第2話(3)

 

 ポップコーンのひとかけらになった夢を見ていた。

 テアトル三津由園のカウンターのガラスケースの奥底で、館内の淀んだ空気を取り込み、すっかりふにゃふにゃのへにょへにょになった俺。そのまま二日、三日と経過し、誰にも買われないまま、廃棄の日が迫る。そんな窮地の俺を救い……もとい掬い出したのは、あの少女だった。「コーラのMと、ポップコーンください」。劇場に入り、席に座ると、眼鏡を取り出して、かけて、映画を観ながら、次々とポップコーンを口に放り込む彼女。しかし最後の一片というところで、彼女はカップの底に転がっていた俺に指を伸ばさず、映画館の前のゴミ箱に捨ててしまう。そのゴミ箱を野良猫がひっくり返す。アスファルトに散乱したゴミを鴉や鳩がつつく。しかし路傍に転がった俺には猫も鳥も見向きもしない。道行く自動車や歩行者に次々と踏み潰されて平たくなり、雨に打たれてふやけて流され、排水溝に落ち、枯葉やゴミと一緒に下水道が細く狭まった箇所に引っかかったところで、ようやく身体が咀嚼される感触があった。体内を蠢き、脳や内臓を啜る無数の蛆虫たち。そこで目が醒めた。

 動悸と冷汗。渇いた喉に痰がへばりついて気持ちが悪い。

 しばらく忘れかけていた感覚。最悪の目覚めだ。

 身を起こすと、そこはいつも俺が寝起きしている劇場内ではなく、その隣にある事務所だった。ケツの下には小豆色のカーペットではなく、ロビーのやつに比べると幾分かは柔らかいベージュ色のソファー。汗で背中が冷たい。

 壁越しにロビーで客のものらしき話し声が聞こえてきて、ああそうか、と合点する。なるほどね。そりゃ悪夢も見るはずだ。

 今日の俺はバイトのシフトなし。なので閉館時間まで事務所で時間を潰していたのだが、寝落ちしてしまったようだ。

 立ち上がり、デスクの上に置いておいたペットボトルの緑茶を口に含みながら、携帯電話を開いて時刻を確認する。午後九時。閉館まであと二時間といったところだ。とりあえずソファーの横に置かれているポップコーンマシーンを蹴飛ばしておく。

 客が捌けるまでソロンズさんと戯れているか、などと思いながらドアを開けると、意外な光景が広がっていた。意外すぎて変な声が出た。

「んえぇ?」

 人、人、人……ロビーは人間で溢れかえっていた。えっなにこれ、これ全部客? えっマジで?

 一桁動員が通常運転の映画館なのに、二十人以上いる。一体何が起こってんだこりゃ。

 混雑のあまり狭いロビーに客が収まりきらず、入り口の前に何人かがたむろっている。そしてその群れを掻き分けて巨体の熊が。

 ジジイはロビーの喧騒を気にする風もなく、事務所のドアの前で立ちすくむ俺に見向きもせず、一直線に映写室に入って行った。客の誰かが「でか……」と小声で漏らしたのが聞こえた。

 俺はカウンターで客の対応に追われていた久郎に声をかける。

「なんなのこれ? どうなってんの?」

「話はあとだ。手伝え。ビールのMと、コーラのL」

 シフト外労働に駆り出される。ちゃんと時給出るんだろうな。ドリンクサーバーからコーラを注ぎながら、改めて謎の混雑を極めているロビーを窺う。常連の顔馴染みは見当たらず、初見の連中ばかり。年齢層は上から下まで幅広く、男も女もいるが、なんかこう、いつもと雰囲気が……。

 上映が始まり客が引けたところで改めて混雑の理由を久郎に問いただすと、今日はオールナイト営業だからなといった。

「ハア? 訊いてねえぞそんなの」

「言っただろうが先週。今週オールナイトやるぞと。未成年を夜通し働かせられんからシフトにはジジイと俺が入るが、目立つとこで寝てんじゃねえぞと」

「うーん記憶にない」

「入り口の横んとこにも告知が貼ってあるだろうが。超クールなやつが」

「ああ久郎先輩の新作ですか……でも俺は裏にチャリ止めて事務所から入るから……つうかさ、オールナイトやるにしてもだよ、それはこの時間帯に人が多く残ってる理由にはなっても、クソ多い理由にはならんだろうがよ。あいつらどこから湧いてきたんだよ」

 俺は上映中を示す赤いランプが点っている劇場の扉を顎で指した。

「これだ」

 久郎がスマホを差し出す。画面には見慣れたテアトル三津由園の外観内観の画像数枚と、その歴史を綴った文字の羅列。某大手ニュースサイトの記事だ。

「葡萄畑の真ん中に建つレトロな映画館。セピア色の非日常をあなたに……なーにがレトロでセピアだ。ボロいだけだっつーの。茶色いのは煙草のヤニだ」

 その記事にはオープンが八十年代とか(意外と新しい)、ジジイはあくまで支配人兼映写師であってオーナーは他にいるとか(親戚らしい)、一時期ポルノ映画を流していたとか(その頃にバイトしたかった)、数年前に劇場を建て直そうしようとしたところ古くからの常連に反対に遭ったとか(懐古厨うぜえ)、バイト君も初耳の情報がいろいろと書かれていたが、まあ内容はどうでもいい。要はこれを読んだ県内外の映画オタどもが押し寄せており、オールナイト営業もその特需を見越したものというわけだ。迷惑極まりない話である。

「しかしここまでの反響は予想外だ。三人で回すのはきついから新バイトを短期で雇うことにはなってるが、これは一人二人では済まんかもな」

 久郎はコーヒー片手にスマホをいじりながらそう言った。げんなりさせられる。

 上映中にもまた一人、二人、三人と客がやってくる。そして何が楽しいのかどいつもこいつもパシャパシャ写真を撮りまくる。「写真撮っていいですか?」。勝手に撮れよ。「SNSに上げてもいいですか?」。好きにしろよもう。

 無愛想で目つきが悪い久郎を避け、みんな俺に許可を貰いにくる。その気持ちはわかるが当の久郎はテアトル三津由園がインスタ映えしてるのが満更でもないようで、俺が「センパイいぃんすかァ?」と声をかけると、首肯する口元が心なしか緩んでいた。

「高校生を働かせてるのも体裁が悪い時間になってきたな。バカッターで炎上させられてもかなわん。消えろ消えろ」

 十時半を回っても客足が途絶える気配はなかったが、久郎は俺をカウンターから押し出した。事務所にいろ。家に帰れ。どちらを意味しているのかはわからなかったが、どちらにしてもテアトル三津由園は安眠の地ではなくなってしまった。俺は久郎に蹴られたケツの汚れを手で払いながら、とりあえずは事務所に鞄とコートを回収しに行く。

 再びロビーに戻ると、コーラとポップコーンを手に劇場に入ってゆく男とすれ違った。(ざまあみやがれ)。心の中で呟きながら外に出る。風が冷たい。入り口横の掲示板には久郎の言っていた通り、オールナイトに関する告知が貼られていた。陰影の利いたデザインに、硬質のフォントが映えるポスター。久郎制作のポスターやフライヤーは素人仕事にしては毎回完成度が高すぎて気持ちが悪い。

 劇場裏のエアコンの室外機の近くで所在なさげに寝そべっていたソロンズさんをひと撫でし、止めておいたマイチャリを転がして、さてどうするかなと思案しながら正面に戻ると、先ほどまではなかった人影があった。

 黒髪に紺色のダッフルコート。緑のタータンチェックのスカートは県内有数の進学校として名高い中高一貫の女子校の制服のチャームポイント。ポップコーンちゃんだ。入り口からやや離れた位置に立って、視線は館内へと向いている。

 ポップコーンちゃんはしばらく館内を見つめた後、近づく車輪の音に気付いたのか、俺を一瞥すると、逆方向に歩いていってしまった。

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