第37話 通り過ぎる日々

 伊都奈は、車を取りに一旦実家に戻った。晴恵に書いてもらったメモをスマホで検索すると、杜夫の自宅は、ここから十キロ程離れた、隣の市にあることがわかった。電車の方が便利が良いが、自宅に戻ることを考えると、車を置いて行く事はできない。実家へ戻ると、伊都奈の母は留守にしていたが、そのまま、母の帰りを待たずに出かける事にした。閑静な住宅地には、真っ赤なスポーツカーは浮いて見えた。しかし、直ぐに国道に入ると水を得た魚の様に走り出す。アクセルを踏み込むと、すぐに反応して訪れる加速感に心地良さを感じていた。打てば響く、最高の友人だった。


(あの時、いっぱい私を笑わせてくれた、あの、闊達な男の子に、一体何が起こったのだろうか……)


 伊都奈には、杜夫とヒキコモリを結び付ける事がどうしてもできなかった。しかし、晴恵が嘘をついている様には見えなかったし、嘘をつく必要性も見当たらない。とにかく行ってみるしかないと、伊都奈は運転に集中する事にした。

 十キロの道のりは、車では大した距離ではない。小学生の頃には別世界の様に感じていた、駅の中心街も、今となっては、古びた小さな街にしか見えない。時の流れ以上に、伊都奈の中には大きな変化が起きている。しかし、本人には自覚する事は出来ない。彼女の中では、突然変化したものなど一つも無く、全てが、なだらかに、ゆっくりと変わって行く。もちろん、これからも……。

 伊都奈は、車を駅の近くのパーキングに停めて、目的地に向かって歩き始めた。スマホが片手にあれば、始めての街でも、まず、迷うことはない。それこそ、右も左も分からない街角を、何の躊躇もなくスタスタと歩いている自分に違和感を感じながら、程なく、杜夫の家に到着した。

 外観は、至って普通の一軒家だ。暗い雰囲気も感じないし、庭には、洗濯物がはためいている。激しい日差しと、ついさっき吹き始めた風は、既に、洗濯物を乾かしてしまっているようだ。伊都奈は、まるで不審者の様に、家の様子を柵越しに伺っていた。すると、はためくシーツの向こう側から、伊都奈の母親と同い年ぐらいの女性が突然現れた。出会い頭にしっかりと目が合ってしまい、伊都奈は気まずい思いをしながらも、目を逸らす事が出来なかった。ここで、視線を外してしまったら、本当に不審者だと思われるかもしれない――伊都奈は一生懸命に口をパクパク動かした。


「杜夫のお友達? それとも、もしかしたら、ユーマ君のお友達かな? たまにあるのよ、ユーマ君、有名人だから、わざわざうちまで会いに来てくれる女の子がね」


「あ、あの……私、杜夫君の……」確かに杜夫と言った。ここで間違いない。伊都奈は心を弾ませた、と同時に、黒い霧が胸に中に立ち込めるような気もした。伊都奈はヒキコモリを家まで訪ねて行ったことはない。何と言って会えばいいのだろうか。きっと、家族が呼んでも良い返事がもらえることはないだろう。かと言って、直接呼びかけようにも、それこそ、小学生の様に、窓に向かって大きな声で、『遊びましょ』と声を張り上げる事も出来ない。やはり、母親と思われる、この女性に、事情を一から説明するしかないだろう。

 伊都奈は、今日の出来事を、何から何まで話した。自分でやっているネイルショップで、立て続けにキャンセルが入った事から、晴恵と話した事まで……。どんな訝しい顔をされるかと思っていたが、杜夫の母は、キョトンとして、しかし、明るい笑顔を称えたまま、黙って話を聞いていた。


「――それで、杜夫君とお会いする事はできますか?」

「そうねぇ、今は無理かな」伊都奈は、やはりそうかと、肩を落とした。


「丁度、ついさっき、ユーマ君と二人で出かけちゃったのよ。多分、駅の方へ行ったと思うんだけど……」

「出かけた……? 杜夫君は、部屋から出てこれないんじゃないんですか? だって、お祖母様が……」

「お祖母様なんて、かしこまらないで良いのよ」杜夫の母は少し照れながら、しかし、困惑した表情で、話を続けた。「そんな、引きこもってる事なんかないのよ、さっきだって、二人で、いっぱいカレーを食べて、元気いっぱいに出かけて行ったし、昨日だって……昨日は、あれ? 昨日はどうしてたんだっけ?」


 伊都奈は、何だか違和感を感じた。何かが普通じゃない。しかし、何かはわからない。ただ、どうにも不安を感じずにはいられない。


「昨日は……何故だか憶えていないけれど、おとといは……あれ? 思い出せないなあ、何故かしら。杜夫は引きこもってなんか……いえ、引きこもっていたのかしら、でも、だって……」


 伊都奈は、早くここを離れた方が良いと感じた。理由は伊都奈にもわからないが、このままでは、この人を――壊してしまう様な恐怖感が背筋を襲った。


「あの……私、これで失礼いたします」

「……あ、そう? うちで、帰りを待っていても良いのよ」

「いえ……また改めてお伺いします」そう言うと、伊都奈は足早に杜夫の母から離れた。


 車を停めた、駅前の駐車場に向かいながら、伊都奈は状況の整理に努めた。

(杜夫君は引きこもってなんかいない――そう、お母さんは言っていた。でも、お祖母さんは随分長いこと会うことができないと……。どっちが本当なんだろう。二人とも嘘をついている様には見えなかった……。もしかしたら、人違い? でも、住所は間違いなかったし、間違えて訪れた家の息子の名前が、偶然同じだなんてことも有り得ない。お祖母さんは娘が入院したと言っていたけど、もしかしたら、心の病気で……)


 いくら考えても、憶測の域から出られない事を悟り、晴恵のところに戻って、もう一度詳しく聞いて見ようと伊都奈は思った。もしかしたら、同行してくれるかもしれない。そうすれば、何が食い違っているのか、その場で判断がつくだろう。

 住宅地を抜け、駅に近付くと、段々と人通りも増えてきた。確か、駐車場の近くには、ハンバーガー店があったことを思い出し、そちらへ足を向けた。


(杜夫君は、今、一体どこにいるんだろう……。本当に出かけたのか、もしくは、実はまだ部屋に引きこもったままなのか……)


 その時、猫の鳴き声が聞こえて来た。伊都奈は家で待つチャーリーを思い出し、切なくなった。早く帰って、一緒に遊んであげたい、このまま帰ってしまおうか、という思いがよぎった。

 鳴き声の主は、伊都奈の視線の先の自転車のカゴの中にいた。キジトラだ。チャーリーの様な白猫も良いが、キジトラもまた良い。伊都奈が近付こうとした時、先客が現れた。

 伊都奈は小さく舌打ちをして、キジトラに手を伸ばした男性を見た。


 彼は伊都奈の理想を絵に描いたような男性だった。背が高く、端正な顔立ちに、金色に輝くような気品が漂う。優しく猫に微笑みかける表情を見て、きっと、優しい男性に違いないと伊都奈は思った。

 伊都奈は、猫とその男性が戯れる美しい光景を眺め、その足取りは遅くなった。ドラマのワンシーンの様に、スローモーションでゆっくりと時が流れる。しかし、それを邪魔する女性が現れ、その男性と会話を始めた。忌々しいとも感じたが、やはり、自宅で待つチャーリーのもとへと早く帰ろうと、二人と一匹の隣を通り過ぎたその時、女性の声が耳に届いた。


「――ねえ、 ユーマ君、杜生君ってすっごく雰囲気変わらなかった? 私びっくりしちゃって……」


(杜夫とユーマ……もしかしたら、彼が……でも……)


 伊都奈が探していた初恋の男性が目の前にいる。しかし、どうしても写真のあの子とは結びつかない。何かが間違っている、伊都奈はそう感じた。振り返ってみれば、ここに辿り着くまで、さまざまな違和感を感じた。小学生の頃に出会った闊達な少年が、ヒキコモリになったと晴恵から聞いた事、引きこもっているはずの杜夫が友達と遊びに行っていると母親から聞いた事、その母親の言動に不自然さが見られた事、そして、今、目の前にいる筈の杜夫は、『あのこ』と、にても似つかない男性に成長していた事。何かが間違っている、そう感じても、決定的な何かは見つからない。どこをどうとっても、あるのは違和感だけで、もやもやが胸に広がる。


 伊都奈は暫く彼らを遠巻きに眺めていた。


 しかし、しばらくすると、彼らの脇を通り過ぎ、そのまま歩き出した。杜夫は、伊都奈が恋に落ちてしまいそうなほど、素敵な人に成長していた。それはとても素敵な事だ。しかし、気が付いてしまった。

 もう、いないのだ。伊都奈が会いたかった、あの時のあのこは、もう存在しない。

 伊都奈に女子高生の時の様な、ときめきが消えうせてしまったように。

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