第21話 会いたくない人

 全てを照らし出す黄色い太陽――私だけは照らさないで、誰の目にも留まらないように、暗い闇で覆い隠して欲しい……。

 しかし、現実は残酷に照らし出される。今一番見たくないものが見える。そして一番見られたくない――あの男が、私を見ている。


 駅前公園のベンチでランチが、日課になった。

 ランチと言っても、もう午後三時半をまわっている。客商売なので、いつも定刻通りにと言うわけにはいかないし、他の美容部員と交代で休憩を取るので同僚とお喋りしながら……なんて優雅なものでもない。ホッと一息できるほどの余裕もなく、ただ、一生懸命に食べ物を口に押し込む時間だ。

 しかし、今日はいつもと違った。昼休みはあまり良い時間とは言えないが、それでも、今日の出来事に比べれば何倍も良かったろう。まさか、電車の警笛を呪う日が来ようとは、夢にも思っていなかった。

 駅前公園のベンチに座って、サンドイッチに手をかけようとした時、思わず声をあげてしまうほどの、大きな音が辺りに響いた。駅へ侵入してくる電車が、けたたましく警笛を鳴らしたのだ。

――ギギギギギギ 

 という甲高く不快な音に引きつけられて、思わず、音のする方を見上げた。ホームがある駅の二階部分に、一瞬にして駅前公園にある全ての視線が集中した。まだ、警笛は鳴り続けている。

 事故でもあったのだろうか……と思いながら、音のした方向から目を離し、ゆっくりサンドウィッチに視線を下げた。

 駅のホームからサンドウィッチへ続く直線上を、私の視線が辿る中に、なんだか気になるものをがあった。気にしないでいればよかったのにと思うが、ついつい、凝視してしまった。

 向かい側のベンチにスーツを着た男が座っている。男は、有里香と同じように、警笛に呼ばれて半身を反らせ、まだ、駅のホームの方を向いている。周りにいる人は皆、その男と同じようにホームに顔を向けていた。その、誰もが静止した一瞬が、まるで一枚の絵画の様に、時間をここだけ切り取っていた。

『顔のない風景』と言う作品名にでもしようか――見えるのは、全員の後頭部だけだ。やがて警笛が鳴り止むと、それを合図にと、申し合わせていたかのように、止まった時間が動き出す。

 ベンチの男が半身の姿勢から振り向き直った。

 私は初め、何の感情もなくそれを眺めていた――それこそ、ただの風景として。しかし、その、顔の見えない風景画から、よく見知った顔が、みるみる色味を帯びて、現実の世界に照らし出されてきた。


 太陽は、今日も黄色く、明るかった。


「おまえ――何をしてんだよ。随分、色っぽく化けたもんだな」

「恭弥……」


 化粧品販売店で働く前は、全くと言って良いほど化粧はしていなかった。だから、販売部員メイクをしていれば、私を知っている人は、みんな驚くだろう。

 そう、私を良く知っている男、私を無残にふった男、一番会いたくない男が目の前に立っていた。なぜか、満面の笑みをたたえている……。

 かつて愛したとびきりの笑顔に、つい見とれてしまった事に自己嫌悪を感じた。

 はっと正気に戻って、思わず、ガタンとベンチを鳴らして立ち上がると、恭弥から逃げ出した、しかし、すぐに追いつかれ、逃げ道を塞がれてしまった。


「休憩時間が終わってしまうから――」


 そう言って、男の腕をかいくぐって走り出したが、恭弥はしつこく後をついて来た。

(あの電車の警笛のせいだ。あんな音がならなかったら、私がこんな思いをしなくて済んだんだ。恭弥に見つかる事も無かったんだ)

 やっぱり、まだ整理をつけきれていない……突然の別れを告げられてから、突然に会社をクビになり、深く傷ついて、泣きながら、無我夢中で職を見つけ、何とか働き出したところなのに……生活が落ち着いてきて、やっとこれから、過去とさよならして、これからの事と向き合う為の準備が始められると思っていたのに……。


 恭弥は、売り場の中までは流石に追って来なかった。少しほっとしたが、胸の動機は中々治まらなかった。あの男――一条恭弥は、私にどれだけ酷いことをしたのだと思っているのだろう。それなのに、よくも笑顔で話しかける事が出来たものだ。

 しかし、恭弥と会って、私の心に疑問が生まれてしまった。

 果たして、私は恭弥を憎んでいるのだろうか、あの笑顔に、今でも愛情を感じる気がする自分はおかしいのだろうか――職場に戻って、客の応対をしながらも、そんな事が浮かんでは消え、また浮かんだ。


(恭弥のせいで私は不幸になったんだ。あいつと分かれて、やっと自分を取り戻そうとした時に、また現れて、今度は一体私をどうするつもりなの? また、騙してひどい目に合わせるに違いないわ。でも、本当は私に会いたくて、探していたのかもしれない。やっと見つけたのに、私が一目散に逃げ出したとしたら、どう思ったかしら。だって、あの時、ずっと一緒にいようと言った気持ちは本当だったはず。きっと、あの時の、あの時点では本当だったに違いないわ。会社の方針が変わって、しょうがなく私と別れる決意をしたのかもしれない……)


 さまざまな思いが胸を叩き、頭の中をかけめるぐ中、どうにか今日の仕事を終えた。トイレで仮面の様なメイクを落とし、いつものそっけない顔に戻って、鏡の中の自分に問いかけて見た。


「私は一体、何を望んでいるの? 何を恐れて、何を期待しているの?」


 恭弥は、私の仕事が終わるのをデパートの裏口で待っていた。ビル柱の影から不穏な笑顔を浮かべながら現れた。日はとっくに暮れていて、暗い裏通りに、やさぐれた恭弥が溶け込んでいた。ドラマで見た、主人公がストーカーに付き纏われるシーンが重なって見えた。


「おまえ、責任とれよ」


 唐突に恭弥が話し始めた。相変わらずの上から目線で、さも当然と言わんばかりの自信たっぷりな物言いだ。一体、私が負うべき責任とは何なのか、全く意味が分らない。責任を取ってもらいたいのは私の方だ。この一言を聞いて、強烈な怒りが心の中に広がった。


「責任ってなに? あなたが私にした事を覚えているの? 責任を取ってほしいのは、私の方だわ」


 私は怒りにまかせてそう言うと、自宅へ向かって歩き始めた。

 恭弥は私の腕を強引に掴んだ。カツカツと甲高く響くヒールの足音も一緒に止められてしまった。そして、自分のハートをわしづかみされた様に感じて、胸が苦しくなった。それでも、小さな声で抵抗した。


「責任って何よ、あの女の人にふられでもしたんでしょう」

「そうだ、お前との事がばれて、散々だったんだ。得意先との関係を保つためにと言われて俺は首になった。離婚されて、首になったんだ。どうしてくれる。全部お前のせいなんだぞ。お前がばらしたって事は分っているんだ。責任を取って、もう一度俺と付き合え」

「な……なによそれ」

(恭弥の事を誰かに話した事なんて無いはず……)


 しかし、名前は出さなかったが、社内恋愛がばれて私だけが首になると、同僚に酔っ払って絡んだ事はあった。もしかすると、自分が覚えていない所で、彼を名指しで非難した事があるかもしれない――自信は無かった。

 何と理不尽な人なんだろうと思うと同時に、少し胸が苦しくなった。そして、俺と付き合えと言われた事に、ほんの少しだけでも、心が躍っている自分に嫌悪感を覚えた。

 この時、私には隙が出来たのだと思う……自覚は無かったが、責任があると付きつけられた事と、恭弥をまだ愛していると言う認めたくない気持ち、そして、突然の出会いから、息を付く暇もなく浴びせられる、私の頭脳の許容範囲外にある意外な言葉達が、自分を立ち上がれないほどに苦しめた男に対して、不覚ながら心のドアを開きかけてしまった。

恭弥は決してそれを見逃さなかった。掴んだ腕を強く引き寄せ、乱暴に私にキスをした。抵抗しようとする私の思いは、残念ながら、私の筋肉にまでは届かなかった。


 次の朝、恭弥の部屋で目を覚ました。恭弥が自分にした事は、決して許す事は出来ないと今でも思っている。しかし、それでも良いのかもしれないと思い始めていた。どんなにひどい事をされたとしても、恭弥は今、自分の腕の中にいる……この時間があれば、いつか、この気持ちもぬぐわれる時が来るのかもしれない――恭弥の寝顔を見ながらそんな事を考えていた。

 外は土砂降りの様で、窓の外は真っ暗だった。仕事の時間までには、まだ時間がある。一度、自宅へ帰ることにしようと思い、帰宅の準備を始めた。


洗面台で冷たい水でバシャバシャと顔を洗い、鏡を見た。そこには、顔を濡らしたままで、ほのかに笑みを浮かべる私がいた。

 やはりこれで良かったんだと改めて思った。下を向いてタオルで顔を覆ったまま、思わず昔の様に歯ブラシに手を伸ばそうとしてしまい、自分の私物がこの部屋には既にないことを思い出した。

 自重気味にふっと息を漏らして顔を上げた時、マグカップに挿してある歯ブラシが目に留まった――しかし、歯ブラシの意味を考える間もなく、玄関のドアが、ガタンと急に大きな物音をたてた。


 振り返ると、真っ赤な傘を右手に提げて、私を凝視したまま立ち尽くす女性が玄関に立っていた。

 歯ブラシは二本あった――緑と赤の歯ブラシが。


 私は、土砂降りの中、小石を踏んで足の裏を怪我をした。それで、恭弥の部屋から裸足のまま駆け出してきた事にやっと気が付いた。

 その後、右足だけ爪先立ちで歩いたが、工事中の足下の悪い歩道で、うっかり足首をひねってバランスを崩してしまった。濃い泥水の水たまりに向かって見事に着水した私は、ついに、起き上がる気力もなくしてしまった。

(泥だらけの、びちょびちょだ……)

 同じ男に二度も騙され、良い様に扱われてしまった不甲斐なさと、振り回されて一喜一憂している自分を、心のそこから情けなく思った。そして、悲しみの感情が、心から溢れて止められない。

 私は、水たまりに突っ伏したまま、ただ、ただ、泣き続ける事しかできなかった。

 体が、だんだん動かなくなっていく。大粒の雨が容赦なく全身を打ち付ける。夏とは言え、深夜から降り続く大雨の中で、いつまでもこうしていては、いくらなんでも体が冷える。それに、このままでは、車にでもはねられて倒れていると勘違いされかねない。

 私はこのまま死んでもかまわないと思った。しかし、死ぬには至らないだろう。このままじっとしていても、きっと誰かに見つかって、助け起こされるに違いない。この状態で、救急車を呼ばれでもしたら、なんと申し訳したら良いのかも分からない――と、だんだん客観的に自分を見れるまでに落ち着いてきた。朝日が厚い雲の間をすり抜けて、辺りを明るく照らし始めたせいだろうか。


(なぜ、みんな私を不幸の道へ付き落とす様な事をするのかしら。誰も私を幸せにしてくれない。恭弥の前に付き合っていた男もそうだった。まだ、高校生だったけど、私を必ず幸せにすると約束してくれた。でも、東京に進学が決まると、遠距離恋愛を続ける自身がないから別れようと言った。きっと有里香にとっても、辛い恋愛になるよと……。男はみんな、勝手に決めて、勝手に去って行く。辛くたっていい、悲しくたってきっと耐えて見せる。ずっと続けていけるから、頑張ろうと言ったのに、彼はごめんとだけ言っていなくなった。そうやって、私から何もかも奪って去って行く……)


 付き合っていた当時の思い出は全部捨ててしまった。一緒に撮ったプリクラや写真、携帯に残ったメールやアプリの履歴、彼に貰った誕生日のプレゼント、クマのぬいぐるみ、マフラー、始めて貰ったコーラの空き瓶……すべてを捨てて『ゼロ』になる。一緒に過ごした時間までも、なかったことにしてしまう。

 しかし、いつも、完全には消し切れない。何かの拍子に瞼の裏側にフラッシュバックされる事がある。冷たい水溜りに半身を浸したままでいると、今までの嫌な思い出が永遠とリピートされる。普段なら、閃光の様に一瞬だけ蘇るだけだったが……これを走馬燈の様だと言うのかも知れない――そう思っている時、太陽とは別に、光を放つ何かが、私の硬く閉ざしたまぶたを照らした。

 自然と瞼が持ち上がり、私は光を見た。

 懐中電灯を持った通行人らしい――こんなところ人には見られたくない、どうにか立ち上がっろうと、両手のひらで泥水のたまった砂利道をぐっと掴むと、爪の隙間に粘土質の土が入り込み、指の間からヌルリと出た。両手でどろどろの地面を支え、ぐっと上半身を持ち上げて、すぐそばにあった、工事中の赤と白のとんがり帽子に手を掛け、それから膝をついて、どうにか立ち上がった。

しかし、その三角帽子は、どうにも頼りないやつで、私の体重を支えきれずに、また、バランスを崩して倒れそうになった。もう、足には踏ん張りきる力は残っていなかった。

 スローモーションで倒れ落ちる(ように感じた)私を、その通行人が抱きとめた。

彼は傘をさしていたが、私を受け止めるために放り出してしまい、これまで傘をさしてきた苦労が台無しになった。彼は懐中電灯は持っていなかった。ただ、彼自身が光り輝いていた。少なくとも、私にはそう見えた。


 私は、その光に包まれながら、これまでに感じた事のないほどの安堵感を覚えた。



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