シーン4 美少女忍者の決断を促す暗示的な夢

 玉三郎の残したひと言が気になったのかならなかったのか。

 昼間の大騒動を考えれば、どっと疲れていても不思議はないのだが、その夜、瑞希はなかなか眠れなかった。

 母から聞いたあの物語を思い描いていたせいかもしれない。


 ――徳川の泰平の頃。

 よく洪水を起こす大川に悩まされる土地があった。

 そこを治めたある領主が、あるとき領内の身分の低い女に手をつけた。

 彼女は城に迎えられて「葦」と呼ばれた。

 子を産んだわけでもないのにたいそう可愛がられた。

 自らの分を弁え、人前に出ることさえなかった彼女を、側近たちはかえって丁重に扱った。

 そんなあるとき、幕府から治水工事の命令が下った。

 多額の資金が必要となり、金蔵を開けてみると、財物のほとんどが何処かへ消えていた。

 土木工事は満足にできず、多くの家臣が一度は腹を切ることを覚悟したものの、ついには死力を尽くして治水をやり遂げた。

 その陰には、妻たちの知恵と励ましと叱咤があった――。


「その話、こういうことじゃないかな」

 耳元で聞こえる声に、ふとベッドの傍らを見ると、暗闇の中にもぼんやりと浮かぶ白い影があった。

 白いパジャマに、黒縁の眼鏡。

 冬彦があぐらをかいて瑞希を見つめていた。

「お兄ちゃん、どうして?」

 瑞希と同様、隣り合わせになっている部屋で寝ているはずである。

 そもそも、兄妹で互いの部屋に出入りしないよう、二人は両親の再婚の日から、各々の実の親に固く言いつけられていた。

 冬彦には甘い一葉も、冬獅郎の単身赴任からは、この点で厳しい。

「ダメよ、お兄ちゃん。お母さんが……」

 冬彦は、ベッドから跳ね起きた瑞希の唇を、立てた指でそっとふさぐ。

「静かに」

 普段の不器用な立ち居振る舞いからは考えられないほど優雅な身のこなしで音もなく立ち上がることができたのは、瑞希の特訓の成果か。

「風邪をひくよ」

 瑞希の身体を抱えて寝かしつける腕は、細いながらもたくましい。

 布団をかけられた妹は、その中に顔を半分埋めて義理の兄を見上げた。

 腕を滑らかに波打たせ、軽いステップで冬彦が悠然と始めたのは、まだ瑞希しか聞いたことがないはずの、一葉の話をもとにした一人芝居だった。


「江戸の泰平の頃、ある貧しい藩がありました」

 冬彦は、子どもに昔話を語るかのようなおだやかな口調で話し始めた。

 だが、物語の舞台はシビアに描写されている。

 土地はそれほど肥えておらず、年貢を取り立てようにも、米の収穫そのものが乏しい。

 武士は刀も買えず、多くが竹光を差していた。 

 農民も牛馬を買う金がなく、非力な人の手足だけで田畑を耕す。

 こんなわけで、各々がかつがつの生活を送っていた。

「そこを治めていた領主は、若い美貌の青年でした。」

 自分のことだと言わんばかりに胸を張る。

 瑞希は思わず、くすりと笑う。

「都から遠く離れてはいてもよく学問に励み、書画や和歌を愛したこの殿様ですが……」

 欲はなく、先哲の教えに従って民を慈しみ、質素倹約に務めたが、それは気持ちだけのこと。

 とんと政治には疎かった。

 藩の経営はすべて家臣に任せ、自らは自室にこもって「小国寡民、什白の器も用いざらしむ」などと太平楽を並べている有様である。

 ただでさえ参勤交代の費用にも事欠く貧しい藩なのに、民が哀れとたいして年貢も取り立てない。

 だから、いくら主君が暗愚とはいかずとも英明さに欠けていても、家臣は私腹の肥やしようがない。

 誰もが自らの食い扶持を稼ぐため、藩の財政をやりくりするのに毎日四苦八苦していた。

 

「その家臣たちは皆、主君に同じ悩みを持っておりました」

 女である。

「持って生まれたものなのか、早くに引き離された母を幼時に失ったのがよくなかったのか」

 そこで瑞希は、はっとして冬彦の顔を見る。

 自らの境遇であるにもかかわらず、布団の中にすくんで見上げる妹に笑いかける。

「いずれにせよ、先哲の教えもこればかりには手綱が利かなかったのです」

 といってもこの殿様、他国から妻を迎えるでもなく、城中の女中に手をつけるわけでもない。

 女中と共に花を愛でたり、他国の姫君に帰っても来ない歌を贈ったり、恋に恋い焦がれるばかりで、一向に世継ぎが得られそうな気配はなかったのである。

 ところが。

 冬彦は瑞希に向かって、ぐいと顔を突き出す。

「ある時、領主は1人の女を見初めました」

 それに気づいた家臣たちは知恵を絞り、女に身寄りがないのをいいことに手練手管を尽くして城に上げ、領主の傍に仕えさせたのである。

 屋敷の庭園を散策するときも食事のときも、ひいては入浴や床につくときさえも。

 しかし。

 冬彦は呆れたようにため息をつく。

「何一つ起こりませんでした」

 瑞希が真剣なまなざしでじっと見つめる中、冬彦は毎日のように城中では開かれる評定の様子を描写してみせる。

 まずはご家老と思しき年配の男性が、背筋をまっすぐに正座して口を開く。

「で、首尾はどうであったか」

 若者らしき家臣が頭を下げて報告した。

「はい、この暑さですので、あの娘に行水をさせました」

「殿の話をしておる」

 いささか不機嫌そうなご家老に、若い家臣は自信たっぷりに強く出る。

「話はここからです。周りに板塀を立てて、節を抜いて穴を開けておきました」

「何という不埒な」

 老人に叱り飛ばされても、若者は負けてはいない。

「殿の御ためでございます。これで生身の女にお気持ちが向けば」

「なぜ知らせなかった。まさかお前、自分も」

 あらぬ疑いに、若い家臣は慌てふためく。

「滅相もございません、私はひたすら殿をお城の庭の散歩にお連れして、節穴に気づかせようと」

 言い訳を我慢強く聞くご家老。

「いかようにいたした」

 おずおずと答えが返ってくる。

「かようなところに節穴がございます、中をご覧になってはいかがでしょう、と」

「そのまんまではないか!」

 一喝されて、若い家臣は必死で弁明する。

「ご心配なく、殿は顔を赤らめてその場をそそくさとお立ち去りに」

「意味がない! おぬしのような家臣がお傍におると思うと夜も寝られんわ」

 どうやら若者は殿様の側近らしい。

 いかにも理解があるかのように、きっぱりと言い返す。

「いえ、殿がそうなさるのも無理はない。色の白い、胸の豊かな娘でございますから」

「おぬし、やっぱり」

 苦虫を噛み潰したようなご家老に、若侍はさらに畳みかける。

「見ただけで分かりませんか」

 ご家老が考え込んだところで。

 冬彦の肩がすとんと落ち、首が前に出る。

 今度は別人が意見し始めた。

 中年の男のようである。

「今度は殿の前で板塀を倒してしまおうか」

「だからそれが不埒だというのじゃ」

 ご家老は一蹴するが、傍目にはとても藩の命運を左右する重大な問題を議論しているようには見えない。

 中年男は、そんなくだらない問題に対しても口をヘの字に曲げ、重々しく問いただす。

「ではいかがなさるおつもりか」 

 ふん、と鼻息ひとつでご家老は自信たっぷりに返答した。、

「行水をさせるのじゃ」

「そのまんまではございませぬか」

 突っ込む中年の部下を年長者の余裕でたしなめる。

「いや、男の心をくすぐるのは何もおなごの柔肌だけではない」

「と申しますと」

 身を乗り出すのはさすがに中年だからか。

 老人は、すぐには答えない。

 気を持たせてから、ゆっくりと告げた。

「髪をくしけずる姿じゃ」

 すかさず中年の侍は突っ込む。

「それはご老人の好みで」

 がやがやがや、と擬音を入れた冬彦は、大仰に答えてみせる。

「いや、夏の宵にこう浴衣の襟をくつろげた姿など」

 ふたたび、がやがや。

 中年男も調子に乗る。

「いや、駕籠から降りるときこう足を下ろすときのふくらはぎが」

 がや……という声をいったん止めて、冬彦は別の家臣を演じてみせる。

「あの」

 若い男が、自信なさげに手を挙げる。

「何じゃ」

 うるさそうに答える家老に、この男は遠慮がちに意見を述べる。

「風呂はいかがでございましょう」

「湯殿にいつも侍らせておるではないか」

 不機嫌な声で一蹴されても、男は引き下がる様子がない。

「そうではございませぬ」

「違いを申せ」

 面倒くさがられても、男はめげない。

 肩をいからせて答える。

「近さ、でございます」

 ご家老は首を傾げた。

「近さ、とな」

 男は身を乗り出して策を語り始めた。

「さよう、たとえば……」


 かくして、皓皓たる満月に照らされた千代の松ヶ枝の下。

 塀に囲まれた檜の小さな風呂に、若き夢見る領主はゆったりと浸かることとなった。

 その下のかまどに火をくべて、顔を真っ赤にしながら火吹き竹をくわえて頬をふくらませる、たすき掛けの娘。

 殿は白く月の光る夜空を眺めて「よい湯じゃ」とつぶやく。

 はい、と立ち上がって息も荒く答える娘は、再びしゃがんで薪をくべては火を起こし続ける。

 やがて、娘は立ち上がり、家臣たちに命じられたとおりに「お背中を」と言った。

 殿は「うむ」とうなずいたものの、恥ずかしいのか湯にのぼせたのか、真っ赤になってうつ向いている。

 袖をまくったしなやかな腕を月光の下にさらして、娘は殿の背中を流し始めた。

 男にしては柔らかい、しかし張りのある肌である。

 その肌に何度も手拭いをかけているうちに、娘はすすり泣きを始めた。

 殿はうろたえる。

「泣くでない、何があったのじゃ」

 娘は答えない。

「かような真似をさせられておるのがつらいと申すか」

 いいえ、と娘はかすかな声で答える。

 殿は娘の涙を見ようとはしなかったが、おどおどと告げる。

「差し支えなければ聞こう」

 もったいない、と娘は遠慮する。

 殿はしばし押し黙っていたが、やがて重々しい声で言った。

「申せ」

 娘はしばし唇を噛みしめた後、幼時の思い出をぽつりぽつりと話しはじめた。

「私は、母の顔を覚えておりません。まだ幼いころに父から聞いたところによると、急な病でなくなったとか……」

 その言葉は、百姓娘の言葉ではない。 

 貧しい藩とはいえ、武士の誇りはある。

 城中での言葉は、殿の傍に仕えることになってから厳しくしつけられていた。

「父は私の面倒を見ながら働きづめに働きました。女子供の身で出来ることには限りがありますが、私も力の及ぶことはすべてやりました」

 殿は無言でうなずいた。

 そうした百姓の生きざまは、貧しい藩の領主としていやというほど家臣から言い聞かされ、その目でも見てよく分かっていたことであったろう。

「それでも、父は暑いときにはよく行水をしたものでした。『オレは怠け者じゃ』といいながら。私はそのたびに背中を流しました。それが思い出されて……」

 若き領主は話を聞きながら、何度となく風呂の湯で顔を洗った。

 そして、娘の話が終わる頃。

 殿の頭は垂直に水面下に沈んだ。

 哀れな境遇を一言も聞き漏らすまいとしているうちに、湯に当たったらしい。

 娘の悲鳴が上がり、塀の向こうから大慌てで走ってくる家臣たちの足音が、瑞希には聞こえた。

 

  殿が目を覚ましたのは、城の奥にある寝所である。

 領主のものとしては、それほど広くはない。せいぜい16畳といったところであろうか。

 羽二重の布団から白い寝間着姿の身体を起こすと、何も着けてはいない。

 ふと傍らを見ると、先ほどの娘がやはり白い寝間着をまとって、静かに寝息を立てていた。

 殿は思わず布団から転げ出る。

 じたばたと畳の上を尻で這って、その突き当りで後ろ手に襖を開こうとすると、一寸たりとも動かない。

「誰か!」

 答える者はない。

 再び叫ぶ。

「誰か!」

 布団の中で身体を起こした娘が、心配そうに見ている。

 もっとも、そんなことに彼は頓着しない。

「誰かおらぬか?」

 襖の向こうで家老の声がした。

「おりませぬ」

「おるではないか!」

 それは叱責というより悲鳴に近かった。

 それでも、のらりくらりと答えるのは年の功であろうか。

「おりましても参りませぬ」

「これ! 主君の命に」

 もはやそれは哀願といってもよかった。

 だが、家老は応じない。

 重々しく答える。

「一命にかけましても」

「五右衛門風呂がどうのこうのと主君を騙して、このような……腹を切れ打ち首じゃあぁぁ~ッ」

 その叫びは、涙声でしかなかった。

 家老は若き主をたしなめる。

「男が泣くものではございません、ここは笑うところでございます」

 笑うどころか、学問を積み重ねてきた領主は、大いに自尊心を傷つけられてすすり泣いた。

「このようなふしだらな姿、明日からワシは城内を歩けまい」

「それで城内をお歩きになれないとなれば我らは出仕できませぬ」

 しれっと答える老臣に、若者は君主として怒りの呻き声を上げる。

「そこまでして主君を愚弄するとは」

「このような腹、いくらでも切ってご覧に入れますゆえ、どうかお世継ぎを」

 殿の言葉を遮るかのように襖の後ろで言い切った声はくぐもっていた。

 おそらくは平伏しているのであろう。

 お互い無言のまま、暗闇の中で時間が過ぎる。

 しばらくして、殿の背後で立ち上がった娘が声をかけた。

「殿……私でよろしければどうか」

 寝間着がするりと脱ぎ捨てられる。

 畳の上に音もなく落ちた衣よりも、その脚はなお白い。

 その皺ひとつない膝が、布団の上に落ちる。

「見てください」

 顔を背けていた白い寝間着姿の殿が目を固く閉じたまま、黒髪の流れる艶やかな背中を思い切ったように抱き寄せる。

 その向こうに見える端正な顔には、黒縁の眼鏡……。


「ダメ! お兄ちゃん!」

 そう叫んで飛び起きると、そこにはもう、誰もいなかった、

 夜更けの暗闇が、御贔屓アイドルのポスターが何枚か貼られた部屋を静かに満たしている。

「夢か……」

 一葉には会った時から懐き、その言いつけには絶対服従の冬彦が瑞希の部屋に入り込むわけはない。

 だいたい、あんな器用な一人芝居など、いくら瑞希が文字通り手取り足取り教えたとしても一朝一夕で演じられるはずがなかった。

 そんなことを考えている間に、ようやく得られた睡眠を楽しんだほうが合理的で合る。

 瑞希は再び布団に潜り込んだ。

 だが、夢というものは望んでも続きが見られないものであるし、望まなくても見てしまうこともある。


 ……次の朝、本当に殿の姿は城内になかった。

 夕方になって、家臣たちは殿の御前に呼び出される。

 もちろん、黒縁の眼鏡などかけてはいない。

 見れば、殿の隣には一人の娘が控えていた。

 殿は娘を抱き寄せ、端正な顔に笑顔を浮かべて告げた。

「『葦』と呼ぶことにした」

「では、私共はこれで」 

 襖の向こうで足音がする。

「いくらでも腹を切ると申したな」

 身構える一同。

「主君の寝所を冒したのじゃから、それが当然じゃろう」

 襖がバタンと開くと、そこには逞しい男たちが、帯刀したまま何人も並んでいる。

「お主ら、帰れるものなら帰ってみよ」

「では」

「ここは笑うところじゃぞ」

 暑苦しい男たちの手ではあったが、その場でささやかな祝宴が用意されたのである。


 そういった経緯で「葦」と呼ばれたその娘は、結局のところ子を生したわけでもないのに、殿にはたいそう可愛がられた。

 自らの分を弁え、人前に出ることさえなかった彼女を、側近たちもまた、かえって丁重に扱ったのである。

 そんな数年が過ぎたあるときのこと。

幕府から治水工事の命令が下った。

 近隣によく洪水を起こす大川があったのである。

 その川は広く深く、また東へ西へ大きく蛇行していた。

 梅雨や秋雨、野分の時期には、水があふれては多くの田畑や家、時には人々をも呑み込んでいた。

「なぜ、かような小藩に」

 多額の資金が必要である。 

 そもそも参勤交代にせよ、こうした土木工事にせよ、周辺の裕福な大名の財力を削ぐために行われるものであった。

「百姓たちもよう我慢してくれておるのに」

「これ以上、年貢を取り立ててれば一揆も起きよう」

 取り立てる年貢は、一揆が起きても仕方がないぎりぎりの割合であった。

「仕方があるまい。あるだけの財物を投ぜよ」

 殿の命に従い、めったに開けられないご金蔵の中が改められた。

 勘定方が殿の御前に平伏したのは、その日の夕暮れ時のことである。

 その報告によれば、金蔵を開けてみたところ、財物のほとんどが何処かへ消えていたとのことだった。

「いったい、誰がどうやって……」

 鍵を持っているのは、殿しかいない。 

 若き領主は居並ぶ家臣を見渡して詫びた。

「ワシの不徳の致すところじゃ」

「誰が悪いかは、今はどうでもよいのです」

「そうだ、とにかく普請を済まさねば」

 早速、近隣の百姓たちが人足として集められたが、なにぶん報酬の安い割に危険な仕事である。

 仕事への意欲は低く、作業は予定通りに進まなかった。

 その結果は、ある雨の夜、最悪の結果をもたらした。

 

「起きよ! 起きよ!」

 家臣たちは夜中に自宅の戸を叩く音で目を醒ました。

 城からの使いだった。

 やがて、蓑笠姿の家臣たちは、土木工事の現場で呆然とする羽目になった。

 暗闇の中で提灯とかがり火に照らされる濁流は、藩のなけなしの財を投じた河岸補強の石垣や杭を、埋め立ての土砂を残らず押し流してしまったのである。

 幸い、死者こそなかったが、次の朝から城中は大騒ぎになった。

「腹を切る!」

「待て、お主が腹を切っても川はまた暴れる」

「しかし、このままでは殿に面目が立たぬ」

「そうじゃ、殿は? 殿はいずこにおられる?」

 そこへ現れたのは、目の下に隈を作って腑抜けになった若き領主であった。

 白い寝間着のままである。

 緩い帯がほどけると、寝間着の前が開いて褌が露になる。

 それも構わずに上座に就いた殿の前で、家臣たちが一斉に平伏して異口同音に言う。

「ご心痛お察し致します」

 普請方と思しき者が、腹の底から絞り出すように悲痛な声で言った。

「このたびの不始末、腹を切ってお詫びいたしますれば」

 家老が手を突いたまま、後ろへ首をひねって叱りつける。

「これ!」

 普請方は、伏せた顔を家老に向けて抗弁する。

「このまま生き恥を晒しても、後の者に示しがつきませぬ」

 畳に伏した家臣たちの顔が次々に持ち上げられた。

「示しがどうこう言うておるときではない!

「そうじゃ、おぬしだからこそこれで済んだのじゃ……」

 家臣一同の騒然たる中で、彼らの主はぼんやりと天井を見上げたままつぶやいた。

「葦……」

 1人が身体を起こして叫んだ。

「そうじゃ、葦じゃ」

 ばらばらと、家臣たちが身体を起こす。

 家老が背筋を伸ばして、振り向きもせずに尋ねた。

「葦殿がどうした?」

 言い出したものは、目を血走らせて答える。

「……人柱に据える」

 予想された答えだったのだろう、家老はうつむいた顔をしかめて一喝した。

「たわけ!」

 非難の声が轟轟と沸き起こる。

「世迷言を申すな!」

「葦殿に罪はない!」

「それこそ一揆が起こるぞ!」

 そんな非難の嵐の中、主君はがっくりとうなだれてつぶやいた。

「おらんのだ」

「え?」

 一同が驚きの一言を発するなり静まり返ったその場で、殿は肩を震わせて告げた。

「葦が、いなくなった……」

 

 こうなっては、どうすることもできない。

 家臣一同、腹を切って幕府に詫びを入れ、主君だけはお咎めがないようにと話を決め、水杯を交わすために帰宅した。

 ところが。

 妻や娘たちは、男たちを叱り飛ばしたのである。

「なんと意気地のないことを! それでも男ですか! 情けない」

「そうですお父様、こんな侍の娘に生まれたことが恥ずかしゅうございます」

「戻って知恵を絞るのです」

「それができなければ、男の汗をお流しなさい」

 やがて城に戻った男たちは門の前で出会うたびに、またすれ違うたびに、お互いの顔色をうかがった。

 だが、誰一人として腹を切ろうとする者はない。

 ある者は城内の一室でぼんやりと襖絵を見つめ、ある者は廊下で欄間の彫物を見上げ、またある者は庭で薄黒い雲の破片が飛ぶ空を見上げる。

 そうこうするうちに、城の門前が騒がしくなった。

「いかん! 強訴だ!」

「百姓どもが押しかけてきただと?」

「一揆か? 一揆か?」

「槍は? 鉄砲は?」

「あれば売り払って普請の足しにしておるわ!」

 仕方なく、一人の侍が竹光を腰に門の外へ出れば、そこには無数の鍬が鈍い光を放って揺れている。

「何用じゃ」

 一人の男が平伏すると、波が引くように百姓たちが地に伏した。

「手伝わせておくんなさいまし」  

「無理じゃ、石代、材木代はおろか、おぬしらに払う手間賃もないのじゃ」

「ようございます、どうか」

「何故じゃ」

「実は……」

 聞けば、百姓たちの家では、女たちが一切の務めを放棄してしまったということであった。

 食事も作らなければ、畑仕事もしない。

 特に妻たちは、男たちに知らん顔。

 たまに口を開けば、穀潰しだの宿六だのと罵詈雑言を浴びせる。

 極めつけは、この一言だった。

「男扱いしてほしければ、お城へ行ってお侍さんたちに力を貸してやることだね。手間賃だのなんだの、みみっちいことは言いっこなし」 

 中には夫の傍で寝るのが嫌だと言って、土間にムシロを敷いて寝た妻もいた。

 情けない顔をした百姓たちの顔を見て、武士たちの顔からは思いつめた険しいものがなくなった。

 知らせを聞いた家老が自ら、門の前に姿を現す。

 力強い声で、一言だけ告げた。

「では、参ろう」

 百姓も武士も身分の違いを問わず、その場に歓声が上がる。


 その日のうちに、男たちは大水の現場で働きはじめた。

 流されたものが可能な限り回収され、崩れた堤は現状復帰される。

 仕事は担当箇所で分けられた組別の交代制が敷かれ、帰宅した者は妻や娘に温かく迎えられた。

 彼女たちは男たちをねぎらい、疲れを癒やし、また話を聞いては知恵を授けた。

「水は水のあるところへ流れるのよ」

「あれだけ折れ曲がった川なんだから、一旦あふれたら、その角にあるところが押し流されるのは仕方がない」

「仕方がないことなら、無理に思い通りにしようとしないことよ」

「それは、女も同じことよ」

 やがて河岸の堤は完成し、女たちの知恵によって、大水を洪水になる前に流す水路が掘られた。

 土木工事は間に合い、殿は上座に座った幕府の使者からお褒めの言葉をいただくことになる。

 だが、使者が去って、正装して平伏していた若き領主が再び顔を上げたとき、その目は宙を泳いでいた。

 まるで、いずこかに去った黒髪の女を探し求めるかのように。

 彼は女の名をつぶやいたが、それは「葦」ではなかった……。


「亜矢先輩……」

 冬彦の声で、瑞希は長い夢から目覚めた。

 はっとしてベッドの脇を見ると、グレーの絨毯の上にはもちろん誰もいない。

 隣の部屋からの寝言のようだ。

 吉祥蓮の忍者ゆえに聞こえたのならよいのだが。

 兄妹のプライバシーは、意外にない。

 ライトブルーのカーテンから漏れる朝日が、薄いピンクの壁紙をぼんやりと照らしている。

 枕元の時計を見ると、6時をちょっと過ぎたころだった。

 明るいオレンジ色のパジャマ姿で身体を起こした瑞希は、それほど乱れてはいない髪を指でくしゃくしゃにしてため息をついた。

「世話が焼けるんだから、お兄ちゃん……」 

 

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