第7話 その全て



 私はどうしてあのとき、手を伸ばさなかったのだろう。

 私はなぜ今頃、その言葉の意味を理解してしまったのだろう。

 今の私は、どれほどあなたと離れているだろう。

 今の私の言葉は、きっとどこにも届かず消えるだろう。




 十二月の早朝は、やっぱり震えるほど寒くて、ベッドから出るのに少し苦労した。

 明日は冬の大イベントであるクリスマスだ。けれども私が通う高校は、クリスマス当日まで登校しなければならない。私はあまりそういうイベントに興味はないので構わないが、クラスの友達は。「なんでそんな日まで学校に来なくちゃいけないのよ」と文句を言っていた。

 私たちの通う高校は、ゆっくり授業が進むことと春休み夏休みが長いことが特徴だ。授業に関しては学校側からは。「三年間で必要最低限のことは教えるが、より高いレベルの勉強がしたいのであれば生徒個人で勉学に励むこと」と一年生の頃に言われた。勉強面に関して言えば基礎レベルを学校側が、発展応用を生徒個人ですることによって、生徒が授業についていけなくなるという事態を回避している。

 ただ、勉強が出来る生徒にとっては基礎レベルの授業は退屈らしく、授業中に参考書や塾からの宿題をやっている子も多い。

 私は窓から灰色の冬空を眺める。今年はまだ雪が降っていない。

 見渡す限りの銀世界は、美しさと同時に自然への恐怖を私の体に刻み込む。

 昔、この時期に吹雪が続いたことがあった。歩きなれた住宅街の複雑な道も、通いなれた通学路も、自分が今どこにいてどこに向かっているのか、意識しなければ分からなくなってしまうほどだった。

 そのときのことは、よく覚えている。

 その雪は、見たくないものを隠してくれていたのに、気付いたら足元に現実が横たわっていた。あんなものが見たかったわけじゃない。あんな風になって欲しかったわけじゃない。

 私の足元には、白い雪の上に赤い花が咲いていた。

 それは足元だけでなく私の周りには、沢山赤い花が咲いていた。

 その光景は、美しいほど、残酷だった。

 欠伸を一つする。

 朝から嫌なことを思い出してしまった。

 もうそろそろ学校へ行く準備をしないと、遅刻する時間だ。制服の上からコートを羽織り、北風がつれてくる寒さに耐えながら私は学校へ向かう。

 三年間着続けたブレザーは、今やっと私の体に馴染んできたような気がした。




 今日は午前中にすべての授業が終わるので、お昼は家で食べる予定だったのだが、一つ下の妹に正門で捕まり、外食に変更。

「お姉ちゃんと二人で外食なんて、久しぶりだね」

 満面の笑みを浮かべながら妹のみはりは言う。

 一方の私は、クリスマスイブだからか、家族やカップルで賑わう少々お高いレストランの中に連れ込まれたので、苦笑いしかできない。

「みはりが高校に入ってからは全然外食しなかったもんね」

 昔は何かあるごとに外食していた。私やみはりが小さい頃は五人で。それが年を重ねていくにつれて四人になり、三人になり、ついには私とみはりの二人きりになった。

 不幸が重なり、不和が生じ、家族はいつしかバラバラになった。

 それでも、私は良かった。

 私はみはりが居てくれれば、みはりだけがそばに居続けてくれれば、それで良かった。

 それなのに、私は……。

「お姉ちゃんは、まだクリスマスが嫌い?」

 みはりの突然の質問に、一瞬だけ動きが止まってしまった。

 なんで、なんでこの子は私の隠したいことをこうも的確に言い当ててしまうのだろう。

 そう、私はクリスマスが嫌い。

 私が人を殺してしまった日だから。

 私が彼の全てを奪ってしまった日だから。

 私は、私が生まれたことを、一生許すことが出来ない。

 そんな心の葛藤を悟られないように、なるべく平静を装いながら答える。

「別に嫌いじゃないよ。嫌いになる理由がないもの」

「嘘だ」

 間髪をいれずにみはりは断言する。

 みはりは、私の最愛の妹は、私が起こした過去の悲劇を、知っているのだろうか。

 だとしたら、みはりは……。

「私が小さい頃に、お姉ちゃんに何があったかは知らないけれど、それでも」

 私はみはりの顔を見ることが出来なかった。

 見てしまったら、決心が揺らいでしまうと思ったから。

 今この当たり前の日常を、捨てきれなくなってしまうから。

「それでも、自分の誕生日を嫌いにはなって欲しくない。私は、お姉ちゃんはもっと自分を好きになっていいと思う。そんなに一人で抱えて、苦しまなくていいと思う」

 やめて。

 私にそんな優しい言葉をかけないで。

 私は、私が嫌いだから。

 どうか、みんなも私を嫌いになって欲しい。

 でないと、私は生きていけない。




 その後私たちは運ばれてきたご飯を黙々と食べ、帰り道も何も話さなかった。

 私は大好物のオムライスを半分、妹に分けてあげた。

 きっと、頭の回転が速いみはりのことだから、その意味にも近いうちに気付いてしまうだろう。

 薄暗い部屋の中、テレビから流れてくる世間の様々な事件や情報は、私が抱えている問題も、心を病むほどの苦しみも、小さいことだと言われているみたいで、少し嬉しかった。

 私が抱えているものは、そんなに重いものじゃないんだって。

 みんな多かれ少なかれ、悩みを抱えて、苦しみながら毎日を過ごしてるんだって。

 私は特別じゃないんだって。


 でも、それでも、私が生きていくにはこの場所は、だいぶ、かなり息苦しい。

 だから、私は今日この場所を捨てる。

 嫌でも思い出してしまうことが多いから。きっと私はいつかその思い出に耐えられなくなる。その前に、私は今ある全てを捨てることにした。

 大事だったものも、大切だった場所も、大好きな人も、愛してやまない妹のことも、私は今日から忘れて生きていく。

 部屋のドアから二回ほど遠慮がちなノックが聞こえ、その後少しの間をおいて小さい声で。「お姉ちゃん、入っていい?」とみはりが私の機嫌を窺いながら聞いてくる。

「入って良いよ」

 私は勤めて優しい声で言った。

 怒ってないから大丈夫だよ。って言外で伝わるように。

 みはりはゆっくりとドアを開け、恐る恐る私に近づいてくる。

 いつもなら私の隣に座るのだが、今日はちょっと離れた場所でクッションを抱えながら座る。

「お姉ちゃん」

 今にも消え入りそうな声で話すみはりは、今の私から何かを感じ取っているのだろうか、すごく悲しそうな顔をしている。

「今日は、いや今日から一緒に寝てもいい?」

 出来ることなら、私はみはりとずっと一緒にいたい。

 けれど、私と一緒にいるということは、傷つき、苦しみ、心が少しずつ着実に病んでいくということだ。

 私の汚れたこの両手では、みはりを守ってあげることも、救ってあげることも出来ない。

 病んだこの心では、いくら愛していようとも、私自身がその愛を肯定できない。

 私は、私が嫌いだから。

 私は、私の全てを疑ってしまう。

 妹への、この異常ともいえる愛をも、私は疑う。

「いいよ。もう十時過ぎたし、今日はこのまま一緒に寝ようか」

 それでも、今だけは一生懸命この子を愛そう。



 十二月二十五日。午前三時十三分。

 隣でぐっすりと眠る妹を起こさないように、静かにゆっくりとベッドから抜け出す。

 用意しておいた服を着て、妹から貰ったコートとマフラーを身につけて、必要最低限の荷物を詰めたリュックを背負う。

 部屋を出る前に、妹の頭を撫でる。

 さらさらで、長く綺麗な黒髪。私はこの髪の毛にずっと憧れていた。私の髪の毛は少しうねっていて、艶もあまり無い。だから、妹にはずっと髪の毛を伸ばしていて欲しくて、妹が髪の毛を切ると、私は機嫌が悪くなったりしたこともある。今となっては良い思い出だ。

 携帯電話は、勿論置いていく。


 深夜の住宅街は、体感温度よりも寒く感じた。

 空には満月が浮かんでいる。星は、見えない。

 私の将来を暗示しているような暗い道を、空を眺めながら歩く。

 さて、これからどこに向かって歩いて生きていこうか。


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