第5話 清らかな愛への期待によってのみ生きる

「遅くなって、ごめんなさい、シューイチ。もう大丈夫よ」

 彼は大人びた表情をして答えた。

「ええ。構いませんよ、ラウラ先生。でも、ちゃんと納得できる説明がほしい」

 彼女は困惑をこめ、同情を求める瞳で彼を見下ろした。

 結架と彼女の家族について、いま、この場で話してしまうわけにはいかない。誰より結架の承諾なく。

「私からは話せないわ、シューイチ。本当に申し訳ないのだけど、ユイカから説明できないことは、教えられないの。わかるでしょう。信頼関係の問題よ。それに話せるとしても、もう時間がないの。すぐに教授とユイカに追いつかなければ」

 集一は肩をすくめた。その整った顔立ちに浮かぶ表情が険しければ険しいほど、彼の美貌に凄みが増す。

 彼の様子を素早く見てとって、ラウラは小さくため息をもらした。

「わかったわ、シューイチ。ユイカと彼女の肉親は、死者たちに支配されているのよ。彼らの残した、厳しい規則に縛られているの。朝、目覚めてから、夜、眠るまで、ずっと。いえ、ことによると眠りの中でも」

 教授の友人。

 結架の家族。

 二人で一人の、かの者に。

 集一の眉が撥ねあがった。

「僕を子どもだと思っていますね」

 ラウラの嘆息が深くなる。

「ちがうわ。ユイカは本気で、死者からの罰を恐れている。目に見えないからこそ、あんなに怯えているの。私も最初は信じなかった。でも、彼女にとっては現実なの。実際に幽霊がいるなんて、私は思っていない。彼らはユイカたちの心の中にいるのよ」

 結架にとって集一の干渉は、望ましいことだろう。このままでいいはずがないからだ。しかし、かの者は、それを望まない。かの者は、結架の心のすみずみまで、根を張るように、その存在をしみわたらせている。

 集一の瞳に現れた決心に、ラウラの警報が鳴った。

 結架との合同レツィオーネを始めようとしたとき、ラウラは集一の師であるヨハン・シュヴァンベルガーから彼の人となりを聞いた。そのときの一言が甦る。

 ──誰が阻んでも、警告しても、彼は彼が決めたことを、自力でやり遂げようとするだろう。

「ああ、あなたのことは、シュヴァンベルガー先生に聞いたわ。調べるのを止めはしないけど、もう関わろうとしないで。でないと、あの子を精神病院におしこめることになる」

「あなたこそ、精神科医が必要に見えますよ、ラウラ先生。混乱しきっていらっしゃる」

 集一の苛立ちは頂点に達したようだった。しかし、彼は知らないのだ。結架の過去も、現在の状況も、未来の展望と希望も。

「そうね。あの子たちと一緒に暮していれば、みんな多かれ少なかれ、混乱するわ。ひとりずつなら、なんとかなる。でも、ふたりともとなると、大変だわ。

 ユイカは、私と教授が無事でいられるよう、毎朝毎晩、祈っているのよ。日課と呼ぶには、あまりに真剣で、熱がこもってる。あなたとの、あのレッスンを始めてからは、これまでの倍以上も時間をかけているわ。きっと、あなたの無事も祈っているのね」

 集一の表情に困惑があらわれる。

「あの子は中世に生きているのよ。迷信と信仰が、科学と敵対して戦っていたころの、複雑な精神でいるの」

 彼の反応を、もうラウラは待たなかった。

「レッスンは終わりよ。本当は、もっと続けたかったけれど、これ以上は危険だから。ユイカのことは心配しないで。あなたは、あなたの心配をするべきなのよ。それから、ユイカに逢おうとしてはだめよ。彼女の祈りを無駄にしないでちょうだい」

 そうしてラウラは、集一に彼の楽器のケースを渡すと、部屋から追い出した。一緒に出て、出入り口の扉に鍵をかける。

 集一が小さく呟く。

「あいつのせいで、この声は堕ちてしまった」

「なんですって?」

 ラウラは ぎょっとした。しかし、集一は深刻な表情で、無言でいる。急いでいたラウラは、取り合わないことにした。きっと、もう二重唱が出来ないことを嘆いたのだろう。

「とにかく、いいわね。ユイカのことは、そっとしておいて」

 不承不承に無言で頷く集一に、ラウラは頬の強ばりを緩めた。これで、すくなくとも当面の危機は去った。

 歩きだす集一の背中を見送ってから、ラウラも急ぎ足で廊下を進んだ。その脳裏に、歌が浮かぶ。ヴィヴァルディのモテット。


   この世には苦悩なくして

   まことの安らぎはなし

   けがれなく本当の平和は

   優しきイエスよ、御身のうちにあり

   苦悩や苦痛のなかで、魂は幸福に生き

   清らかな愛への期待によってのみ生きる


「清らかな愛への期待によってのみ生きる」

 思わず呟いた。

 いまの結架と集一にこそ、この天上の愛は相応しい。そして、祈った。

 地上の、世俗の愛が ふたりに訪れることを。

 アナスターヅィオのアリアのように。


   喜びとともに逢おう

   かぎりなく愛しい人に

   この胸の奥は満ち足りて

   愛しき人から遠く離れてあらねば

   もれる ため息の止むことなし


 結架と集一が、いつか、歓びとともに逢えるよう。

 それこそが、愛の源泉。

 その運命こそが、愛の源泉なのだ。

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愛の源泉 La Catena 汐凪 霖 (しおなぎ ながめ) @Akiko-Albinoni

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