第36話 忘却という能力

「ああ、そうですか、やっぱり……ええ、実は中園さんに会いたいと言う人が――お孫さんのお友達何ですがね」


 中園晴恵は学校の直ぐ近くに住んでいる。ロマンスグレーの仲介で、彼女に会いに行く事になった。電話での会話で、あの子の正体は呆気なく判明した。中園晴恵は当時自分の娘が入院した時に、孫を一時的に預かっていて、一ヶ月程一緒に住んでいたことがあった。学校へは通える距離ではないので、ずっと休ませていたのだが、同年代の子と遊ばせてあげられないのをかわいそうに思って、たまに、昼休みや放課後に二人で小学校を訪れていた。


(ああ、その時、たまたま昼休みの風景でも、アルバム担当のカメラマンが撮影したんだろう。そう言えば、教室の後ろの壁に、番号付きのスナップ写真がいっぱい張り出され、欲しい人は買ってくださいと言う事があったなあ。私はこの子の事が気になっていたので買ったんだ。何だかそんな事があった気がしてきた)


 伊都奈はぼんやりと思い出しながら、ロマンスグレーに促され、学校を後にした。もしかしたら、本当に実在しれないのかもしれないとさえ思ったあの子の輪郭が、急激にくっきりとしたコントラストを描くようになると、ここへ来て、伊都奈に迷いが生じ始めた。


(ここまで、好奇心で突っ走って来てしまったけど、本当に、これで良いのかな? あの子に会ったら、私は何を話すのだろう……でも、本当に、好奇心だけでここまで来たのかな。何か違う気がする……。そう、きっと、私は、私の中の何かを確認するためにここまで来たんだ。何かは良く説明できないけど、とにかく、会わなければ、何かを始められない気がする。それに、きっと、会えばはっきりするはずだわ)


 伊都奈は忘れてしまっていたが、元々の出発点は、友人の琴子からだ。恋愛に夢中になり、一喜一憂する琴子と、恋愛に価値を感じなくなってしまった自分とは、どこで道を分けてしまったのか。幸せなのは、琴子なのか、自分なのか。私が会いたいと思う男性に備わった魅力とは何なのだろうか、その疑問を解消するために、伊都奈はここにいいる。

 そして、一度卒業してしまった恋愛に、再び入学する為にここにいるのだ。伊都奈は、漠然と理解はしていた。しかし、前を向いて走り出した伊都奈には、昔のことを振り返る余裕はない。今、彼女の脇をかすめて行く、当時歩いた思い出の並木道や、照りつける太陽のもと、夢中になって毎日通った秘密の釣り場さえ、彼女の心までには届いていない。

 実のところ、彼女の心中にあるのは、自分の欲求を満たすために、どこまで他人を巻き込んでも良いのだろうか、という事だった。親切なロマンスグレーもその一人だが、誰でも彼の様に協力的とは限らない。誰にでも、触れられたくない部分は必ずある。これだけの時間が過ぎ去ってしまった後には、どんなパンドラの箱が出来上がっているのかも知れないのだ。そして、この何となく始まった、この迷いは、やはり、伊都奈の感の良さを証明する事にもなった。


 わざわざ道案内して送ってくれた、親切なロマンスグレーに手を降り、伊都奈は中園さん宅のベルを鳴らした。ドキドキしながら待ったが、玄関は程なく開いた。何と切り出そうかと、俯いたまま、口をパクパクさせていると、向こうから声をかけてくれた。


「ありがとう、来てくれて、あの子の……お友達でいらっしゃるのね」いいえ、と言いそうになって伊都奈は口を閉じた。なんせ、今日まで忘れていたくらいなので、友達とは言えないと思うのだが、友達でないのなら、ここへ来る理由もなくなってしまう。「ずっと……会ってないんですけど……」


 伊都奈はやっと、俯いた顔を、あのこのおばあさんに向けた。


 晴恵は、伊都奈を快く招き入れると、狭いが整頓の行き届いた玄関にスリッパを並べた。晴恵の後について歩く伊都奈は、期待と不安で、鼓動が速くなり、息苦しさを覚えた。お茶をいれてきますね、と言うと、晴恵は伊都奈を応接間に通して、台所の方に歩いて行った。


 伊都奈は、所在なげになんとなく部屋を見回した。すると、隣の部屋の襖が少し開いていた。布団が敷いてある。もしかしたら、晴恵は体調が悪いのかもしれない。あまり、長くならないように、おいとましようと考えながら、じっと、漆黒の応接台を見つめていた。勢いでここまで来たものの、何を話していいか、まだ、まとまらなかった。そもそも、なぜ、あの子を探しに来たのか、その理由も明確ではなかった。ただ、不意に訪れた時間の隙間に、ふっと思い出したあの子への疑問が重なっただけだ。まごまごしているうちに、晴恵が戻ってきて、手際良くお茶を入れ始めた。確かに、あまり体調が良い様には見えなかった。


(優しそうなおばあさん……あの子の面影が何となく滲んでいる。どこから切り出そうか、どこまで話そうか)


 考えながら、もじもじしていると、晴恵の方から話を始めてくれた。伊都奈には分からない事だが、一人暮らしの老婦人にとって、誰かが訪ねてくる機会は多くはない。それも、孫の古い友人が、わざわざ探して訪ねて来たとあれば、断る理由はどこにも無かった。もっと言えば、話したくてしょうがないのだ。自分の孫とは、話したくても、なかなか出来なくなってしまったのだから。


「あの子の母親はね、小さい頃から病弱で、よく……気を揉んでたんですが、大人になってからは随分と丈夫になってねぇ、安心してたのに、無理したのがいけなかったんだろうけど、入院する事になってね。その間、杜生を預かったのよ」


(モリオって名前なんだ……。それにしても本当に優しそうなおばあさんだなあ、うちのお祖母さんと正反対だ。向こうから話してくれて本当に助かった)


 笑顔のお祖母さんの視線が、何となく左へ傾く。視線の先には仏壇の遺影があった。凛と引き締まった男性の写真だ。還暦前後だろうか、遺影には若過ぎる写真だ。

 伊都奈は小さな頃に亡くした父親の事を思い出していた。ほとんどが、アルバムや、母親の思い出話しなどによる、後付の記憶なのだが、人間の脳は本当に怖ろしい能力を持っていて、まるで、自分も当時、母と父と一緒に、その場にいた様な記憶が出来上がっているのだ。(きっと、脳内麻薬みたいなものがそうさせているんだろうなぁ。だとすれば、麻薬は私にとって必要だ。友達が手を染めていたら全力で止めるだろうけど、私には……。まったく、脳みそって上手くできている事ね)


「杜生さんには会えますか? 会いに行って良いでしょうか」


 ここまで来たら、それしかない。伊都奈は、ようやく考えがまとまった。ここまで勢いで来たのだから、これからも勢いで行くしかない。杜夫は一体どんな男性に成長しているのだろうか。


(笑顔が素敵で、闊達な男の子だったから、きっと、営業とかしてるんじゃないかな? それか、魚屋さんとか、何だか威勢が良い感じの……)


「あの子は本当に優しくて、いつも、相手の事を考えてくれて、いつもニコニコしていてね。可愛い孫なんです。閉じ篭ってしまう前は、ここにも良く遊びに来てくれてね、おばあちゃん、おばあちゃんって、慕ってくれたんですよ」


 伊都奈が、まだ見ぬ杜夫に思いを馳せている中、お祖母さんは、少し俯いたようだ。伊都奈は暫くそれに気付けなかった。

 長い沈黙が続くうちに、やっと伊都奈もその雰囲気を悟った。待った方が良いのかと、様子を見ていた。しかし、晴恵は口をモゴモゴ動かすだけで、その唇は開かない。まるで、上下の唇が離れなくなる魔法でもかけられたかのようだ。どうやら、今度は、自分が話を始める順番だと感じた。


「もしかして、杜夫さんは、ご病気か何かですか?」

「――病気……なのかもしれませんね……。実は杜夫は、もう何年も部屋から出てこれない様なのです」

「出てこれない――ヒキコモリって事ですか? まさか! そんな……。だってあんなに、いつも笑顔で楽しそうで、私を笑わせてくれて……。そんな……信じられない」


 伊都奈は、晴恵の気持ちも考えず、思ったままを口にしてしまった。言ってからハッとした――晴恵の表情が、みるみる不安に覆い尽くされて行く。ヒキコモリだなんて、あり得ないと信じ込んでいたので、そう口から出たのだが、杜夫が本当にヒキコモリだった時の事を想定していなかった。ヒキコモリの孫を持つ人に、ヒキコモリなんて、有り得ない、信じられないと言ったところで、彼女を責める以上の効力がある訳がなかった。


「そうなんです、私も信じられないの。どうして、そんな事になってしまったのか。検討もつかないんです。全く……」


 晴恵は、優しい笑顔を何処かになくしてしまって、視線が泳ぎ、おろおろと、頻りに両手の指を口元で動かしている。その変わり様に、伊都奈は事の重大さを理解した。しかし、何を話して良いか、検討も付かない。しかし、黙っている訳にはいかなかった。

「私だって、もう、部屋から出たくないと思う事はありますよ。でも、結局いられなくって……出てきちゃうんですよね。私ったら、何か、思いついたらいても立ってもいられないタイプで……。今日もそんな感じで、お伺いしちゃったんですけど、杜夫君は――」


 伊都奈は『思いついたら』じっとしていられないタイプで、自分でもそれは自覚していた。でも、晴恵から、杜夫の話を聞いて始めて、自分を振り返り、ある事に気が付いた。


(もしかしたら、『何も思いつかなければ』私もじっとそのまま動けなくなってしまっていたのだろうか)


 伊都奈は身震いした。部屋から出てこないなんて、別世界の出来事だと思っていた。でも、すぐ近くにあるのだ。きっと、ほんの少しのきっかけで、その扉は開いてしまう。

 もう思い出す事は無くなっていたが、伊都奈にも引きこもりの扉を開けてしまった事があった――結局、開けてしまっただけで、その扉の中に入る事は無かったが、一歩だけでも向こう側へ行っていれば、伊都奈にも、当然訪れた出来事だったに違いない。


 小学校低学年のころ、伊都奈はクラスの中で、一番背が小さくて、華奢だった。どう言うきっかけだったかは伊都奈も覚えていないが、隣の席の大吾君が、伊都奈の事を『コビー』と呼び始めた。小人のコビーと言う事らしい。その男の子だけがそう呼ぶので、初めのころは気にも留めていなかったが、伊都奈が宿題を忘れてしまった時、仲の良い女の子に宿題を写させてもらっていたのを見た、ある男の子が、『宿題忘れてコピー』と言い出した。その後、先生に褒められた時には、先生にひいきされるコビ(媚び)と言われ、どんどん悪い意味が追加されていった。いつの間にか、同じクラスの男の子は皆、伊都奈を何かしらのあだ名で呼ぶようになり、やがて、クラス中に、自分達よりも下に見て良い存在だと言う共通認識が出来上がってしまった。それからは、何をしても何か罵られる事になった。良い事をしたときにも皮肉を言われ、悪い事をしたときには、より、悪く言われた。ついに、伊都奈は学校へ行く事が嫌になり、仮病を使った。伊都奈の母は、仮病を黙認したが、次の日には強制的に家から追い立てて学校へ行かせた。


 伊都奈は、この日に、引きこもりの世界への扉の中に入るか、こちら側に留まるかの境目があった事に気が付いた。杜夫に何があったのかは伊都奈には分からない。しかし、もしかしたら、そんな、些細な事だったのかもしれない――伊都奈は当時の記憶を、また、辿り始めた。


 仮病で休んだ次の日、伊都奈が学校へ到着して席に着くと、直ぐに男の子たちが伊都奈をからかい始めた。その時、その男の子の内の一人が、勢い余って、伊都奈の隣の席の大吾君のカバンを蹴飛ばした。大吾君はクラスの中でも体が大きく、力持ちで、他の男の子達からは少し怖がられる様な存在だったので、一瞬教室が静まり返った。大吾君は、黙ったまま立ち上がると、男の子たちの方へ向かって、こう言った。


「もう止めろよ、めんどくせえ」


 大吾くんは、そのまま教室の外へ出て行った。


 この日から、伊都奈の事をあだなで呼ぶ生徒はいなくなった。些細なきっかけで始まったいじめは、些細なきっかけで終わった。大吾君から始まり、大吾君で終わったのだ。

(この時、大吾くんが何も言わなかったら、母親が無理矢理学校に行かせなかったら、私がサボって授業を受けなかったら……きっと私もそうなっていたんだ。部屋から出て来れずに、引きこもりと呼ばれる生活が、もしかしたら、今日の今日まで続いていたのかもしれない。何かのきっかけで、何かが変わる……あの時の大吾くんの言葉のように……。でも、部屋にずっと一人でいる生活には、何かを変えるきっかけなどあるのだろうか。一日休めば、二日目はもっと出にくくなる。一週間、一年続けば……。考えると、また身震いがした。伊都奈は今まで気が付いていなかったが、あの日、自分は断崖絶壁の淵に立っていたのだ。些細なきっかけから、もう一歩を踏み出さなかっただけで、一度落ちてしまえば、這い上がるには困難を極める深い谷なのだ。どれぐらい大変なのかは、伊都奈の目の前のお祖母さんを見れば一目瞭然だ。この、優しそうで、孫の事を愛して止まないことが伝わって来る、ある意味、理想の様なお祖母さんであっても、大切な孫の、そんな日々に、何もできずに手をこまねいて見ているだけしかできない……そんな些細で、恐ろしい世界へのドアは、日常に溢れている。

 晴恵は、相変わらずおろおろしたまま、時折、仏壇の写真に視線が留まる。夫をなくしてから、一人で様々な問題と戦ってきたのだろう、しかし、この問題は、誰と戦うべきなのかさえ判然としない。自らの孫と戦うのか、それとも、その母親である、自分の娘となのか、はたまた、晴恵の、全く及びもつかないところにいるのかもしれない。当の孫には、会う事を拒否されたまま、相手の見えない戦いは、いたずらに時間を消費していく――そんな日々を思いやるだけで、伊都奈の心は押し潰される様に苦しくなった。しかし、そうばかりも言っていられない。伊都奈には伊都奈のためにやるべきことがある。


「あの……モリオ君はどちらにお住まいですか?」

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