episode.5 ~跡取り娘~

 その日も、いつも通り仕事を終えて帰宅した私。久しぶりに、撮り溜めたビデオでも見てのんびりしようと定時で上がり、覗いたポストにはDMに混じって、一通の結婚式の招待状が届いていました。


 差出人の花嫁は、小・中学時代のクラスメートだった稲守麻貴ちゃん。彼女の結婚の知らせに、正直なところ驚きを隠せません。それは、同様に招待状を受け取った旧友たちも同じでした。





 私の名前は、松武こうめ。とある巨大な新興住宅地に住む、専業主婦です。


 当時、私は社会人5年目の独身OLで、27歳になっていました。世間では『結婚適齢期』といわれるお年頃、周囲は結婚ラッシュで、同級生から披露宴の招待状が届くことも珍しくなかったのですが、麻貴ちゃんだけは特別でした。


 というのも、彼女は少しだけ事情が違っていたからです。





 玄関を入ると電話のベルが鳴り響いており、慌てて靴を脱ぎ受話器を取った私。電話は、同級生の楢葉木の実ちゃんでした。


 彼女は、お料理が苦手な人でも簡単に出来るレシピ本を何冊も出版し、幅広い層から支持される人気の料理研究家として活躍している、私の大切な親友です。



「木の実ちゃん、お久しぶり~! 元気だった?」


「元気だよ。ねえ、それより麻貴から結婚式の招待状、届いてる?」


「うん。今、会社から戻ったら、ポストに入ってた」


「ねえ、これって…」


「あ、ちょっと待って! キャッチ入った」



 そう言って電話を切り替えると、同じく同級生の笹塚朋華ちゃんからでした。


 十代で世界的なピアノコンクールでグランプリを受賞し、現在はピアニストとして、一年の半分を海外で過ごしている彼女もまた、私の大切な親友。



「あ、朋ちゃん、お久しぶり。あのね、今…」


「ちょっと、こうめちゃん! 何度も電話したんだから!」



 そう言われ、電話のディスプレイを見ると、そこには、5件の着信ありの表示。



「麻貴ちゃんが結婚するって、本当なの!?」


「私もたった今、招待状を見たばかりで…」


「ね、大丈夫なの!? 私、心配になっちゃって、居ても立ってもいられなくって…!」


「ごめん、朋ちゃん! 今ちょうど、木の実ちゃんと電話中なの。終わったら掛け直すから!」



 マシンガンのように捲し立てる朋華ちゃんの言葉をかろうじて遮り、一旦電話を切ると、待たせていた木の実ちゃんに事情を伝え、ようやく本題に入りました。



「こうめは、何か聞いてた?」


「ううん。私も招待状で知ったばかりなのよね」


「大丈夫…なんだよね? あの子、やってけるのかな?」


「まあ、ご両親も付いてることだし、一度お祝いがてら、麻貴ちゃんのお母さんにも聞いてみようと思う」


「そうして。詳しいことが分かったら連絡頂戴。朋華にもよろしくね。それじゃ」


「OK! じゃあ、また」



 そう言って木の実ちゃんの電話を切り、急いで着替えだけ済ませ、朋華ちゃんに電話をかけ直しました。


 待ちきれない様子で、矢継ぎ早に質問を繰り出してくるものの、お互いに知り得る状況は同じ。興奮気味に話す彼女を宥めつつ、話題はお互いの近況になり、そのまま話し込むこと2時間。


 結局、取り溜めた録画を見ることなく、久しぶりの幼なじみとのお喋りで楽しいひと時を過ごし、ついでに日ごろのストレスも解消出来ました。





 私と麻貴ちゃんは幼稚園からの同級生で、同じ藍玉女学園の中等科へ進学。エスカレーター式の女子校でしたが、彼女は中等科卒業後は『家事手伝い』という進路を選択しました。


 麻貴ちゃんが高等科へ進学しなかったのは、致命的なまでにお勉強が出来なかったからです。


 テストではどの教科も一桁代の点数というレベルで、本人は決して勉強が嫌いなわけでも、怠けているわけでもなく、後にそれが学習障害の一種だったと分かったのです。


 お勉強以外にも、麻貴ちゃんには出来ないことがもう一つ。それは、怒りの感情を露わにしたり、誰かの悪口を言ったりすることでした。


 おっとりとした喋り方と、母親譲りのお人形のような愛らしい顔立ちで、他人の気持ちに寄り添える気遣いがある優しい子でしたから、クラスの中ではダントツに人気があった麻貴ちゃん。


 成績が悪いことを理由に、意地の悪い男子に揶揄われたり、中には酷い言葉で傷つける輩もいましたが、そんな時でも反論したりせず、少し困った顔で唇に笑みを浮かべるだけ。


 我らがアイドル麻貴ちゃんを傷つけた者には、黙っていない私たち。二度と同じ過ちを犯さないよう、道徳的教育という名目の容赦ない心理的制裁を加え、彼女を苛めたことを死ぬほど後悔させたこと、数知れず。


 かつて私は、私の母の自己中心的な言動による誤解や不快感への腹いせに、クラスメートやその親たちから、度々陰湿ないじめを受けたことがあり、その際も、まったく変わらずに接してくれていた麻貴ちゃん。


 気が付けば傍にいて、人気者の彼女の周囲にはクラスメートが集まり、私も自然と言葉を交わす機会が増え、いつしか普通にクラスの輪に溶け込んでいました。


 彼女が意図してのことかは分かりませんが、私自身、彼女のおかげで救われたのは事実、今でも感謝しているのです。


 だからこそ、麻貴ちゃんには絶対に幸せになって欲しいと願う私。


 招待状に記されたお相手の名前を拝見すると、地元では知られた老舗菓子店の長男さんゆえに、その家の嫁としてやって行けるのか、彼女のすべてを理解した上で、丸ごと受け入れてくれる相手なのか。


 私だけでなく、招待状を受け取った麻貴ちゃんを愛する同級生たち皆が、共通して思うのでした。





 その週末、結婚のお祝いを届けに訪れた私を、麻貴ちゃんファミリーは暖かく迎えてくれました。


 彼女の実家は昔からの大地主さんで、父親の代から会社組織にして所有する不動産を管理し、最近では主に駐車場や賃貸住宅を経営。以前に私が配属されていた不動産事業部とも取引があり、麻貴ちゃんパパや、弟の尚貴くんにもお世話になっていました。


 今日は、麻貴ちゃんの手料理をご馳走になるのを、とても楽しみにしていた私。麻貴ちゃんと助手の尚貴くんにキッチンを任せ、その間、私とご両親は居間でお話をしながら、お料理の完成を待つことに。


 最初に口を開いたのは、麻貴ちゃんママでした。



「今日は麻貴のために来てくれて、本当にありがとう。私たち、こうめちゃんには、本当に感謝しているのよ」


「私からも御礼を言うよ。こうめさん、麻貴の友達でいてくれて、本当にありがとう」


「おじ様、おば様、それはこちらの台詞です。私のほうこそ、麻貴ちゃんには本当に助けられていたんですから」


「麻貴が藍玉の中等科を卒業できたのは、こうめちゃんのおかげだもの。こうして結婚が決まったのもそのおかげだし、私たち、何て御礼を言えばいいのか…」



 そう言いながら、涙ぐむ麻貴ちゃんママに、私は首を横に振りました。





 最終学歴が中学卒業とはいっても、倍率が5倍をくだらない私立藍玉女学園。前身は明治時代から続く旧制高等女学校、創立100年を超える歴史ある名門女子校です。


 では、そもそもそんな学校に、どうして麻貴ちゃんが合格出来たのかということですが。


 多くの私立校には、一般的に入学試験に合格して入学する学生とは別に、『縁故入学枠』を設けている学校も多く、藍玉では3親等以内に在校生か卒業生がいる場合、書類と面接だけで入学することが可能でした。


 麻貴ちゃんママは、私たちの25期前の卒業生で、彼女は母親(1親等)の縁故枠を使い、無試験で入学したのですが、問題はその後。


 義務教育の期間(中等科)は、成績が悪くても落第することはありませんが、卒業となると、学校が用意する卒業試験に合格しなければなりません。


 一学年ごとに設けられている、お魚を捌く実技試験(家庭科)は問題なくパス出来たものの、卒業前に実施される各学科の筆記試験に関しては、麻貴ちゃんにはお手上げでした。


 当初から、彼女の学力では、高校に進学することが難しいと考えていた麻貴ちゃんのご両親。縁故入学で藍玉中等科に入学させ、卒業後は家事手伝いをしながら、様々なことを学ばせる予定でした。


 まだ男尊女卑の考え方が強かった時代には『悪い虫が付かないように』と義務教育を終えるとすぐ、習い事をしながら花嫁修業に専念する深窓の令嬢はたくさんいたそうです。


 古い世代の中には、極々少数ですがそうした考え方が残っており、歴史ある名門私立女子校というブランドの後ろ盾があれば、世間的にも納得が得られるという親心でした。


 誰もが当たり前に進学する時代と逆行する形で、麻貴ちゃんもそういう古いスタンスのお嬢様で行こうとしたのですが、最終段階で『筆記試験』という難問が立ちはだかったのです。


 麻貴ちゃんの卒業試験の結果は、惨憺たるもので、成績が悪かった生徒には、補習授業と再試験が用意されていましたが、何度試験を受けたところで、結果は目に見えており、ご両親はほどんど諦めの境地でいたそう。



「あのままだったら、麻貴の最終学歴は『中学中退』になっていたからね」


「あの時、こうめちゃんが先生方を説得してくれたおかげで、麻貴は無事に中等科を卒業することが出来たのだもの」


「それは私じゃなくて、麻貴ちゃんが頑張ったから。麻貴ちゃんの努力の賜物ですよ」



 何か良い方法はないか、皆であれこれ考えていたのですが、ふと思い立って、いくつかの歴史の年号をクイズ形式で出してみると、何と麻貴ちゃんはちゃんと答えられたのです。


 ところが、それを紙に書くとなるともうボロボロ。一文字書いては溜息をつき、どうして良いか分からなくなってしまうという状況でした。でも、口答でならきちんと正解を答えられるということを発見。


 早速、先生にその状況を説明し、麻貴ちゃんの試験を筆答ではなく、特別に口答で行うように直談判しました。


 学校側としても前例がないことから、何度も職員会議で検討し、麻貴ちゃんのご両親とも話し合った結果、中等科の卒業試験限定という条件で、口答試験を実施してもらえることになったのです。


 それからは、私たちも一緒に補修授業に出席し、文字が苦手な麻貴ちゃんの代わりにノートに取り、麻貴ちゃんも一言一句聞き逃すまいと必死で授業に集中し、本番さながらの口答試験のリハーサルを毎日特訓。


 結果、追試は合格点に達し、無事に卒業することが出来ました。麻貴ちゃんは決してお馬鹿だったのではなく、極端に文字(特に書くこと)が苦手だっただけなのです。


 今でもそれは続いていましたが、自身の名前や住所など、頻度が高いものはいつでも書けるように練習し、複雑なものは予め記載した紙を用意しておき、可能であれば代筆をお願いするなどの工夫をしていました。


 その後、母親の指示通り華茶道はじめ、お料理や着付け、その他にも様々な習い事に勤しみ、この十余年の間に、メキメキとスキルアップし、中には師範の資格を取得したものもあるほど。


 そして今回、彼女の元に、老舗の和菓子店の長男さんとの縁談話が舞い込んだのです。



「それで、先方は麻貴ちゃんのこと、その…」


「大丈夫よ、こうめちゃん。すべて分かっていて、その上でのお話だから…」


「私たちも悩んだんだけどね。麻貴にとって、これ以上ありがたい縁談はないだろうという結論に達してね」



 先方は『老舗菓子店』ということで、それ相応の品格を持つ女性を探していたそうです。


 今の時代、昔ほどには口煩くなくなりつつあるとはいうものの、老舗のお嫁さんともなれば、そのお宅の『顔』になり得ますので、素行や品性は勿論、家柄や人柄、容姿に至るまで、周囲からあれこれ詮索されることも少なくありません。


 それ以上に厄介なのが、周囲からの妬み嫉み。あることないこと噂を立てられたり、濡れ衣を着せて陥れようとしたり、陰で誹謗中傷されたりということが、日常茶飯事なのだとか。


 麻貴ちゃんのお姑さんになられる方も、かつてご自身が嫁がれたとき、そうした陰湿ないじめを経験され、今尚続いているのだそうです。





 その老舗菓子店は、百人を超える従業員の多くが女性で、一部の古株が、お嫁に来た若女将(当時)をターゲットにするという構図があり、それを先導しているのが大女将だというのです。


 たとえば、『金庫の売上金が足りない』などと言って、従業員に『若女将があなたを疑っている』と疑心暗鬼にさせ、信頼関係にヒビを入れるのが常套手段。小売店故に、従業員にとって、お金で疑われるほど嫌なことはありません。


 お店に何の利益もない愚行を、なぜ誰も注意しないのか。それは、首謀者である大女将が、この老舗菓子店の『跡取り娘』だったからでした。


 一人娘で、幼い頃から蝶よ花よと甘やかされて育った大姑。当時はまだ『旧家制度』だったため、女性が家長になることは認められておらず、跡継ぎとして婿養子に入ったのが先代のご主人です。


 彼は大変腕の良い職人さんではありましたが、お店の実権は実の娘である大姑が握っており、もともと従業員で婿養子という立場から、自分の妻に強く物を言えなかったのです。


 彼女と私の祖母は、(旧制)藍玉高等女学校の同級生で、彼女の傍若無人な言動は幼い頃からの筋金入り、あまり他人を悪く言わない祖母が、珍しくぼやいていたのを覚えています。


 何より問題なのは、そうした大姑の悪行を、周囲が黙認している最大の理由が、その矛先を、お客様に向けさせないためだということ。祖母は、今もお店が繁盛しているのは、お菓子の味に絶対の自信があったからだけではない、と申します。


 先々代の大女将(大姑の実母)が引退して、彼女が表に出るようになると、気に入らないお客様に対して、『二度と来るな!』と言い放つことは茶飯事。そうした言動が一気に口コミで広がり、一時は酷い客離れでお店が傾くほど。


 そんな窮地を救ったのが、今の女将さんでした。大姑の長男と恋愛で結婚した彼女は、そうした姑の人間性をすべて知ったうえで、あえて自分が攻撃対象となるように仕向けることで、お客様への暴言を食い止めようと画策したのです。


 その思惑通り、嫁の粗探しに余念のない大姑は、ほとんど表に顔を出すこともなくなり、もともとお菓子の味には定評があったことと、若女将の人柄によって徐々に客足も戻り、今では多くの支店を出すほどに盛り返しを見せました。





 時は流れ、幼かった長男も結婚適齢期になっていました。ですが、件の理由からなかなかお嫁さんの来手が見つからず、たとえ来てくれたとしても、幸先は不安だらけです。


 一切の感情を封印出来るほど、メンタルの強い女将さんでさえ、何度心が折れそうになったか数知れず。それほど強烈なパーソナリティーの持ち主である大姑と上手くやって行ける女性を見つけるのは、砂浜に落ちた一粒の砂金を探すようなもの。


 長男の竜太郎さんが30歳を過ぎた頃から、茂義家では諦めムードが漂い始めていたのですが、いつもお菓子を卸している茶道の家元から、麻貴ちゃんのことを聞いた女将さんはその人となりを知るにつれ、彼女以外にはいないと確信を持ったのだそうです。


 女将さんの予感は的中。藍玉のOGであり、家事一切は完璧、何よりまったく他者と争わない性格で、最初こそ難癖をつけていた大姑も、一緒にいるだけで穏やかな気持ちにさせる麻貴ちゃんにすぐに魅了され、孫の結婚に異存はない、むしろ早急に話を進めるようにと、大歓迎の意向を見せていました。



「お待たせしました~。お料理が出来上がったので、こちらへどうぞ」



 麻貴ちゃんの呼び掛けにお話を中断し、ダイニングに移動すると、そこには目を見張るようなお料理が並んでいました。


 女将さんが麻貴ちゃんに白羽の矢を立てたもう一つの大きな理由は、彼女のお料理の腕でした。美味しいだけではなく、彼女の舌は一度味わっただけで完璧に再現してしまう、ずば抜けた味覚と感性を持っていたのです。


 食べ物を扱うお仕事ゆえ、彼女の才能はこれ以上ない財産である上に、彼女の作るお料理は、食べ物にうるさい大姑を満足させるのに十二分の効果を発揮していました。





 麻貴ちゃんの手料理に舌鼓を打った後、彼女へのプレゼント手渡しました。


 本人からフォトフレームをリクエストされていましたので、小鳥好きな彼女の好みに合わせて、クリスタルの素材に、スチールで小枝や小鳥をあしらったデザインのものをチョイス。


 とても気に入ってくれた様子で、プレゼントを置きに、私も彼女の部屋へ同行しました。最後にこの部屋へ入ったのは、中学三年生の時。必死で卒業試験のリハーサルをしていた頃でしたから、かれこれ12年ぶりです。


 当時も今も、几帳面に整理された室内には、たくさんのプレゼントが並び、掛けられていた純白のウェディングドレスに釘付けになった私。



「素敵~! これ、麻貴ちゃんが選んだの?」


「うちのお母さんと、竜太郎さんと、彼のお義母さんの4人で見に行ったんだけど、どれも素敵で選べなくて、最後には多数決で決めたの。いい加減でしょ~?」


「ううん、麻貴ちゃんによく似合いそうだわ! でも、こうして実物のウェディングドレスを見ると、実感が湧いてくるわね」


「それがね~、まだあんまり実感が湧いてないんだよね~」



 そう言いながら、可笑しそうに笑う麻貴ちゃん。さっき手渡したフォトフレームを大切そうに並べる彼女に、みんなが抱いている心配を投げかけてみました。



「聞いていい? 竜太郎さんのお義母さんは、優しい?」


「うん、凄く優しくて、いろいろと気を遣ってくれてる」


「お義祖母ちゃんはどう? 優しくしてくれてる?」


「うん、優しいよ」


「嫌なこと言われたりしてない?」



 その言葉に、少し困ったような顔で、唇に笑みを浮かべた麻貴ちゃん。


 幼いころから、他人の悪口を言えない彼女の、それがイエスのサインであることを知っている私は、彼女が答えやすいように質問を続けました。



「麻貴ちゃんのやり方に、もっとハイレベルなリクエストをしたり?」


「そうだね~」


「リクエストされたら、どうするの?」


「お義祖母ちゃんのご要望に応える努力をするだけだよ」


「そっか。でも、大変じゃない?」



 すると、麻貴ちゃんは小さく浮かべた唇の笑みをきゅっと結ぶと、今度は満面の笑顔で、こう答えたのです。



「リクエストに応えられたときね、すごく嬉しそうに笑うお義祖母ちゃんの顔を見ると、こっちまで嬉しくなっちゃうんだよね」



 それを聞いた瞬間、一気に胸の不安が消え去った気がしました。


 おそらく、大姑は若女将さんにしたように、まだ嫁いでもいない麻貴ちゃんにも、かなりきつく当たったことがあったのでしょう。普通の感覚なら、まず耐えられなかったと思います。でも、麻貴ちゃんが普通と違うのはその辺り。


 小学生のとき、彼女を揶揄った悪ガキたちを、完膚なきまでに叩きのめした(主に精神的に)私たち。


 私は、物心ついたころから、自己中で気分屋の母親から自分自身を守るために、相手の心理、特に『喜怒哀楽』を見透かすことが出来る特技を身に付けており、本人が一番恐れる、あるいは傷つく言葉で、制裁を加えていました。


 ところが、麻貴ちゃんは苛められた相手にも、自分の何がいけないのかを地道に工夫しながら、ストライクど真ん中にアプローチして行くような子でしたから、悪ガキたちも、やがて彼女の虜になって行ったのです。


 大姑も、そんなふうにハートを掴まれた一人だったのでしょう。イエスマンしか相手にしなかった大姑にとって、親以外で自分を受け入れてくれる初めての存在だったのかも知れません。


 何より、麻貴ちゃん自身がそれをストレスに感じるのではなく、喜びとして受け入れているのですから、抱いていた心配など、まったくもって杞憂だったのだと思い知らされた私。


 帰宅後、心配していた旧友たちにその旨を伝えると、ホッとひと安心したようで、後は結婚式当日を待つばかりです。





 麻貴ちゃん夫婦の新居は、本店に隣接する実家の敷地内に建築中で、新婚旅行から帰ったらすぐに新生活を始められるよう、着々と準備が進んでいました。


 パーティーなどの公式な場を除き、麻貴ちゃんが直接お店に関わることはせず、自分たち夫婦の家事一切と、義家族の食事の支度が彼女のお仕事になります。


 母屋には、家事と大姑のお世話をするために、何人もお手伝いさんがいましたが、味の好みにうるさい大姑の口に合うお料理が出来る人がおらず、麻貴ちゃんに大きな期待が掛かっていました。


 そのために、母屋のキッチンも彼女の使い勝手が良いようにリフォーム済みで、すでに週に一度はお料理を作りに通っていて、大姑も麻貴ちゃんが来るのを心待ちにしているのだとか。


 お料理以外は、特に大姑のお相手はしなくても良いといわれていましたが、自ら楽しんで接している麻貴ちゃんに、これまで散々苦しめられてきた女将さんはじめ周囲の人たちにとって、まさに救世主現るでした。


 何より、夫になる竜太郎さんに至っては、すでに麻貴ちゃんにベタ惚れ。


 当初抱いていたハンディキャップに対する不安も、実際に会ってみると特に問題は感じられず、むしろ繊細な気遣いや優しい雰囲気に瞬殺され、3度目のデートで彼女以外にパートナーはあり得ないと確信したといいます。


 それまで、自他ともにマザコン気質だと認めていた竜太郎さんも、今では麻貴ちゃんが最優先。ママのことなど二の次という変貌ぶりに、両親や友人たちからは『遅れてやって来た反抗期』と揶揄われる始末です。





 さて、いよいよ結婚式当日。


 老舗和菓子店の長男と、大地主で不動産会社の長女の結婚式とあって、招待された来賓客は総勢500人超という盛大なもので、その8割はお仕事関係の方々で、中には著名人の姿もちらほら見受けられます。


 そんなド派手な披露宴の中、優しい笑顔で微笑み、一人一人ににこやかに挨拶をする新婦麻貴ちゃんの美しさ、可憐さは、人々の視線を釘付けにしていました。


 入場は清楚に白無垢、次に絢爛豪華な色打掛、それから純白のウェディングドレス、更に可愛いピンクのカクテルドレス、最後のお見送りにはシックなイブニングドレスと、お色直しだけでも計5回という力の入れ様。


 どれも彼女を引き立てていましたが、やはり彼女の部屋で見たウェディングドレス姿が、一番似合っていました。


 最大の懸案事項だった大姑ですが、披露宴の最中にスイッチが入れば、最悪お式の中断や中止という事態にもなりかねず、かといって出席させないわけにも参りません。


 そこで、私が大姑の隣の席に座り、彼女のご機嫌をコントロールする役目を買って出ることに。


 お式の前に、麻貴ちゃんと一緒に何度か大姑と会う機会を作り、リサーチしていた私。祖母と同級生ということもあり、私を気に入った彼女は、当日私が自分の隣に座ることを、自ら進んで希望しました。


 勿論、私がそういうふうに仕向けたわけですが、事情を知らない人は、私を親族だと思ったでしょう。


 大姑は、周囲の空気を読まず、ちょっとしたことで怒りの感情を爆発させる癖がありましたので、その気配をいち早く察知し、



「喉が渇きましたね。お水を頂きましょうか」


「ちょっと暑いですね。すみません、少し空調を下げて頂けますか?」


「麻貴ちゃん、お色直し中だし、今のうちに、お手洗いに行きましょ」



 と、先回りして、すべての地雷を潰して行ったのです。


 お式に集中出来ない私に、ご親族はとても申し訳なさそうでしたが、母親との確執で得たこの忌まわしい才能が、麻貴ちゃんの晴れの舞台でお役に立てるのなら、こんな嬉しいことはありません。


 ピアノの演奏で祝福した朋華ちゃんが、二人のために選んだ曲は『Ave Maria』。明かりが落とされ、心地よく流れるメロディーの中、スポットライトに浮かび上がった麻貴ちゃんは本当に聖母マリア様のようで、来賓からは感嘆の溜息がこぼれたほど。


 若き天才ピアニスト笹塚朋華による披露宴での生演奏は、新郎新婦のみならず、この日この場に居合わせた全員にとって、最高の贈り物になったことと思います。


 こうして、結婚式は滞りなく執り行われました。





 あれから15年。麻貴ちゃんは3人の子供にも恵まれ、今も幸せに暮らしています。彼女から遅れること7年、私も無事結婚することが出来、今ではこの新興住宅地に住んでいます。


 午前中の用事を終えて帰宅し、ポストを覗くと回覧板が入れられていました。出かけている間に、萩澤さんが投函されて行かれたようです。


 日付を記入し、斜め向かいの葛岡さんにお届けしようとしたところ、お庭から話し声が聞こえて来ました。最近よくおばあちゃんのところに入り浸っている、橘井さんのようです。


 下手に届けに行けば、ふたりのお喋りに何時間も拘束される危険もあり、さて、どうしようかと様子を伺う私。


 おばあちゃんはお耳が遠いため話し声が大きく、聞くつもりはなくても内容が筒抜けです。とはいえ、いつになくエキサイトしている様子の橘井さんの声に、ついつい聞き耳を立てていました。



「…だから、腹が立って、嫁に言ってやったのよ。あんたの躾が悪いから、孫たちまで反抗的なんだって!」


「それで、嫁さんは何だって~?」


「ああいう女は、性格が捻くれてるんだろうね~。自分言えば良いのに、わざわざ息子に言わせんのよ!」


「へえ~。それで息子さんは~?」


「嫁に暴言を吐いたことを、謝れって。私は間違ったこと言ってないんだから、謝る筋合いはないって言ってやったわよ! そしたらまあ、何て言ったと思う!?」


「何て言ったの~?」


「おふくろがその性格を直さないなら、これ以上は一緒に住めない、自分たちは嫁の実家へ行くから、今後一切連絡してくるなって言うじゃない!」


「それで、出てったの~?」


「そうなのよ! どうせ、嫁の親もグルになって、最初っから息子や孫を取り込もうって魂胆だったに決まってるわ! あんな性悪女と結婚を許したばっかりに、息子まで馬鹿になっちゃってね!」



 橘井さんは、麻貴ちゃんの大姑同様、一人っ子の跡取り娘という立場の方で、婿養子のご主人とは、奥さんのご両親と同居という条件で結婚されました。


 一度も社会経験がないまま主婦になったことで、社会性が備わっていないらしく、人との関係性や距離感でしばしば問題を起こしていて、関係が親しくなればなるほど、拗らせることが多いようです。


 長男長女、二人のお子さんはそれぞれ結婚されて、ご本人は長男家族と同居、長女家族もこの町内に新居を建てたばかりでした。


 彼女の言い分では、『結婚すれば家族なのだから、何でも言える関係になって当然』とおっしゃるのですが、実の親子ならともかく、結婚したからといって舅姑と嫁・婿はあくまで他人、なかなかそうは参りません。


 どんなに盤石の関係性だと思っていても、ごく些細なことで簡単に崩れるほど、義理関係は脆いということを、先ず頭に置いておくべきなのですが、『嫁』の立場の苦労をした経験のない橘井さんには、それが分からないのです。


 挙句、反論できない相手の気持ちを汲み取ることが出来ず、『私はお腹にため込むのは嫌いだから』と、常に上から目線で暴言を吐き、本人だけがスッキリするという。


 かといって、反論しようものなら、『嫁(婿)の分際で、親に対する礼儀も知らないのか』と激怒するのですからたまりません。


 要するに、『姑』にするにはもっとも敬遠されるタイプであり、同居のお嫁さんに至っては、よく耐えていられると、周囲の誰もが敬意を払っていたほどです。


 とにかく干渉が酷く、お嫁さんやお婿さんは勿論、実の息子や娘からも引かれている自覚がなく、最近では新築の長女宅に上がり込んで、好き放題しているという専らの噂。


 そうして、とうとう同居する長男夫婦から愛想をつかされたのですが、話はそれだけではありませんでした。



「娘も、離婚することになりそうでね」


「そりゃまた、いったいどうして~?」


「あの婿は、前から気に入らなかったのよ。良い歳した男が、何かっていうと自分の田舎へ顔出して、みっともないったら!」



 娘さんのご主人は、自宅から車で2時間ほどの距離にある田舎町の出身で、主な地場産業が第一次産業であることから、若者の多くが進学や就職を機に都会へ出て行く過疎化が進む地域でした。


 娘婿さんの故郷では、古くから伝わる伝統的なお祭りがあり、彼も毎年参加していました。人間関係を重んじる土地柄に加え、過疎化で若い人が減っていることから、彼のようにお祭りの時期に合わせ、里帰りをするという方も珍しくないのだとか。


 見物だけならそのときだけの帰省で済みますが、参加するとなると様々な準備等があり、毎週末、最低でも1か月以上は通うことになります。


 そのことは、妻である橘井さんの長女も了解しており、子供たちもパパに同行していたのですが、それに対し、姑の橘井さんが苦言を呈したというのです。



「だからね、私、あの婿に言ってやったのよ! いい加減、そんな祭りなんかやめて、もっとこっちに時間を使えって!」


「婿さんのお里のご両親は~?」


「まだ元気で、むこうに住んでるのよ! 婿じゃ埒があかないから、直接むこうの親に言ってやったわ!」


「何て~?」


「『そちらは田舎だし、淋しいのは分かるけど、お宅の息子さんは、故郷を捨ててこっちの人間になったんだから、いい加減、子離れして貰わないと困ります』って!」



 その言葉に、思わず耳を疑った私。さすがに、これには葛岡さんのおばあちゃんもびっくりしたようで、橘井さんに尋ねました。



「で、むこうの親御さんは、何て~?」


「それが、聞いてよ! 『息子は、自分の意思でお祭りに参加してますし、子供じゃないので、親がとやかく言う筋合いではないと思ってますから。それに、そっちの人間と言われても、うちは息子を婿養子に出した覚えはありません』って言うじゃない!」


「へ、へぇ~」


「もう、あんまりにも失礼で腹が立ったから、私、返事もしないで電話を切ってやったわよ!」



 いったいどちらのほうが失礼なのか。少なくとも、彼は結婚してこちらに移り住んではいても、決して自分の実家や故郷を『捨てた』わけではないと思います。


 さすがに、この暴言には彼のご両親も怒り心頭で、長女には悪いけれど、今後は嫁実家と交流を持ちたくない旨、通告されたのだそうです。


 長女としても、義実家の言い分はごもっとも。ただ、話したところで通じる相手ではなく、本人には黙っているつもりだったのですが、子供たちが口を滑らせてしまい、橘井さんの知るところとなったのです。


 激怒し、娘婿に怒鳴り散らしたものの、うんざりした彼はとうとう自宅を出てしまい、今後も姑が勝手に来るようなら、二度と自宅には戻らないし、離婚も視野に入れていると言っているそうです。


 義実家からは責められ、夫には出て行かれ、実母は見当違いな怒りをぶちまけ、気の毒なのはとばっちりを受けている長女でした。


 そういう事情で、長女から合鍵を取り上げられてしまい、最近では、お昼間一人で暇を持て余している葛岡さんのおばあちゃんの所へ入り浸っていたのです。



「まあ、親も親なら、子も子ってことだわよ! だいたい、最近の若い人ってのは、年長者に対する敬意も常識もないんだものね!」


「確かに、最近の人は、そういうところが駄目になったねぇ~」


「葛岡さんも、お嫁さんにちゃんと教育しとかないと、どんどんつけ上がるから気を付けなさいよ!」


「それもそうだねぇ~。私たち年寄りがしっかりしないと~!」



 しばらく二人の動向を見守っていましたが、異様に盛り上がっている様子に、回覧板をお届けするのは奥さんか柊くんが戻ってからにしようと決め、家の中へ撤退しました。


 居間に戻ると、置きっぱなしの携帯に着信があり、見ると麻貴ちゃんからのメールでした。





 あの大姑さんのその後ですが、90歳を超え認知症も進行して来たため、去年の暮れから、完全看護の介護施設でお世話になっていました。施設へ入居させる際、本人の激しい抵抗に遭いましたが、その際も、彼女が入所したくなるよう説得に協力させて頂きました。


 麻貴ちゃんは週に一度、大姑の面会に訪れていましたが、彼女は運転免許を持っておらず、都合がつくときは私の車で送り迎えし、定期的に私も大姑に面会しては、更に彼女がこの施設を気に入るように、アフターフォローも万全。


 勿論、それらは頼まれたわけではなく、私自身、麻貴ちゃんとのお喋りでとても癒されるものですから、こちらから積極的に誘っており、今日も、いつでも良かった用事を口実に、彼女を送り迎えした次第です。



『今日は、どうもありがとう! とても助かりました。竜太郎さんも義母も御礼がしたいそうなので、今度また、うちのお菓子を食べに来てください。子供たちも、こうめちゃんに会えるのを楽しみにしています』



 文字を書くのが大の苦手だった麻貴ちゃんでしたが、PCが普及してからは、以前より随分楽になったようです。


 麻貴ちゃんにとって、『手で文字を書く』ことに比べて、『キーボードを打つ』ほうが断然やりやすいことが判明し、こうしてメールを送ることも出来るようになりました。


 彼女が抱えていたのは『ディスレクシア』といわれる文字の読み書き(その両方、もしくは片方の場合もあり)が著しく困難という学習障害の一種らしく、程度の差こそありますが、海外では約1割の人がこの障害を抱えているともいわれているそうです。


 一見同じ様に見える文字でも、麻貴ちゃんにとってはフォントの違いで読めなかったり、読みやすかったりするらしく、彼女へのメールは指定されたフォントで送るようにしていて、間違って違うフォントで送っても、自分で変換して読んでくれているようです。


 また、この症状は何割かの確率で遺伝することもあるらしく、麻貴ちゃんの3人の子供たちのうち、真ん中の子だけが母親と同様に文字を書くことが困難でした。


 ですが、当初からそのことが分かっていたので、学校側が対策を講じてくれ、タブレット端末を使ったり、かつて私たちがしたように、口答でのテストを採用してくれるなどの工夫をしながら、概ね他の子供たちと変わらない学校生活を送っているそうです。


 もし、麻貴ちゃんも幼い頃からそうした対応をして貰っていたなら、今とはまた違った人生になっていたかも知れません。





 和菓子店のほうですが、大姑さんが介護施設に入られた以外は、みなさんお変わりなくお元気で、お店もますます繁盛していました。


 一時、洋菓子ブームに押され、和菓子の人気は下火になったものの、竜太郎さんの斬新なアイディアで次々に新商品を開発し、従来の伝統的な和菓子に加え、洋菓子に親しんでいる若い世代の人たちの口にも馴染む新しいテイストの和菓子が人気を呼びました。


 かつて女将さんが見抜いた通り、麻貴ちゃんの天才的な味覚が、それら商品開発に大きな功績を果たしたのは言うまでもありません。


 更に時代の流れでインターネットでも出店を始めると、全国から注文が舞い込むようになり、特に人気の高い商品は数か月待ちの状況。今では、押しも押されもせぬ大人気和菓子店に名を連ねています。


 やがて3人の子供たちは、それぞれが和菓子職人・パティシエ・シェフになるという夢を叶えて行くのですが、それはまた、別のお話。





 夜になり、葛岡さんの奥さんの車が戻っているのを確認したところで、昼間渡せなかった回覧板をお届けに伺いました。


 インターホンを鳴らすとすぐ、柊くんの声で応答があり、小走りに出て来た彼に一緒に来るように懇願され、そこで私の目に飛び込んで来たのは、仁王立ちになっている奥さんと、涙目になりながら、肩で息をしているおばあちゃんの姿でした。


 いつもなら、リビングで思い思いに過ごしている、おりべ・いまり・かきえもんの3猫たちも、この緊迫した空気に姿を見せません。



「…どういうこと?」


「母さんとばあちゃんが、『出てけ』『行かない』で、言い合いになって…」


「何でまたそんなことに…?」


「『あんたは常識がない』って、ばあちゃんが…」



 すぐにそれが、おばあちゃんが橘井さんに感化されての、湾曲した正義感から出た言葉だと直感したものの、次の瞬間、『わああっっ!!』と大声で泣き出したおばあちゃんは、自分のお部屋へ行ってしまいました。


 とりあえず、おばあちゃんが変な気を起こさないか、柊くんに様子を見守るように指示し、怒り心頭のまま立ち尽くしている葛岡さんを宥め、お昼間の出来事を伝えると、納得した表情で頷きました。


 そして、大きく溜め息をつき、まだ治まりきらない怒りを何とか押さえ付けながら、今あった出来事を話し始める葛岡さん。彼女が会社から帰宅すると、いきなりおばあちゃんから『あんたは常識がない』と、暴言を浴びせられたのだそうです。


 意味が分からず、ひとまずおばあちゃんの言い分に耳を傾けたものの、年上に対しての敬意がどうの、挨拶の仕方がどうの、今それを言う必要があるのかというような事柄を、グダグダと言い続けるばかり。


 ただでさえ顔を見るのもうんざりなのに、疲れて仕事から帰宅し、食事の支度をしている最中、しつこく後を付け回してまで意味の分からない小言を言い続ける姑に、堪忍袋の緒が切れた葛岡さん。



「じゃあ、私のどんなところが常識がないのか、具体的に言ってみてよ?」


「この前だって、あんたの実家で法事があったとき、引き出物を持って来なかったでしょ!」


「貰ったって、どうせ溜め込むだけじゃない?」


「そういう問題じゃないのよ!」


「じゃあ、どういう問題なのよ?」


「あんたの実家は、うちを蔑ろにしてるとしか思えないし、そういうことはあんたの口から、ちゃんと言うのが常識じゃないの? 親が親なら、子も子って、こういうことを言うんだよね!」



 そう、お昼間、橘井さんが力説していた内容を、こともあろうに自分のお嫁さんに向かって撃ち放ったのです。


 もともと、他人の意見に影響を受けやすいおばあちゃん。エキサイトしながらお喋りし続けるうちに、橘井さんの強烈なキャラに感化されてしまったのですが、問題は、それを言った相手が悪すぎました。


 もとより、完全に人間関係を崩壊させる覚悟がなければ、絶対に口にしてはいけない発言を、亡くなった息子の嫁に向かって言ったのですから。



「そうですか、分かりました。じゃあもう、私には一緒に暮らして行く自信がありませんので、いつでも出てってもらって結構です」


「何で私が出て行くのよ!? ここは私の家でもあるんだから、出て行く道理なんてないでしょ!」


「前から思っていたけど、ここはあなたの家でもなければ、私には、あなたの扶養義務もないんです。私だけならまだしも、うちの実家まで気に入らないって言うんなら、どうぞ、あなたの次男夫婦のところへ行ってください」



 おばあちゃんは次の言葉が見つからず、目にいっぱい涙を溜めながら、感情が溢れ出しそうになっていたところへ、のこのこと回覧板を持った私がやって来たという次第です。


 リビングへ戻って来た柊くんによると、おばあちゃんはどこかへ電話を掛け始め、あからさまに悪口を言っているそうで、私と葛岡さんは思わず笑ってしまうと同時に確信しました。


 おばあちゃんの性格から考えて、変な気を起こすことはないだろう、と。



「ごめんね、修羅場に巻き込んじゃって」


「ううん。それより、大丈夫? あれは、売り言葉に買い言葉?」


「それもあるけど、いつかはちゃんとしないといけないことだし、真剣に考えるのには、ちょうど良い機会かも知れないもんね」


「そっか」



 葛岡さんのご主人が不慮の交通事故で急逝されたのは、私がこの町へ転入する数年前のことでした。それまで普通に同居していた嫁姑でしたが、長男であるご主人の死によって、その関係性に多くの変化が生じたのは事実です。


 おばあちゃん本人は、マイホームの建築に出資していると主張していますが、出した金額は5万円。常識的に『お祝い』と認識される額であるうえに、ご主人の法定相続人は、妻である葛岡さんと、長男の柊くんのみ、おばあちゃんには権利はありません。


 更に、おばあちゃんにはもう一人息子がいるため、嫁である葛岡さんにはおばあちゃんの扶養義務はないにも関わらず、本人はここを出て行く気などなく、次男嫁の強烈な性格から同居は難しく、次男自身も母親の引き取りを拒んでいるという、複雑な状況がありました。


 おばあちゃんが受け取っている年金は、すべて彼女のお小遣いになっていて、生活費全般は葛岡さんが負担していましたが、経済的なことよりももっと深刻なのは、おばあちゃんの年齢でした。


 今はお元気ですが、70代後半に差し掛かり、節々に肉体的な衰えが見え始めていて、少し前にも、鍵を紛失して大騒ぎした一件もあり、物忘れが多くなっている感も否めません。


 一番の問題は、お昼間おばあちゃんが一人きりということ。万が一、自宅内で倒れていたり、出火したりした際に、誰も気付かず手遅れになるという可能性もあります。


 そして、実際に介護が必要になったとき、その時になって慌てたり、押し付け合いにならないためにも、そろそろきちんとした話し合いを持つ時期に来ていると、葛岡さんは言います。



「多分、私が『鬼嫁』にされるね。別にいいけど」


「でも、冷静に考えれば、誰でも分かることだし。むしろ、今までよくやってたと思うよ?」


「って言っても、話し合いはこれからだし、義弟や義弟嫁の性格を考えると、前途多難だわ~」



 そう言って、苦笑した葛岡さんに、私も小さく微笑み返しました。


 家族のあり方は、誰を中心に、何を最優先させるのか、最大多数の最大幸福から外れた少数派の犠牲の上に成り立つしかないのか、いずれにしろ、元は他人だった人間同士が関わるゆえに、利害や感情が大きく影響するのも事実。





『にっこり笑って、バンパイアの胸に杭を打ち込め作戦』第五弾。今回は、決着がつかず、延長戦に突入です。


 後先考えず、口が災いして招いた今回の出来事でしたが、人はいつまでも今のままでいることは出来ませんので、これもまた運命だったのかも知れません。


 これから立ち向かう葛岡さんのご苦労を考えると、私まで胸が苦しくなりそうですが、今回ばかりは傍観者の立場の私、ガッツポーズは自粛することに致します。





 やがて、おばあちゃんの体調にも変化が現れるのですが、それすらも自らの糧とするべく、更なるパワーを炸裂するおばあちゃん。


 同居問題を解決するにあたっては、次男や次男嫁との折り合いもあり、新たな問題を産むことになるのですが、それはまた、別のお話。


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