分簡単だった気がするけどな」

「ぇ、え? そ、そんなことないわよ。ちゃんと選んだんだから」

 うーん。そーかあ?

 ともあれノートを受け取ったハルヒは、なぜか穴が開くほどノートを見つめて採点していく。親の敵の名前でも回答に含まれているんだろうか。まぁハルヒの両親は健在だけどな。

 それにしても緊張するな。軽口でいいんだ。いつも通り、いつも通りにな。

 緊張で妙に手汗が滲んでくる。ええい、しっかりしやがれ。

「ふぅ……」

 どうやら採点が終わったらしい。赤ペンをおいて、溜め息……というか深呼吸しているハルヒ。どうだった? 一応、そこそこ自信あったんだが。

「そ、そーね。やるじゃない。全問正解よ」

 そういって○だらけになったノートを突っ返すハルヒ。なんだいこりゃ、どの○もミミズが痙攣したようなガクガクのヘニャヘニャじゃないか。

「び、びっくりしただけよ! あんたがこんな難問に全問正解するなんてってね。カ、カンニングでもしたんじゃないの?」

 こんな至近距離で見張られていてもバレないカンニングができるようなテクニックがあるんだったら、俺の成績はもうちっとなんとかなってるっての。

「ま、まま、まぁいいわ! で、ど……どうするのよっ! はやく言いなさいよっ!」

 よくわからんがパニック気味に興奮状態になっているハルヒに、俺は用意していたポーズと台詞を今一度確認してから、わざとらしく天井を見上げ、思案顔を作ってから――作戦を決行した。


「そーだな……ハルヒの胸でも触らせてもらおうかな!」



――太陽系、いや銀河が静止した。



 ちなみに可能な限り軽く聞こえるように、参考資料としたのは谷口の『ナンパしようぜ、ナンパ!』という決まり文句だったんだが、言うと同時に親指を立てた拳まで突きだしたのは、やりすぎだったかもしれない。

 まぁそんなこと言っても後の祭り、いわゆる一つのアフターカーニバルなんだがな。

 やるべき事はやった。さー次はハルヒのターンだ。顔を真っ赤にして『なに言ってんのよ! このスケベ! バカキョン! エロキョン!』とな。

 で、俺はすかさず『じょーだんだよ! じょーだん! あはははは』『うふふふ』ってな具合にいつも通りの空気に――。


「……わ、わかったわ」


――は?


「で、でも触るだけだからね! ま、ままま、まだ見せないわよ!?」


――なにを仰ってらっしゃるんですかハルヒさん?


 静止していた銀河とともに動き出したハルヒは、立ち上がって座卓を避けて俺の前まで来ると背中を向けて、すとん、と腰をおろした。俺の目の前30cmくらいの位置にウマノシッポが揺れている。

 その先にある、うなじも、耳も、発熱を疑うほどに真っ赤だ。


「……」

「……」


 沈黙、たっぷり二十五秒。国際柔道なら押さえ込み一本。そんな沈黙を破ったのはハルヒのか細い声だった。


「……い、痛くしないで……よね……」


 さよなら俺の理性。こんにちは俺の中の餓えた狼。ハローニューワールド。

 俺は理性のネジがネジ穴ごと吹っ飛んだ光景を脳裏に描きながら、ハルヒを背中越しに抱きすくめた。



   ◆  ◇  ◆



 腕の中にハルヒがいる。俺の胸の中にハルヒがいる。

 これまでに無い密着感と、初夏に相応しく薄い衣服越しの体温。

 耳に肌に感じる、ハルヒの息遣いと鼓動。

 ヤバい。なんかもう、それだけで俺の脳内に分泌物が音を立てて流れ出ているのがわかる。途方もない幸福感に爪先から髪の先までもが占領される。

 トイレで矯正してきたはずのジョン・スミスには、必要以上に輸血済みだ。

 ハルヒの胸に触れたい、そう冗談めかして言ったのは、さっきまでの桃色空間的な空気を、いつもの空気に戻したかったからだった。

 ハルヒが元気に怒ってくれていればいい、笑ってくれていればいい。それで俺は安心できるはずだった。でも現実はどうだ? 怒り出すと思っていたハルヒは、顔を真っ赤にしながら、俺の行為を待っている。俺の腕の中で。

 空気を戻す為の手段としての発言? そりゃそうだ。確かにそのつもりだった。

 でも、じゃあ俺自身がハルヒの胸に触れたいとは思ってなかったのか、なんていう自問自答に意味はない。俺だって、悲しき十七歳。青春真っ盛りの思春期絶好調なのだ。

 いや、別に生物的な立場からの言い訳で自分を韜晦する必要だってない。俺はハルヒが好きで、大好きで、そりゃあらゆる処に触れたいし、触れて欲しいと思っていたし、今も思っている。

 でも、まさかこんな形でこんなことになるとは。

 なんて言うんだ?『青天の霹靂』? いや『瓢箪から駒』か? 『嘘から出た誠』か?

 どうにも、どれも合ってるようで合っていないような気がしないでもない。なんつーか、しっくり来ない。

 いやでも、なんというか、なんかこう、もう、これだけで満足してもいいんじゃないだろうか。このままハルヒを抱きしめているだけで、俺は十分満足だし。


(本当か?)


 そもそもあんな風に冗談めかして、しかもよりによって谷口風に言った言葉なんかで、こんな形になるのは、やっぱり本意じゃない。


(でもチャンスなんだぜ? ハルヒも待ってる)


 臆病? 誰だそんな事言ってんのは。


(じゃあ言い換えてやる。この意気地なしが)


 据え膳食わぬは男の恥? 余計なお世話だ。


(お前が据えさせたんだぜ?)


 女に恥かかせるつもりかって? いやいや、そんなつもりじゃないんだが。


(じゃあ、お前はこの状況をどうするつもりなんだよ?)


 でも、そのなんだ。ええと……。


(ぐだぐだと……じゃあ、お前の腕に『のってる』シアワセの感触はどうなんだよ?)


――むにゅ。


 脳内に大量の快楽物質と興奮物質が溢れて開催された、閉店間際のドーナッツショップのショーケースの中身ぐらいに残り少なくなった理性と、満員電車なみにすし詰めになった野性との超高速俺討論会。

 その不毛な自問自答に終止符を打ったのは、ハルヒのスリムな身体に回された俺の前腕に触れる、シアワセそのものな柔らかさの感触だった。

 朝、まだ不機嫌そのものの表情で本棚に寄りかかったまま、ずりずりとその身体を沈ませていったハルヒ。キャミソールが食い込んでいた、その仰向けの双丘のふもとに――今は俺の腕があった。

 つまり、棚から落ちてきた柔らかいシアワセぼた餅サマが、俺の前腕に『のって』いるわけである。

 不可抗力だ。意図してそうしたわけじゃない。鳩尾あたりに腕を回して抱きすくめたんだが、ハルヒがその身体を俺の胸に委ねてきたから、こう、ずれこむ形で、その……。


――今、俺、すごく、シアワセです。


 俺は自分に自分を取り繕うのをやめた。

 悪いか! 俺だって男だ! 色々持てあましまくりの日々を過ごしているんだ!

 そっ……それに一応俺とハルヒは恋人同士なんだ! お互い好意を持っているわけで、その証拠にキキキキスだってしてる! さ、さっきだって特濃なやつをしたっ! したんだっ!

 その先に進みたいと思ってなにが悪い! 悪くないっ! そうだ、俺は悪くないっ!!

 なにがどう悪くないのかさっぱり理解できないだろうが、俺は理解する必要性なしと野性的に断じた。触りたいから触るんだ。もうそれだけでいい。

 このシアワセが過積載された前腕を、ちょっと上げるだけでいい。肘を曲げるだけでいいんだ。そこにはシアワセ山が待っていて、俺の登頂を待ち望んでいるのだ。そこに山があるから登る。それだけなのだ。


 俺、GO! 俺、超GO!!



――動けません。



 笑え。笑ってくれ。俺はどうやら自分が思うよりも、遙かにヘタレだったらしい。

 肘を少し曲げるだけでいいのに、俺にはそれができない。色々理由は考えられるが、そこまでストイックなわけじゃない。別に色欲の禁忌を立てた修道僧を気取ってるわけじゃないんだ。

 ただただ、ヘタレなのだ――。

 俺は肘を曲げる事すら出来ない自分の不甲斐なさの裏返しに、ハルヒを背中越しに抱きしめる腕に力を入れた。密着がより高まって、ハルヒの口から「ん……」と吐息が漏れる。

 抱きしめたままハルヒの肩口に埋めた俺の顔。そのあらゆる感覚器にハルヒを感じる。

 匂いも、体温も、鼓動も。どうしようもなく興奮するが、やっぱり肘を曲げられない。なんてこった。

 だが、そんな俺の硬直しきった腕に、ハルヒはそっと自分の手を重ねると、優しく俺の手を掴んで、自分の身体を縛めているそれをいとも簡単に解き――。


 ふにょ。


 俺は優秀すぎるシェルパの、大胆極まる支援によって、左の山頂に初登頂を果たした。

……って、えぇえぇえええぇえぇぇえぇええええええっ?! なんだこの柔らかいのは! 俺の右手は今どこにあるんだ?

 答え、ハルヒのおっぱいの上です。

 だあぁあぁぁぁ?! なんでだっ?! 金縛りにあったように動かなかったはずなのに! どうしてだ?! why?


 答え、ハルヒが誘導しました。


 ヘタレもここまで極まれば、最早ノーベル残念賞受賞候補くらいにはなれるかもしれんね。

 しかし、ここからどうすればいいんだ。っつーか、なんでハルヒは自分の胸の上に添えさせた俺の手を、こう、抱え込むように抱きしめてんだ。

 これじゃもう逃げられないじゃないですか。そうですか逃げられませんか。

 ええと、じゃあその――。


 ふにょ。ふにょ。


――お父さん。お母さん。男の子に産んでくれてありがとう。

 覚悟を決めた俺は、ゆっくりと壊れ物に触れるように掌に力をいれると、そこから伝わる幸せ過ぎる柔らかさを感じた瞬間に、そんなワケの分からない事を考えていた。

 おさらいだ。えーと。痛くしないで欲しい。そうハルヒは言っていた気がする。

 そうだよな。痛くしたらいけないよな。肩を揉まれれば気持ちいいが、強くし過ぎると痛いって言われるもんな。

 えーと、じゃあ、こんな感じならどうなんだろうか。


 ふにょふにょふにょ。


「んっ……」


 いいいいいまのリアクションはどう解釈すればいいんだ? 気持ちいいとかそういうことなのか? 痛いのか? くすぐったいのか?

 あー俺にも乳があれば体験予習もできたのに!! いやなに考えてんだ俺は?!


 ふにょにゅふにょ。


 っていうか、胸を触るって一体どうすりゃいいんだ?

  くそっ参考資料をそれなりに観てきたはずなのに、肝心の現状に対応するシーンなんか早送りかチャプター飛ばしで観てたから、まるでわからん!


 ふにょにょっ。


 脳内CPUを高速動作させて情報処理をしながらも、俺の手はなんとも頼りない動きで、ハルヒの胸をまさぐっていた。

 しかし過剰処理で豪快にファンを回しながら脳内を検索して、若干荒めの呼吸という形で排熱をしても、一向に有効な情報にはヒットしない。

 頭の中は「なんかもう柔らかくて気持ちよくて恥ずかしくてダメです」というエラーコードで埋め尽くされてしまっている。うむ、実際その通りだ。

 だが、その無意味な高速処理動作は、突然ハルヒが身体をびくっと震わせ、抱え込んでいた俺の腕を、ぎゅっと押さえつけ――「やっ……」という、俺の全脳組織が崩壊しそうな程に甘い声を上げた瞬間に急停止した。


 今、俺、なにした?


 恥ずかしさに耐えているだけなのか、他の理由なのか「はっ……はっ……」と少し息を荒くしているハルヒの様子に全神経を集中しつつ、数秒前に行った手の動きをトレスする。

 といっても夢中になってまさぐっていただけなんだが、えーと確かこう……。

 ハルヒの胸を覆っている掌を少し浮かせるようにして、四つの指先を緩く押しつけながら、握り込むように曲線をなぞる。

「んっ!」 びくっ。

 反応あり。こ、これなのか? これなんだろうか? えーと……もーいっかい……。

 さっきより若干強めに同じ事をしてみる。指先を柔らかいふくらみに食い込ませながら、なぞる――。

 すると、俺の腕の中でハルヒの身体が小さく跳ねた。肩越しに見えるニーソックスの両膝が、かくかくと儚く震える。

 声こそ漏らさなかったが、荒くなった呼吸の最中に、熱い吐息が一つ混ざった。

 き、気持ちいいんだろうか。いわゆる『感じる』とか、そういう反応なんだろうか。だとしたら、なんだ、もう、色々ダメだ。嬉しい。可愛い。死ぬほど可愛い。ヤバイ。本気でヤバイ。


――それに……もっと反応を見たい。


 俺は左腕に力を込めてハルヒの身体を自分に引き寄せながら、自分も本棚に背中を預けた。

 力なくそのまま俺にもたれかかるハルヒ。勢い、いわゆる女の子座りから崩れた脚が、俺の両膝の間に緩く曲げられたまま投げ出される。

 その付け根を覆っているミニスカートと、ニーソックスの間の肌色が酷く扇情的で、俺は思わず目を逸らすように顔を伏せ、結果ハルヒの鎖骨のあたりに鼻先を埋めるような形になってしまった。

「キョン……鼻息荒いよー……」

 ちょっとくすぐったがるような声で愛らしく抗議するハルヒ。

 なんだこの可愛いイキモノは。このまま首筋噛んでやろうか。歯形残して困らせてやろうか――。

 そんなヘンタイ的な事を考えつつ、俺はハルヒの小さな抗議に無言のまま、右手の指をさっきと同じように動かして返答した。

 さっきより速く、強く。『そこ』を擦るように。

「んんっ……! だっ……ダメっ……!」

 ダメでも聞きません。お前だって息荒いくせに。

「だって、それはアンタが……や……ぁっ」

 最後まで言い訳もさせないように、わざと指を蠢かせる。いかん、楽しい。

 実のところ、繰り返し同じ事をしている内に、俺は自分の指の動きとハルヒの反応との関係を結びつける一つの結論に達していた。

 数々の参考資料データとの照合にようやく合致するものが見つかったといってもいい。

 さすがにキャミとブラの上からでは、そのもの自体はわからないが……多分、こうやって触れることで俺の指先がハルヒの胸の、その、なんだ、び、敏感な部分を刺激しているのだろう。

 で、その反応がコレってことなのだ。おそらく。

 俺はその行為を繰り返しながら、視線の先で膝というか腿を擦り合わせるように蠢いているハルヒの脚の反応を、ちょっと楽しんでいた。いや、かなりかもしれない。

 なんていったって、いつも強気で何か俺がしでかせば、今朝みたいに怒るわ、別れるなんて言い出すわ、蹴るわ殴るわのハルヒが……いや、もちろんそういうのも含めて可愛いんだが。

 えーと、とにかく、そんなハルヒが、俺の腕の中で、俺の手で、俺の指で、こんなに可愛く、その、み、みみ、身悶えているなんて――。

 俺は、ハルヒの身体を抱きしめる左腕から伝わる鼓動や動きに、首に押しつけるように埋めた鼻に伝わる匂いに、耳に感じる息遣いや時折漏れる甘い声に、右手から伝わる胸の柔らかさや指先を押し返す張りに――。

 そして身体中に感じるハルヒの体温と、その存在全てに、完全に魂を持って行かれていた。

 だからこそ、それまでの動揺から開き直って、欲望に任せたこんな事を言っちまったんだろう。

「ハルヒ……その……」

「……ん……なに?」

 胸をいじり回していた手指の動きを止めた俺は、顔のすぐ側にあるハルヒの耳に、ぼそり、と欲望をぶつけてみる。ダメで元々、俺はもっとハルヒを可愛がりたいんだ。

「その、なんだ……直に触っちゃ……だめか?」

「……えぇっ?」

「えーと、これ」

 いいながら、そのあたりを指先で刺激する。

「あっ……ちょっ……もう! ダメ! すけべっ!」

 否定はしないぞ。あーその通りだ。確かに俺はすけべだよ。すけべで悪いか。

「開き直るんじゃないのっ」

 ぺちり、と俺の手を叩くハルヒ。痛くもなんともない、じゃれた叩き方だ。怒ってるわけじゃなさそうだな。

 だって、ここ触ると、お前が可愛いく反応するから。もっと見たいって思ったんだよ。

「……ばか」

 今度は手の甲をつねられる。これはちょっとだけ痛い。反撃とばかりに、くすぐるように胸の上で指を動かす。

「ちょ、ちょっとキョン! もーダメ! おしまいおしまいっ!」

 言いながら、身体をもぞもぞと動かして、俺の腕から抜け出そうとするハルヒ。

 ぺちぺちぺち、と自分を抱えて弄んでいる俺の両手を叩く。

 うくっ……なんだこの可愛さは。そんな風にされたら余計に離したくなくなるぞ。

 目の前にある真っ赤な耳に唇で噛みついてみる。ホント可愛いなーお前は。

「きゃっ! こらっ! ヘンな事するな! そ、それに……か、かわいいとか! 何度も言わない!」

 それも本当のことだから仕方ない。きーきー言いながら弱々しく暴れているハルヒに、さらに悪戯したくなってきたが、嫌われたくないしな。非常に残念だがリリースするしかないか。

 俺は、溜め息を一つ吐くとハルヒを拘束していた腕から力を抜いて、ゆっくりと腕を拡げていった。といっても、それまでだって別に逃げられないほど強く抱きしめてたわけじゃないんだけどな。

 どーぞ。お逃げなさい、お嬢さん。

「もー!……ばか! えっち! すけべ! へんたい!」

 身体を起こしながら、手近なところにあったからか、俺の脚をぺしぺしと叩くハルヒ。ひらがなで罵られても、効果も迫力もゼロだ。可愛いだけだぞ。

「……うっさい!」

 膝立ちになって振り返ると、今度は頭にげんこつ攻撃だ。だがしかし、なんというポカポカパンチ。白羽取りにして、そのまんま抱きしめちまうぞ?

「うぐ……このっ……エロキョン!」

 だからエロなのは否定はしないけどな、そんな風に照れ隠しに怒っても可愛いだけだってば。

「……」

 視線を合わせて真っ正面から言われたもんだから、威力が数割増したらしい。口をぱくぱくさせて絶句している。どうしたハルヒ。金魚の真似か?

「この、バカキョン!」

 手を振りかぶったハルヒの姿を見て「ああ、やりすぎたかな」と思いつつ、反射的に身構える。だが、てっきり平手が飛んでくるとばかり思っていた俺は、次の瞬間呆然としたまま硬直した。

「ホントばかなんだから……」

 悪いかよ、と言おうとするのだが、柔らかく温かいもので口というか顔全体を塞がれているので応えられない。

 頭をがっちりとホールドされているので、逃れようもない。といっても、逃れたくもないのだが。

 まぁ、とどのつまりが、今俺は膝立ちしたハルヒに正面から頭を抱きかかえられているわけだ。当然、顔の前には……というか、顔全体にハルヒの柔らかい胸が押しつけられている。

 嬉しくも苦しい状態だ。なんだ、その、気持ちいいんだが、途端に恥ずかしさが込み上げてくる。は、離しなさいハルヒ。

「だーめ。……ね、キョン。そんなに……触りたいの?」

 もがもが。だめだ。シアワセの谷間からでは音声による情報伝達に齟齬が発生する可能性がある。だが、他にどうしようもないので、俺はハルヒの腰に手を回して抱き返しながら、首肯することで返答した。

「えっち……でも、だーめ」

 ガッカリだ。現在進行形の状況はかなりシアワセ度が高いが、それでもガッカリだ。まぁ仕方ない。無理に迫るのもイヤだしな。

「……今日は、ね」

 ふが? もとい、なんですと?

「また、あんたが頑張ったら……そうね。考えないでもないわよ?」

 そういや俺達はテスト勉強をしていたんだった。えーとじゃあ、なんだ。その、テストで頑張ったりしたら、またチャンスが来るとかそういうことなんだろうか。

 ええい、それ以外のチャンスも自分で積極的に作れとか、そういうのは今はいい。

 顔を見られていたら、確実に「まぬけづら」と小突かれるであろう表情で硬直していると、ハルヒは俺の後頭部を撫でながら続けた。

「だから頑張りなさいね、キョン。今度のテストも……これからもよ? 絶対、一緒の大学に行くんだから……ね?」

 う……。迂闊にもちょっとばかり感動してしまった。腰に回した腕に力を込めて、大きく肯く。胸の柔らかさが気持ちいいが、今はそれよりもハルヒの温かさが嬉しかった。

「あ、あんたにご褒美が効くってのは、今日でよくわかっちゃったんだからね。これからは容赦しないんだから。いーい?」

 三度肯く。別にご褒美がなくても、俺だってハルヒと同じ大学に行くために努力は惜しまないつもりだ。だがご褒美はないよりあった方が励みになるし、えーと。

 ご褒美欲しいです。はい。

「じゃ、それまで我慢しなさいね? わかった?」

 若干渋々とであったが肯く。名残惜しいので、ハルヒの腰あたりを抱いていた手を、背中あたりまで上げて、より強く顔に胸を押しつけてみたりする。

 それこそブラの固いパーツが顔に当たるほどに。

「きゃっ! もー……調子に乗るな! こーら!」

 イヤです。まだ離れたくありません。

 俺は頭をぽかぽかと叩かれながらも、十二分にシアワセを噛みしめていたが、ふとハルヒの 攻撃が止まった。

 そして耳のすぐ側に顔を伏せたハルヒに、消えそうなほど小さな声で尋ねられる。

「ね、キョン。……そんなに、その……可愛かった?」

 ああ。世界一どころか宇宙一の可愛さだったぞ。多分、今の真っ赤な顔も、な。



   ◆  ◇  ◆



 そんな事があってから2週間ほど後のことだ。

 俺たちは三年に上がって第一回目の中間テストを迎えた。

 勿論、あの後もハルヒ先生による専属家庭教師は続き、俺は今までにない程の勉強をしたと思う。高校受験前だってここまではやらなかったんじゃないだろうか。

……ご褒美に関してはノーコメントだ。ただ、やっぱりお互い気恥ずかしくて、あれ以上の事にはならなかったし、俺もそれを望まなかった。……勉強どころじゃなくなるからな。

 ただ、今回のテスト結果次第では、という約束を一つだけした。内容? 言えるかよ。

 まぁとにもかくにも、ガッチリ対策して臨んだテストだったわけであり、各教科の結果を受け取っても、正直あまり驚かなかった。

 しかし全教科満点! なーんてことにはならないあたり、まだまだ俺には伸びしろがあるってことなんだろう。

 それでもハルヒは大喜びで、帰宅後の俺の部屋で、次々と答案用紙に『よくできました』のスタンプを捺しまくってくれた。っつーか本当に買ったんだな、それ。

 ちなみに戻ってきた答案用紙の一枚には、向日葵マークも堂々と『たいへんよくできました』のスタンプが捺されている。その隣にはゼロが二つならんだ三桁の数字。

 今までの俺からしたら奇跡にしか思えない点数だが、もう一つ奇跡にしか思えないことがあった。

 なんと、あの日英語の課題タイムにハルヒが出題した問題が、ほぼそのままの形でテストに出題されたのだ。……そりゃ当然全問正解するわけだよな。

 座卓の上に答案用紙を並べて、英語の答案と同じ数字のワット数で微笑むハルヒを見る。こいつの世界を都合よく変えちまうっていうインチキパワーの事を思い出しながら――。


「こほん……えっと……さーキョン! 頑張ったご褒美はなにがいい? 一科目でも満点とったんだから、や、約束だもんね!」

 顔を真っ赤にした笑顔で言うハルヒ。恥ずかしがるか強がるかどっちかにしなさい。

「だ、だって!」

 さらに顔を赤くして俯くハルヒにつられて、俺も顔に熱を感じて俯いてしまう。

 その視線の先にあるのは、何度見直しても一〇〇にしか見えない点数の書かれた英語の答案用紙。


――まさか、な。





<了>

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ご褒美ごっこ 月館望男 @mochio

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