二〇三九年七月二十七日 一六時二二分

沖縄県島尻郡座間味村阿嘉



 ドアを開けた瞬間に襲われて殺戮されてしまう愚を犯すわけにはいかなかった。

 少なくともマレスを死なせるわけにはいかない。

「太田大佐?」

 わざと驚いたような声色を作る。

『和彦、お前が来ると思っていたよ。飯でも食いに行かないか。そこの子も一緒にな』

 大田大佐はドアの外で言った。

『ところでな、和彦、銃を納めてはくれんかね』

 大佐は少し口ごもりながら俺に言った。

『……私は君たちを排除する気はないんだ。殺すつもりだったら、君らはもうとっくの昔に死んでいる』

 だが、そんな言葉に油断するほど俺も初心ではない。

「…………」

 開けるべきか、篭城すべきか。

 この家のドアは鋼鉄製だ。いずれは破壊されるにせよ、マレスを逃がすくらいの時間なら十分に稼げる。

『……まあ、そうだわなあ。お前だったらそうするか。ならば、こうしよう』

 少し照れたような、困ったような表情を浮かべている大田大佐の様子が目に浮かぶ。

『私は、右脚を外して君に渡そうじゃないか。それで信じては貰えまいか』

 ドアの外で、ゴトン、という音がした。

『今、外して下に落とした。信じられないのであればそのデータグラスでスキャンしたまえ』

――確かに、右脚が外れています。玄関前に投げ出されています。

 掛け直したデータグラスからクレアの声がする。

――本当に戦意はなさそうです。ドアの前に座っています。少なくとも機動戦は不可能です


+ + +


 大佐の右脚を戻してから、俺たちは大佐の後ろからレストランに向かっていた。

「この先に、島の人が始めたカフェがあるんだ。評判がいい店の様だから、そこがいいんじゃないかね」

 大田大佐が笑みを浮かべる。

 右手で松葉杖ロフストランドクラッチを突く大田大佐の背中は広かった。

 だが、少し肩が落ちている。

 機械で構成されたサイボーグの体型が変化するなど有り得ない。しかし、以前よりも大佐は細くなったように思えた。

 海岸沿いのメインストリートから左に折れ、路地からカフェのエントランスに向かう。

 ビストロ阿嘉はひな壇の上に建てられた、洒落たログハウス風の作りのレストランだった。

 合掌造りのように高い屋根の中で、大きなシーリングファンがゆっくりと回っているのが大きなガラス窓越しに見える。

 ここでもエアコンは期待できなそうだ。

 大田大佐を先頭に、木で組まれたひな壇の階段を登る。

 目の前には大きなウッドデッキが広がっていた。デッキの上に濃緑色のパラソルを備えたテーブルが並べられている。どうやら建物の中よりも外の席がメインの店のようだ。

 この気候なら、確かに海風に吹かれながら食事をするほうが心地よい。

「こんばんは、三名様ですか?」

 奥から小走りに近寄ってきた、白い水着に青い花柄のパレオ姿の小柄なウェイトレスが俺たちを招き入れる。

「ああ。夕食を食べにね。海の見えるテラス席がいいな」

 大田大佐の声は少し掠れていた。

「少々お待ちください。今、片付けますね」

 若いウェイトレスはにこやかに答えると、てきぱきとテーブルセッティングを始めた。

 ウェイトレスの姿を背景に、まだスイッチの切れていないマレスが油断なく周囲を伺う。

 上空では、クレアの分身であるナイト・レイヴンが静かに旋回しているはずだ。

 何も言ってこないところをみると、今のところ脅威はないと考えて良い。

 だが、まだマレスは安心し切れないらしい。平静を装いつつ、キョロキョロと周囲を伺っている。

 そんなマレスの様子を見ながら、太田大佐が笑う。

「ははは、さすが和彦の彼女だな」

「か、彼女?」

 ふいにマレスのスイッチが切れた。

「彼女なんて、そんな」

 見る間に耳まで赤くなる。

 赤くなった頬を両手で隠す。

「おや、違うのかね? それは失礼をした」

「いや、そうじゃないんですけど、でもそのつもりなんですけど……あれ?」

 どう答えたらいいのかわからないのか、モジモジと身体を捻る。

「ははあ」

 そんなマレスの様子を見ながら、大田大佐は意地悪そうな笑みを浮かべた。

 顎の下に片手をやる。

 いつも見た、人をからかう時の大田大佐の癖だ。

「さてはお前、」

 大田大佐は俺の肩に右手を置いた。

「また煮え切らない事をしてるのか? キャサリンで懲りたと思っていたんだが」

「彼女は同僚ですよ、大佐」

「ふうん?」

 色の薄い、グレーの瞳を大佐が眇める。

 大田大佐はしばらくのあいだ諌めるかのように俺の瞳を覗き込んでいたが、やがて表情を緩めた。

「……まあ、いいか。それよりも和彦、紹介してはくれんのかね?」

「あ、ああ、そうですね」

 まだモジモジと身体を捩っているマレスの肩に手を置き、大田大佐に紹介する。

 先に太田大佐の方に手をやり、

「マレス、こちらは国連監察宇宙軍の大田心大佐、俺の元上官だ」

 次いでマレスを太田大佐に紹介する。

「こちらは霧崎マレス准尉。俺のバディです」

「よ、よろしくお願いします」

 マレスが両手を膝の前であわせながら、たどたどしく頭を下げる。

「和彦をよろしくな、霧崎准尉」

 大田大佐が右手を差し出す。

 その手を上品に浅く握りながら、

「マレス、で結構ですよ、大田大佐」

 と微笑んでみせた。

 どうやら、ようやく安心したようだ。

「ふうん」

 大佐はマレスを握った右手を見つめながら何か考え込んでいる。

「君は、本当に銃を撃ちなれているんだな。可愛いお嬢さんだと思っていたがとんでもない勘違いだったようだ。手のひらにタコができているじゃないか。さては相当に銃を撃ち込んでいるね。その手は兵士の手だ」

「あ、」

 少し赤面しながらマレスが両手を口元に寄せる。

 その時、

「ご用意できました。こちらです」

 と、さっきと同じウェイトレスが俺たちを席へと促した。

 通された席はテラスの端、海に面した絶好の席だった。

 テーブルの向こうに大きく開けた海が見える。

 背後に沈む太陽に照らされ、海面がキラキラと輝いている。

 風に吹かれて、茜色の雲がゆっくりと流れていく。

「いい眺めだな」

 大田大佐は右手を目の前にかざすと、しばらく黙ったまま海を見つめた。

 左手で松葉杖にもたれ、表情を緩ませる。

「海を背にしてはもったいない。三人で並んで座ろう」

 太田大佐は振り向くと、ゆっくりと角の席に腰を下ろした。


 楽しい食事だった。

 大田大佐は次々と監察宇宙軍での俺の落ち度を披歴し、その度にマレスは笑い転げた。

 いつのまにかに、マレスは大田大佐に心を許したようだ。

 大佐がマレスのためにオーダーした白ワインのグラスが空になっている。

 警戒していればマレスはアルコールを絶対に摂取しない。

「……それで、和彦とりょうがなんと言ったと思う?」

 水の入ったグラスを傾けながら大田大佐が笑みを浮かべる。

 クレアと同じく、大田大佐は個体の食べ物を受けつけない。食べられるものはATPアデノシン三リン酸とミネラルの含まれた義体使用者向け栄養飲料、あとは水だけだ。

「なんて言ったんです?」

 頬を赤らめ、目をキラキラ輝かせならマレスが食いつく。

「こいつらアホだからな。納豆菌なんてどこにでもいる、単なる枯草菌の一種だって言ったんだよ。いくら一般的な菌でも培養したらまずいだろうが。しかも艦長にだぞ。当時のアルテミスの艦長はキャサリン・ヒースってイギリスのおっかないオバさんでね、とても綺麗な女性だったんだが、性格がきつい上にこれが重度の衛生パラノイアと来てる。おかげで苦労したよ」

「あの時は本当に危うく除隊処分になるところだったんだ」

 大田大佐のコメントに言い添える。

「全くだ。ところで遼は今はどうしているんだ? まだ毎朝温泉タマゴと納豆を食べているのか?」

「卵と納豆はわかりませんが、山口なら今は内閣安全保障局の人事教育部でノタノタしてますよ。俺もマレスも、奴に引き入れられたようなものです」

「ほう」

 大田大佐が笑みを浮かべる。

「彼は人を見る目だけは確かだったからな。多少好き嫌いが激しい嫌いはあるにせよ、確かにそれは適職かも知れん」

「それにしても大佐はマナーにお詳しいんですね」

 マレスは大佐に訊ねた。

「なんのことだね?」

「ノックの回数です。日本で三回ノックする人ってほとんどいないんですよ」

「二回じゃダメなのか?」

 と、俺はマレスに訊ねた。面倒なので俺の場合、下手したら一回だ。

「二回のノックって『トイレノック』って言うんです。トイレで使うから。正式には三回か四回、特に初めての人だったら四回ノックが正式なんですよ」

「それは知らなかったな」

「ははは、ヒース艦長はマナーにうるさかったからな。和彦は艦長室に呼ばれることが無かったから知らなかったんだろう。二回ノックして艦長室のドアを開けようとしたら『私の部屋はトイレじゃない』って怒られたよ。士官たるもの、マナーを知らなくてどうするってね。そのあとはご多分に漏れず艦長直伝のマナー教室だ」

 大田大佐は再び水の入ったグラスを傾けると、マレスに尋ねた。

「マレス君、どうかね? 美味しかったかね?」

「はい」

 マレスは笑顔で頷いた。

「とっても美味しかったです。沖縄はお魚が美味しいんですね。見た目は悪いけど」

「はは、青かったり黄色かったり、色はすごいからな」

 大田大佐が笑った。

「だが、焼いてしまえばわからんだろう」

「ええ。イラブチャーってお魚、おいしかったー」

 マレスは綺麗に平らげてしまった青い魚のムニエルの皿を指さした。

「皮はカリカリなのに、身はふっくらしているの」

「それはよかった。君は美味しそうに食べるから見ていて楽しいよ」

 大佐は目を細めて言った。

 まるで姪か孫娘を見ているかのようだ。

「マレス、もっと食べてもいいんだぞ。イタリアンのコースならパスタも食べるんだろう?」

 俺もマレスに促した。

 サラダとタコのカルパッチョの前菜、それに魚の半身の主菜とライスだけで食欲旺盛なマレスに足りるとはとても思えない。

「そうとも、もっと食べたまえ。まだ満腹していないんだろう? 今日は私が払うんだ。遠慮をすることはないぞ」

 大佐も笑いながらマレスに言う。

「い、いえ」

 マレスは赤面してブンブンと右手を振った。

 言いながら爪先で俺の脚をゴツゴツと蹴る。

「お話が楽しいから、結構これで満腹、かな。……でも、ドルチェ、頼んでもいいかしら」

「もちろんだとも。ここのデザートは評判が良いようだ。種類も色々あるようだし、全種制覇しても構わんよ」

 大佐が再び笑顔を見せる。

「ほんとに?」

 マレスが明るい笑顔を浮かべる。

「すみませーん」

 早速マレスが右手を上げてウェイトレスを呼ぶ。

「デザートメニューを頂けますか?」

 差し出されたメニューを見ながら、マレスは矢継ぎ早にデザートのオーダーを始めた。


+ + +


「ところで、」

 マレスが山盛りのデザートとコーヒーを片付けていくのを笑顔で眺めながら、さりげなく大田大佐は話題を変えた。

「君たちは、私を即時破壊するためにここへ来たのだろう?」

 ジーマーミ豆腐なるプリン状のデザートの最後の一すくいを口に運ぼうとしていたマレスの手がハッと止まる。

「はは、安心したまえ。だからなんだという事ではないんだ」

 大田大佐は笑顔を作ると、安心させるかのようにマレスの瞳を覗き込んだ。

「きっと君たちは、なぜ私がこんな所にいるのかって思っているだろうね。だからそれを話そうと思って君たちを食事に誘ったんだ」

 そう言いながら身体を椅子の背に預ける。

「脳腫瘍なんだよ」

 まるで風邪をひいたとかでも言うような気軽さで、大田大佐は自分の病名を告げた。

「義体使用者にはよくある事でね。どうやら脳幹部に大きな腫瘍とそれに由来した動脈瘤があるらしい。ヒューストンの国連軍医療センターでも診てもらったんだが、ご多分に漏れず悪性だ。腫瘍を焼こうにも深すぎてね、手が届かない。どうやら私は近々死ぬようだ」

 義体とは簡単に言えば脳と必要最小限の臓器をポータブルな生命維持装置に詰め込んだようなものだ。そのような不自然な環境ではどうしても不具合が発生しやすくなる。

 脳腫瘍や肝腫瘍はサイボーグの天敵だ。

「そんな……」

 マレスが息を呑む。

「大佐、余命はどれくらいなんですか?」

 動揺を押さえ込み、大田大佐に尋ねる。

「まあ、もうすぐだ。ターミナルだと言われている」

 大田大佐は明るい笑みを浮かべた。

「和彦、悲しむことはない。義体で生かされていたこの数年はお釣りのようなものだ。私は十分に生きたよ。だがな」

 水の入ったグラスを傾け、言葉を継ぐ。

「軍はどうやら私とは違う考えを持っていてね。私の脳が死んだら、義体を回収して再利用したいようなんだ」

「でも、その義体は大佐のものじゃないですか」

 マレスは言葉を荒らげた。

「ははは、まあ、普通はそう思うかも知れんなあ。だが、この身体は私のものではない。正確には軍から支給されている装備品だ。言ってしまえば君らのアサルトライフルやハンドガンと同じだ。バーサーカーモードの事は知っているだろう? あれは個体保護のための機能ではない。あれは義体回収手段なんだ」

 大田大佐は両手を広げて見せた。

「この体、M6の値段を知っているかね?」

「二千万円、位?」

 マレスが当てずっぽうを言う。

「まさか」

 大佐が笑う。

「おおよそ七億五千万だ。日本円でね。私にそれだけの価値があると評価されたのはありがたいが……」

 大佐がふと、口を噤む。

「これが払えれば、あるいはこの身体を自分のものにすることも可能かも知れないが、メンテナンス費用が他にかかる。サイボーグってのはね、実に金のかかるオモチャなんだ。現に、」

 と言いながら大田大佐は上腕式の松葉杖ロフストランドクラッチを指さした。

「今も膝にガタが来てる。いずれ他にも不具合が出るだろう。いつも整備していないと壊れてしまう。それがサイボーグってものなんだ。なにしろ自然治癒しないんだからな」

 確かに大田大佐の顔色は少しくすんでいた。手指の動きも少し不自由そうだ。

 全身を覆うナノマシーンは消耗品だ。補給がなければ徐々に朽ちて剥がれ落ちてしまう。ゾンビのようなものだ。

「ちょっと、待ってください大佐」

 俺は大佐に尋ねた。

「じゃあ、サイバネティクス置換したらその人は退役する自由を放棄するって事になるんですか?」

「ま、そうなるね」

 大佐は笑った。

「仮に金を払ったところで、どうせ軍は違う理由を探すだろう。そもそも金を受け取る気があるかどうかすら判らん」

「一生、戦うんですか?」

「はは、」

 大佐の笑顔は暗かった。

「さすがに一生は無理さ。脳だって老衰する。まあ、最長でも九十年ってところじゃないか? これに関してはまだデータがないんだ。何しろ生存しているサイボーグとしては私が最長年齢者に近いからなあ」

「仮に、仮にですよ」

 俺はさらに念を押しながら更に大佐に尋ねた。

「それでも大佐が退役を望んだ場合、あるいは戦闘に適応できなくなった場合、何が起こるんです?」

「さあてねえ」

 大佐は肩を竦めた。

「ま、少なくとも退役だけはない。それは念書にサイン済みだ」

 大佐は断言した。

「そもそもだ、ロケットの直撃を食らって身体がほぼバラバラになってしまった人間に他のどんな選択の余地があるんだ? そりゃ、黙って死んで逝くやつも居るだろうが、残念ながら私はもう少しだけ生き意地汚かったんだ。その時は死にたくなかったんだよ」

 言いながら目を伏せる。

 だが、すぐ笑顔に戻ると大佐は顔を上げた。

「さて、和彦の質問に戻るか。確かに、仮に戦闘には適さない状態になったらどうなるんだろうなあ。脳だけ生ゴミ行きか、あるいは旧式のボディに置換してから事務職か。どちらにしても碌でもないない気はするね。考えたこともなかったがなあ。おそらく軍にしてもちゃんとした考えはないだろう、なにしろそういう事例がないんだからな」

「どこかの組織に移るって選択肢はないんですか? 監察宇宙軍は問題外として、例えば自衛隊に帰隊するとか、フランスの外人部隊に移籍するとか。我々の部局に来るという考えもありますよ」

 俺は大佐に水を向けてみた。

 内閣国家安全保障局の名前は伊達ではない。なにしろ内閣直属の対テロ機関だ。サイボーグの一人や二人、賄えないものではないだろう。

「脳がターミナルなのにか? だいたい、日本政府が国連監察宇宙軍に喧嘩を売ると思うかね? 和彦」

 大佐はシニカルな笑みを浮かべた。

「フランスはどうか知らんが、少なくとも日本はすぐに圧力に負けて私の身柄を国連監察宇宙軍に渡すだろうよ」

「ならば、なんで軍を離れてしまったんです。軍にいれば少なくともメンテナンスの心配をする必要はないじゃないですか。先行きの事は置いておいたとしても」

「お前は、相変わらずややこしい事を訊くんだなあ」

 大田大佐は嘆息した。

「そういうことを訊ねるのは野暮というものだよ」

 そう言ったきり、黙り込む。

 組んだ両手に顎を乗せ、大田大佐は夕暮れの海を見つめながら再び口を開いた。

「簡単に言えばな、私は自分が生きていない事に飽いたんだ」

 左腕を右手で撫でる。その手は手首を強く握って、止まった。

「あの時は、確かにまだ生きていたいと思ったのだ。だがな、サイボーグになって判ったが私の身体は何も感じない。全てはデータだ。例えばだな」

 大田大佐は海を指差してみせた。

「今吹いている風にしても君たちにはきっと磯の香りがするだろう。だが、私にとってそれはデータだ。風向、風力、気温、湿度、塩分、あるいは海藻に由来するヨードの値や有機物の量。これらは数値として見ることが出来るが、それを感じることは出来ない。すべては数値だ」

 大佐は嘆息した。

「あんなもの、本来であれば人が見るべき物ではないんだ。そういうものは感じるべきもので、見るべき物ではない」

 その感覚は、俺には判らなかった。

 全ての知覚情報が数値化される。

 それを人間が見るべきではないという大佐の言葉は良く判る。それは機械の領域、おそらくそれはクレアの領域だ。人間の領域を遥かに超えている。

「例えばマレス君、君の体温が何度なのか、いまどれだけ胸が高鳴っているか、あるいは今どれだけ満腹しているのかだって私には数値として判ってしまう。和彦がどれだけ君を気遣っているか、あるいはあのウェイトレスが和彦を見たときの体温上昇とかの変化もね。でも、それは何かが違う。人には、見えなくてもいい事も沢山あるんだ。サイボーグの身体というものは実に味気ない。言ってしまえば」

 ふと、大佐は言い淀んだ。

「そう、言ってしまえばサイボーグの身体というのはもう死んでしまった者を無理やり動かす鋼鉄の柩なんだ」

「そうは言っても大佐、生きていればいいこともあるかも知れないじゃないですか」

「和彦。人間、生きるのに飽きたらおしまいだよ」

 大田大佐は陰気な笑みを浮かべた、

「だから私はここに来た。私はこの島が好きなんだ。それにここなら被害を最小限に留めることが出来る。私の身体は自殺を拒否する。自害しようとしたら自動的にバーサーカーモードが発動するからな。だから、ここで徐々に機能停止して朽ち果てるのが最善だと判断したんだよ。だがなあ」

 大田大佐は俺を指さした。

「お前が来てくれて良かった。即時破壊命令なんだろう。和彦、私が教えた通りにうまくやれ。バーサーカーモードを発動させないためには条件が二つある。一つはモードを発動しても移動できないほどのダメージがあった場合。あるいは私の全身状態を管理しているセカンダリーコントロールユニットが破壊された場合。いずれの場合もモード発動は阻止出来るはずだ」

 大田大佐はグラスに残ったミネラルウォーターを飲み干すと、松葉杖を取って立ち上がった。

「さて、行くかね。また今度会おう。君たちと会うのは楽しいよ」

 表情を曇らせた俺に、大佐がふと、にこりと笑みを浮かべる。

「それにしても、和彦」

 大佐は父親のような笑みを浮かべた。

 大佐の大きな右腕が俺の肩を握る。

「お前が軍人を続けていることには驚いたよ。妹さんと花屋か雑貨屋をやると言っていたじゃないか。私はそっちの方が和彦には向いていると思っていたんだがな」

 大佐が両手を松葉杖の上で組む。

「軍人は究極のリアリストだ。ロマンチストには向いていない。だが、それだからこそお前は人に優しくできるんだろう。いい軍人になったよ、お前は。優しくない軍人は誰のためにもならん」

 大佐は再び薄く笑った。

「ところでな和彦、気づいているとは思うがお客さんは君たちだけではなさそうだぞ。気をつけろ」


+ + +


 その夜。

 粗末なスチール製のベッドの上で微睡んでいるところで、ドアに誰かが近づいてくる気配を感じ俺は目を覚ました。

 誰だ。

 瞬時に目が覚め、身体が戦闘モードに移行する。枕の下に敷いていたベレッタに左手が伸びる。

 礼儀正しいノックの音。二回のノックに続けてもう二回。

『和彦さん? 起きてます?』

 なんだ、マレスか。

 他に人の気配はない。全身から緊張が解ける。

「……いや、半分寝てた」

 俺はドアの向こうのマレスに答えて言った。

『あ、ごめんなさい』

 ドアの向こうで肩をすがめて身を小さくしているマレスが目に見えるようだ。

「もう覚めた。どうした?」

『入っても良いですか?』

「ああ」

 任務中であっても、兵士のプライバシーは尊重される。十時過ぎに報告書を上げてターミナルを閉じたら、見ているものは誰もいないはずだ。

 白いシルクのパジャマを着たマレスが遠慮がちにドアを開ける。

「こ、こんばんは」

「こんばんわも何もないもんだろう。何を言ってるんだ?」

「だって、なんて言ったらいいか判んなくって……あのね、なんかね、眠れなくて。隣に座ってちょっとお話ししてもいいですか?」

 赤くなってもじもじしている。

 相手がマレスだと判ったため、再び睡魔が襲ってきていた。長いあいだ船に揺られていたせいなのか、途轍もなく眠い。

 断るのは簡単だったがそれはとても酷いことのように思えた。

 ぐにゃぐにゃ話すのも面倒くさいので俺は黙って体を壁側にずらすと、マレスが入れるだけの隙間を作ってやった。

 シングルのベッドはいかにも狭い。マレスは遠慮がちに俺のベッドに腰を下ろした。

「どうした?」

「あのね、近くじゃないとお話できないと思って」

 マレスは上を指さした。

「今もクレア姉さまは上からたぶんわたしたちを見ています。それに大佐も。大佐の聴音能力は異常です。まさか心音を聞かれるとは思わなかったもの。だから、たぶん普通に話したら全部聞こえてしまいます」

 マレスは横たわると、俺の半身に密着した。耳に口を寄せて低い声で囁く。

「でも、どうするの?」

 突然切り込んできた。

「大佐のことか?」

 ささやき声でマレスに答える。

「うん」

 マレスが頷く。

「正直言って困っている。なにしろ本人に生きる意思がない」

「で、和彦さんは本当はどうしたいの?」

 横を向いて見たマレスの瞳は真剣だった。

「……ああ」

 行きの船でも答えた通り、俺はマレスに正直に答えた。

「大佐には何としてでも生きていて欲しい。大佐は、俺の親父みたいなものなんだ。俺の血の繋がった親父は死んでしまったが、大佐は俺に対して実の父親のように接してくれた。だから出来る限り長く生きて欲しい。だがな……」

 胸が詰まり、俺は一瞬言葉を継ぐことができなかった。

「だがな、大佐は自分でターミナルだと言っていただろう。大佐は嘘を言わないんだ。だったら、せめて俺は大佐が言う通りにこの島で穏やかに最期を迎えて欲しいと思ってる」

「脳外科手術に関しては日本も凄いんですよ」

 とマレスは言った。

 そう言えばマレスの父親は大脳生理学者だった。

「アメリカでは直せなくても日本でなら治せるかも」

「そう、かもな」

「和彦さんは投降を説得するって言っていたけど、でも、どうやって大佐を説得するの?」

「動けなくするのが先、なんだろうなあ」

 ぼんやりした頭で考えていたことを俺はマレスに告げた。

「その上でもう一度、東京に一緒に行くことを説得するのが一番なんだろうと思う。動けるうちは言うことを聞いてくれるとは思えない」

「即時破壊命令はどうするの?」

「動けなくすれば、まあ、破壊っちゃー破壊だろ?」

 俺はニヤッと笑ってみせた。

「詭弁だがな」

「へへへ、ずるーい」

 マレスが笑う。

「でも大佐を動けなくするのは大変そうですよ。和彦さんの銃でも止まらないんじゃないかな。サーモバリックでもきっと表面で爆発するだけで終わってしまいます。ましてやアサルトライフルなんて問題外です。一応タングステンの徹甲弾もありますけど、核心部には効かないだろうし、そもそも当たる気がしません」

 それについてはすでに考えていた。

 この島のガスはいまだにプロパンだ。プロパンガスの爆発は激烈だ。なにしろ潜水艦の自沈に使われるようなガスだ。プロパンガスの爆発に偽装するのが最善だろう。

「火災を起こそうと思うんだ。この島のガスはプロパンだ。サイボーグと言えど、プロパンガスの爆発で無事でいられるとはとても思えない。そうすれば止められるだろ?」

「でも、エアコン使ってなかったらガス漏れ放題じゃないですか。あの様子だと大佐が戸締りしている可能性は低いですよ」

「それは考えてなかったな」

「タンクそのものを吹っ飛ばします?」

「タンクの置き場所にもよるな。どちらにしてもタンクが爆発すればただ事では済まないとは思うが、クレアに見てきてもらおう」

「焼夷徹甲弾も持ってきていないですね」

「それはなんとでもなるはずだ。まあ、詳細は明日宮崎課長と相談してみよう。しかしなマレス、俺はもう眠い。もう寝ろ」

「今日は大変だったですものね」

 ふいに、マレスは黙りこくった。

 しばらく懊悩してから意を決したように口を開く。

「あのね、和彦さん、んとね、ここで寝ても、いい?」

 マレスは遠慮がちに俺に尋ねた。

 ますます面倒なことになった。

 だが、眠い。

 何もかもが面倒くさい。マレスが隣に寝ていたとしても、おそらく目は覚めないだろう。

 敵が来ない限り。

「ああ、隅っこのほうならな」

「いいの?」

 暗い部屋の中でマレスが笑顔を見せる。

「ああ。どうせ、一人じゃあ眠れないから話に来たんだろう?」

 眠くて意識が飛びそうだ。

「うん、じゃあそうする」

「ベッドは半分だけだ。俺は壁側に寝る。マレス、落ちるなよ」

 一応俺はマレスに警告した。

「大丈夫。わたし、寝相わるくないもん」

「後でクレアが何を言うか知らんぞ」

「大丈夫、クレア姉さまはわたしのことを応援してくれてるもん」

 俺はいったい、その時どんな表情をしていたのだろう。

 マレスはふふ、と笑うと、

「和彦さんが照れるのを初めて見ちゃった。なんか可愛い……タオルケットと枕持ってきますね」

 機嫌よさそうにマレスはパタパタと部屋から飛び出していった。

 不思議なことに、マレスが隣に寝に来ると聞いてなぜか俺は安らかな気持ちになっていた。

 そして予想通り、マレスが戻ってくる前に俺の意識はすでに飛んでいた。

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