第22話 ゼロに戻るリセットボタン

 幸せな日々だった。

 新しくできた彼氏は、まさに、理想の男性像だった。何を話しても笑顔で聞いてくれて、辛い時には必ずハグしてくれる。

 出会った時の夜もそうだった。ずぶ濡れのまま抱きとめた私を、彼はそのまま強く抱き締めた。持っていた傘をその場に放り出して、二人で雨に濡れながら、私の部屋まで送ってくれた。その間も、ずっと、優しく頭をなで続け、部屋に到着すると、そのまま帰ろうとした。しかし、私は彼の手を握り締めて離さなかった。彼は察したように部屋に入ると、ダイニングの洗濯機の上に置いてあったバスタオルを見つけて、私を覆い、冷えた体を温めながら体中を拭いた。私は彼の服を脱がせて、同じようにバスタオルに包んだ。私達は、何枚もの大きなバスタオルに包まれたまま、日が高くなるまで抱きあって眠った。

 そのまま、彼は――ユキヒコは、私の部屋にいる。私が仕事で出かけるときに、一緒に部屋を出て、帰宅する頃に部屋に戻ってくる。荒れ果てた私の心は、すぐに塗り固められ、恭弥との事など、まるで、元からなかった事の様に感じられた。

 そう『ゼロ』に戻ったのだ。心のリセットボタンを押すことで、辛かった思い出を全て消し去ってしまうことができる。楽しかった思い出もろともに……辛かった事や、失敗した経験も、全ては無かったのだ、全て消し去ってしまうのだ。


 しかし、ゼロにしてしまえば、また同じ失敗を繰り返してしまう……私はまだ、この事に気が付いていなかった。

そうやって、賽の河原で石を積み上げていくような恋愛の中で、これまで私は生きてきた。

なぜ、私の恋愛は上手くいかないのだろうか、なぜ、うまくいかない相手との恋愛を選んでしまうのだろうか――いつも、その答えを見付ける前に、リセットボタンは押されてしまう。


 その日は、夏向けから、秋冬物へと商品が入れ替わる事もあって、午前中から客が多く、販売部員達はドタバタしていた。

 まだ、仕事に慣れ切っていない私は、あたふたとするばかりで、戦力と呼ぶには恐れ多い、せっかく覚えられたと思っていた商品のラインナップが、根こそぎ入れ替わってしまうという事に恐怖にさえ感じた。とにかく、見よう見まねで、周りの販売部員に合わせて、届いた荷物をほどいて行く。あらためて、それぞれの商品の違いが、何とわかりにくいことであろうかと溜め息がでた。口紅だけでも、赤色にこれだけの種別と名前があることが不思議でならない。クラシックワインレッド、チャコールスタンダードモカ、ヴェルヴェットコケティッシュライト……。ネーミングからは、およそ色彩を想像できない。

何とか開店時刻までに全ての商品を並べ終わり、やっと一息つけるかと思ったのだが、今日から始まった、秋冬物キャンペーンのため、どっと客が押し寄せてきた。キャンペーンの仕組みも複雑で、本日購入分には2倍のポイントが加算される。通常は、翌日以降にしか使えないポイントだが、キャンベーン期間中は、これまでのポイントに加え、本日分のポイントまで使用できる。ただ、キャンペーン適用外の物に関しては、この限りではなく、手作業で分けて計算しなければならない。

 何とか初めの内は業務をこなす事が出来たが、段々と客を待たせることが多くなり、途中から先輩販売部員に言われるがままに動くようになった。営業スマイルもいつしか忘れ、まるで、自分を工場で働くロボットの様に感じ始めた。客足はその後も途絶えず、訳も分からない内に一日が終わり、気が付けば、昼食もとっていなかった。

 棒のようになった足で、何とかロッカーまで辿り着き、もたれかかるようにロッカーを開けた。扉の内側の鏡にボロボロになった自分の姿が映る。気の毒な自分にかける言葉も見つからず、私はダラダラと着替えを終え、裏口へ向かった。

そこへ、先輩販売部員が声をかけてきた。


「あなた、ポイントの計算間違えていたわよ。やっと締めの作業が終わったと思ったら、ポイントの訂正をして、明日は、お客様に電話をかけて回らなといけないわ」


(まさか……たどたどしかったとは思うけれど、気をつけて計算していた筈だ。間違えたとしたら、きっと、言われるがままに作業をしていた――今話しかけている、あなたの指示通りにやったからでしょう?)


「でも……」と言いかけた所で、かぶせ気味に先輩販売部員が反撃してきた。

「でも、じゃないのよ、あなた、『でも』とか『だって』が多すぎない? 自分の作業には責任持ってよね、ただでさえ言われた通りにしか出来ないんだから……言われた通りにも出来ないんじゃ、使い用もないわ」


(でも、私のせいじゃない……)


 有理香はぐっと堪えて、まるで、たったひと滴だけ、からっからに乾いた雑巾に垂らされた水を、渾身の力で絞り出すように、謝罪の言葉を声にした。


「も……申し訳……ございませんでした」


 頭を下げながら、心の中で叫んだ――誰か助けて欲しい。なぜ、いつも私のところには、貧乏クジしか回ってこないのだろう。きっと、そうなのだ、私のところにクジの順番が回ってきた時には、きっと、もうハズレクジしか、箱の中には入っていないんだ。

 精も魂も尽き果てて、やっとの事で店の外へ出た。何時の間にか雨が降っている。しかし、カバンの中にはいつも入れている筈の折り畳み傘は入っていなかった。それならそれで丁度いい、家に帰るまで我慢しなくてはならないと思っていたが、どうやらその必要はなさそうだ。雨が涙を隠してくれる……。

そう思って雨の中に踏み出そうとした時、そこには偶然、ユキヒコがいた。彼は優しい目でこちらを見ている。

「有里香が呼んでる気がしたんだ」

有里香は泣き崩れて彼の胸に飛び込んだ。彼がさした傘の中、また、初めて出会った日と同じ安堵感に包まれた。この、優しい揺りかごの中から一生出たくないと強く思った。


 二人の生活が始まった。同棲しようと話をした事はないが、自然と彼は私の部屋にいるようになった。不思議な事に、ユキヒコは私が会いたいと願うと現れる、これは偶然と呼ぶにはあまりに陳腐だ、きっと運命と呼ぶんだと思った。彼の出現を願う回数が多くなって行った、そして一ヶ月ほど前からは、ずっと一緒にいる。同棲していると言うより、ずっと一緒にいると言う表現の方が正しいだろう。いつしか、私も外へ出なくなった。仕事にも、もちろん行っていない、食事は全て出前で済ませる。先週からはゴミを捨てに行く事すら嫌になり、だんだんゴミ袋が増えていく。でも、彼がいれば幸せだ。彼と抱き合っていれば、ゴミの臭いも気にならない。


 夢の中でも彼と一緒だった。夢の中で彼と抱き合い、夢から冷めて、現実世界で目を開けるまでの間が唯一私の不安な時間だった。目を開けたら彼がいなかったらどうしよう。本当は全部夢だったらどうしよう――しかし目を開ければ彼はいる。夢の中でも、夢から冷めても彼はいつも私の視界の中にいた。


 私の事好き? きっと嫌いよね? 嫌だよね? 同じ様な事を繰り返し聞いた。しかし、彼は優しい目でみるばかりで、その目の中に、嘘は微塵もなかった。真っ直ぐすぎる目に安心し、満足だった。


(やっぱり間違いない、彼は運命の人だ)


 そう確信する一方で、モヤモヤとした不安も増えて行った。


 彼が風邪をひいた。でも彼は病院へ行かなかった。なぜ行かないのと聞いても、優しい目で見つめるばかり。私は正直嬉しかった、病院へ行きなさいと口では言ったが、本当は行って欲しくなかったからだ。


 ドアを激しく叩く音がよく聞こえるようになった。誰かがドアの外で大きな声をあげている。大家さんだろうか、家賃を二ヶ月滞納したので部屋まできたのだろうか、もうすぐ出前を頼むお金もなくなる。それでも幸せだった。彼と一緒にいれば、何もなくても良い。死んでしまっても構わない。


――夢を見た。夢の中に彼はいなかった。一人で真っ暗な闇の中を歩いている。遠くに光が見える……。

私は目を覚まして急いで彼を探した。ちゃんと隣に寝ていることを確認し、安心した。しかし、彼の顔色は優れなかった。風邪を引いた時から、熱は下がったが、体調の悪い日が続いているようだ。彼は目を覚ますと、優しく私の頭を撫でた。私は嬉しくなって、彼の頭を撫で返した。彼は優しく微笑んで、また、ゆっくり瞳を閉じた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る