第5幕 エンディング
母帰る、そしてエピローグ
その日の夜、一葉は明太子の入ったポリ袋を両手に提げて帰宅した。
文化祭の疲れからか、冬彦は二階の自室に上がったきり戻ってこない。
瑞希はカウチで横たわって歌番組のテレビ画面に見入り、なにやら浮き浮きしている一葉には目もくれない。
すぐ夕ご飯にするね、と台所にいそいそと向かった若作りの母親は、きれいに掃除された流しをひと目見るなり、低く凄みのある声でつぶやいた。
「まだ甘いわね、瑞希」
さて何のことでしょう、とトボける瑞希だったが、その目はご贔屓の美少年アイドルが歌い踊る画面を見てはいなかった、
翌日、葛城亜矢の突然の退学は演劇部だけでなく、学園をも震撼させた。
生徒や教員だけでなく、保護者間にも、恋愛関係のもつれや陰の非行、芸能プロダクションからの引き抜きなど、様々な憶測が乱れ飛んだ。
だが、それらは人の噂の相場とされる75日もしないうちに収まった。
ひとえに瑞希や玉三郎の暗躍があったからである。
ついでに、瑞希からすれば事情を全く知らないはずの一葉も加わって。
亜矢をはじめとする迦哩衆との接触を、瑞希はとうとう母に報告しなかったのである。
その当否はともかくとして、吉祥蓮と鳩摩羅衆が動いたことを知る者は誰一人としてない。
さて、学園祭が終わって日常が戻ってくると、冬彦の身辺も静かになった。
9月半ばはまだまだ暑いが、生徒たちは元通り、学業に勤しむ。
3年生は、眼の色変えて受験に邁進する。
その3年生から部活動を引き継いだ下級生は、さらなる高みを目指して修練に励む。
そして冬彦はというと……相変わらずだった。
学業成績は悪くない。
部活動でも演技や発声、照明や音響効果、装置製作まで一通り要領を覚えた。
まるで機械のごとく、定時に起きて定時に家を出て、定時に部活動に顔を出して定時に帰る。
瑞希は、あの悪意に満ちた部活掲示板の内容は、時々玉三郎に確認させている。
だが、冬彦に関する話題はほとんどない。
あるにはあるが、同程度の内容は他の部員についても散見される。
つまり、中等部の頃のように、すっかり目立たなくなったのである。
恋愛も含めて……。
瑞希の経験からすると、そろそろ片思いの虫が疼きはじめてもおかしくない頃である。
だが、そんな素振りもない。
妹の心配とは裏腹に、玉三郎の生活は清く正しい模範生そのものであった。
そんなある日のことである。
とうとう瑞希は放課と共に帰宅し、冬彦が部活動から帰ってくる前に部屋のガサ入れを決行した。
別に家庭内でカギをかける必要もないが、共に暮らして4年間、入ることもなかった兄の部屋である。
中に入るのは、せいぜい一葉くらいのものだ。
しかし、今になって初めて聞いても、「男の子には男の子の秘密があるわ」と、何があるかは絶対に教えてくれないのだった。
カーテンを引いたまま、初めて足を踏み入れた兄の部屋を見て、瑞希はつぶやいた。
「何か違う匂いがする……」
それは、年頃の男の子にまとわりつく、子供と大人の中間にある独特の生活の匂いであったろう。
ベッドは乱れ、私服が何着もハンガーで窓辺に吊られている。
机の上には本が何冊も積まれていた。
本に触らないで背表紙を覗きこむと、よく知られた推理作家の名前も、瑞希の知らない名前もあった。
横溝正史、江戸川乱歩、木々高太郎、レイ・ブラッドベリ、E・R・バロウズ、カレル・チャペック……。
その本の山の奥に、小さなカードスタンドがあった。
薄暗くてよく見えなかったが、目を凝らすと、そこには一行の英文が綴られ、あの特徴のある仔犬の顔が添えられていた。
A fool thinks himself to be wise, but a wise man knows himself to be a fool.
……“As You Like It”
中学1年生には理解しがたい英語だったが、その仔犬のシンボルを描くことができる人物は一人しかいない。
「葛城、亜矢」
家の中には誰もいはしなかったが、瑞希は足音ひとつ立てずに部屋を出た。
まだ残っているツクツクホーシのトボけた鳴き声の中、兄の部屋のドアにもたれかかって、瑞希はつぶやいた。
「世話が焼けるんだから、お兄ちゃん……」
いつの間に贈られたのかは定かでない、机の上で今日も主を待っているメッセージカードの意味は、1年勉強したら瑞希にもきっと分かるだろう。
「バカは自分を賢いと思っているが、賢者は自分がバカだと知っている」
……ウィリアム・シェイクスピア『お気に召すまま』
そして半月後。
一葉は冬獅郎の子を宿した。いくらなんでも、出産を控えた妻の元に夫を帰さないという法はないだろう。家族4人(いや5人というべきか)が共に暮らす日も近い。
(完)
俺の妹は忍者なんだが13歳 兵藤晴佳 @hyoudo
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